学位論文要旨



No 114706
著者(漢字) 石田,雄一
著者(英字)
著者(カナ) イシダ,ユウイチ
標題(和) 力(force)と役割(Rolle)の間 : 近代における「演劇=劇場」概念に関する思想史的考察
標題(洋)
報告番号 114706
報告番号 甲14706
学位授与日 1999.09.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第257号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 教授 佐々木,健一
 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 助教授 重藤,実
内容要旨

 ジョン・L・オースティンが言語行為論で用いている「力(force)」という概念は、ドイツ語訳では「役割(Rolle)」という語で翻訳されている。一見すると、これは全く無関係な語で置き換えられたように思えるが、その翻訳の背後には、近代西欧文化が「演劇=劇場(シアター)」という制度によって行なった一つの文化史的な置き換えが見て取れる。十六世紀から十八世紀にかけて西欧文化では呪術的な営みが次第にその信憑性を失っていったが、それと平行する形で「演劇(シアター)」と呼ばれる制度が西欧文化の内部で確立し、脱呪術化がほぼ完成する十八世紀の末から十九世紀の中頃にかけて多くの都市で「劇場(シアター)」と呼ばれる建造物が建てられるようになる。一見すると無関係に思われるかもしれないこの二つの展開は、実は相互に密接に関わるものだということを第一章で示す。中世の宗教劇のなどとは異なり、近代に成立した「演劇=劇場(シアター)」は、宗教儀式と明確に一線を画したうえで、そこで行なわれるあらゆる発話行為の効力(フォース)を無効にする空間であり、呪術はその空間に追放されることでその力を失う。劇場は西欧文化が「脱呪術化」と呼ばれる過程を推し進める上で不可欠な装置だったのであり、それは言語やその他の記号が持つ呪術的な機能を空虚なものとし、それを描写=記述的機能に限定することに寄与してきたのである。

 そうした考察を前提に、第二章では、近代西欧文化に生きる人々が表象の呪術的な「力(force)」に直面した際に、それを暗黙のうちに演劇的な「笑劇(farce)」と見なすことで、呪術的なものを演劇的なものに置き換えてしまう様子を、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』などを例に考察した上で、マルクス以後、ニーチェのような思想家の登場とともに「演劇=劇場(シアター)」という制度に基づく脱呪術化の過程が終焉を迎え、いわゆる「世界の再呪術化」が始まったことを確認する。民族誌学者ミシェル・レリスが提起した「生きられる演劇」はこうした変化を最も明確な形で提示する概念である。フランス語において「演劇」とは「演ぜられる」べきものであり、「生きられる」べきものは「人生」である。ところがレリスは「生きられる演劇」という撞着語法によって「人生」と「演劇」との間の中間領域を指し示したのである。それは「行為遂行」であると同時に「舞台上演」をも意味する"performance"という表現によってオースティンが指し示すものそのものであり、それはまさに「力(force)」と「役割(Rolle)」との間に成立するものなのである。

 第三章では、オースティンによる言語行為の発見と同一の動きが、演劇史においても既に二十世紀の前半において進行していたことを、ブレヒトの叙事的演劇の理論とアルトーの残酷演劇の試みなどを例に考察する。オースティンの言語行為論が、言語表現が記述しているものから、言語表現を用いることで行なわれる行為への哲学者の関心の移動を意味するものであり、また、十九世紀末以来、「劇文学」としての戯曲から「舞台上演」としての演劇へと演劇人たちの関心が移動したのだとすれば、二十世紀の哲学の歴史と演劇の歴史との間には、ある種の平行関係が見て取れる。この平行関係は哲学者と演劇人との間の直接的な影響関係の結果ではなく、両者がともに認識論的なレベルにおいて「言語」ということに関して暗黙の内に思考の転換を共有した結果生じたものであり、ブレヒトの叙事的演劇とアルトーの残酷演劇とはそうした転換を最も明確な形で我々に示すものなのである。

 以上の考察をもとに第四章ではヴァイス作/ブルック演出の『マラー/サド』劇を考察する。『マラー/サド』劇は、そもそも「劇文学」として自立することを放棄した戯曲であり、ブルックは『マラー/サド』劇の映画収録に際して劇場の舞台と客席との間に鉄格子を設けることによって西欧近代の「演劇=劇場(シアター)」が一種の監禁装置であることを明らかにする。『マラー/サド』劇上演を前後して、「演劇」という概念は徐々に「パフォーマンス」という概念にとって代わられていったが、オースティンが提起した「行為遂行的発話(パフォーマティヴ)」概念は、まさにそうした関連において捉えるべきものなのである。

審査要旨

 本論文は、近世以降のヨーロッパにおける概念の変遷を、「脱呪術化-再呪術化」という歴史的見取図に重ね合わせつつ、思想史的・文化史的・演劇史的に跡づけると同時に、前世紀末以降の「再呪術化」の過程のなかで、概念が概念に取って代わられつつあることを論証し、かつ、その意味を明らかにしようとするものである。

 その際論者は、オースティンの提唱する「行為遂行的発話(performative utterance)」の考え方から深い示唆を得ている。そして、この考え方と軌を一にする動きが今世紀のヨーロッパ演劇においても進行している、との見方に立ち、そこから、1)今世紀ヨーロッパにおいて概念が概念に取って代わられつつある、という上述の基本テーゼを導き出すとともに、2)このテーゼを、ニーチェの言語思想、ブレヒトの叙事演劇論とアルトーの残酷演劇論、ヴァイスの『マラー/サド』劇とブルックによるその演出のあり方に即して論証し、これに基づいて、3)現代における概念が、言語の行為遂行的・呪術的な「力(Force)」と演劇的な「役割(Rolle)」とのあいだに、両者をともに含みつつ成立するものである、と結論する。

 本論文の叙述には、個々の論述の詰めがやや甘い点、主要概念の規定や考察対象たるテクストの読みに一層の正確さが求められる点、また所々で、テクスト分析そのものから生まれてくる論理よりも結論のひとり歩きが目立つ点など、改善の余地が少なからずある。

 とはいえ本論文は、壮大な構想のもとに、現代ヨーロッパの演劇に関するアクチュアルな論点を明確に捉え、論証目標に向かってひたむきな叙述を展開することによって、現代の演劇および演劇論の問題的な位相に光をあてることに成功しており、今後の研究の発展を期待させるに充分な成果を示している。

 以上により本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するもと判断する。

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