本論文は、リベラリズムと共同体論の論争に見られるように現代法哲学で中心論題となってきた自律と共同性の緊張関係の問題に対して、「関係性への権利」という新たな権利観の構想によって自律と共同性の統合を図ることで応えようとする試みである。さらにまた、このような権利観の構想を発展させる上で重要な手がかりが、これまで法哲学で周辺的な地位しか与えられてこなかった「子どもの権利」をめぐる論議に含まれることを明らかにし、子どもの権利論が法哲学的権利論一般に対してもつレレヴァンスと潜在的貢献力を示すことも目的とする。 筆者は自律性と共同性がともに人間存在にとって本質的重要性をもつにも拘わらず、「個の無力化」と「人間の分断化」が同時進行する現代社会においては双方とも危機的な状況にあるとし、両契機のいずれを優先させるかではなく、両契機をともに生かす道は何かを問うことが重要であるという問題意識に立つ。筆者によれば、この自律と共同性の統合こそ、子どもの権利論の中心的モチーフであった。これは、子どもの権利問題が家庭・地域社会・学校などにおける社会化や教育の問題との密接な関連の下に論じられてきたことに由来する。そこでは、保護の名による過度にパターナリスティックな共同体的干渉が子どもの自律の芽を摘んでしまうという認識と、社会的未熟性や脆弱性を抱えた子どもにとって自律性の能力は所与ではなく、様々な配慮・支援・社会参加経験を提供する共同体的関係性の中で陶冶される必要があるという認識とが、楯の両面のように不可分に結合してきた。 このような認識に立つ子どもの権利論は、筆者によれば、個人の権利を否定して共同体的相互依存関係に個を没入させる立場も、権利主体の自足性を想定して関係的配慮を捨象する立場もいずれも不適格であることを示す。それは、個人の権利を「関係性への権利」として、すなわち他者との多様な関係性の形成を保障し、かつ、かかる関係性を通じて形成される権利として捉え直すことにより、自律と共同性が統合さるベキであることを示唆している。しかも自律性と社会的依存性との両面性は子どもだけでなく大人にも多かれ少なかれ見られる(「大人も子どもである」)以上、「関係性への権利」の視点は子どもの権利だけでなく権利概念一般の再構築の指針も提供するとされる。 また、筆者によれば、子どもの権利論は、従来の権利概念が子どもという存在に充全な権利主体性を認知してこなかったことへの批判として登場してきたというその経緯により、権利概念が無能者・二級市民として周辺化されてきた存在の尊厳を回復させる規範的武器になりうると同時に、有能-無能の二分法で権利者と無権利者を分かち、声なき存在を周辺化してしまう危険性をも併せもつことを示す。そして後者の欠陥を是正するために、黙殺されてきた多様な声に開かれた継続的な対話的関係の中で、権利の意義と射程が絶えず問い直されうるような形で、「関係性への権利」を構想する必要性を我々に自覚させる点でも、子どもの権利論は権利論一般の再構築に貢献するとされる。 本論文は、子どもの権利論が潜在的に示唆するこのような「関係性への権利」の視点を、マーサ・ミノウの所説に基本的に依拠しつつ、現代における子どもの権利論の諸動向と、自律・共同性・権利をめぐる現代法哲学の多様な論議を広く渉猟し、それらを相互に関連づけることによって肉付け、発展させている。三章構成をとり、第一章「自律・共同性・権利をめぐるアポリア」において問題提起を行い、第二章「手がかりとしての子どもの権利」において子どもの権利をめぐる現実と理論状況を展望し、第三章「権利の再構成へ向けて」において「関係性への権利」のアプローチの特質・含蓄・射程を解明する。 第一章では、まず自律と共同性の現代的桎梏と両者の不可避的併存性を、エツィオーニらの議論に拠りつつ指摘し、両契機を統合するような権利の再構成の手がかりを子どもの権利論に求める筆者の狙いと本論文の構成を説明する。予備作業として、共同性と自律それぞれについて、社会学・哲学・心理学などにおける標準的議論を概括して一応の概念規定を試みた後、人間存在論の次元で両契機を結合させるG・H・ミードの自我論を検討する。自律と共同性の断絶・不連続性が従来強調されてきたのに対し、社会的に作られる自我としての"me"と、それを作り変える主体性としての"I"との相互規定性を説くミードの議論は両契機の間の本質的な連続性を示すとする。 かかる哲学的・社会学的・心理学的な次元の議論の検討の後、筆者は焦点を法学における人間像の問題に移し、ラートブルフの「法における人間」に即して、自己利益の最大化を図る孤立した合理的個人に立脚する近代的人間像から、様々な社会集団に帰属し倫理化された存在として人間を捉える現代的人間像への法学的人間像の推移があることを認めつつも、権利主体として想定されてきたのは、基本的には、自律能力を備えた存在としての個人であるとし、法が自律的で有能な個人という通常人モデルにあてはまらない存在を周辺的で劣ったものとみなしてきたことを批判するミノウの議論に着目する。ここで、法領域における人間像の再構成のために、人々の間の差異への社会的対応の異なった三つのモデルがミノウに拠りつつ検討される。第一は、有能-無能の二分法に立脚して障害者・子ども・貧困者・女性・被差別マイノリティ等々にスティグマを押す「異常人アプローチ」であり、第二は、差異化された人々の権利の平等を図ると同時に、積極的な差別是正のために特別権を付与する「権利アプローチ」、第三は差異を実体的属性としてではなく社会的関係性として捉え直し、ラベリングや支配者側のカテゴリー化に対抗して、差異化される人々の視点に立った関係形成を図る「関係性アプローチ」である。筆者は権利アプローチが、社会的弱者として事実上の力関係にからめとられてきた存在を「同列」に引き上げる上で不可欠の重要な意義をもつことを認める一方、権利アプローチは「有能者」の範囲を拡大するが有能-無能の二分法自体は維持しているため、新たな周辺化やスティグマ化を生む危険を孕むこと、また従来の自律中心の権利観では被差別者の「解放への権利」と「固有のニーズへの権利」とを統一的に捉えるのは困難であることを指摘し、関係性アプローチの視点を取り込んだ形で権利概念を再構成する必要があると論じる。そして、グレンドンの権利語法批判や批判的法学研究の権利批判などをも検討し、これまでの権利アプローチの難点を承認しつつ、権利概念を捨て去るのではなく上述のような仕方で再構成する必要があることを確認する。 第二章では、権利概念のこのような再構成の手がかりを求めて、子どもの権利をめぐる論議が検討される。まず、子どもの権利の問題が浮上する背景として、暴力・虐待・搾取・不安・過剰管理の中に置かれた現代の子どもの状況が、いじめ・体罰などの象徴的事件だけでなくボウルビィの愛着理論など発達心理学の分析にも論及しつつ概観される。次いで、子どもの権利に対する社会的自覚の歴史的進展が「ジュネーヴ宣言」(一九二四年)、「国連子どもの権利宣言」(一九五九年)、「子どもの権利条約」(一九八九年)という国際的な権利カタログを素材に分析される。この分析のための方法論的枠組として、パーソンズの行為システム理論の四機能図式を継承発展させた体系的な「生活の質」分析に基づき、子どもの権利の多様な諸側面を包括的・網羅的に整序したS・シャイとV・ヴィアマンの権利分類図式(VSモデル)が採用される。人格的領域・身体的領域・社会的領域・文化-価値的領域の四領域と、表出機能・適応機能・統合機能・維持機能の四機能を掛け合わせた一六の象限に子どもの権利を分類整序するVSモデルはその包括性・体系性のゆえに、「自律か保護か」という単純な二項対立図式では捉えられない子どもの権利の複雑性・多面性を示し、また身体的・経済的利益だけでなく社会的・文化的・心理的環境の重要性をも自覚させるという利点がある。このVSモデルに基づいて上記の権利カタログを分析することにより、子どもの身体的保護に焦点を置く段階(ジュネーヴ宣言)から、子どもの成長・発達への機会の保障を重視する段階(国連子どもの権利宣言)、子どもを様々な危機から保護さるべき存在とみる一方、当該社会とその文化を担い、同時に自己決定する主体として尊重し、きめ細かな権利保障を目指す段階(子どもの権利条約)への発展を跡付ける。 筆者はこのような通時的展望をふまえて、子どもの権利論の主題的検討に進み、「先天性の白痴、子ども、狂人に法がないのは獣についてと同様である」としたホッブズの有能-無能二分法が、現代においても根強い支配力をもつことを示した後、それへの反動として「子ども解放論」を位置づける。ルソー、デューイ等の児童中心主義教育に思想的淵源をもつこの立場の現代的展開として、J・ホルトの「子ども有能論」と、H・コーエンの「援助者論」に論及し、子どもの解放・自律を徹底的に擁護するこれらの論者においても、子どもの自律を支える大人の配慮や支援が重要な位置を与えられていることを指摘する。しかし、自律を優越的理念とする限りで、子ども解放論は有能-無能の二分法になお囚われているとし、保護と自律の両契機に同等な配慮を払うM・フリーマンやJ・ブルステイン、N・ビンダーらの統合型・包摂型のアプローチが子どもの権利論の主潮であり、かつ「関係性への権利」の視点と一層親和的であるとする。特に、家族を自律の媒体として捉え、豊かな関係性から子どもが得る利益を保障するものとみるビンダーの議論にこの視点を示唆する要素が強く現れているとする。さらに日本における子どもの権利論の代表的パラダイムとして堀尾輝久の包括的学習権論が検討され、その基礎理念たる「発達」が「教育過程」という社会的相互行為と自律的な「学習過程」との結合である点や、社会権・生存権的要素と自由権的要素を統合して権利内容の豊穣化を図る点で、「関係性への権利」につながるものを含むことが示唆される。 筆者によれば、このような子どもの権利論は個人の権利を社会的関係性の中に位置づけることで自律と共同性を統合するという視点を示唆しており、しかも、自律性と社会的依存性の併存性や支配的集団による周辺化圧力への脆弱性という点で、子どもと大人の問題状況は連続している以上、この視点は子ども特有の問題を超えた一般的妥当性をもつ。そこで、子どもの権利論の示唆を受けて権利概念一般の再構成の問題として「関係性への権利」の構想を展開することが次章の課題とされる。 最終章において、この課題を果たすために、関係性アプローチと権利アプローチそれぞれの意義、および両者の結合の意義が考察される。まず、関係性アプローチについては、子ども・女性・マイノリティなど周辺化された存在を念頭に置いて「すべての差異を複雑に織りなす多様性の網の目の中に位置づけること」が望ましい関係性のありようだとするミノウの見解が紹介検討される。かかる関係性の形成のために、差異を規定する社会的文脈・条件の再構成、周辺化された存在へのスティグマの除去、周辺化・客体化される側の視点の取り込み、新たな代替的選択肢の模索という四条件を挙げるミノウの議論が説明され、その背景にあるプラグマティズムからフェミニズムに至るまで種々の思想資源に触れた後、特に、「権利の論理」の優位によって黙殺された「配慮の倫理」の復権を図り発達心理学における男性中心的歪みを批判したギリガンの理論との密接な関連が示される。また今世紀初頭以来の米国の「革新主義」を背景にしたセツルメント、少年裁判所、労働者保護などの社会改革実践が関係性アプローチとつながりをもちつつも、改革者と援助を受ける側との隔離の傾向も孕んでいたとするミノウの評価にも触れられる。 しかし、筆者はこのような関係性アプローチは権利の契機を盛り込まない限り、事実上の力関係や政治的勢力関係など、社会的関係性に潜む権力性の契機を隠蔽してしまう危険があるとする。ミノウもこのような問題意識から関係性アプローチと権利アプローチとの結合を図るが、筆者は関係性と権利との整合的な統合のためには、権利概念自体のより突っ込んだ再検討・再構成が必要だとし、ハート、ラズ、ファインバーグ、クレッパー、ホーフェルトやその他多くの論者による権利の概念分析を検討する。しかし、これらの権利分析は利益説と選択説の相補化や義務的権利と裁量的権利の区別など権利概念の多層化の必要を自覚させ、権利と他の諸概念との相関性を示しはするものの、関係性の契機を十分とりこみえていないとして、ミノウの示唆を発展させる形で「関係性への権利」の構想の展開について筆者なりの見通しを与える。筆者はこの概念により、権利と関係性の結合について次の二つの軸を設定する。 第一は、関係性を権利の対象として設定する軸である。多様な、より良き関係性を形成する権利の保障が核となる。権利対象としての関係性は自律性を排除するものではなく、むしろ、自律性を陶冶する条件として捉えられる。また、自己と他者の境界線もア・プリオリに固定された与件ではなく、自他の間の相互承認を通じて設定し直されるという意味でも、自律そのものが関係的なものとして捉え直される。 もう一つは、権利概念そのものを関係化する軸である。関係性の権力性への転化を抑止しうるためには、関係性への権利も社会からの過剰な犠牲要求に異議申し立てするための「切り札」としての規範性をもたなければならないが、かかる権利は他者の要求を「問答無用」として切り捨て自己の要求を一方的に貫徹するための「切り札」ではなく、あくまで相手を対話の場に引き出し、相手を対話を通じて説得するための道具であり、かかる対話によって具体化され、問い直され、変成されうるものである。 ミノウの立場との異同については、ミノウにおいてはこの二つの軸の併存が十分強調されておらず、どちらかと言えば第一の軸が前面に出され、第二の軸は二次的・隠伏的に示唆されているにとどまるのに対し、二つの軸を明確に分節化した上で、第二の軸を重視し、第一の軸と対等な比重を承認するのが筆者の立場の独自性だとされる。 筆者はこのような関係性への権利の構想の意義をさらに明確化するために、その制度的・実践的含意にも触れている。まず範型的事例として、ミノウが挙げた、障害児をめぐる事件を紹介する。ダウン症児のフィリップ・ベッカーは心臓疾患を伴っていたが、医師の勧めにも拘わらず両親は心臓病治療に同意せず、フィリップを医師の勧めで入れた施設から別の施設へ移した。移動先の施設でボランティアとしてフィリップの世話をし彼と親密な関係を築いたヒース夫妻は治療への同意を両親に求めたが断られ、結局、両親の親権剥奪を求めることなく自らの保護監督権を求めて訴訟を提起し、その要求を認められた。この事件では、誰がフィリップの将来を決定する権利をもつかという二者択一的問題設定を超えて、フィリップの成長・発達を助けるより良き関係性の在り方が、当事者たちのフィリップへのこれまでの関わり方を検討しフィリップ自身の意志も忖度しつつ模索され、フィリップ・両親・ヒース夫妻の間に望ましい関係形成と対話を促進し要請する手段として権利が位置づけられており、関係性への権利の視点が豊かに具現されているとされる。 さらに、単なる紛争解決機能よりもフォーラム・セッティング機能を核心にするものとして捉えられた「現代型訴訟」や、リベラル・リーガリズムを参加民主主義的に再構成する「協議的民主主義」にも関係性への権利の視点との親近性が見出されるとされる。 子どもの権利の考察から関係性への権利の構想へと議論を展開した後、筆者はこのようなアプローチに対する根本的批判になりうるものとして、オノラ・オニールの義務基底説を検討する。オニールによれば、子どもの法的諸権利の拡充・保障は重要だが、それを正当化する道徳的根拠は子どもの権利よりも、子どもに対する大人の配慮義務である。この義務基底説は、対応する権利を特定化しえない「不完全義務」をも広く包摂できる点で、一層きめこまやかな配慮の関係性を確保できるとされる。筆者はこの義務基底説に対し、それが批判対象として想定しているのは伝統的な固い権利概念であり、権利概念自体を関係化する「関係性への権利」の視点からは不完全義務を正当化する「不完全権利」を意義づけることも可能であり、配慮される側の視点を重視するなら関係性を権利概念と統合することが必要であると反論する。 最後に、このような関係性への権利の構想の認識論的含意として、相対主義よりも可謬主義との親和性が説かれ、またこの構想を道徳的論議実践において効果的に実現するための対話の作法がJ・クリテンデン等の所説に即して検討される。そして、関係性への権利の視点が要請するのは、問題の終局的解決ではなく「問いの継続としての関係性」であり、「この場合のより良き関係性とは何か」という問いをめぐる対話が継続されてはじめて、より良き関係性が担保されるとして、本論文は考察を結ぶ。 本論文の長所としては次の点を挙げることができる。 第一に、子どもの権利論という、法哲学・法理論において従来周辺的に扱われてきた分野の論議を、権利概念の再構成や自律と共同性の統合という法哲学の基本的な主題と架橋する本論文の試みは、ミノウの先駆的業績があるとはいえ、いまだ十分に開拓されてはいない探求領域を開くものであり、学界に対する新たな重要な貢献であると言える。子どもの権利論の法哲学的重要性を示したという点で、法哲学界に対する貢献であると同時に、権利概念に対する法哲学的な反省・再検討が子どもの権利論の発展のために必要であることを示した点で、教育学・教育法学の論議に対しても少なからざる貢献をなしている。 第二に、本論文が提示する関係性への権利の構想は、個の自律および権利と共同体的関係性との間の緊張関係をめぐるこれまでの論議を、さらに発展させうる重要な問題提起を含んでいる。個人の自律を他者との相互依存的関係性からの独立と捉える原子論的個人主義に対しては、自律能力の陶冶や自律の境界設定が社会的関係性に依存していることを示し、関係性を価値や文化の同質性と結合させる共同体論の傾向に対しては、差別的スティグマと切り離された人々の差異の認知や多様な視点の取り込みが豊かな関係性の形成の条件をなすことを示し、家族のような共同体的関係や関係的な配慮の倫理に家父長制権力や性別分業観の残滓を見る一部のフェミニズムからの批判に対しては、個人の権利と統合された関係性は周辺化された人々が声を発し理解されるために必要な対話の持続を担保しうることを示す。また、関係性への権利の構想が含意するとされる権利概念の関係化は、裁判や種々の紛争処理方式を持続的な対話・交渉過程の中に位置づける近年の諸動向に権利論の角度から照明を当てるものと言えよう。 第三に、難しい問題を扱っているにも拘わらず、論述は平明で、晦渋な哲学的業界用語を濫用して人を煙に巻くような悪弊からは免れている。また自己の主張を提示する際にも、多様な論点や視点を洗い出して検討しており、全体として目配りの効いた、バランス感覚のとれた論述になっている。 しかし、このような長所の反面として、本論文には次のような短所も見受けられる。 第一に、子どもの権利論が権利論一般に貢献しうる理由が抽象的・一般的には掲げられているが、第二章での子どもの権利をめぐる具体的論述と、第三章での関係性への権利の構想を示す具体的論述とを結ぶ論理が、いまだ十分太い実線になっていない。特に、第二章で詳論されているVSモデルによる権利カタログ分析が、第三章の議論でどう生かされているのかが十分明確にされていない。確かに、子どもの権利の問題への関心と関係性を軸にした権利の再構成への関心がミノウという論者において人的に結合していることは示されているが、両者の間の論理的結合関係について、さらに突っ込んだ議論が欲しいところである。これに関して付言すれば、「大人も子どもである」という主張は論争喚起力があるが、それだけに、それを支持する議論がもっと補強される必要がある。また、同じく周辺化された存在といっても、子どもの場合と女性・マイノリティなどの場合とでは異なった問題があるのではないかという点も、更なる検討が要請される。 第二に、関係性への権利の構想の狙いは理解でき、理論的にも実践的にも一定の魅力をもつが、本論文におけるこの構想の提示はなお素描的で、曖昧な点も残されている。特に、より良き関係性の形成を権利として保障するという関係性の権利化と、対話的関係の中での権利の柔軟な変容を認める権利概念の関係化とがどのように関係しているのか、両者は整合的なのか、社会的関係性が孕む権力性の契機に対する歯止めとして権利と関係性の結合の必要を説くなら、関係性の権利化は必要だとしても、権利の関係化には一定の限定が必要にならないか、等々の問題に対して更なる検討が求められる。また、関係性への権利の構想の制度的・実践的含意にも若干触れられているが、この構想の意義を明確にするためには、具体的事例と関連付けた分析がもっと多くなされる必要がある。特に、現代日本の社会的問題状況や法実践に対する含意への論及が乏しい点に不満が感じられる。 第三に、多様な論点を可能な限り網羅的に扱おうとする姿勢の反面として、個々の論点への突っ込みが甘くなるところがあり、教科書的な平板な記述にとどまっている部分も散見される。また対立競合する複数の立場への目配りが、原理的整合性の不明確な折衷的態度に帰着しているという印象を与えるところもある。 しかし、このような短所は、前述の長所を完全に無効化するほど致命的な欠陥とは言えず、本論文が扱う問題の大きさと複雑さから見て、ある程度は避け難いと思われる面もある。かかる短所にも拘わらず、根本的な問題に独自の視角から意欲的に取り組んだ本論文は、学界の論議の発展に新たな重要な貢献をなすものである。したがって、本論文は博士(法学)の学位に相応しい内容と認められる。 |