中国と日本は一衣帯水の隣国であり、歴史と文化において切っても切れない関係にある故に、かえって互いに客観的に見ることができない面があると言えよう。中日間の比較文学・比較文化という分野の研究現状について言えば、中国側も日本側も両国の間に存在している共通点に注目し、相手の影響を受けたがために現れた相似点を論ずるものが多いと思われる。 本稿はこのような問題意識から「白居易と日本文学」を研究課題とし、その一環として十三世紀初期の建保六年(一二一八)にできた和歌の作品群「文集百首」を取り上げ、中国と日本との間に見られる文化の異同に重点を置いて日本における中国文学受容の実態について考察をしているものである。 研究対象とした「文集百首」が句題和歌であるという特質により、考察の内容は主に歌の注釈と比較文化論的分析という二つの部分からなっている。 歌の注釈においては、言葉のレベルから詩歌の表現を検討した。本百首の漢詩題となっている白詩句の受容史をおさえた上で定家詠の特色を見いだすことにつとめ、また、詩語と歌語のイメージの異同に重点を置いて題と歌との関連を分析した。さらに、白詩と定家詠を通して中国と日本それぞれの詩的世界に展開する両民族の感情・美意識・価値観・思想などの問題を考察した。 比較文化論的研究に関しては、主に以下の問題について詳論した。 第一章においては、「文集百首」が世に出る以前の、中国と日本における白居易のイメージ、および「文集百首」における白氏文集受容の特徴・新しさを明らかにした。すなわち、 1、白居易文学の内容の豊富さについては多くの論証があるが、本論文では、さらに「天下を済う」という志と「独り其の身を善くす」る生き方、および「繊艶にして逞しからず」の性質などの多面性を有する白居易文学は、多様性を内容とする中唐文芸の具体的かつ代表的事例であり、文化史的に重要な位置を占めていることを指摘した。 2、平安時代における白居易像は、繊細な心と詩才の持ち主で、貴族的で華やかな生活を送り、身の処し方は賢く、仏教的色彩が強い人物、というイメージである。こうしたイメージは、日本の王朝人が自らが好む白居易の側面を強調し、理想の白居易像として形成したものである。 3、「文集百首」の先行文学である慶滋保胤の「池亭記」および鴨長明の『方丈記』と白居易の作品との関連について、金子彦二郎氏を代表とする日本人研究者はその三者の共通性を強調し過ぎる嫌いがある。本論文では、隠者の精神は三者の作品を貫いているけれども、その「隠」の出発点・方法・目的などは、おのおの異なっていることを具体的に論証した。 4、これまで「文集百首」が企画された経緯や漢詩題の採句傾向と出典については諸論考があるが、しかし、「文集百首」に託された慈円の心は一体どのようなものであり、百首の題に選ばれた白居易詩はどうのような特徴を持つか、また、中世日本の文芸史における「文集百首」の意義はどこにあるかなどの重要な問題については、まだ、はっきりしていない点がある。本論文は「文集百首」の漢詩題には「無喜無憂」「不厭不戀」「無生無滅」という境地への傾斜が見られ、それこそ「文集百首」に託された慈円の志向ではないかと考えた。また、生と死あるいは現世に対して「厭はず」また「戀はず」という思想と、平安時代以来、盛んであった「厭離穢土」「欣求浄上」の志向との間には大きな開きがあり、そこには、慈円における白居易ないし仏教思想の受容の新しさがうかがえると指摘した。 5、定家の「文集百首」は大江千里の句題和歌と比べると、題を訳すような感じはほとんどなく、本歌取りの方法と似たような方向で題と関わっていると指摘されている。本論文はさらに、多くの実例を分析し、定家の句題和歌詠の創造性およびその句題和歌史における画期的な意味を論じた。 6、佐藤恒雄氏は定家にみえる「雖非和歌之先達、時節之景気、世間之盛衰、為知物由、白氏文集第一第二帙常可握翫。深通和歌之心」という歌論は「文集百首」の創作によって啓発を受けたと指摘しているが、その論証の内容に混乱が見られる。本論文は、右の結論を支持しつつ、論証の内容を正した。 第二章においては、主としてつぎのようなことについて論証した。 1、劉若愚氏は、中国人にとって自然は「慈悲もなければ、敵意もない」といった自然の存在である、という見方を提出しているが、裏付けとしての論考がない。本論文はその見方を支持しつつ、白居易という実例によってさらに詳論した。 2、中国文学には自然の永遠さと人事のはかなさを対立させる表現様式がある、という点は一般的に認識されているが、本論文は、中国文学には永遠さと儚さという両面について自然と人事は同じである、という一体観も見られ、それは無常観を超克するという思想史的意義を持つものであると指摘した。同時に、白居易は自然より人間が優位に立つ自然観を持っている、という菅野禮行説を批判した。 3、中国でも日本でも、自然と触れ合うことによって心を澄ますという心理的現象があるが、中国人の場合は、「静か」とすべてを「忘れる」ところを指向して、人間の感動が静められる傾向が強く感じられる。ところが日本人の場合、 図表 に示されるように、「物のあはれ」が重要な役割を果たしている。 5、「文集百首」には「雪月花』が代表している自然に対する慈円なりの態度が示されており、「雪月花」は厭世者がそこに逃げこむ世界を表すものから、現世に立脚する生活姿勢や価値観を意味するものへと変化している。 第三章では、これまでの『文集百首』研究では触れられていない点について、一つの想定を提起した。 「文集百首」に先行した「長恨歌」の句題和歌には、「長恨歌」のストーリー全体の内容が大体反映されているのに対して、「文集百首」の「恋五首」は、独り寝のつらさという点に集中して表現されており、そこには、撰者の特別な心情が託されているように思われる。つまり「恋五首」には慈円と後鳥羽院との関係を象徴する寓意性があり、慈円が後鳥羽院との意思疎通をはかったものであり、王法と仏法の一体化の主張につながっているのではないかと推定される。 第四章では中国と日本それぞれの隠遁文化のあり方を探って、「文集百首」における「中隠」思想受容の本質およびその史的意義を考えた。具体的には、つぎのような見方を提出した。 1、日本には、白居易の「閑適」を「隠棲」と同じような意味で捉える研究や、あるいは「閑適詩」の特質を生の儚さの認識とする研究が見られる。本論文は、下定雅弘氏の研究をふまえ、白居易の「閑適詩」に見える「閑」と「適」の用例を考察し、その諸概念は主に老荘思想に基づくものであると論証した。また、「文集百首」が選んだ「閑適詩」の句題には無常思想が感じられるとは言え、それは必ずしも『白氏文集』の「閑適詩」の本質的内容とは限らず、あくまでも「文集百首」の作者の思想的傾向であり、中世日本の思想状況の反映でもあると指摘した。 2、「文集百首」は白居易の中隠思想と深く関わっているが、そうした内容は主に心のあり方が大事であるという点に限られており、白居易が重視した「中」の具体的な意義には無頓着なようである。「文集百首」にみえる、真の解脱は山里にあるのではなく、自分自身の心のありかたにこそあるという主張は、日本の隠遁文化の歴史の流れにおいて見れば西行・長明らの達した境地とは異なる新たな展開を見せていると評価した。 3、中国文学にみえる閑居生活は心の波瀾を静め、「無」に帰着する心構えで現実と出合うということを志向するのに対して、日本の隠遁者は世をすてて山に入っていても、「もののあはれ」という心の持ち方は変わらない。そこには日本における隠遁の特色が見られる。 第五章は「文集百首」研究において以下のような新見解を提出した。 1、白居易の「無喜無憂」「不厭不戀」「無生無滅」といった主張の根底には老荘思想と禅の考え方があり、また、白居易が強く影響を受けた「洪州禅」は日本の中世に盛んであった本覚思想と通じるものがある。「文集百首」の漢詩題にみえる「無喜無憂」「不厭不戀」「無生無滅」という境地への傾斜は、本覚思想の隆盛を背景に生まれたものであり、慈円の作品に頻繁に見られる「二諦一如」観と合致する。 2、定家詠には無常の詠嘆のみならず、漢詩題の気持ちを吸収し、無常への対処を表すものも感じられる。仏教者である慈円と違う特徴を持ちながら、定家と慈円においてはいずれも白氏文集を媒介にして無常観を出発点とする歌の道を形成した。 最初に設定した課題に対して、本論文は以上のような研究をしたが、十分展開できなかったところが多い。例えば、白居易の閑適の生き方について、これまでの研究では「古人云く、窮すれば則ち独り其の身を善くす、達すれば則ち兼ねて天下を済ふ。僕、肖にあらずと雖へども、常に此の語を師とす」という白居易自身の言葉によって説明されているが、彼の作品を詳細に検討すれば、その「閑適」の生活内容は、すでに「独り其の身を善くす」という儒家的な規範を超えて、極めて個人の生命を大事にし、生きていることを楽しむように見受けられる。この点については、さらに、中国知識人の精神世界の展開および中国文化全体の発展の趨勢と関連させて論じる必要がある。また、中国と日本の両方に見える「心を澄ます」という心理現象について、その異同には中・日両民族の心の持ち方および価値観・美意識などが反映されており、さらに掘り下げて研究しなければならない。 全体から見て、本論文は「文集百首」の部立に即して研究を進めるという設定によって研究範囲を広げすぎたこともあり、個々の問題点について深く論証する余裕はなかった。残された問題は今後の課題とする。 |