環境影響や資源の劣化、食糧生産リスク、農村社会の福祉水準から政府の補助金政策などの多くの問題が、農業政策・食糧政策に関して新しいアプローチを必要としている。そのアプローチは、近年持続的な農業という名称の包括的なに展開されつつある。そこでは、環境の保護や自然資源の保全、環境負荷の低下や農業生産性の増加・効率の向上などが目標とされている。持続可能な農業では、生産性の向上と同時に健全な生態系の保全を両立させることが基本的な要件となる。農業生態系は人間との相互作用の比重が大きい複雑なシステムであることから、さまざまなプロセスとその相互作用をモデルとして表現し、あるいは外部からのインパクトへの適応策や制御の方策を探ることは、有効なアプローチであるといえる。しかし、こうしたモデルの開発や利用においては、多くの要素・要因が空間的な分布を持ち、農業生態系の多くのプロセスがその影響を受けている点にある。すなわち、地域の平均的な値だけで適応策や軽減策を議論することには限界がある。 これまで、特に農業の潜在的な生産性を推定できる生物・物理学的なモデルに関しては多くの研究が行われてきた。しかし、実際の生産性を推定するためには、こうしたモデルだけでは十分でない。すなわち、実際の農地管理方法をモデルに取り込むことが重要である。また、さまざまな対応策や政策を検討する上では、地域・国レベルでの農業生産に関する推計値が必要になる、しかし、生物・物理学的なモデルはプロットレベル、地点レベルで開発されているものの、地域レベル、あるいは国レベルで生産性を推定できるものはほとんど存在しない。持続的な農業を目指してのさまざまな対応策は、肥料投入量を作物の要求に応じて変化させるなど、地点特性に応じたものとなることを考えると、地点レベルのモデルを統合することが重要である。 GISはさまざまなスケールのデータやモデルを、より広い地域を対象に統合するメカニズムを提供している。地点レベルの作付けや農地管理方策の変更などの効果や影響を地域レベルにまで積み上げることが可能になる。しかし、通常、地点レベルで利用できる解像度の高いデータは、地域全体をカバーすることはまれであり、地域全体をカバーする解像度の低いデータで地点レベルのモデルを動かさざるを得ないなど、統合過程におけるさまざまな工夫が必要になる。 本研究の目的は、1)地点ベースの生物・物理学的な穀物モデルをGISと統合し、地域スケールで農業生産のシミュレーションを可能にするシステムを構築し、2)さらに環境負荷の算定などもあわせて行うことを可能にすることで、気候変動を視野においた時間的スケールで持続的な農業を目指す適応方策の探索支援システムを開発することにある。すなわち、気候変動シナリオの下で、増加する穀物需要に対応して生産性を向上させながら、環境影響や土地劣化等を緩和するための適応策をシミュレーション結果に基づいて探索できることを、インドをケーススタディ地区として示すことにある。 以上の目的を達成するために、本論文では、地点ベースの生物・物理的穀物モデルであるEPIC(Williams et.al.,1990)(Erosion Productivity Impact Calculator)をGISを統合し、地域スケールの農業生産モデル(Spatial EPIC)を構築した。また、スケールの異なるデータを統合するために、解像度の低いデータから高いデータを再現する"generator"を開発した。 また、EPICからSpatial EPICを構築するにあたり、以下のような改良・開発を行った。 1)EPICはもともと、一定のインプットデータに対しての穀物の反応を算定する静的なモデルであった。それを気候変動や農地・水管理方法の変化などの影響をダイナミックに反映できる動的なモデルとした。すなわち、農地・水管理の方法を、環境条件や資源制約を考慮して変化させるサブモデルを追加した。 2)EPICは各地点ごとのシミュレーションを行うために開発されたモデルであり、それを各土地グリッドごとに入力データを与えて動かすことで地域全体をカバーすることができる。しかし、土地グリッドごとに得られるデータは一般的には解像度の低い、グリッド内の平均値に対応するデータであり、本来の地点レベルのデータではない。グリッド平均値から地点レベルのデータを"生成"するgeneratorを開発した。このようにして生成される解像度の高いデータは当然、ある不確実性がある。この不確実性に対する感度分析も行えるようにした。 以上のようにして構築されたモデル・システムの検証、及び適用はインドを対象とした。インドは、人口増加率がいぜんとして高く、増大する食糧需要に対応して、農地や水資源のより一層の効果的な管理・利用が求められている。また、気候変動に関する影響予測においても、他の国の農業に比較してより深刻な影響が発生すると予測されている。 インドにおけるケーススタディでは、気候変動以外に土壌浸食、土壌中の養分変化、農地・水管理方法の変化(肥料投入量の変化、灌漑など)を考慮し、それらが穀物生産(小麦、米など)に与える影響を評価した。また、同時に肥料に起因する水質汚濁負荷量や土壌浸食量などを推定した。 シミュレーションにあたっては、2020年までを対象とした。その結果、主要穀物については、全国民需要の75-80%程度しかまかなえないこと等が明らかになった。なお、この推計は気候変動無し、肥料投入量は50%増加、灌漑頻度の増加(1995年に比較して)を前提としている。 さらに、気候変動シナリオについては、温度が±2℃が変化、降水量が±25%変化するものとした。定性的には降水量の変化が最も深刻な影響を米と小麦の生産には与えることがわかった。また温度や降水量の複合的な変化は、それぞれの単独の変化に対して、一般的には、より大きなマイナスのインパクトを与えることがわかった。たとえば、冬小麦に対しては「-2℃と-25%」シナリオは、気温、降水量がそれぞれ変化するシナリオより、より大きなインパクトがある。また、「-2℃と+25%」シナリオは、冬小麦に対して気温単独の変化より10%程度大きな負の影響を与えるものの、降水量が減少するシナリオよりは、6%程度少ない影響となる。また、週により、影響の大きさはかなり異なる。 なお、Spatial EPICの検証に際しては、主要作付けパターンに応じて、インドにおいて異なるスケールの地域を選定した。すなわち、詳細な0.1度グリッドレベルでは、Bihar州全域を対象とし、さらに0.5度グリッドレベルでインド全体における検証を行った。小麦、メイズに関しては、検証結果はきわめて良好であるものの、米に関しては特にインドの南部諸州において若干過小推計の傾向が見られた。インドの農業形態はきわめて多様であることから、今回の検証結果から見てSpatial EPICは他の地域に対しても高い適用可能性を有していると考えられる。 持続可能性の観点からの評価については、今回のモデルシミュレーションは、生産性の変化ばかりでなく、農業生産に起因する環境影響をある程度推計することを可能にした点、種々の対応策の効果をシミュレーションにより把握できた点などから有効であったと判断できる。また、シミュレーションによる評価・予測結果は分かりやすい地図の形で出力できることから、穀物成長モデル開発者や、農地・水管理の専門家、環境専門家など、関連する数多くの専門家の評価を集約してより信頼性の高いシミュレーションシステムの開発を行う上できわめて有効である。また、モデルの進歩などに伴いEPICを置き換えることなども可能であり、個別分野での研究の進展をただちに評価結果に反映するなど目に見える形にすることも可能になる。 なお、今回のシステム開発やシミュレーションにおいては、いくつかの課題も明らかになった。たとえば、地形傾斜を推定する"slope generator"の精度が十分でなかったこと、農地の作付け分布を表す地図の信頼性が十分でなかったことなどである。前者に関しては、粗い解像度の地形標高データばかりでなく、河川データや稜線データなどの補助データの利用が対策としては考えられる。また、農地の作付け分布の推定などに関しては、AVHRR画像などより、季節変化をより詳細に追え、より高い空間解像度を持った衛星データ(GLIなど)の利用などが考えられる。 |