学位論文要旨



No 114786
著者(漢字) 榊原,彩子
著者(英字)
著者(カナ) サカキバラ,アヤコ
標題(和) 絶対音感習得過程の縦断的研究
標題(洋)
報告番号 114786
報告番号 甲14786
学位授与日 1999.10.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第65号
研究科 教育学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大村,彰道
 東京大学 教授 渡部,洋
 東京大学 教授 市川,伸一
 東京大学 助教授 汐見,稔幸
 東京大学 助教授 山本,義春
 北里大学 助教授 重野,純
内容要旨

 絶対音感とは,外的な基準音との比較なしに音高を特定できる能力,あるいは指定された音高を作りだすことができる能力のことである。連続的な感覚刺激である音高の絶対量を特定することは絶対音感を保有しない場合には困難であり,非絶対音感保有者の音高判断はおおまかで,混同なしに弁別できる音高カテゴリー数は7程度であると指摘されている〔Pollack,1952〕。絶対音感とは音階全構成音について音高特定できる水準を指す。本論文はこの一見特異な絶対音感という現象に焦点をあて,それを可能にする音高に関わる認知的表象を明らかにすることを目的としている。和音判別訓練法による絶対音感習得訓練を実践し,非絶対音感保有者が絶対音感を習得するにいたる変化を主に縦断的に追うことで,絶対音感の特質を明らかにする。絶対音感という現象を通じ,人が音高を判断する際の認知的特徴,ひいては認知発達の特徴について示唆が得られるものと考える。

 第1章では,絶対音感の特質及びその発現をめぐる議論を整理した。絶対音感は音楽的活動に有利であることから注目される能力であるにも拘わらずその保有者は音楽非専門家では0.1%と少なく,一般に得難いものとされている〔Bachem,1955他〕。本章では絶対音感を可能にする表象を考える上で「音高2次元性仮説」の考えが有用であることを提案した。音高には周波数に対応して連続的,直線的に変化する「ハイト(tone height)」の次元と,音名に対応してオクターブごとに循環する「クロマ(tone chroma)」の次元が存在する。すると音高を音名で特定できる絶対音感とは,安定した「クロマ」の参照枠を有していることと見なせる。音高は本来連続的で無限に分割可能なものであるが,絶対音感とはその1点1点を記憶することではなく,音高を「クロマ」という有限個のカテゴリーにおとして判別することと考えられる。以降,本論文ではこの2次元の考え方を軸に絶対音感という現象を探究する。絶対音感の発現に関しては,1970年以前は発現が遺伝的に決定される能力として学習効果は否定されていたが,現在では絶対音感は学習可能だが早期の学習しか有効ではないとする早期学習説が有力である。しかし早期学習説は,早期に音楽的訓練を開始した者に絶対音感保有者の比率が高いという間接的証拠に支持されているにすぎず,絶対音感習得に関する実践報告は従来殆どなされてこなかった。学習可能であることの実証とともに,どのような訓練が有効なのか,どういった過程を経て習得されるのか,また加齢によって習得過程の様相に変化が起こるのか,探究の必要はあり,本論文は和音判別訓練法の実践に基づき,そうした問題の探究を試みるものである。

 第2章では,絶対音感保有者にとって2次元性がどのように利用されているのか検証するべく実験をおこなった。絶対音感は音高をクロマ次元で特定できる能力であるが,その絶対音感保有者がもう一方のハイト次元に関し,非保有者と比べた際,判別能力および判別の特徴に違いがあるのか検証をおこなった。絶対音感保有者,非保有者両群に,クロマ次元,ハイト次元,それぞれについて特定させる課題を課したところ,白鍵音についてのみクロマが特定できる絶対音感者〔白〕が,ハイト次元での判別においては,クロマが全く特定できない非保有者よりも判別が劣る傾向にあることが判明した。この場合,未だ白鍵音しか特定できない絶対音感者〔白〕は,和音判別訓練法における絶対音感習得過程の途中段階にある者と考えられ,絶対音感習得過程,すなわちクロマ特定能力を獲得する過程において,ハイト判別能力が変化する可能性が示唆されたことになる。

 第2章の結果を受け第3章では,和音判別訓練法を実践し,絶対音感習得過程中にどのような認知的変化が見られるのか,特に2次元の利用の変化を縦断的に検証した。本訓練は和音判別課題を毎日おこなうものであり,和音は先行する和音間での判別が可能になる度に1種類ずつ導入される。9種類の和音判別が可能になった時点で白鍵音について絶対音感が習得されたことになる。9種類の和音判別が可能になるまでに通常1年半程度の期間を要する。訓練開始年齢と訓練量の点から一般的と考えられる1事例に焦点をあて,訓練としておこなう和音判別課題中にあらわれる聴取様式及びその推移を抽出し,本訓練法における習得過程の一般的モデルを作成した。結果,訓練中見られるエラーは,ハイト次元を重視したハイト依存エラー,クロマ次元を重視したクロマ依存エラー,分からないとする不明エラーの3種に分類可能であり,エラーのあらわれ方は各時期の聴取様式を反映していた。さらに判別課題中導入される和音数の推移を見ると和音数の増え方は一定ではなく,途中和音数が増えない停滞期が存在することが判明し,その意味で段階的な変化と考えられる。和音数が停滞する時期の前後で区切り,停滞前の「第I期」,停滞期の「第II期」,停滞後の「第III期」とすると,エラーのあらわれ方の面でも各段階は独自の特徴を備えた質的に異なる段階であった。もっぱらハイト次元に基づいた判別をおこなう第I期から,クロマ次元への着目が生じる第II期,ハイト依存の聴取様式とクロマ依存の聴取様式を調整させられず判別に困難をきたす第III期を経て,両次元に基づいた正確な判別ができる完成期へいたるという,本訓練法における習得過程の一般的モデルを提案する。

 第4章では,第3章で提案した習得過程モデルを基に,第1節では他事例の考察を通じてその一般化可能性を検討し,第2節では「グルーピング練習」という処遇の効果の考察を通じて習得過程中の各段階の性質を明らかにした。まず,他事例4事例を考察した結果第3章で認められた現象は4事例においても共通して見られることが分かった。ハイト次元のみで判別する非保有者的聴取の段階(第I期)から,クロマ次元を着目し利用するという変換が生じ(第II期),2次元の融合に時間を費やす時期(第III期)を経た後,両次元の適切な併用にいたる(完成期)という過程が,全ての事例に共通して認められた。事例間で要する期間等に違いがあっても,上記の習得過程を特徴づける現象が一致している事実は,本訓練法における習得過程の一般的モデルの普遍性を示していると言える。

 第2節の「グルーピング練習」の考察は,本研究で扱う習得過程が訓練処遇の結果でもあり,クロマ上類似した和音をまとめてきかせる本処遇が2次元の利用を積極的に操作する働きを持つと考えられるため,絶対音感習得にいたるに必要な変化をとらえる目的でおこなった。結果,第I期終盤,ハイト次元のみに依存した聴取をしている段階,すなわちクロマ次元への着目が課題となる時期には「グルーピング練習」によってクロマ次元を暗示し利用をうながすことになる。また第III期のようにクロマ次元への過剰依存が生じ,かえってハイト次元が利用できなくなった状態の場合には「グルーピング練習」は,類似クロマ内で判別をさせてハイト次元の利用をうながす働きを持つことになる。同一の処遇が異なる時期にもたらす効果の違いを検討することによって,各時期に起こっている現象がより明確になり,2次元の利用の推移が浮き彫りにされたと言える。

 第5章では,早期学習説,すなわち加齢により習得可能性が失われるとの説を受け,訓練開始年齢が習得過程の様相に及ぼす影響について検討をおこなった。一般的事例よりも年少あるいは年長で開始した事例の習得過程を一般的事例と対比させることで,加齢による変化を明らかにした。結果,年少事例は和音数の推移で見れば停滞期が存在し,またエラーのありわれ方からも,ハイト次元のみによる聴取の状態からクロマ次元の利用が生じ両次元の併用にいたるという意味で,一般的事例と共通していた。ただし年少事例3事例に共通する特徴として,ハイト次元を利用する傾向が弱くクロマ次元を利用する傾向が強いことが認められた。クロマ次元への着目がはやい段階で生じ,しかもクロマ次元に依存したエラーが多くあらわれることがそれを示している。年長事例については,習得可能限界年齢間近と指摘されている5〜6歳児の事例について考察をおこなった。結果,年少事例とは逆にクロマ次元を利用する傾向が弱く,相対的にハイト次元を利用する傾向が強いことが判明した。初期のハイト次元のみの聴取の限界が遅くおとずれる傾向,クロマ次元に依存した聴取が一貫して少ない傾向がそれを示している。結局,加齢にともなう変化とは,クロマ次元を利用する傾向の減少と考えられる。クロマ次元の参照枠を形成することが絶対音感習得と考えれば,本研究が示した発達的変化は,年少ほど絶対音感習得の可能性は高く,加齢にともない習得可能性が減じられることを意味し,早期学習説の内容に合致する。絶対音感習得可能性がクロマ次元を利用する傾向であると示し,その加齢にともなう変化を明らかにした点,新たな知見である。

 結局本研究では,絶対音感,特にその習得過程を理解する枠組みとして,音高2次元性の考え方が有用であることを提案し,一貫して2次元性の観点から絶対音感及び本訓練法による習得過程を考察し,その特質を明らかにしてきた。絶対音感は音高という本来連続的な属性をカテゴリーとして知覚することであり,それ自体探究の余地ある認知現象である。さらに早期学習説を受け,訓練時の年齢により習得過程が異なることを明らかにし,音高判断ストラテジーの発達的変化を示した。また,絶対音感は音楽的活動を支える基礎的能力の1つとしてその開発は教育的に有意義であるだろう。本研究は絶対音感が学習可能であることを実証し実践報告をおこなった点で,音楽教育にも貢献できると考える。

審査要旨

 本論文は絶対音感(外的な基準音との比較なしに音高を特定できる能力)に焦点をあて、特に、和音判別訓練法による絶対音感習得訓練を実践し、非絶対音感保有者が絶対音感を習得するにいたる変化を主に縦断的に追うことにより、人が音高を判断する際の認知発達の特徴を明らかにすることを目的としている。

 本論文は6章から成っている。第1章では、絶対音感の特質とその発現に関する議論を整理し、「音高2次元性仮説」に基づき研究することの有用性を提案している。第2章では、絶対音感保有者が2次元性をどのように利用しているかを調べる実験をおこなった。第3章では、和音判別訓練法を実践し、訓練期間中に生ずる2次元の利用の変化を縦断的に追跡した。訓練開始年齢と訓練量の点から一般的と考えられる1事例を取り上げて、和音判別課題中に現われる聴取様式とその推移を抽出し、本訓練法における習得過程の一般的モデルを作成した。第4章では、3章で提出した習得過程のモデルが他の複数の事例にも当てはまるかを検討した。第5章では、加齢により習得可能性が失われるという早期学習説を受けて、一般的事例よりも年少あるいは年長で訓練を始めた事例の習得過程を調べ、年齢の違いが習得過程に及ぼす影響を検討した。第6章は、全体のまとめである。

 音高には周波数に対応して連続的に変化する「ハイト」の次元と、音名に対応してオクターブごとに循環する「クロマ」の次元が存在する。そして、絶対音感とは、無限に分割可能な音高を「クロマ」という有限個のカテゴリーにおとして判別する能力といえる。この基本的な枠組みで研究し、本論文では以下のことが明らかになった。もっぱらハイト次元に基づき判別をおこなう第1期、クロマ次元への着目が生じる第II期、ハイト依存の聴取様式とクロマ依存の聴取様式が調整されず判別に困難をきたす第III期、両次元に基づいた正確な判別ができる完成期というIV期から成る絶対音感習得過程のモデルを提出した。2歳代に訓練を始めた年少事例の特徴として、ハイト次元を利用する傾向が弱くクロマ次元を利用する傾向が強いこと、クロマ次元への着目が早い段階で生じることが認められた。一方、5,6歳で訓練を始めた年長事例では、ハイト次元を利用する傾向が強くクロマ次元を利用する傾向が弱いことがわかった。加齢に伴う変化とはクロマ次元を利用する傾向の減少であろうという仮説を生成した。

 これまで研究されることのほとんどなかった絶対音感習得過程を音高2次元性の観点から綿密に分析し、習得過程モデルを提案したこと、絶対音感が学習可能であることを示したこと、年齢により聴取様式に変化があることを示唆したことは、音楽心理学や発達心理学の研究に大きく寄与するものであり、音楽教育にも有益であろう。本論文は博士(教育学)の学位論文として十分優れたものであると判断された。

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