学位論文要旨



No 114714
著者(漢字) 橋本,努
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,ツトム
標題(和) 方法と人格 : プロジェクトとしての自由主義
標題(洋)
報告番号 114714
報告番号 甲14714
学位授与日 1999.09.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第229号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 松原,隆一郎
 東京大学 教授 山脇,直司
 東京大学 助教授 森,政稔
 東京大学 助教授 佐藤,俊樹
 千葉大学 教授 嶋津,格
内容要旨

 本論文の課題は、社会科学が陶冶しうる人格理念について、成長論的自由主義の観点から新たな構想を打ち立てることにある。言い換えれば、社会科学の認識という営みが、いかにして成長を企図する自由社会の担い手を陶冶しうるのかを示すことにある。

 社会科学が陶冶すべき人格像に関する検討は、これまでとりわけ日本のウェーバー研究において企てられてきた。ウェーバー研究者たちの多くは、ウェーバーはどのような人格理念を生きたのかという問題を問うてきたが、その背景には、「社会科学が陶冶すべき人格理念は何か」という根本問題が想定されていた。他方で物象化論やコミュニタリアニズムにおいては、自由主義が厚い人格理念を想定していない点が問題にされてきた。そこで本論文ではこうした二つの問題状況に対して呼応しつつ、自由主義が構想しうる新たな人格理念ついて、社会科学の認識という営みが寄与しうる範囲で応答を試みる。

 まず最初に、第一章と第二章では、学問的態度として要請される人格理念と、学問を超えて妥当性を要求する人格理念の、二つの領域について検討する。

 第一章では、従来の社会科学が陶冶しようとしてきた「近代主体」という人格像に対して、「問題設律主体」という人格像を提示する。「問題設律主体」とはさしあたって、自ら自律的に問題を設定する主体を言うが、そこに様々な派生的意味をもつ人格理念である。この理念は自由主義の人間的基礎として、本論文が提出するもっとも重要な対案であり、後の各章はこの「問題設律主体」を補助する議論として位置づけられる。したがって第一章は本論文全体の基礎である。第一節では、人格に関する様々な議論を分析的に整理しつつ、人格の社会理論を構成する。まず人格概念について詳しく検討し、そして人格の諸局面を人物特性や関係形成やパーソナリティ要因から明らかにする。つぎに第二節では、理想的な人格像のモデルについて、これまでのウェーバー研究から得られる六つの近代主体像をモデル化して、批判的に検討する。その六つのモデルとは、(1)究極的価値をもつ設計主体、(2)実践的人間、(3)社会科学的人間、(4)文化人、(5)賤民知識人、(6)変革主体である。そして最後に第三節では、近代主体に対比される「問題設律主体」という独自の人格モデルを提示する。「問題設律主体」は、価値の代わりに問題を人格のコアにおくことによって、「近代主体」のさまざまな難点を克服しうる理想として提出されている。社会科学の認識は、その問題化機能によって、問題設律主体を陶冶することができる。

 つづく第二章では、近代主体のもう一つの側面である「決断主義」について検討し、対案として「成長論的主体」という別の人格モデルを提示する。マルクス主義やコミュニタリアニズムは、ウェーバーを決断主体の代表者とみなして批判する。すなわち、決断主義は価値の問題を好みの問題に還元してしまい、厚い人格の陶冶をなし得ない、という批判である。そこで本章では決断主義の理念を検討し、すぐれた〈決断主体〉を人格モデルとして構成した上で、それに対比される「成長論的主体」という人格モデルを提出する。第一章ではウェーバー研究において肯定的に解釈された「近代主体」を扱うが、これに対して第二章では、ウェーバー解釈において否定的に提出された「決断主義」について扱う。ここで提出される「成長論的主体」とは、可謬的真理に服してすぐれた価値を模索するような、成長に開かれた人格の理念である。その場合、社会科学は「真理メディア説」を採用することによって、成長を志向する人格を陶冶することができる。

 次に第三章と第四章では、学問的態度を超えて妥当する人格論から、学問が間接的に役立つような人格論までの範囲において、理想的な人格理念を検討している。これら二つの章は、先の第一章と第二章において検討した人格論、すなわち、学問から学問を超えて妥当する人格論を、さらに学問が間接的に役立つような領域にまで広げて検討した議論として位置づけられる。

 第三章では、ウェーバーの責任倫理論を、その後の研究を踏まえて批判的に検討し、さまざまな理論化を行っている。「責任倫理」論は、学問を超えて近代主体像を拡張する際に、ウェーバーが最も重視し、そしてその後のウェーバー研究において最も関心を集めた議論である。責任倫理は、起こりうる諸結果を予測し、目的手段の連関を明白に予測しなければならない点で、社会科学的認識を必要としている。そこで第三章では、ウェーバーのモチーフに導かれて、社会科学の認識と責任倫理の関係について考察し、あらたに「拮抗的高揚主体」という人格理念を提出する。拮抗的高揚主体とは、互いに相反する価値を精神の内部で拮抗させることによって、その緊張感から精神的な高揚を遂げようとする主体をいう。本章では、これまで解釈された「責任倫理」論をさまざまな分類軸を用いて整理しつつ、そこからさらに、いろいろな責任倫理解釈を互いに拮抗させることによって、新たな精神の高揚を遂げる主体を構想する。そしてそのような主体のモデルが、第一章において提示した「問題設律主体」と適合すること、また、自由な社会制度を構想する上で重要な人間的基礎を提供することを主張する。

 第四章ではさらに、この「拮抗的高揚主体」を補う価値として、「運命」と「闘争」について検討する。ここでは、ウェーバーのいう「神々の闘争」を担う主体として、「運命的闘争主体」という人格像を提示しつつ、自由主義の秩序構想について論じる。そのためにまず第一節では、運命とは何であるかについて、立ち入った概念分析を試み、闘争的秩序と両立する運命概念を特定する。第二節では「闘争」概念について検討し、「闘争的秩序」なるものが平和で開かれた社会を可能にすることを論じる。そして第三節では、運命的な闘争を企てることが成長論的自由主義と両立し、また、自由な社会を築く上での基礎になりうることを主張する。その場合、社会科学は「認識の運命化機能」と「認識の暴露機能」を用いることができる。先の第三章では「拮抗的高揚主体」という精神の内面から自由主義の制度理念を考察したが、これに対して第四章では、「運命的闘争」という対他的な営みから自由主義の制度理念を考察する。この第四章は、第三章の議論をさらに発展させたものとして位置づけられる。

 最後に第五章では、方法論に人格陶冶機能をもたせる議論として、「価値自由」論を取り上げる。「価値自由」論は、社会科学方法論の最も中心的な位置を占めているが、テーマとしては方法論に特化しているため、他の諸章とは相対的に独立したところにある。したがって本論文では最後に位置づけた。ウェーバーのいう「価値自由」は、方法論言明を通じて、社会科学の営みにおいて一定の人格を陶冶する機能をもっている。しかし「価値自由」という方法がどのような人格理念を陶冶すべきであるかについては、いろいろな解釈がある。ここではそうした諸解釈を整理しつつ、新たに非公認解釈として、「問題自由」という解釈を提示する。「問題自由」とは、価値問題を人格のコアに引き受けることによって、精神的な自律を遂げるという人格像を想定している。本章では、この「問題自由」という方法論を提示しつつ、これによって社会科学システムを再編できることを体系的に示している。

 以上の諸章において、最も基本となるのは、第一章において示した人格理念、すなわち「近代主体」に代替しうるモデルとしての「問題設律主体」である。これに対して〈成長論的主体〉、「拮抗的高揚主体」、および「運命的闘争主体」は、この「問題設律主体」を補う人格モデルとして位置づけられる。〈成長論的主体〉は、成長へ向けて模索するために、問題を人格のコアにおくことが必要となる。「拮抗的高揚主体」もまた、精神の拮抗的高揚を補完するために、問題をコアにおくことが必要となる。さらに「運命的闘争主体」は、究極の問題を自ら選び取ることが運命への自由であるとする点で、「問題設律主体」を要請する。これらの人格モデルを「問題設律主体」を中心にして統一すると、われわれは、成長論的自由主義の担い手となるべき綜合的な人格像を得ることができるだろう。「問題設律主体-成長論的主体-拮抗的高揚主体-運命的闘争主体」という綜合的人格像を、ここでは簡単に〈問題主体〉と呼ぶことする。〈問題主体〉は、社会科学が陶冶しうる新たな人格理念であり、本論文においてこの理想は、既存のウェーバー解釈から得られる人格理念と対質するなかで提示されている。

 〈問題主体〉はまた、社会認識に携わる人たちに要請される人格理念であると同時に、成長論的自由主義のすぐれた担い手としても構想されている。〈問題主体〉と成長論的自由主義の関係について本論文が示したことは、次のような企図である。(1)問題分轄による自生化主義:「問題設律主体」が活躍できるためには、社会問題を主題化しつつ、それを個別化して自生的に解決できるように、制度の自生的秩序化作用を積極的に利用することが重要である。(2)フォーラム型の社会:「成長論的主体」を陶冶するためには、批判的な価値討議によって成長への共同投企を企てるような、フォーラム型の社会システムが要請される。そこでは「成長への自由」、すなわち、特定の目標を集団的に達成するという制御から解放され、新たな未来へ向けて自己と他者と社会を成長させていくような自由が要請される。(3)社会-人格同型論:「拮抗的高揚主体」は、社会-人格同型論の考え方、すなわち、社会と人格がともに「諸価値の拮抗的関係」と「諸問題」から成り立つとする考え方に接続されるならば、「問題設律主体」に適合的な人格モデルとなる。また、社会と人格がともに「問題」から構成されているとみなす見解は、価値多元性を許容しつつ社会秩序を保持するような、成長論的自由主義の思想的基盤を提供する。(4)開かれた闘争的秩序としての自由主義:「運命的闘争主体」は、自らの究極の問題を選んで闘争することを運命として認識する。その場合、「自由のために闘争すること」が運命づけられており、また差異の汎闘争化を企てるならば、「成長への自由」と「通用的価値からの自由」をもたらすことができる。そのような営みは、いくつかの条件を満たすことによって、開かれた闘争的秩序を生み出すことができる。

 およそ以上のような諸命題によって、自由主義社会を豊穣なものにする社会構想、すなわち「成長論的自由主義」の構想が得られる。社会科学の認識によって陶冶しうる〈問題主体〉という人格理念は、こうした成長論的自由主義の担い手となりうる。したがって社会科学における認識(方法)は、たんに価値の選択や選択肢の特定化にかかわる選択主体を陶冶するだけでなく、以上に示したようなさまざまな認識の機能を通じて、成長へのプロジェクトとしての自由主義の担い手を陶冶することができる。本研究の独自性は、そうした方向において、「方法と人格」の関係に関する新たな考察をおしすすめた点にある。

審査要旨

 本論文は、社会科学研究という営みが研究者自身や社会にとっていかなる意義を有するのかを追求するものである。その特徴は、同様の問題意識に導かれてきた戦後日本のウェーバー研究の人間類型論を、ポパーらの批判的合理主義からヒントを得て独自に構想した「成長論的自由主義」の観点から批判的に検討し直すことにある。

 一般に社会科学の役割は、社会に対する批判的な態度を形成すること、ないしは実証にもとづき予測や管理を行うこととされている。しかしそれらの理解は、研究者自身が社会科学からどのような影響を受けるのかを問うておらず、さらにそうした影響が「善きもの」であるか否かも検討していない。つまり方法論として、研究者は対象を客観的に認識しうるものだということを暗黙のうちに前提している。けれども戦後直後に始まる我が国のウェーバー研究は、他国のウェーバー研究とは異なって、ウェーバーはどのような人格理念を生きたのかという問題を通じて、研究者自身の「いかに生きるべきか」という人間学的な関心に答えようとしてきた。そうした伝統は近年では影が薄くなっているが、しかしそれはウェーバー研究者たちが好意を示してきた社会主義への信頼が揺らいだことや倫理そのものへの関心が衰退したことによるものであって、「社会科学とは善き営みである」ということが論証され尽くしたからではない。一方、隆盛を誇る自由主義については、物象化論やリベラル=コミュニタリアン論争において厚い人格理念を持たないと批判されている。

 本論文はその点に着目し、我が国のウェーバー研究者によって蓄積されてきた「方法」と「人格」にかんする諸論点を成長論的自由主義の立場から検討し直すことを課題としている。その際、かつてのウェーバー研究が提示してきた近代主義的な人格像も、批判的に再構成される。自由主義について成長論という固有の解釈を施し、そこから新たな人格像を提示し、さらにウェーバー研究史の伝統を人間学的側面から批判的に継承した点は本論文の独創であって類例はなく、高い学術的な価値をもつと評価されるものである。

 本論文は、序章と終章を含め、七つの章で構成されている。

 序章では、本論文の問題意識と構成が述べられている。さらに本論文に対して持たれかねない誤解について、あらかじめ注釈を施している。本論文はあくまで自由主義の立場から社会科学研究の人間学的意義を究明するものであるから、「狭義のウェーバー研究」や思想史研究とは趣を異にしていることが明言される。また論述の方法としては、規範理論から概念上の混乱を除去するために、たとえば「どのような人格像がすぐれているのか」について、類型化とモデル化といった概念分析を行うことを述べている。さらに本論文は、社会科学の営みを通じて善き人格が陶冶されることを主張するが、一方では社会科学によって陶冶しがたい豊饒なる「善き生」が存在することも了解している。

 以上のような問題意識を前提に、続く五章で本論が展開されている。まず第一章は、本論文全体を基礎づけるものとして、学問的態度として要請される人格理念について検討する。従来の社会科学は、陶冶すべき人格像として「近代主体」を提示してきた。これに対して著者は、(いささかこなれない用語ではあるが)「問題設律主体autonomously problem-setting subject」という人格像を提示する。「問題設律主体」とは要するに、自ら自律的に問題を設定する人格理念であるが、そこに様々な派生的意味が付け加わる。この理念は自由主義の人間学的基礎として、本論文が提起するもっとも重要な対案であり、後の各章は本章を補助・敷衍する議論である。第一節では、人格に関しこれまで展開されてきた様々な議論を分析的に整理しつつ、人格の社会理論を構成する。まず人格概念そのものを詳述し、次いで人格の諸局面を人物特性や関係形成やパーソナリティ要因から明らかにする。第二節では、理想的な人格像のモデルについて、これまでのウェーバー研究が提示してきた六つの近代主体像をモデル化し、批判的に検討する。その六つのモデルとは、(1)究極的価値をもつ設計主体、(2)実践的人間、(3)社会科学的人間、(4)文化人、(5)賤民知識人、(6)変革主体である。最後に第三節では、それら近代主体の対案として「問題設律主体」という独自の人格モデルを提出する。「問題設律主体」は、「価値」の代わりに「問題」を人格のコアにおくことによって、「近代主体」のさまざまな難点を克服しうる理想と考えられる。社会科学の営みは、問題化機能を有することによって、「問題設律主体」を陶冶することができるとされる。

 第二章では、学問を超えて妥当性を要求する人格理念について検討する。近代主体は別の面で「決断主義」をはらんでいるが、それへの対案として「成長論的主体」なるもう一つの人格モデルを提示する。マルクス主義やコミュニタリアニズムは、ウェーバーを悪しき決断主体を唱えたという理由で批判する。決断主義は価値を好みの問題に還元してしまうから厚い人格の陶冶をなし得ない、という批判である。これに対し本章では、まず決断主義の理念を検討し、すぐれた〈決断主体〉の人格モデルが存在しうることを論証する。次いで、それに対比しつつ「成長論的主体theoretically growth-oriented subject」なる人格モデルを提出する。「成長論的主体」とは、真理の可謬性を認めつつ、より優れた価値を模索する、成長に開かれた人格の理念である。ここでは社会科学は真理について、顕現しえぬ(見抜けぬ)者は虚偽に陥っているとする決断主義の想定を排し知識は成長するという「真理メディア説」を採用することによって、成長を志向する人格を陶冶することができるとされる。

 続く第三章と第四章では、第二章の学問を超えて妥当する人格論を、さらに学問が間接的に役立つような領域にまで広げて検討する。まず第三章では、ウェーバーの責任倫理論を、その後の研究を踏まえて批判的に検討する。「責任倫理」論は、学問を超えて近代主体像を拡張する際にウェーバーが最も重視し、後のウェーバー研究においても最も関心を集めた議論である。責任倫理は、起こりうる諸結果を予測するために目的手段の連関を明白に想定しようとするものであり、その点で社会科学的認識を必要としている。本章では、社会科学の認識と責任倫理の関係について考察するが、これまで解釈された責任倫理論をさまざまな分類軸を用いて整理した結果、責任倫理解釈を互いに拮抗させることによって、新たな精神の高揚を遂げる主体という人格像が浮上してくる。そこであらたに「拮抗的高揚主体」という人格理念を提出する。拮抗的高揚主体とは、互いに相反する価値を精神の内部で拮抗させることによって、その緊張感から精神的な高揚を遂げようとする主体をいう。そのうえで、「拮抗的高揚主体」モデルが第一章において提示した「問題設律主体」と適合的であり、しかも自由な社会制度を構想する上で重要な人間的基礎を提供することを主張する。

 第四章では、「拮抗的高揚主体」を補う価値としての「運命」および「闘争」について検討する。本章では、ウェーバーのいう「神々の闘争」を担う主体として、「運命的闘争主体」という人格像を提示する。さらにはそれと自由主義の秩序構想とのかかわりについて論じる。第一節では、運命とは何であるかについて、立ち入った概念分析を試み、「闘争的秩序」と両立する運命概念を特定する。第二節ではさらに「闘争」概念について検討を進め、「闘争的秩序」は平和で開かれた社会を可能にすることを論じる。第三節では、運命的な闘争を企てることが成長論的自由主義と両立し、さらには自由な社会を築く上での基礎となることを主張する。その場合、社会科学は「認識の運命化機能」と「認識の暴露機能」を用いることで人格の陶冶に貢献する。先の第三章では「拮抗的高揚主体」という精神の内面から自由主義の制度理念を考察したが、対照的に本章では、「運命的闘争」という対他的な営みから自由主義の制度理念を考察するものである。

 第五章では、「価値自由」論を取り上げる。「価値自由」論は、方法論に人格陶冶機能をもたせることを主題にした議論として、社会科学方法論において中心的な位置を占めている。ただし本章はテーマとしては方法論に特化しているため、他の諸章とは相対的に独立している。それゆえ本論文では最後に位置づけられている。ウェーバーのいう「価値自由」は、方法論言明を通じて社会科学が一定の人格を陶冶するものだが、しかし「価値自由」という方法がどのような人格理念を陶冶すべきであるかについては、諸説がありうる。本章ではそうした諸解釈を整理しつつ、新たに「問題自由」という解釈を提示する。

 「問題自由」とは、価値問題を人格のコアに引き受けることによって、精神的な自律を遂げるという研究者のあり方のことである。本章では、この「問題自由」という方法論を提示するとともに、これによって社会科学システムが再編されうることを示唆している。

 終章においては、これまでの議論を総括し、さらに展望を記している。以上の諸章において最も基本となるのは、第一章において示した人格理念、すなわち「近代主体」に代替しうるモデルとしての「問題設律主体」である。これに対して「成長論的主体」、「拮抗的高揚主体」、および「運命的闘争主体」は、「問題設律主体」を補う人格モデルとして位置づけられる。「成長論的主体」においても、成長へ向けて模索するためには、問題を人格のコアにおくことが必要となる。「拮抗的高揚主体」もまた、精神の拮抗的高揚を補完するために、問題をコアにおくものである。さらに「運命的闘争主体」は、究極の問題を自ら選び取ることが運命への自由であるとする点で、「問題設律主体」を要請する。これらの人格モデルは「問題設律主体」を中心にして統一され、それによって成長論的自由主義の担い手となるべき綜合的な人格像が構成される。「問題設律主体-成長論的主体-拮抗的高揚主体-運命的闘争主体」という綜合的人格像はさらに「問題主体」と呼ばれるが、「問題主体」は、社会科学が陶冶しうる新たな人格理念でもある。すなわち、「問題主体」は、社会認識に携わる人たちに要請される人格理念であると同時に、成長論的自由主義のすぐれた担い手としても構想されているのである。

 終章ではさらに、次のような展望が示されている。(1)問題分轄による自生化主義:「問題設律主体」が社会問題を主題化しつつ、それを個別化して自生的に解決できるようにするためには、制度の自生的秩序化作用を積極的に活用しなければならない。(2)フォーラム型の社会:「成長論的主体」を陶冶するためには、批判的な価値討議によって成長への共同投企を企てるような、フォーラム型の社会システムが要請される。そこでは「成長への自由」、すなわち、特定の目標を集団的に達成するという制御から解放され、新たな未来へ向けて自己と他者と社会を成長させていくような自由が要請される。(3)社会-人格同型論:「拮抗的高揚主体」は、社会-人格同型論によって社会と人格がともに「問題」から構成されているとみなすものであり、価値多元性を許容しつつ社会秩序を保持するような、成長論的自由主義の思想的基盤を提供する。(4)開かれた闘争的秩序としての自由主義:「運命的闘争主体」は、自らの究極の問題を選んで闘争することを運命として認識し、「成長への自由」と「通用的価値からの自由」をもたらす。そのような営みは、いくつかの条件を満たすならば、開かれた闘争的秩序を生み出す。

 以上のような内容からなる本論文は、自由主義を担う人格とはどのようなものであるのかについて近年盛んになされてきた批判に応えるという最先端の問題意識とともに、我が国固有の社会科学の研究蓄積を再評価するという周到な面をも併せ持っている。つまり専門分野の先端を切り開くとともに、最近では後続する議論が手薄になっている分野に新風を吹き込むというように、学問の新局面を真正面から切り開く作品となっているのである。しかもそうした課題を解くに際しては社会科学の領域の中でポパーらの批判的合理主義を摂取しつつ自由主義の人格論を立てるというふうに、極めて独創的な構想を提示している。挑戦的かつ冒険的な内容でありながら、独断に陥らない工夫が盛り込まれているのである。多くの課題に答えながらも分析は犀利であり、論述は一貫していて説得的である。また豊富に盛り込まれた概念分析や類型論は、膨大な古典的文献や二次資料を精密に分類・整理し関係づけるもので、ともすれば誤解を呼びがちな規範理論において、参照されるべき成果にもなっている。また類型化の内容も、錯綜する議論の筋道を明確に照らし出している。総じて社会科学の方法論および規範理論として画期的な著作といえ、今後本分野では参照することが必須となるものと思われる。

 以上のように学術的に高い水準にある本論文ではあるが、疑問も何点か残されてはいる。「問題主体」が自由主義において理想とされる人格像であり、社会科学がその陶冶に寄与するのだとして、そのことは現実に我が国の社会科学者が理想的な自由主義の徒でもあるということになるのか。もしそうでなかったとするならば、それはなぜなのか。また、現実社会においてはたとえば自由市場は企業家に担われているが、そうした主体が社会科学に導かれることなく「問題主体」たりえているのはなぜか。義務教育などにおいては問題を立てることだけではなく一定の答え方をまずは教えることも重視されるべきではないか、などである。けれどもこれらの問いは、著者が射程に置いているビジネス・エシックスの研究といった形で本論文の延長上において解消されるであろうと推測されるものであり、本論文の学術的価値を損なうものではない。

 以上の理由から、本論文は学界に寄与するところ甚大であり、博士(学術)学位を授与するに値するものと考えられる。

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