学位論文要旨



No 114711
著者(漢字) 鏑木,政彦
著者(英字)
著者(カナ) カブラギ,マサヒコ
標題(和) 啓蒙と歴史:ディルタイとドイツ政治思想
標題(洋)
報告番号 114711
報告番号 甲14711
学位授与日 1999.09.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第150号
研究科 法学政治学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,毅
 東京大学 教授 平石,直昭
 東京大学 教授 海老原,明夫
 東京大学 助教授 福田,有広
 東京大学 助教授 苅部,直
内容要旨

 本論文は,19世紀ドイツを代表する哲学者,ヴィルヘルム・ディルタイの精神科学論を,ドイツ政治思想史の観点から分析するものである。

 まず予備的考察では,19世紀ドイツにおいて進行した諸科学の実証主義化と,それに対する反動的な知的潮流を追い,ディルタイが精神科学論を構想する条件の一つであり,またドイツの政治思想を規定要因となる条件の一つを描いた。

 続けて第一章から第五章までが,ディルタイの精神科学論の分析である。

 第一章では,初期ディルタイ(1852〜1863)がどのような思想的課題を抱いたのか,という問題の究明にあたった。ディルタイは,キリスト教史研究から学問的キャリアを出発したが,キリスト教神学に反発せざるを得なくなった。その彼の思想を究明し,それをハーマン論および彼のゲーテとの関係から浮き彫りにした。ディルタイは,ゲーテ的な汎神論によってキリスト教からの突破をはかり,一なる自然に対するゲーテの直観的把握に学びながら,超越的なものではなく地上的な現実へと向き合い,歴史的世界の認識の方法について,バックル,ブルクハルトなどの作品に対する批判を通して練り上げていった。そして,この歴史の方法論と,解釈学とが,初期の段階からディルタイにおいて結びあわせられる関係にあったことを明らかにした。

 第二章では,前期ディルタイ(1864〜1876)の精神科学の構想の発展過程を究明した。ディルタイの講義録などを参考にして,ディルタイが初期に構想した「精神の学」を追究し,その実践哲学との関係を,カントとの関係という視点から明らかにした。ディルタイの精神の学は,独特の心理学と歴史学との融合からなることが,これによって解明された。次に,ディルタイとドロイゼンの歴史論を対比して検討した。ドロイゼンはディルタイよりも先に「説明と理解」の対比によって歴史的世界の認識論を打ち立てていたが,ディルタイの方法がドロイゼンとどの程度同じで,なにが違うのかを考察した。その結果,ドロイゼンとディルタイの実証主義に対する批判性・危機意識の相違が浮かび上がった。ディルタイは,実証主義を時代の経験的動向として許容していたのである。最後に,ディルタイの道徳政治学の構想を主としてミルとの対比のもとに明らかにした。ディルタイとミルとの相違は,歴史的世界を成り立たせる心理学の違いであり,その結果歴史意識に大きな差が生じているという結論を得た。

 第三章は,中期ディルタイ(1877〜1896)の「精神科学序説」と「詩学」の分析を通して,ディルタイの精神科学の特質を描いた。ディルタイのブレスラウ草稿から,現象性の命題とその心理学的課題を引き出し,ディルタイの心理学である記述心理学の特質を究明した。これに基づいて,精神科学と自然科学との区分をする,方法的二元論を内在的に理解した。その上で,ディルタイの精神科学論において独特な意義をもっていると思われる「文化のシステム」と「社会の外的組織」という分析タームを追究し,ディルタイの法理論,人倫理論を明らかにした。ディルタイの法理論は,自然法と実証主義との双方を批判するものであり,またその道徳論は,結果説と動機説の両方を綜合するものである。ディルタイが,システムという観点をとることによって,従来対立して理解されてきた倫理や法を,総合的に捉える視点をもったということを明らかにした。また,この倫理的問題に関連して,ディルタイの社会主義批判をもあわせて考察した。ディルタイの社会主義批判は,実は,マルクスの俗流唯物論批判と重なる面をもっており,また後のマルクス主義の発展のなかでディルタイの理論がもった意味をもあわせて解明することによって,ディルタイの理論と社会主義との違いと共通性とを明確にした。

 以上が「精神科学序説」の分析である。次にディルタイの精神科学の主要論文である「詩学」を究明した。詩学の中心的概念である想像力がディルタイの精神科学においてしめる意味を問い,それが記述心理学の主要な対象であること,したがって記述心理学が,人間の神的要素の斉一性を究明する心理学とは違って,歴史的個性を理解するための心理学であることが明らかにされた。また,ディルタイの詩学の背後にある学問的動機を趣味のアナーキーとし,その克服を目指してディルタイが文学などの芸術に期待を寄せ,とりわけヴァーグナーに期待を抱いた経緯を描いた。このような側面の解明によって,ディルタイの精神科学が,実践を指導する解釈学であるということの具体的な側面が明らかとなった。

 第四章は,同じく中期ディルタイの教育学と歴史学に焦点を絞って考察した。精神科学が実践のための解釈学であるということをもっともよく示すのが,教育学である。ディルタイはここで,教育学が政治学を基盤とし,政治的共同体によって規定される働きであるという側面を強く主張した。これは,ディルタイの歴史主義とよばれるもの,つまり普遍妥当的教育目標の否定と解釈されているが,その理解にはもっと厳密さが必要であることを明らかにした。ディルタイの歴史主義は,決して価値相対主義を意味するのではなく,人間存在の歴史性の強調であり,歴史的存在としての人間は心的に価値あるものをまさに生き生きとしたリアルなものとして抱くという結論を得た。次に歴史論と人間論との関係を究明した。ディルタイの歴史論は,単独では読まれてもその精神科学との関係において読まれることは少ない。本論文は,ディルタイの歴史論とディルタイ歴史叙述の特質を対比し,ディルタイの歴史論を理論と実践の両面から明らかにすることを試みた。

 第五章では,後期ディルタイ(1897〜1911)の思想的展開と,そのアポリアを描いた。ディルタイは,記述心理学,比較心理学の試みを通じて,心理学者,哲学者から批判を受けることになり,自己の記述的心理学の立場を,心理学ではなく,個性の解釈学として展開するようになった。個性の解釈学は,歴史認識のためのものであるから,ヨルクの批判にも関わらず,ディルタイは比較と類型の方法を採った。その所以をディルタイに即して明らかにした。次に,ディルタイが歴史的方法に固執する所以を当時の彼の危機意識の表明を通して解明した。とりわけ,ニーチェに対する批判を通して,ディルタイが歴史主義的啓蒙の立場をとったと本論文は結論づける。この歴史主義的啓蒙とは,歴史についての内在的な解釈を通して,歴史に関わること,歴史への献身を志す。しかし,そのような意図において成し遂げられたディルタイの最晩年の客観的精神の解釈学は,観想的な態度に終始するものであるという定説をここでも確認する。特に,実践が,古代のポリス的内実をもった人間の実践とも,権利を有する個人の近代的実践とも異なり,歴史的遺産の内面的教養形成に陥っていることを明らかにした。

 最後に結論的考察の部分で,本論文は,上に明らかにしたディルタイ精神科学の限界を,時代背景にさかのぼって究明する。ヘーゲル哲学の終焉と近代的社会の発展分化という背景のもとで,予備的考察に述べた,反実証主義的な全体論的傾向に動かされた精神の運動として,ディルタイの精神科学が位置づけ直される。ディルタイの精神科学は,ドイツ帝国の実証主義体制と不可分の関係にあり,機能分化社会した社会のなかで意味を確認しにくい歴史的生に展望を与えるという課題を達成しようとしたものとされる。したがって,ドイツ帝国の崩壊とともに,精神科学の存立の余地はなくなるということが結論され,実際,学問の歴史を振り返ってみると,精神科学がさまざまな形において受け継がれてはいるが,しかし精神科学そのものはもはや受け継がれなかった事実が述べられる。ディルタイの精神科学は,十九世紀末ドイツという特殊な土壌で花開いた学問形式であり,それはドイツの近代というものがなんであったのかを示すものであったということが結論とされる。

審査要旨

 本論文「啓蒙と歴史--W.ディルタイとドイツ政治思想」は、十九世紀ドイツ哲学界を代表する人物の一人であるW.ディルタイ(1833-1911)の思想の歩みに焦点を当てながら、その哲学的営為の政治思想的含意を分析したオーソドクスな労作である。著者は、二十世紀においてディルタイを「克服すべき段階の思想家」と見る見解が思想的立場の相違を越えて広範に流通してきた現実を踏まえ、改めてディルタイの全体像を内在的に問い直し、それをヘーゲル以降のドイツ政治思想の歴史的な歩みとの関連で解釈しようとしている。

 論文全体は、「序」「予備的考察」の他、五つの章と「結論的考察」からなる。「序」において著者は、解釈学や「行為する人間の科学」としての精神科学、現象学といった個別的な観点からディルタイを解釈する戦後の傾向に対し、発生史的考察によってそれら相互の連関を明らかにし、特に、従来取り上げられることの少なかった歴史論や歴史叙述を有効に活用することによってその原像を回復したいとしている。

 「予備的考察」において著者は、ヘーゲル以降のドイツ思想、政治思想についての見取り図を示す。一言でいえば、それは絶対的観念論の骨格をなしていた「絶対者における存在と思考の弁証法的統一」「絶対者における真善美の統一」「絶対者についての学の全体性と体系性」といったものが嫌われ、忘れられていった歴史であり、哲学に代わって科学と歴史とが知的世界の中心に登場してきた時代であった。前者からは自然科学の発達に刺激された哲学の実証主義化(心理学化)の傾向が発生し、若きディルタイもその波に洗われた。ここから哲学者たちは反形而上学的な「経験」についての自覚的反省と吟味に迫られることになる。歴史論はフランス革命の衝撃をどのように受けとめるかをめぐって、あるいは社会学的実証主義の路線に従って未来における共同体の回復を展望するか、あるいは歴史の持続性の契機を強調する歴史主義という形をとったという。そして、著者はそれらと並んでシェリングやゲーテに代表される有機体論、形態学、全体論といった個別と全体とを媒介する議論の系譜を指摘し、機械論的立場に満足できない知的潮流があり、「近代に対する不安」がその背後にあったこと、そして、ディルタイの知的地平の解釈においてもこの視点が重要なことを指摘している。

 著者はディルタイの思想の展開を三つの時期に分けている。このうち、初期(1852-76)は更に二つの章に分けられる。第一章「宗教的啓蒙と歴史の科学--初期ディルタイの思想的課題(1852-1863)」は神学部で勉強を始めたディルタイの宗教意識の分析から始まる。ここではディルタイが伝統的教義学に対して初めから強い違和感を持ち、人間のあり方に即して宗教に接近しようとする点で「啓蒙された宗教心」の持ち主であったこと、宗教的生の事実性への着目の中でゲーテの全体と部分とを統一的に把握する形態論への関心をかきたてられたこと、ゲーテの詩的汎神論的関心を継承しつつも新たな学問的環境の中での見直しを選択していったことなどが述べられている。次いでこの時期のディルタイの歴史論について、著者はバックル、ブルクハルト、フリードリッヒ・シュロッサーなどについての批評を手がかりに、歴史の事実的連関の認識とともに歴史認識を通じた倫理形成の問題への関心、歴史における真理と実践との結合への関心の強さに注意を喚起している。また、この点にこそ、ディルタイのシュライエルマッハーの解釈学への関心の源があったことを著者は指摘している。

 第二章「精神の学から道徳政治学へ--前期ディルタイの人間研究の展開(1864-1876)」は、経験主義・実証主義と思弁哲学という二つの潮流とは違った学的境位を「精神の学]という形で切り開こうとしたディルタイの試みを跡づけている。ここでいう「精神の学」とは外的経験を扱う自然科学との対比で、内的経験を対象とする学問領域を意味した。この「精神の学」の一般的基礎学として心理学と人間学が、精神の内容に関わる実質的な精神の学として倫理学、法学、国家学、宗教哲学、美学が挙げられていた。ここで哲学は心理学、人間学の中に組み入れられ、歴史学は基本的に実質的な精神の諸学と不可分のものとなされている。そして、「精神の学」の「実践的使命」としてディルタイが念頭においていたのは、個性の「発展・発達」というロマン主義的なものであり、国家や社会はあくまでもそうしたことを可能にする条件という形で議論に組み込まれていたという。著者はこうした個性の「発展・発達」を強調する姿勢の中に、プロイセンの上からの啓蒙的政策との親和性を見い出している。なお、この場合の精神という概念について、著者は、英語圏において用いられた「コモン・センス」に近い、生の全体性を意味するものであり、心理学はこうした全体性の把握を担当すべきものとされていたと論じている。つまり、ディルタイははっきりとカント的批判主義とは異なる理論的地点に立ち、「行為としての生」に焦点を合わせ、アリストテレスの「実践」を「生」と翻訳しつつ、総体としての「歴史的生」に「精神の学」の対象を求めたのであった。そして、ここでは知は「生」から生まれ、「生」のためのものとなる。ところで「生とは何か」という問いに対してディルタイは心理学によって応答しようとしたが、この心理学は当時一般的であった経験的、ヘルバルト主義心理学や民族心理学といったものではなく、心の内容を自我の根元から把握することを目的とした実質的心理学(Realpsychologie)と呼ばれるものであった。そして、「精神の学」は歴史・文化システムに応じて多様な形で存在する複数の精神のあり方を研究すべきものとされた。それは「人間の精神の経験科学」であり、精神的な現象の「法則」を追求することによって人間に力を与えるものだというのが、ディルタイの認識であったというのである。その際、ディルタイは「道徳的世界」は「理解」の対象であり、「自然の事象」は「説明」の対象であるという、「理解」と「説明」との区別を設定するが、実質的には歴史的世界である前者を「理解」する人間の能力としてディルタイは「想像力(Phantasie)」に注目したという。それとともに、著者はディルタイのコント、J.S.ミル批判を紹介しながら、「心的生全体の内容的把握」を目指す彼の立場の独自性を実証主義や観念連想説との対比で明らかにしている。また、ディルタイの世代論が歴史の連続性を証明する方法として重要な位置を占めていることに著者は注意を促している。そして最後に著者はディルタイの「精神の学」の構想が政治的に保守的であり、ドイツの国民統合という課題と親和性を有していたことを確認してこの章を結んでいる。

 中期ディルタイ(1877-1896)の分析は、第三章「精神科学と想像力」と第四章「歴史的世界の解釈学」の二つの章において行われている。このうち第三章は中期を代表する作品である「精神科学序説」に焦点を当てる。著者は先ず、この著作の原点は、歴史的事象を心的事象によって理解し、人間の本質を歴史の中に見い出そうとすることにあったとし、そこから、ディルタイは記述心理学を用いた歴史認識の普遍妥当性を問題として取り上げたとしている。ディルタイによれば、人間の意識の事実を条件付けるのは歴史と発展であり、同時にそうした意識の諸事実は「心的生の全体性」という連関の中にある。個々の事象を「心的生の全体性」の連関において把握するのが自己省察であり、それによって諸学の発生基盤、実践や行為の基礎が説明されるというのが、ディルタイの基本構想であったという。諸学はこうして「心的生の全体性」に根拠を持つものとされ、精神科学は形而上学にではなく、心理学に基礎づけられることになった。そして、記述心理学とは変化を蒙りながらも統一性をもって存在している生そのものを分析する学問であって、それはイギリス経験論的な連想心理学などでは捉えられない全体としての生を把握する任務を負っている。著者によれば、こうした記述心理学の実践的含意は社会の「健全な進歩」への寄与しようというディルタイの意図にあったという。

 有名な精神科学と自然科学との区別についてのディルタイの議論を紹介した後、著者は歴史的社会的現実を対象とする精神科学のためにディルタイが文化システム、社会の外的組織という分析視角を提案したことを検討する。すなわち、精神科学の対象とする歴史的統一体は一つの目的連関に即していえば文化システムであり、多くの意志の全体的統合に即していえば社会の外的組織となる。この議論の趣旨は、心理的なものと客観的なものとを対置させる二元論的発想に対する批判にあった。それは生の意味をめぐる混迷した精神状況に対するディルタイの危機感と関わっており、著者はディルタイが台頭しつつあった社会主義運動に対してどのような批判的態度をとったかを分析して、彼の精神科学論の実践的含意を説明している。ところで国家にまで至る外的組織は心理的事実に基づくものであるが、同時に共同性を確保するために力を必要とし、明確な構造と機能を組織化している。このような文化システムと外的組織との一種の二元論を著者は十九世紀における市民社会と国家との関係の整理であると解釈しつつ、同時に、ディルタイが自由の侵害の可能性についてほとんど無頓着であり、自由を精神的内面的なものとして理解しようという傾向が極めて強かったことを指摘している。正しく外的組織は「歴史の進歩」の担い手と見なされ、自由と外的組織との緊張関係はほとんど視野に入っていなかったというのである。確かなことは、精神科学なるものが個体性の解釈学とは全く異なり、歴史的社会的現実を分析するための試みであったと言うことである。それはまた既成の宗教や倫理などの実践的な無力化を背景に、心理学に基づいて新たな実践の世界を指導する学問を目指すということにつながっていたが、その際、著者はディルタイの詩学を取り上げ、世界を形成する精神の能動性に応えるものとして経験を超える想像力の重要性を指摘したとしている。また、社会生活におけるアナーキーの拡がりに対してディルタイは神話の形成によって全体性の契機の回復を求めようとしたが、ここにも精神科学の実践的課題との連関が確認できるというのが、著者の見解である。

 第四章「歴史的世界の解釈学と精神科学」は、歴史の語り手としてのディルタイに焦点を当てつつ、その政治的含意を抽出しようとする。先ず、著者は十九世紀のドイツにおいて教育思想が知的世界において大きな地歩を占め、政治思想はその一部として展開される傾向が強かったこと、同時に、世紀前半の教育思想は人類的・普遍的価値とドイツ的価値とは決して矛盾するものとは考えられていなかったことを確認する。ディルタイは教育の目的を行為に求め、人間形成の学としての教育学を重視したが、人間形成の中身については歴史的妥当性を持つものとした点で、これら先駆者と異なるように見える。ディルタイの教育目標の「相対性」と言われてきたこの論点について、著者は、生の目的の実質的内容が歴史状況によって制約されているという基本認識を示しただけであって、「人間存在の深みから発する生き生きとした経験」としての、具体的な状況における教育目標が相対的であるという趣旨ではないとする。世紀前半の先人との哲学的な立場の相違は明白であるが、教育を論ずる基本姿勢においてディルタイは依然として「国民形成」に焦点を当てている点で彼らと共通しているとする。

 ディルタイはその哲学的立場にふさわしく、教育の歴史的考察という形で教育思想を展開した。ギリシアについては、ディルタイは個人と国家との調和を志向する原則に賛意を表しつつ、ソクラテス、プラトンに高い評価を与えたが、著者はこの国民教育論が共産主義的インターナショナリズム、カトリック教会の脱国民主義、人権思想の抽象的個人主義との対抗を意味したとともに、政治論を欠くことによって所与の権力構造への寄りかかりを意味したことに注意を喚起している。キリスト教については、キリスト教的人格概念の誕生は国民教育との関係で根本的な問題を提起したとの認識が示されるとともに、中世以来の制度化されたキリスト教の教育に対するマイナス効果は容赦なく批判される。近世について特徴的な点は、中世的な教権制の解体を受けて成立したプロテスタント信仰と国家権力との結びつきを、古代にも勝るものとして、極めて高く評価している点である。次いで著者は現実のドイツの動きとの関連でディルタイの教育論を吟味している。自然科学的、実業的精神と結びついた実科高等学校に対する一定の評価と人文主義的ギムナジウムの重要性の強調、官僚や法律家の教育においてフランス革命的な抽象的原理の侵入を阻止すべきだとの主張、有機体的社会観を前提にした教育の多様性の承認といった特徴と並んで、ディルタイの国民教育論には国家に個人を従属させるという立場と一線を画した、個人の教育目的と国家のそれとの調和を追求する態度が見られ、抽象的理論や平等主義に対して歴史的教育の重要性を強調するディルタイの議論は「保守」的であると評価されるが、そこにはフランス革命についての厳しい評価と現実の動きに対する政治的危機感が脈々と流れていたという。最後に著者は、ディルタイの国民教育論が自民族優越論を意味しなかったこと、あくまでもヨーロッパ的人間像が課題であったことをその歴史叙述に即して分析する。これらの歴史分析は彼の精神科学論との一体的な構想の下に進められたものであるというのが、著者の解釈である。

 第五章「歴史的理性批判と啓蒙の精神」は後期ディルタイ(1897-1911)の思想的なアポリアに焦点を合わせる。中期末に至ってディルタイは自らの記述的心理学の体系的叙述を試み、「心的生の関連」について彼独自の観点を展開した。そして、彼は心的生の「同質的なるものと斉一的なるもの」を根拠にして、人種、国民、社会階級などの解明に進むという構図を示している。その際著者は、ディルタイが比較を受け付けない「人間の歴史性」を問題にしようとしたのではなく、比較の方法を適用できる「歴史的存在としての人間」の究明を試みた点で、ハイデッガーなど後代の思想家たちと異なる点に注意を喚起している。著者によれば、ディルタイの解釈学は、個体と全体との一体性を基本構造とするものであり、理解はこれによって可能となり、歴史が意味を持つのはこうした連関においてであるという。そして個体的なものが普遍性を表現する時、それは「類型」となり、歴史はそれによって記述可能なものとなる。

 このような解釈学の構想は現代の一連の危機--特に、思考のアナーキー--に対するディルタイの処方箋にも見られるというのが著者の見解であり、一見、反啓蒙・反十八世紀的議論に近い議論を展開しつつも、ディルタイは単なる過去への沈潜といった歴史的精神の限界を指摘し、自らの精神科学の構想によって過去と未来とを結びつけようとした。それは思想的にいえば、歴史主義を基礎において啓蒙主義を継承しようとするものであり、著者はこうしたディルタイの立場を啓蒙的歴史主義と呼んでいる。啓蒙的歴史主義とは歴史的意識の立場を維持しながら、思惟のアナーキーとしての相対主義を克服する役割を有していたが、そうした彼の観点からすればニーチェは正しくこのアナーキーの症例でこそあれ、いかなる回答も提供するものではなかった。ニーチェと異なり、ディルタイにとって歴史との宥和こそ恣意や愉悦の主観性よりも選択されるべきものであったのである。解釈学を通して彼が主張したのは、歴史の中で生み出されてきた偉大な作品の理解によって自らの生を豊かにすること、端的にいえば、思考のアナーキーの中で生きる人間に指針を与えることであったが、その結果、精神科学は「歴史的社会的現実」を対象とするものから、偉大なテキストへとその対象が縮減され、観想性を強めることになったと著者は結論づける。

 「緒論的考察」において者者は、ヘーゲル的絶対観念論の没落の中にディルタイを置きつつ、近代の生み出す諸現象を克服されるべきアナーキーとして、典型的に国民教育論によってこれに応答しようとした思想家として描く。その際、彼は歴史を探究し、そこから意味を汲み取り、歴史に献身していくという、非形而上学的方法を選択した。解釈作業と実践との結合がこうした文脈において登場する。著者はこうしたディルタイの試みの意味を分裂した諸科学を心的生という共通の土台によって基礎づけ、生それ自身がその全体性を回復することを目的とするものであったとする。同時に著者は、精神科学の構想は社会的歴史的世界を人間の生の連関として理解する点で一定の有効性を持ったことを認めつつ、そもそも理解論の射程が現実世界の分析の方法としては余りに狭く、結局のところ、現実の政治体制に寄りかかった議論であったとする。従って、こうした所与の体制が崩壊すると、精神科学そのものの存在基盤も失われ、ディルタイの構想はバラバラになり、後世に若干の痕跡を残すにとどまることになったのである。しかしながら、ディルタイが指摘した危機の問題は二十世紀を貫きつつ、新たな変奏を奏でていることを指摘して著者は論文を結んでいる。以上が本論文の要旨であるが、本論文の長所としては次の諸点があげられる。第一にディルタイの難解で膨大な著作を読みこなし、その内在的な思想展開を丹念に跡づけることに成功している点があげられる。ディルタイについてはその著作集の刊行がままならなかったこともあって、その所論の一部が議論の対象とされ、それで片づけられる傾向が長い間続いてきた。本論文はそうした状況を念頭において、ディルタイの根本的な学問関心の在処を包括的、内在的に問い直すことを意識的に行ったものであり、従って、今後のディルタイ研究にとってかなりの衝撃力を持つものと思われる。特に、これまでディルタイは解釈学や精神科学論といった方法論的話題との関係で議論されることが多かったが、これに対して著者がディルタイ思想の根幹をなす生と歴史の問題について、実に多彩な素材を縦横に駆使して、思想の糸を綿密にたぐっていく過程は、著者の力量が並々ならぬものであることを如実に示している。その意味で本論文はオーソドックスな思想史研究の成果を遺憾なく示したものといえる。

 第二にディルタイ思想の政治的性格や位置づけについて説得的な分析を展開していることがあげられる。言うまでもなく、ディルタイの議論はそのほとんどが哲学的なものであるが、著者はこうした制約条件の下にありながらも、その政治的含意を描き出すよう、例えば、教育学をめぐる議論などを用いてこうした分析を行った。特に、フランス革命の衝撃性の強さやビスマルク体制という政治的現実への寄りかかりの大きさの指摘などは興味深いものがある。そして何よりもディルタイにおいて、政治論と哲学とが根源において深く絡み合っていることを明らかにしたことは大きな功績である。

 第三に十九世紀ドイツ思想、更には十九世紀思想の研究に貢献する多くの論点を明らかにしたことがあげられる。ヘーゲル以降のドイツ思想の潮流について本論文は光を当てるとともに、ディルタイを通してドイツ思想の基本テーマについて問いかけを行っている。また、イギリスやフランスの思想とディルタイとの交錯を通して十九世紀の共通の思想的問題について随所で論じている。著者は十九世紀思想はフランス革命による歴史の断絶という衝撃的事実とそこから発する強い不安によって彩られていたと論じているが、こうした点を含め、本論文はディルアイ分析を越えた思想史的論点を提起している。

 本論文にも短所がないわけではない。第一に丹念な分析の反面で全体が冗長な感じを与えることは否定できないことである。また、取り上げられる論点が多岐にわたり、その論旨を追うことは必ずしも容易ではない。その意味で注のあり方を含め、叙述についてなお一段の工夫が必要と思われる。

 第二に十九世紀ドイツ思想についての研究がなお十分とは思えない面がある。ディルタイについての分析の安定性に比べ、その議論の思想史的位置づけといった分析においては議論が粗くなる傾向が見られる。これはヘーゲル以降の大状況とその後の中状況、更には小状況についてそれなりにバランスよく目配りをすることがなかなか困難であることの現れである。勿論、あらゆる議論の局面においてこうしたことを求めるのはやや望蜀の感があるが、例えば、政治論と極めて密接に関り合う教育論といった箇所についてもっと綿密な作業をするならば、論文の価値はより高まったごとと思われる。

 こうした短所にもかかわらず、本論文は画期的なディルタイ研究として政治思想研究のみならず、広く日本の学界に貢献することができる作品と考えられる。従って、本論文の著者は博士(法学)の学位を与えられるのにふさわしいと認められる。

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