学位論文要旨



No 114708
著者(漢字) 前田,和泉
著者(英字)
著者(カナ) マエダ,イズミ
標題(和) マリーナ・ツヴェターエワの詩学 : 境界線を超える声
標題(洋)
報告番号 114708
報告番号 甲14708
学位授与日 1999.09.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第259号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 沼野,充義
 東京大学 教授 米重,文樹
 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京外国語大学 教授 亀山,郁夫
 東京大学 助教授 安岡,治子
内容要旨

 20世紀ロシア文学史において、ツヴェターエワほど「言葉」の可能性の境界線と格闘し、これを押し広げようとした詩人はいない。その格闘の過程で、彼女はネオロギズムや文法的規範からの逸脱、統語の破壊、斬新な韻律形、句読点の活用など、ありとあらゆる言語的手段を駆使した。本論の目的は、ツヴェターエワの詩的言語の変遷を通時的、共時的な視点から捉え、その詩学の全体像を描き出すことである。

 ○1章(〜1912年)まだ10代だったこの時期の作中には、すでに「ツヴェターエワ的なるもの」の片鱗が垣間みえる(両義性、死への憧れ等)。詩的技法の上では(ダッシュの多用などに特色が見られるが)全体的に未熟であり、ひたすら事物の外面や細部を「列挙」するという戦略しか持っていない。韻律形式もまだオーソドックスだが、その中でロガエードや「強弱弱強」格など、後のツヴェターエワが得意とする形(ロシア詩の規範からすると「例外」的形式だが)の「萌芽」が見られる。

 ○2章(1913〜1916年)徐々に詩的言語の自立が始まる。まず「列挙」の質が変化し、ただ単に事物を書き連ねるだけでなく、円環構造や階段構造などを導入し、限られた紙面の中で「より多く」を語るための工夫を行うようになる。また、ダッシュの用法に独創性が現れ始める。一般的な規範から逸脱することも多いが、その表現力は格段に増している。韻律的には、この時期にいわゆる「ロガエード」と呼ばれる形式が確立し、「スポンデイ」(強強格)や行内韻なども意欲的に取り入れられる。ダッシュなども活用しつつ生み出された独創的なリズムは、場面や感情などに応じて巧みに使い分けられている。

 ○3章(1917〜1922年)革命から亡命に至るまでのこの時期は、テーマ的にも文体的にも一気に幅が広がり、斬新な語法が積極的に用いられるようになる。非名詞の名詞化や独創的な複合名詞などを通じて文法カテゴリーそのものへの働きかけが行われ、また、同種の言葉、接頭辞、音素などを「衝突」させることにより新たな意味的負荷を言葉に生じさせる。文法的に「不正確」な文章も詩的技法の一環として利用し、さらに、ダッシュとコロンも駆使しつつ、大胆な省略や複雑な構文を生み出している。韻律の独創性にも磨きがかかり、ロガエード、「強弱弱強」格などが自在に使いこなされる。一つのリズムから別のリズムへと転じてゆく手際も鮮やかだ。ある韻律形で書かれたものを「ばらす」試みなども見られる。

 ○4章(1923〜1930年)亡命生活前半にあたる。創作力は旺盛で、その詩的言語は非常に力強い。とりわけ興味深いのは造語法で、既存の語と絡めながら新語をテクストに持ち込むことにより、単に新しい概念を新しい言葉によって表象するばかりではなく、言語のカテゴリーそのものをも揺るがせてしまう。コロンやダッシュなども効果的に利用され、複線的なテクストが実現されている。この時期の代表作『山の詩』と『終わりの詩』は、それまで試みられてきた様々な詩的技法の集大成でもある。聖書やフォークロア、ギリシャ神話などのポドテクストを用いた重層的な構造を持つこの2作品を、本論では「異端」モチーフを手がかりとして読み解いてゆく。

 ○5章(1931〜1941年)創作の重心は詩から散文へと移るが、それまで生み出された様々な「詩的技法」は、造語、句読法、従属文構造、分節の異化など、散文に場所を変えて生き続けた。しかし孤独と困窮に追いつめられた詩人は、1939年、亡命生活を打ち切りソ連へと帰国し、1941年、疎開先のエラブガで自殺する。

 ○付録(試論〜『大気の詩』を読む〜)ツヴェターエワの言語的・哲学的到達の一つの頂点である『大気の詩』(1927)には、おおよそ3つのモチーフがその底流にある。まず第1に宗教的モチーフであり、とりわけ復活祭との平行関係が注目される。第2はギリシア神話で、中でもヘラクレス伝説が重視される。第3が科学的・病理学的モチーフで、この詩人が意外なほど航空史や解剖学に精通していたことが推察される。母親を始め多くの近親者を結核で失い、また父の臨終を間近に看取った体験を反映してか、『大気の詩』で「死」の過程がほとんど生々しいほどリアルに描き出されている。これらボドテクストを踏まえ、様々な詩的技法を駆使しつつ、ツヴェターエワはこの作品の中でいわば「詩による臨死体験」を試みる。

審査要旨

 本論文は、20世紀ロシアの女性詩人マリーナ・ツヴェターエワの詩についての総合的な研究である。ツヴェターエワの伝記と詩的技法の発展を関連づけながら、重要な個々の詩を取り上げ、その形式面では詩法(特に韻律)の精密な分析をするとともに、内容に関しては詳しく評釈を加えることにより、詩壇へのデビューから亡命、そして帰国、自殺に至るまでの詩人の波瀾に富んだ生涯の全体を扱っている。

 ツヴェターエワは20世紀ロシアを代表する最大の詩人の一人として評価が非常に高いが、かなり多くの作品を残した上、その多くが極めて難解なものであり、日本ではまだ本格的な研究がほとんどないという状態が続いていた。そういった現状の中で、本論文は、2年間のモスクワ大学留学の経験を活かし国際的なツヴェターエワ研究の水準を踏まえた、わが国で初めての本格的かつ総合的なツヴェターエワ研究として高く評価されるべきものである。分量も400字原稿用紙に換算して1500枚を超え、長年の充実した研究の成果がよく盛り込まれた堂々たる論文になっている。

 本論文は、ツヴェターエワの生涯を五つの時期にわけ、時間の流れに沿ってその詩作の発展を追うという方法を採用しているが、これは単なる伝記的アプローチではない。本論文で独創的なのは、それぞれの時期において伝記的な記述と詩作法の分析を有機的に関連付け、伝記的事実と詩の内容と形式的特性を互いに微妙に影響しあった、不可分の要素として提示した点である。

 詩の技法の面では、ツヴェターエワの複雑な韻律を「ロガエード」(異なった種類の韻律の組み合わせからなる複合韻律)という視点から説明した点が、注目される。また解釈の面では、特に難解なことで知られる後期の長編詩『山の詩』と『終りの詩』を、その背後にある伝記的側面と神話的・宗教的連想から読み解いた章が、本論文の中でも特に優れた部分になっている。

 このような論考の積み重ねを通じて、生活の面でも亡命者として、また詩作法の面でも、既存の流派に分類できない革新者として、つねに「境界線」を超え続けようとした詩人の姿が浮かび上がってくる。

 日本で先行研究のほとんどない詩人の全体像をとらえようとした野心的な研究であるために、個々の論点についてはさらに掘り下げる余地を残した部分もあり、また分析の際に用いられた概念や言語学的な用語のなかには十分に厳密ではないものも見受けられ、審査の席上ではそういった点についての具体的な批判も行なわれた。しかし、わが国における本格的なツヴェターエワ研究の道を切り拓く先駆的な研究として本論文は高く評価されるべきものであるという点で審査委員全員が一致し、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/56002