日中戦争期の中国は日本占領下の"淪陥区"(りんかんく)、国民党支配の"大後方"、そして共産党支配の"解放区"の三つに大きく分かれ、三地区の文芸界もそれぞれ独自の相貌を呈した。近代文化の二大センターである北京と上海は日中戦争が始まると相次いで日本軍に占領され、大量の知識人が大後方と解放区へ去り、その文化界は荒涼たるありさまを呈する。淪陥区に留まった文学者の中には、周作人など対日協力を余儀なくされ、戦後、"漢奸"として罪を問われたものも多かった。 清末以来三〇年の苦難の末ようやく一九二〇年代になって本格的国民国家建設を開始した中華民国が滅亡していくという歴史的展開は、中国市民層に重大なアイデンティティ危機をもたらしていた。このような文明の危機、アイデンティティの危機の時代に危機の本質を考察したのが文学であり、とくに淪陥区にあっては、既成作家群の消失という異常な事態の中で登場した女性作家たちの作品が注目される。南方上海の張愛玲(チャン・アイリン、ちょうあいれい、一九二○一九五)に対し、北京文壇にあって活躍した女性作家が梅娘(メイニアン、ばいじょう、一九二一〜、本名孫嘉瑞)、二人はほぼ同年で「南玲北梅」と並び称されている。 本論文はこの梅娘に焦点を絞りつつ、各種文献に加え日中両国の当事者へのインタビューなど新資料を用いて淪陥区における梅娘文学の諸相を三部構成で論じたものである。第一部「『満州』時代と日本時代」においては梅娘の「少女時代」と「異邦歳月」を考察し、作家梅娘誕生の地である「満州」文壇を再構成している。 第二部「北京時代」は北京文壇を梅娘もその代表者の一人として目される「新進作家」たちを中心に考察したほか、北京文壇における新旧作家や台湾から来燕した文人、そして日中文芸界の「交流」や雑誌『日本研究』グループなどに関する研究も行っている。 第三部の「梅娘文学の世界」は梅娘を中心とする作品論であり、梅娘の主要作品を論じたほか、南方「淪陥区」の代表的な女性作家である蘇青および張愛玲と梅娘との比較研究も試みている。 本論文の主な成果は次の通りである。 (1)梅娘の近作自叙伝および本人に対するインタビュー調査、当時の日本側関係者へのインタビューなどを駆使して、これまで日本・中国にも見られなかった梅娘に関する立体的・総合的な伝記研究を行った。 (2)淪陥期北京文壇に関する中国の既成研究を良く消化した上で、梅娘ら中国側[新進作家」に対する日本側のあるいは内省的な期待、あるいは侵略者としての居丈高な対応、そして雑誌『日本研究』に結集した中国側知日派の苦悩に満ちた日本研究の現実など、暗黒時代における日中両国文化界の交流を新たに発掘した。 (3)フェミニズムの視点から梅娘文学を全面的に整理した上で、同時代上海の女性作家、張愛玲・蘇青らと比較して、「監禁・逃亡」のテーマなど新らたな批評の視点を提示した。 本論文は梅娘の小説および梅娘と張愛玲らとの比較研究を十全に行ったとは言い難いが、(1)から(3)の諸点を中心に顕著な成果をあげており、その内容は博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。 |