学位論文要旨



No 114799
著者(漢字) 横田,光平
著者(英字)
著者(カナ) ヨコタ,コウヘイ
標題(和) 親の権利と子どもの自由 : 憲法理論と民法理論の統合
標題(洋)
報告番号 114799
報告番号 甲14799
学位授与日 1999.11.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第151号
研究科 法学政治学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小早川,光郎
 東京大学 教授 能見,善久
 東京大学 教授 日比野,勤
 東京大学 教授 海老原,明夫
 東京大学 教授 井上,達夫
内容要旨

 本研究は、従来の憲法理論、民法理論の枠内ではなしえなかった、子ども・親・国家の三主体相互の法的関係を包括的に捉える可能性を探ろうとするものである。研究方法としては、親の権利と子どもの自由に焦点を当て、特に憲法と民法の理論的関係に留意しつつ、ドイツ法を考察の素材として、考察結果から日本法への示唆を得るという方法をとる。

 ドイツ法について本研究の直接の関心の対象は基本法下の理論状況であるが、それとの比較の意味で、最初に第1部でドイツ民法典制定後の親権理論、ヴァイマル憲法120条の親の権利に関する規定をめぐる理論について必要な限りで考察する。その上で、第2部で基本法下の理論状況について、親の権利、子どもの自由の順で考察する。考察結果は以下の通りである。

 第1章では最初に親の権利について規定する基本法6条2項の成立過程を辿った後、親の権利の自然権論について考察し、「自然法の再生」状況の下、親の権利が自然権であるとの理解が一定程度共有されていたが、自然法論の退潮と共に、親の権利が自然権であるか否かの問題が重要性を失っていったことを確認する。次いで、初期の親の権利論の展開について考察し、ナチスの反省から、親の権利が国家に対する防御権であることが強調されたが、親の側ではなく国家の側に焦点を当てた「反国家的」立場がとられる等、親の権利の具体的内容が十分に検討されず、親の権利が他の基本権と同様の基本権であると考えられていたことを明らかにする〔=()の立場〕。その後、宗教教育について親の権利と信仰・良心の自由の峻別の視点を得た後、憲法上の「親の権利」と民法上の「親権」の理論的関係について、「制度的保障」論を中心に、所有権論、「制度的基本権」論等に視野を広げて考察し、「立法者による基本権の形成」という「動態的」理解の可能性を探り、また、「民法規定優位」思考に対する「憲法優位」思考の優位を導く。

 次いで、憲法上の「親の権利」について1960年代末以降連邦憲法裁判所を中心に展開された、親の権利を他の基本権と異なる独自の権利として理解する立場〔=()の立場〕について分析し、親の権利は国家に対する関係では自由権であるが、親の義務がその「本質を決定する構成部分」を成し、子どもとの関係においては子どもの福祉が指針となると理解するものであり、親の権利は子どもの保護のための利他的基本権であることによって他の基本権と本質的に異なると考えるものであることを明らかにする。特に、行使するか否かについての自由が認められない点で所有権、放送の自由とも異なることに注目する。この()の立場には、子どもの福祉の観点からみて親が他に優ることに基づく「親の権利」の正当化が対応し、また、何が「子どもの福祉」であるかについての「親の解釈優位」の考え方が対応することも確認するが、その際、「親の権利」を積極的に方向づける「子どもの福祉」と「親の権利」を外から限界づける「子どもの福祉」の区別の視点を得る。続いて民法上の「親権」について考察し、子どもの福祉のための「義務権」として貫徹する立場がしだいに有力になっていったが、当初は「親の権利」とは理論的に切り離されたものであったことを明らかにし、また、1970年代になると、そのような「親権」の理論展開は確固たるものとなり、「親の配慮法」制定過程においても共通の前提とされたことを確認する。

 その後、「親の配慮法」制定過程において強調されるようになる「家族」の観点と結び付いた「親の権利」理解について考察し、まず、「家族の自律」を強調し、「親の権利」との関係が明確でない学説においては、「法化」批判の展開により、国家介入が極めて限定される傾向がみられることを確認する。他方で「家族の自律」を個々の家族構成員の自由権に還元する考え方にも注目する。また、「親の権利」に関して()の立場がとられる「子どもの育成及び教育に関する権利」とは別に、民法上の「親権」とは切り離されたものとして、「教育への権利」、「子どもと一緒にいる権利」、「自然的血縁関係に基づく権利」といった権利を観念する理論構成についても分析を加える。さらに、「親の権利」について「家族」の観点から親、子ども双方を含む家族構成員全員の利益を語り、()の立場、()の立場、及び「親の解釈優位」の考え方共に否定する見解〔=()の立場〕を取り上げ、国家との関係の問題と子どもとの関係の問題が混同され、()の立場が親の自由を否定するものとして理解されていることが少なくないことを明らかにする。

 補論として、「親の権利」と「同じ方向に向けられ、同じ内容を有する」、国家に対する家族の自律を保護する自由権としての「子どもの基本権」についても扱う。

 最後に、親の権利と国家介入の関係について考察し、まず、「自己の責任を自覚した人格への子どもの発達」との教育目標、その必然的帰結としての民法1626条2項における教育方法規定をめぐる議論において、「家族の自律」の強調等、様々な形で「法化」批判が展開される点を確認する。次に、BGB1666条1項に基づく後見裁判所の介入について親の過失を要件とすることを否定する立場においては、その根拠として「処罰ではなく子どもの保護」という規定目的理解、損害賠償責任とは異なる危険防止的権利保護であることの他、()の立場が挙げられるが、()の立場は親の過失要件の否定を導くが、そのための必要条件ではないことを明らかにする。「親の過失」要件に求められていた国家介入防御機能が「子どもの福祉の危険の重大性」要件に求められることとなる点も合わせて確認する。

 第2章では最初に親子関係における基本権の効力の問題について、私的自治=「私人の意思の支配」は親子関係については語ることが難しく、間接効力説の根拠が別に求められねばならないことを確認し、「国家の基本権保護義務」論の立場から基本権の第三者効力の問題を捉え直そうとする見解に注目する。

 その上で、親との関係での子どもの自由について、まず、直接効力説に基づき、民法上の成人年齢以下での未成年者による独立の基本権行使を認め、親の権利と子どもの基本権の「衝突」を語る、当初の「基本権上の成年」論から考察し、()の立場に対応する理論構成であることを明らかにする。次いで、[自然的行為」と「法律行為的行動」の区別、さらに後者について、典型化される外部関係と内部関係の区別の視点を得る。その後、内部関係について、()の立場から、「親の権利」は子どもが自己決定できない限りにおいて存在し、子どもの成熟に応じて不必要になり、対象がなくなるとする理論構成を分析し、親と子どもの基本権の衡量ではなく、親の教育権限の意味内容から導かれる限界の決定である点、親の決定余地が認められる点等を確認する。特に、()の立場からの理論構成が、国家による親への援助とは結び付くが、「家族の自律」の観点から、民法1666条による国家介入と直結するものではなく、「重大な侵害」要件を媒介として間接的に国家介入に関わるに過ぎない点に注目する。一方、この理論構成に対抗する見解においては、「家族の自律」に基づく「法化」批判と結び付いて、または独立に「子どもが成年になるまで」の「親の包括的責任」が語られる点を確認する。

 次に「部分成年規定」について、子どもの段階的発達を基準とした細分化が求められる一方で、行き過ぎを抑えるために「親の包括的責任」が語られるが、「部分成年規定」の一般的許容性は認められており、ただ「微調整」が求められるに過ぎない点を確認する。また、子どもの「自然的行為」に関する年齢規定と「親の権利」による制限について、外部関係と内部関係のズレ等、様々な観点から区別の可能性が問題とされうる点にも注目する。

 最後に「親権」の「機能変化」という形での「気化」が有力に語られるようになる一方で、親が子どもとの関係で通常最終的決定権限を有していることは否定しえないとの認識が明確に示されるようになり、このような認識が()の立場を導くことになる点に注目する。また、最終的決定権限による子どもという他人の自由の制約という点で「親の権利」は他の基本権と本質的に異なり、それ故、「親の権利」は基本法6条2項によってのみ保障され、基本法4条1項によっては保障されないとの見解にも注目する。

 以上のドイツ法についての考察結果から、結論として、「親の権利」、「家族の自律」、「子どもの自由」について「反国家的」観点のみの思考から脱却し、()の立場、及び「親の権利」と「子どもの自由」の関係についての、()の立場に対応する理論構成を軸に考察していくべきであるとの方向性が導き出される。

審査要旨

 子ども・親・国家の関係は、一方で子どもと親の関係があり、他方では子どもと親の関係をめぐってさらに親と国家の関係があるという、重層的な関係として現われる。本論文は、この関係を法理論的にいかに捉えるべきかにつき、それに関し相当の蓄積の存するドイツを素材とし、かつ、論文の副題にあるように"憲法理論と民法理論の統合"を意識しつつ、考察を行うものである。構成としては、「序 研究の目的と方法」と題する短い序論の後、「第1部 親権・親の権利」、そして、本論文の中心をなす「第2部 親の権利・子どもの自由」が続き、最後は「終章ドイツ法の要約と日本法への示唆」をもって結ばれている。

 「序 研究の目的と方法」では、日本における理論状況を瞥見し、子ども・親・国家の三主体相互の関係を包括的に捉える視点が欠けていることを指摘して、考察の方向を示す。

 第1部では、本論文の主たる関心対象である基本法下のドイツの理論状況との比較の意味で、民法典制定当初の親権に関する理論動向と、ヴァイマル憲法120条の"親の権利"規定をめぐる理論展開についての考察が行われる。前者に関しては、親権の義務としての側面が必ずしも貫徹されていないとは言え、それが本質的に後見的保護権力であるとされたこと、国家介入に対する保護の問題は十分に考慮されてはいないことが示される。また、後者のヴァイマル憲法120条に関しては、立法に対する拘束力が認められず、制度的保障論も十分展開されなかったこと、その結果として憲法上の親の権利と民法上の親権の問題とが切り離されてしまっていたこと、議論が民法上の親権と関わる場合においても、国家介入に対する親の権利の保護の要請は十分に考慮されておらず、民法上の親権に関するそれまでの理論状況を修正するものになっていないことが明らかにされる。

 本論文の中心をなす第2部は、基本法の下での理論状況を考察するものであり、さらに、そのかなりの部分を占めているのが、第2部第1章「親の権利」である。著者は、まず、基本法6条2項-「子どもの育成及び教育は、親の自然的権利であり、かつ、何よりもまず親に課せられる義務である。その行動については、国家共同体がこれを監視する。」-の成立の過程を跡づけたうえで、"親の権利"をめぐるその後の理論展開を追う。

 すなわち、戦後期においては、この親の権利を自然権とする理解が一定程度共有されていたが、自然法論の退潮とともにその問題が重要性を失っていったこと、いずれにせよナチスに対する反省から防御権の観点が強調され、親の権利は、親にとっての人格発展のための国家に対する防御権的な権利であり、その意味で他の基本権と同様の権利であるとする立楊-著者はこれを"の立場"と呼ぶ-がとられていたことが、明らかにされる。そして、関連する論点として、親の権利が宗教教育に関しては親の信仰良心の自由といかなる関係に立つのかが検討され、また、憲法上の親の権利と、民法上の親権-現行規定上は"親の配慮"-との関係づけの問題を、制度的保障の理論、制度的基本権理論、立法による形成を重視する動態的基本権理解等にてらして考察し、憲法上の親の権利についての内容理解が民法の立法と解釈を規定するとする"憲法優位思考"が有力になっていくことが示される。

 次いで、著者は、1960年代以降連邦憲法裁判所を中心に展開された、親の権利は子どもの福祉のためのものであり、そこでの義務の要素の存在ゆえに他の基本権とは異なる独自の権利であるとする立場-著者の言う"の立場"-について分析する。そこでは、親の権利は国家に対する関係では自由権であるが、子どもとの関係での親の義務によってその本質を規定される権利、子どもの福祉のための利他的基本権であるとされている。そして、この立場に対応するものとして、親の権利は子どもの福祉の観点からみて親が他に優ることによって正当化されるとの連邦憲法裁判所の考え方、および、何が子どもの福祉であるかについての"親の解釈優位"を説く学説が検討される。続いて、民法上の親権につき、同じく子どもの福祉のための"義務権"として捉える方向で理論が展開し、それが、1979年の"親の配慮"法による民法改正に至る過程での議論においても共通の前提となっていたことが確認される。

 ところで、"親の配慮"法の立法過程では、家族の観点がクローズ・アップされ、それが、憲法上の親の権利および民法上の親権に関する学説においても次第に強調されるようになっていく。著者は、一方では家族の自律を強調してそれに対する国家介入ないし"家族の法化"を限定しようとする傾向、他方では家族の自律を個々の家族構成員の自由権に還元する考え方に、それぞれ注目し、その位置づけを検討する。また、それとは別に、さまざまな論者の見解を取り上げて分析することにより、その多くは、家族に関して親自身のために認められる種々の権利をの立場で構成しつつも、子どもの育成・教育に関わる基本法6条2項の親の権利については、それを子どもの福祉のためのものとする上述のの立場を基本的には維持していると評価する。さらに、親の権利の利他性を否定し、親と子どもの双方を含む家族構成員全員の利益を語ることで、の立場との立場のいずれをも否定する立場-著者の言う"の立場"-をとる見解の登場が考察される。なお、この箇所で、親の権利とともに国家に対する家族の自律を保護する趣旨の自由権である"子どもの基本権"の理論についても言及がなされる。

 以上の検討をふまえて、第2部第1章の最後に、子どもの育成・教育に関する国家介入の一般的な限界、および、個別的にみた国家介入の要件・態様についての考察が行われる。まず、"自己の責任を自覚した人格への発達"というような教育目標をめぐる議論、そして、そのような目標に向けての子どもの発達状況に即した教育方法について規定する民法1626条2項をめぐる議論が検討され、家族の自律の強調など、さまざまな形で"法化"批判が展開されていることが明らかにされる。他方、民法1666条1項にもとづく後見裁判所の親権への介入について"親の過失"を要件とするか否かの問題があり、否定説が有力となっていくのであるが,その根拠の一つが、基本法6条2項においては親の利益ではなく子どもの福祉が決定的であるとの、の立場であったこと、従来は国家介入に対する防御の機能を担わされていた"親の過失"要件が1979年改正で削除された後は、"子どもの福祉の重大な侵害"の要件がその機能を担うこととなることが、それぞれ示される。

 第2部第2章「子どもの自由」では、最初に、親子関係における基本権の効力の問題が取り上げられる。著者は、間接効力説を肯定し直接効力説を否定する根拠とされる私的自治ないし意思の支配の原理は、親子関係については語ることがむずかしく、したがって議論の手掛かりを別に求める必要があるとし、"国家の基本権保護義務"論の立場から基本権の第三者効問題を捉えなおす見解に注目する。その上で、著者は、基本法下における初期の"基本権上の成年"論、すなわち、直接効力説にもとづいて民法上の未成年者にも独立の基本権行使を認め、親の権利と子どもの基本権の衝突を語る議論について考察し、それが、親の権利を親のための権利として捉える当時のの立場に対応するものであったとする。

 次いで、著者は、諸学説の分析から、親に対する子どもの自由を論ずる場合に、"自然的行為と法律行為的行動"の区別や、"外部関係と親子間の内部関係"の区別や、法的安定性の要請の強弱が、それぞれ問題となることを示す。そして、内部関係における親の権利と子どもの自由との関係につき、1970年代以降、著者のいうの立場に対応する理論構成が有力になってくるとして、それを検討する。親の権利が子どものための権利であることからして、それは子どもが自己決定できない限度で存在し、子どもの成熟に応じて不要となり、対象を失うことになること("後退する親の権利/増大する子どもの権利")、そこでは、親と子どもの基本権の衡量ではなく、親の教育権の、それ自体の意味・内容から導かれる限界が問題であることなどがそれである。著者は、また、の立場からの理論構成が、国家が親に援助を与えるか拒否するかの問題(民法1631条3項など)とは結び付くが、逆に、親の権利に対する国家介入の問題(民法1666条)とは直接には結び付かず、たかだか、家族の自律の観点から"子どもの福祉の重大な侵害"が国家介入の要件とされる点で間接的に関わるにすぎないということも指摘している。他方、親の権利と子どもの自由との関係についての以上のような理論構成に対しては、"親の包括的責任"を根拠として否定的立場をとる見解もあり、これについても検討が加えられる。

 以上に関連して、著者は、いわゆる"宗教上の成年"をはじめとして、子どもによる独立の権利行使の開始時期(親の権利の終了時期)を立法で部分的に定める"部分成年規定"をめぐる議論をも検討する。そこでは、子どもの発達段階を基準とした成年年齢の細分化が求められる一方で、その行き過ぎを抑えるために子どもの発達についての親の包括的責任も語られるが、後者による修正は、部分成年規定それ自体を否定するのではなく、単に微調整を求めるものにすぎないとされる。

 親の権利が子どものための権利であるとのの立場が有力になるにつれ、親の権利が優位する局面においても以上のようにさまざまな理論構成の下に子どもの自由が尊重されるようになるのであるが、それにもかかわらず、1980年代以降、"親が子どもとの関係で通常最終的決定権限を有していることは否定されえない"との認識が明確に示されるようになる。しかし、著者は、それは親の権利についてのの立場を否定するものではないとし、むしろ、子どもという他者の自由を親の最終的決定権限によって制約するということこそが、基本法6条2項の親の権利は他の基本権と本質的に異なるとのの立場を導くものであることを強調する。

 終章では、本研究の結果とそこに含まれた日本法への示唆が、あらためて整理される。最後に、著者は、親の権利、家族の自律、子どもの自由について、"反国家的"観点のみの思考から脱却し、親の権利についてのの立場、および、親の権利と子どもの自由の関係についての、の立場に対応する理論構成を軸に考察していくべきであるとの方向性が、本研究から導き出されると述べて、その考察を終える。

 以上が本論文の要旨である。以下、評価を述べる。

 まず第1に、本論文は、親対子どもの関係とそれをめぐっての親対国家の関係という重層構造の中における親の法的地位の特質を解明するうえで、大きな貢献をなしたと言える。すなわち、この問題に関するドイツでの多面的な理論の展開を、憲法・民法の垣根を越えて総合的かつ立体的に分析し再構成するという大きな課題に取り組み、著者の言うの立場との立場の拮抗関係に主要な分析軸を設定しつつ、学説判例にあらわれた諸見解の意義とその位置づけを明らかにすることにより、子どもに対する義務を内包しながら国家の介入には対抗するという親の地位の独自性についての、学問的な理解の水準を著しく高めたと評価することができる。

 第2に、本論文は、子ども・親・国家の関係をいかに捉えるかという具体的な問題への取組みを、たとえば憲法上の制度的保障の理論や基本権の動態的理解の理論などの一般理論の枠組みに結びつけながら行っている。そこでの一般理論と個別問題との結びつけ方は、手堅くかつ適切であり、論旨に安定感と説得力を与えるものとなっている。

 第3に、本論文において著者は、自らの観点で考察を展開する前提として、憲法および民法の双方の領域にわたって関連文献を渉猟し、かつ、それぞれの見解について、その微妙なニュアンスを疎かにすることなく誠実公正に解釈するという姿勢を堅持している。これも、高く評価されるべき点である。

 もっとも、本論文にも注文をつけるべき点がないわけではない。一つは、ドイツにおける理論の展開に密着して考察が進められることの反面として、考察対象であるドイツの理論状況から距離を置き、それを歴史的または同時代的な比較のなかで相対化して位置づける作業が欠けているという点である。

 もう一点挙げるとすれば、子ども・親・国家の三項関係について議論することの重要性は、それ自体は疑いのないところであるが、著者が、たとえば今日の日本の現実においていかなる問題があると認識しているのかは、個別事件への言及は別として、正面切っては述べられていない。その点に関するある程度の論述があれば、本論文の含意がもっと明らかになったであろう。

 しかしながら、以上のような問題点も本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、子ども・親・家族と国家との関係における基本問題についての綿密な考察により、公法・私法を通じて、新たな議論の座標軸を提供するものである。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

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