学位論文要旨



No 114712
著者(漢字) メニッシュ,マーク
著者(英字)
著者(カナ) メニッシュ,マーク
標題(和) 成瀬巳喜男の作品(昭和25年-35年)における空間表象の研究
標題(洋) Representation of Space in the Films of Mikio Naruse(1951-1960)
報告番号 114712
報告番号 甲14712
学位授与日 1999.09.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第227号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,良明
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 鈴木,啓二
 東京大学 助教授 野崎,歓
 早稲田大学 教授 武田,潔
内容要旨

 映画における空間の表象について述べる時、人は、映画というメディアの形態的な限界を反映した最大のパラドックスに否応なくぶつかる。つまりそれは、映画の画像が映し出されるスクリーンが平面に他ならないということだ。そこには奥行きはない。それゆえに、観客に対してスクリーンに奥行きを知覚させることこそが監督の課題なのである。そして平面的なスクリーンの中に奥行き、高さそして広がりを創り出すことが映画における空間の表象なのである。成瀬映画において、観客は、自らの視点が置かれている「場所」が分からなくなったり、腑に落ちない移動をその「場所」の中でさせられたりすることはない。何故なら、成瀬のカメラは常に建物の姿を提示するために移動し、登場人物の動きに合わせてアングルや位置を変えているからである。成瀬は大抵の場合、通常の3方向の壁を持つセットよりさらに費用がかかるにも係わらず、4方向の壁を持つセットを使い、全てのアングルからの撮影を可能にしている。成瀬作品では、室内を映す最初のショットは、隣接する部屋から撮影される場合が多く、襖で仕切られた日本の部屋の空間を充分に活用している。

 フィクション映画の監督とは、つまりは空間の創造者である。そして多くの要素が映画的「世界」の創造に関わっている。そこには照明、演技、音楽、セットデザイン、カメラワークといった技術的要因も含まれるが、しかしそれらに限定されているわけではない。全てはドラマが起きるにふさわしい「場所」を監督が作り上げるための要素である。この研究は、成瀬巳喜男監督(1905-1969)が、『銀座化粧』(1951)から『女が階段を上る時』(1960)までの10年間に創造した「場所」に焦点を置いている。筆者が特にこの時期を選んだ理由は、それが監督の一貫した作品作りのために集結した技術スタッフの能力のすべてが見事に発揮された時期であるからだ。作品の物語自体はそれぞれに異なるが、組み込まれた空間の形態は比較的統一性がある。筆者は、この手法についてより詳しく分析することが、成瀬が映画的空間を創造する名人であることを確認させる一貫したパターンを明らかにする、そう確信している。

 これまでに成瀬の全作品における空間を分析したものはほとんど存在していない。つまり、成瀬の空間の使い方を充分に考慮した研究はないということである。この論文は、そうした大きなギャップを埋めることを目的とする。

 映画とは結局は視覚媒体であることから、この論文は成瀬の作品からのスチール写真を多く掲載している。それらは、映画館で観客が目にするものとは異なる場合がある、いわゆるプロダクションスチールではない。ここで使用されるスチールは映画から切り取られたものである。(プロダクションスチールも数枚含まれるが、その旨記載されている。)監督や製作スタッフによって書かれた図画等も参照として掲載されている。また、筆者自身によって作成された日本映画産業についてのデータを含む表は、今回初めて英語にされたものである。さらに、筆者と成瀬恒子夫人、岡本喜八監督、俳優の小林桂樹、香川京子、他関係者とのインタビューの内容も記載されている。

 他の歴史的研究と同様、いくつかの資料はすでに失われてしまっている。この論文で主に言及する対象の範囲を1951年から1960年の10年間に製作された作品に限定しているもう1つの理由はそこにある。この期間はしばしば「日本映画の第2の黄金時代」と形容される(一般には1930年代が「第1時黄金時代」とされている)。こうして分析の範囲を限定することには利点がある。つまり、成瀬の全98作品を扱おうとするよりも、特定の時期に分析を集中させることで、成瀬とその製作チームとの細かい編み目のような緊密な連係の素晴しさを見ることができる。セットデザイナーの中古智、音楽担当の斎藤一郎、カメラマンの玉井正夫はその一員で、この時期の成瀬のキャリアに捧げた彼等の貢献は計り知れず、特筆すべきものである。

 この論文の主文の中で検証されたそれぞれの作品の筋書きや、出演者およびスタッフの情報について、不必要な説明を繰り返す繁雑さを省くために、最後に一覧表を設けている。

イントロダクション

 イントロダクションでは、成瀬自身について、彼の仕事に対する方法論について、及びこの論文で取り上げる時代における彼を取り巻く環境についてを、読み手に分かりやすく紹介している。また、この時代を対象として選んだ理由についてここで説明している。

第1章成瀬のテーマ

 個々の作品について具体的に分析する前に、1950年代の成瀬作品が持つ基本的なテーマについて述べる。まず初めに、「時間の構成」について述べ、基本的に成瀬のストーリーは第1幕、第2幕で構成されていることを検証する。「天気」では、要素に忠実であるという成瀬のユニークな特徴について分析している。そして「昼と夜」では、成瀬が映画の中でどのように昼と夜を並置しているかについて説明する。

 -何故1950年代なのか。1950年代の日本映画とハリウッド映画の比較。

 -女性の声

 -時間の構成

 -物語の周期的展開

 -天気

第2章家/庭

 ここでは、断片的な提示の積み重ねによって物語の舞台となる建物の全体を表象するその仕方について述べ、垂直及び平行についての例を挙げている。そして成瀬が創り出した以下のような室内の空間について説明している。

 -家屋の周辺

 -断片的な撮り方

 -二間ショット

 -屋内/屋外

 -どんでん

 -障子と襖

 そして『山の音』で中古智氏が構築した2つの室内セットについての詳細を述べている。成瀬作品における空間構築上のメロドラマ性についても分析している。また、成瀬が彼の作品で使用した日本家屋とセットについて、玄関、襖/障子、二階の空間、階段、縁側のそれぞれの「場所」における表現を分析している。そして大映でのセットと東宝でのセットの空間の表象の違いについていくつか説明する。

 ここでは、雨戸、中庭などをめぐって、成瀬映画の中での庭の特徴について述べている。庭でのどんでんが、屋内でのどんでんとどのように異なり、また相似しているかについて、『晩菊』を例として説明している。続いて『山の音』と『杏っ子』を取りあげ、室内の様子が庭越しに撮影されている場面を検証している。『お国と五平』の例では、被写界深度について、また樹木や柱を画面に取り入れることによってショットに空間的な深みを生み出す監督の方法について論じている。さらに『稲妻』の中での、庭で聞かれる屋内からの音楽や音について説明している。

第3章

 この章では、成瀬の1950年代の全ての映画の始まりが、道路や路地、水の流れや空などの公共の場のショットであることを証明している。また、成瀬が屋内の空間とのコントラストをつけるために、どのようにして道路、路地及びその他の公共の場を利用しているかについて述べている。『晩菊』からは、成瀬の公共の場における空間表現の技法が見られるシーンを例として挙げている。さらに橋について、何故成瀬が頻繁にそれを利用するのか探っている。また、女性が家の中から飛び出す時、外出先には、ぐらぐらと揺れる手持ち(ハンドヘルド)カメラが同行し、揺れる映像が画面に現れることについて、そして成瀬映画におけるチンドン屋の役割について述べている。

 この章では、成瀬の特徴である、店の中から外の風景を撮影する方法、また、歩道の通行者を撮影する方法について説明している。そして、行動の問題点と自由について、男女が仕事中や職場にいる時と家にいる時を比較している。また、成瀬がいかに職場(特にバー)をその他の「場所」と趣きの異なる空間として撮ったかについて、『銀座化粧』から例を挙げている。そして、成瀬の映画に頻繁に使われる通勤のモチーフについても述べている。

結論

 ここでは結論として、これまでに述べた全ての分析をまとめている。そして、成瀬と彼の空間的ダイナミックスについての考えを完成させる。さらに、この論文では、成瀬映画の特異な要素についてその一部分を取り上げたに過ぎないことから、今後の成瀬研究者のために、研究意義のある論題をいくつが指摘しておきたいと考えている。

審査要旨

 マーク・メニッシュ氏の論文"Representation of Space in the Films of Mikio Naruse(1951-1960)"(成瀬巳喜男の作品(昭和25-35年)における空間表象の研究)は、日本映画史上に大きな足跡を残した巨匠の一人でありながら、黒沢明や溝口健二や小津安二郎などに比べてはなはだ研究が遅れていた監督成瀬巳喜男の映画空間の構成をめぐって、具体的な映画作品の細部に注意深い視線を注ぎながら総合的な分析を施した労作である。

 メニッシュ氏によれば、無声映画時代から活躍していた成瀬巳喜男のキャリアにおいて、美術の中古智、音楽の斎藤一郎、撮影の玉井正夫といった技術スタッフの緊密な共同作業に支えられ、或る統一性に貫かれた独創的な世界が構築されたのは、彼の1950年代の作品群においてである。そして、その独創性がもっとものびやかに発揮されたのは、ドラマが起きるにふさわしい「場所」の創造においてであるという視点から、メニッシュ氏は『銀座化粧』(1951)から『女が階段を上る時』(1960)に至る充実した傑作群において造型された映画空間の特質と構造を分析してゆく。空間の映画的表象とは、照明、演技、セットデザイン、キャメラワークなどが複雑に絡まった現象であるが、メニッシュ氏は物語の説話構造の結節点をなす重要なシーンの数々に注目し、そこで意味作用を形成している諸要素を細密に叙述しながら、成瀬巳喜男の空間創造に見られる一貫したパターンを取り出してみせた。

 本論文は三つの章が本体をなし、それを短い序文と結論が挟むという構成をとっている。映画の空間を「ショット空間」「編集空間」「聴覚空間」「オフスクリーン空間」という四つのカテゴリーに分類し、分析のための理論的枠組みを提示したイントロダクションに続いて、まず、第一章「成瀬映画の主題的・構造的諸要素(Thematic and Structural Elements of the Naruse Film)」では、成瀬巳喜男の職業的キャリアにおける1950年代の意義が考察され、それが当時の日本映画全体が置かれていた状況の中に、さらには凋落期のハリウッドを含む世界映画全体の状況の中に位置づけられる。この時期における各国別の制作本数や配収の年度順の推移などに関して、当時の資料から発掘したデータに基づく手堅い実証的な手法が採られているのは注目に値しよう。メニッシュ氏は、『妻よ薔薇のやうに』(1935)をはじめとする30年代の成瀬に関してはすでにノエル・バーチによる綿密な言及が存在するものの、成瀬の個性が真に開花した50年代の作品群に対しては未だ正当な評価がなされていないことを指摘したうえで、「庶民劇」という粗雑なレッテルで片づけられがちな成瀬映画が、女性の声への執着、物語の中間地点で同じショットが回帰するという円環構造、起承転結による模範的な締め括りかたの不在、繊細な季節感の描写等々といった個性的な要素に特徴づけられた、きわめて豊穣なドラマ世界をかたちづくっているさまを説得力豊かに叙述している。

 「家と庭(Home and Garden)」と題された第二章では、個人の住居としての「家」とそれに付属する「庭」というプライベートな空間を成瀬がフィルムに収める場合の、特徴的な手法が考察される。まず「家」の表象に関しては、家屋の外観が断片的な提示の積み重ねによって行われているという点、隣り合う二つの部屋の間を視線が巧みにする往還するという点(いわゆる「二間(ふたま)ショット」の問題)、180度正反対の側からの視線の切り返しが行われ、そのため人物を360度取り囲むセットが要求されるという点(映画用語でいう「どんでん」技法の問題)、などが論じられる。この「二間ショット」や「どんでん」と密接に関係する付随的問題として、障子や襖、玄関、二階の空間、階段、縁側といった日本家屋特有の空間装置の用いられかたや、大映でのセットと東宝でのセットとの相違をめぐる考察も展開されている。次いで、「庭」の表象に関しては、屋内空間の表象との差異をめぐって『晩菊』が、庭越しに屋内が撮影されている例として『山の音』と『杏っ子』が、被写界深度の巧みな使用の例として『お国と五平』が、庭で聞かれる屋内からの音楽や音響の効果をめぐって『稲妻』が、それぞれ取り上げられ、詳細な分析が加えられている。

 個人の住居の描きかたを分析したこの第二章の後を受けて、「公共空間と職場(Public Spaces and Workplaces)」と題された第三章では、道路、路地、川、橋、職場など複数の群衆に開かれた社会的空間が取り上げられる。50年代の成瀬映画は例外なくこうした公共空間のショットから始まるという指摘から出発して、メニッシュ氏は、戸外シーンの表象がいかにして屋内空間との対比・対照・連係・融合等を達成しているかを分析してゆく。たとえば「庶民劇」と称されるにふさわしく成瀬映画ではしばしば平凡な勤め人の出勤風景が描写されるが、メニッシュ氏は、郊外の一戸建てに住む『驟雨』の主人公が、家を出て、未舗装の道を駅まで歩き、電車に乗って都心の会社に着くまでというありふれた一連の行為が、精妙なショット連鎖によって流麗に描き上げられているさまを、具体的なコマ割りの提示によって浮かび上がらせてゆく。それは、一方で、出勤と帰宅による夜と昼の交代が作り出す説話のリズムの問題にも通じ、また他方、連れ立って歩く『山の音』の父と息子のように、並んだ二人の人物のうち、やや先行した一方が振り返って他方に話しかけるという、成瀬に特徴的な「振り返る」動作による空間的ダイナミズムの導入という問題にも通じることになる。同時に、昭和20年代から30年代にかけてのホワイトカラーの発生と東京郊外の都市化の進行といった社会学的視点も抜かりなく押さえられていることも注目される。それ以外にも、欲望が昂進する場所としての「橋」、『銀座化粧』に見られるように女性をその「仕事場」としてのバーへ導く空間装置としての「階段」など、特徴的な空間の相貌が物語における心理的意味の関数として分析されている。また、チンドン屋、出前持ちなど、「庶民劇」を構成する都市的な風物が、映画空間をどのよう活性化させているか、店の中から外の通りを撮影する成瀬に固有のキャメラアングルが、内部と外部をいかに自然に通底させているか、などをめぐる興味深い考察も展開されている。

 アメリカ人の日本研究者であるメニッシュ氏が、きわめて「日本的」と見なされる成瀬の世界に触れて受けた新鮮な驚きが端々に漲っている本論文は、その驚きを映画史・映画学・表象文化論の諸知見を動員して解釈し解明しつくそうとした知的な姿勢によって書かれたもので、「空間の表象」という角度からの成瀬映画の特質は遺漏なく論じられていると言ってよい。海外でも評価が高まりつつある成瀬巳喜男作品の特質を本格的に論じた長篇の英語論文としては最初のものという歴史的意義を有する研究であることに加え、巻末に付された成瀬巳喜男全フィルモグラフィーは、これもまた英語においては今まで存在しなかったもので、資料的価値のきわめて高い労作である。50年代作品だけ扱うという限定の仕方がいま一つ説得力に欠けるという点、興味深い論点は多々提出されながら全体としての連関性・求心力に乏しく分析がやや皮相なものにとどまっている点など、細部における事実誤認も含めて、多少の物足りなさが残らないではないにせよ、日本映画研究への貢献として高く評価されるべきものであることは否定できない。メニッシュ氏自身が成瀬未亡人、岡本喜八監督、俳優の小林桂樹・香川京子などへ行ったインタビューの成果も随所に活かされており、日本でも海外でも今後ますます増えてゆくと思われる成瀬巳喜男研究者にとって重要かつ有用なレフェランスとなることは間違いない。

 以上の点を総合的に判断したうえで、審査委員会は慎重審議の結果として、本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと判定する。

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