学位論文要旨



No 114782
著者(漢字) 李,仁愛
著者(英字)
著者(カナ) リ,ジンアイ
標題(和) ラットにおけるD-アスパラギン酸の組織内分布、調節及び作用
標題(洋)
報告番号 114782
報告番号 甲14782
学位授与日 1999.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第895号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今井,一洋
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 西山,信好
 東京大学 助教授 本間,浩
内容要旨 序論

 従来哺乳類を構成するアミノ酸はL体のみであり、D体は存在しないと考えられてきた。しかし近年、アミノ酸の光学分割とその微量分析技術の発展により、人を含め多くの哺乳類の体内で様々なD-アミノ酸の存在が報告されている。なかでも、D-aspartate(D-Asp)はラットの松果体、副腎、精巣、下垂体など多くの組織において他のD-アミノ酸と比較して高濃度に存在し、しかも、成熟の過程で一過的な上昇がみられることから、その生理的意義に関心が持たれている。生体内におけるD-Aspの存在意義を調べるために、D-Aspの組織内分布を明らかにすることは重要な課題と考えられる。そこで、筆者はD-Aspに対する特異的な抗体を調製し、D-Asp含量の高いラット松果体中のD-Aspの分布およびその週齢変化を明らかにして修士発表において報告した。

 D-Aspが、他の組織内でどのような局在性を示すのかは、まだ十分に解明されてはいなかった。また、組織中のD-Asp含量は組織によって大きく異なり、成長過程で組織に特徴的な変化を示す。このような組織中のD-Asp含量がどのような調節を受けて制御されているのかはほとんどわかっていなかった。そこで筆者は、D-Asp含量の比較的高いラットの下垂体を材料にしてまずその組織内分布を解析し、成長過程での変化を調べた。次にその含量と組織内分布の変化がどのようなメカニズムによって調節されているのかを、D-Aspを取り込むことが知られているグルタミン酸(Glu)トランスポーターとの関連を中心に下垂体と副腎を用いて検討した。また、D-Aspをラット腹腔内へ投与し、これらの組織のどの部位へ実際に取り込まれるかを解析し、比較検討した。

方法

 HPLC:組織中のD-Asp含量の定量は、以下のように行った;sD系雄性ラットの各組織を摘出後、アミノ酸をメタノールで抽出し、NBD-Fで蛍光誘導体化して、キラルカラムを用いたHPLCによりD-Aspを光学分割して定量した。また、ラット腹腔内へD-Aspを投与(1mol/g体重)したあと、組織を摘出して、同様にD-Asp含量を定量した。

 Immunohistochemistry:各週齢の雄性ラットを半Karnovsky固定液(2.5% glutaraldehyde,2% paraformaldehyde,0.1M sodium cacodylate,pH7.4)または2%パラホルムアルデヒド-0.5%グルタルアルデヒド固定液で心臓から灌流固定した。その後、各組織の凍結切片(10m)やパラフィン切片(3m)を作成し、精製した抗D-Asp抗体を用いてPAP法または蛍光抗体法により免疫染色を行った。また、D-Aspを腹腔内へ投与した後、同様にして各組織の切片を調製し、D-Aspの免疫染色を行った。

 グルタミン酸(Glu)トランスポーターの発現:1,3,8,13週齢の雄性ラットの下垂体、副腎を摘出し、mRNAや膜タンパク質を調製し、それぞれ変性アガロースゲルやSDS-PAGEで電気泳動分離し、RT-PCRにより調製したcDNAプローブと特異的抗体を用いて、ノーザンブロットとウエスタンブロット解析を行った。

結果1.ラット下垂体におけるD-Aspの局在:

 3日齢のラット下垂体におけるD-Aspの局在を調べた結果、前葉と中間部は染色されず、後葉の神経の軸索のみが染色された(Fig.1a)。しかし、3週齢以降になると、後葉全域にわたって神経の軸索が染色されたほか、前葉全域にD-Asp陽性細胞が散在しているのが観察され、中間部はまったく染まらなかった(Fig.1b)。

 6週齢ラット下垂体を摘出し、前菜と後葉(中間部を含む)を分け、それぞれのD-Asp含量を定量したところ、後葉上り前葉の方が約7倍多いことが明らかになった(Table.1)。この結果は上記の染色結果とよく一致した。

図表Fig.1a Immunostaining of a 3-day-old rat pituitary gland.AL;anterior lobe,IL;intermediate lobe and PL;posterior lobe.Anti-D-Asp antiserum(1:40).Bar,400m. / Fig.1b Immunostaining of a 6-week-old rat pituitary gland.Anti-D-Asp antiserum(1:300).Bar,140m. / Table I D,L-Aspartate contents in the anterior and posterior pituitary gland of 6-week-old rats.The anterior and posterior(+intermediate)lobes of rat pituitary gland were surgically separated.D%=D/total(D+L)
2.ラット下垂体前葉におけるD-Asp含有細胞の同定:

 下垂体前葉は成長ホルモン産生細胞、ACTH産生細胞、prolactin(PRL)産生細胞など異なるホルモンを産生、分泌する六種類の細胞群から成り立っている。そこで、D-Asp陽性細胞とこれらの細胞群との関連を調べた。電子顕微鏡による予備的観察からD-Asp陽性細胞はPRL細胞である可能性が高いと考えられたので、抗D-Asp抗体と抗PRL抗体による二重染色でD-Asp陽性細胞の同定を試みた。Fig 2で示したように、緑色に染色されたD-Asp陽性細胞(Fig.2a)と、赤色に染色されたPRL陽性細胞(Fig.2b)はよく一致し、重ね合わせると黄色になった(Fig.2c)。このように、D-Aspは下垂体前葉では、PRL分泌細胞及びそれと密接に関連している細胞に局在することが明らかになった。

Fig.2 Anterior lobe of the pituitary gland was probed with anti-D-Asp antiserum (a) and anti-rat PRL (b) and then these results were superimposed (c).Bar,40m.
3.ラット下垂体と副腎におけるGluトランスポーター発現の週齢変化とD-Asp含量との関係:

 下垂体中のD-Asp含量は成長と共に増加する。副腎中のD-Aspは生後3週齢で一過的に上昇し、その後減少する。D-AspはGluトランスポーターによって細胞内に取り込まれることが知られている。そこで、下垂体と副腎において発現しているGluトランスポーターをRT-PCRで調べてみると、ともに、主にGLASTといわれるアイソフォームが発現していることが明らかになった。この遺伝子の発現量は、下垂体では週齢変化が認められず(Fig.3c)、下垂体中のD-Asp含量とは相関しなかった。一方、副腎ではGLASTの発現は、3週齢で一過的に増加し、8、13週齢で減少し(Fig.3a)、副腎中のD-Asp含量の週齢変化とよく一致していた。また、タンパク質レベルの週齢変化も、副腎のGLASTが3週齢で一過的に上昇するのに対して、下垂体では週齢変化は認められなかった(Fig.3b,d)。このように、副腎では、D-Asp含量が、mRNAレベル、タンパク質レベルでみたGluトランスポーターの発現とよく相関したのに対して、下垂体では相関がみられなかった。

Fig.3 Northern blot analysis of adrenal(a)and pituitary(c)mRNA,and western blot analysis of adrenal(b)and pituitary(d)membrane proteins with anti-GLAST antibody(0.5g/ml).
4.腹腔内投与されたD-Aspの組織内分布とGluトランスポーターの発現部位との関連:

 副腎:8週齢ラットの副腎では、内在性のD-Aspは皮質には殆ど認められず主に髄質のadrenalineを産生する細胞に認められる。D-Aspを腹腔内へ投与すると副腎のD-Asp含量は投与15分後に増加し、5時間後には有意な増加が認められた。腹腔内投与されたD-Aspがどの部位に取り込まれたかを、希釈した抗D-Asp抗体を用いた免疫染色で調べてみると、内在性のD-Aspとほぼ同様に髄質のadrenalineを産生する細胞に取り込まれていた。これとよく対応して、GLASTの発現もほぼ同様の分布を示した。一方、3週齢のラットでは、内在性のD-Aspは、副腎皮質の内側にある束状帯と網状帯に局在し、外側の球状帯に存在しない。腹腔内投与された外因性のD-Aspも同様に束状帯と網状帯に取り込まれ、GLASTの発現部位とよく一致していた。以上のように、ラット副腎におけるD-Aspの存在部位は、外因性のD-Aspが取り込まれる部位やGluトランスポーターの発現する部位と良く一致することが明らかになった。このことは、ラット副腎内のD-Aspは、主に、循環系を介してGluトランスポーターによって取り込まれていることを示唆しているものと考えられる。

 下垂体:ラット下垂体では、内在性のD-Aspは、上記のようにPRL細胞に局在している。D-Aspを腹腔内投与すると下垂体内のD-Asp含量は投与後15分で増加し、5時間では有意な増加が認められた。ところが、投与されたD-Aspが取り込まれた部位は、副腎のように内在性の部位とは一致せず、主に血管内皮細胞であった。また、GLASTの発現はPRL細胞にも、血管内皮細胞にも認められなかった。このように、ラット下垂体では、D-Aspの存在部位は、外因性のD-Aspの取り込まれる部位やGluトランスポーターの発現部位とは相関が認められなかった。このことは、ラット下垂体内では、D-Aspが循環系を介してGluトランスポーターによって取り込まれるのではなく、恐らくPRL細胞内で合成されていることを示唆しているのではないかと考えられる。

まとめ

 以上まとめると、D-Aspは、組織内の特定の細胞群に局在し、成長過程でその局在性が変化することが明らかになった。また、その特定の細胞群が分化、成熟する時期とよく対応してD-Asp含量も増加することがわかった。また、ラット副腎と下垂体では、D-Aspの含量とその局在性は、全く異なるメカニズムによって調節されていると考えられる。このことは、それぞれの組織中でのD-Aspの役割が異なっているのではないかと考えられる。

審査要旨

 従来哺乳類の構成アミノ酸はL体のみであり、D体は存在しないと考えられてきた。しかし近年、アミノ酸の光学分割とその微量分析技術の進展により、人を含め多くの哺乳類の体内で様々なD-アミノ酸の存在が報告されるようになった。なかでも、D-aspartate(D-Asp)はラットの松果体、副腎、精巣、下垂体など多くの組織において他のD-アミノ酸と比較して高濃度に存在し、しかも、成熟の過程で一過的な上昇がみられることから、その生理的意義に関心が持たれている。しかし、D-Aspが組織内でどのような局在性を示すのかは、まだ十分に解明されてはいなかった。また、組織中のD-Asp含量は組織によって大きく異なり、成長過程で組織に特徴的な変化を示す。このような組織中のD-Asp含量がどのような調節を受けて制御されているのかも不明であった。

 そこで李は、D-Aspに対する抗体を調製し、D-Asp含量の比較的高いラットの下垂体を材料にしてまずその組織内分布を解析し、成長過程での変化を調べた。次にその含量と組織内分布の変化がどのようなメカニズムによって調節されているのかを、D-Aspを取り込むことが知られているグルタミン酸(Glu)トランスポーターとの関連を中心に下垂体と副腎を用いて検討した。また、D-Aspをラット腹腔内へ投与し、これらの組織のどの部位へ実際に取り込まれるかを解析し、比較検討した。

1.ラット下垂体におけるD-Aspの局在

 3日齢のラット下垂体におけるD-Aspの局在を調べた結果、前葉と中間部は染色されず,後葉の神経の軸索のみが染色された。しかし、3週齢以降になると、後葉全域にわたって神経の軸索が染色されたほか、前葉全域にD-Asp陽性細胞が散在しているのが観察され、中間部はまったく染まらなかった。

 6週齢ラット下垂体を摘出し、前菜と後葉(中間部を含む)を分け、それぞれのD-Asp含量を定量したところ、後葉に対して前菜では、約7倍のD-Aspが存在することが明らかになった。

2.ラット下垂体前葉におけるD-Asp含有細胞の同定

 下垂体前葉は成長ホルモン産生細胞、ACTH産生細胞、prolactin(PRL)産生細胞など異なるホルモンを産生、分泌する六種類の細胞群から成り立っている。そこで、D-Asp陽性細胞とこれらの細胞群との関連を調べた。電子顕微鏡による予備的観察からD-Asp陽性細胞はPRL細胞である可能性が高いと考えられたので、抗D-Asp抗体と抗PRL抗体による二重染色でD-Asp陽性細胞の同定を試みた。その結果、D-Asp陽性細胞とPRL陽性細胞はよく一致した。このように、D-Aspは下垂体前葉では、PRL分泌細胞及びそれと密接に関連している細胞に局在することが明らかになった。

3.ラット下垂体と副腎におけるGluトランスポーター発現の週齢変化とD-Asp含量との関係

 下垂体中のD-Asp含量は成長と共に増加する。副腎中のD-Aspは生後3週齢で一過的に上昇し、その後減少する。D-AspはGluトランスポーターによって細胞内に取り込まれることが知られている。そこで、下垂体と副腎において発現しているGluトランスポーターをRT-PCRで調べてみると、ともに、GLASTといわれるイソ型が主に発現していることが明らかになった。この遺伝子の発現量は、下垂体では週齢変化が認められず、下垂体中のD-Asp含量とは相関しなかった。一方、副腎ではGLASTの発現は、3週齢で一過的に増加し、8、13週齢で減少し、副腎中のD-Asp含量の週齢変化とよく一致していた。また、タンパク質量の週齢変化も、副腎のGLASTが3週齢で一過的に上昇するのに対して、下垂体では週齢変化は認められなかった。このように、副腎では、D-Asp含量がmRNA量、タンパク質量でみたGluトランスポーターの発現とよく相関したのに対して、下垂体では相関がみられなかった。

4.腹腔内投与されたD-Aspの組織内分布とGluトランスポーターの発現部位との関連

 8週齢ラットの副腎では、内在性のD-Aspは皮質には殆ど認められず主に髄質のadrenalineを産生する細胞に認められる。D-Aspを腹腔内へ投与すると副腎のD-Asp含量には有意な増加が認められた。腹腔内投与されたD-Aspがどの部位に取り込まれたかを、抗D-Asp抗体を用いた免疫染色で調べてみると、内在性のD-Aspとほぼ同様に髄質のadrenalineを産生する細胞に取り込まれていた。これとよく対応して、GLASTの発現もほぼ同様の分布を示した。一方、3週齢のラットでは、内在性のD-Aspは、副腎皮質の内側にある束状帯と網状帯に局在し、外側の球状帯に存在しない。腹腔内投与された外因性のD-Aspも同様に束状帯と網状帯に取り込まれ、GLASTの発現部位とよく一致していた。以上のように、ラット副腎におけるD-Aspの存在部位は、外因性のD-Aspが取り込まれる部位やGluトランスポーターの発現する部位と良く一致することが明らかになった。このことは、ラット副腎内のD-Aspは,主に、循環系を介してGluトランスポーターによって取り込まれていることを示唆しているものと考えられる。

 これに対して、下垂体ではD-Asp含量には有意な増加が認められたが、副腎とは異なりD-Aspが取り込まれた部位は、内在性の部位(PRL細胞)とは一致せず、主に血管内皮細胞であった。また、GLASTの発現はPRL細胞にも、血管内皮細胞にも認められなかった。このことは、ラット下垂体内では、D-Aspが循環系を介してGluトランスポーターによって取り込まれるのではなく、恐らくPRL細胞内で合成されていることを示唆していると考えられた。

 以上をまとめると、D-Aspは、ラット下垂体内の特定の細胞群に局在し、成長過程でその局在性が変化することが明らかになった。また、その特定の細胞群が分化、成熟する時期とよく対応してD-Asp含量も増加することがわかった。また、副腎と下垂体では、D-Aspの含量とその局在性は、全く異なるメカニズム、即ち、副腎では、主に循環系を介してD-Aspが取り込まれるのに対して、下垂体では、組織内で合成され調節されていることが示唆された。

 以上、本論文は、従来不明であった、哺乳類体内におけるD-Aspの組織内の局在性と組織内含量の調節機構について新しい知見を与えるものであり、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク