子ども・親・国家の関係は、一方で子どもと親の関係があり、他方では子どもと親の関係をめぐってさらに親と国家の関係があるという、重層的な関係として現われる。本論文は、この関係を法理論的にいかに捉えるべきかにつき、それに関し相当の蓄積の存するドイツを素材とし、かつ、論文の副題にあるように"憲法理論と民法理論の統合"を意識しつつ、考察を行うものである。構成としては、「序 研究の目的と方法」と題する短い序論の後、「第1部 親権・親の権利」、そして、本論文の中心をなす「第2部 親の権利・子どもの自由」が続き、最後は「終章ドイツ法の要約と日本法への示唆」をもって結ばれている。 「序 研究の目的と方法」では、日本における理論状況を瞥見し、子ども・親・国家の三主体相互の関係を包括的に捉える視点が欠けていることを指摘して、考察の方向を示す。 第1部では、本論文の主たる関心対象である基本法下のドイツの理論状況との比較の意味で、民法典制定当初の親権に関する理論動向と、ヴァイマル憲法120条の"親の権利"規定をめぐる理論展開についての考察が行われる。前者に関しては、親権の義務としての側面が必ずしも貫徹されていないとは言え、それが本質的に後見的保護権力であるとされたこと、国家介入に対する保護の問題は十分に考慮されてはいないことが示される。また、後者のヴァイマル憲法120条に関しては、立法に対する拘束力が認められず、制度的保障論も十分展開されなかったこと、その結果として憲法上の親の権利と民法上の親権の問題とが切り離されてしまっていたこと、議論が民法上の親権と関わる場合においても、国家介入に対する親の権利の保護の要請は十分に考慮されておらず、民法上の親権に関するそれまでの理論状況を修正するものになっていないことが明らかにされる。 本論文の中心をなす第2部は、基本法の下での理論状況を考察するものであり、さらに、そのかなりの部分を占めているのが、第2部第1章「親の権利」である。著者は、まず、基本法6条2項-「子どもの育成及び教育は、親の自然的権利であり、かつ、何よりもまず親に課せられる義務である。その行動については、国家共同体がこれを監視する。」-の成立の過程を跡づけたうえで、"親の権利"をめぐるその後の理論展開を追う。 すなわち、戦後期においては、この親の権利を自然権とする理解が一定程度共有されていたが、自然法論の退潮とともにその問題が重要性を失っていったこと、いずれにせよナチスに対する反省から防御権の観点が強調され、親の権利は、親にとっての人格発展のための国家に対する防御権的な権利であり、その意味で他の基本権と同様の権利であるとする立楊-著者はこれを" の立場"と呼ぶ-がとられていたことが、明らかにされる。そして、関連する論点として、親の権利が宗教教育に関しては親の信仰良心の自由といかなる関係に立つのかが検討され、また、憲法上の親の権利と、民法上の親権-現行規定上は"親の配慮"-との関係づけの問題を、制度的保障の理論、制度的基本権理論、立法による形成を重視する動態的基本権理解等にてらして考察し、憲法上の親の権利についての内容理解が民法の立法と解釈を規定するとする"憲法優位思考"が有力になっていくことが示される。 次いで、著者は、1960年代以降連邦憲法裁判所を中心に展開された、親の権利は子どもの福祉のためのものであり、そこでの義務の要素の存在ゆえに他の基本権とは異なる独自の権利であるとする立場-著者の言う" の立場"-について分析する。そこでは、親の権利は国家に対する関係では自由権であるが、子どもとの関係での親の義務によってその本質を規定される権利、子どもの福祉のための利他的基本権であるとされている。そして、この立場に対応するものとして、親の権利は子どもの福祉の観点からみて親が他に優ることによって正当化されるとの連邦憲法裁判所の考え方、および、何が子どもの福祉であるかについての"親の解釈優位"を説く学説が検討される。続いて、民法上の親権につき、同じく子どもの福祉のための"義務権"として捉える方向で理論が展開し、それが、1979年の"親の配慮"法による民法改正に至る過程での議論においても共通の前提となっていたことが確認される。 ところで、"親の配慮"法の立法過程では、家族の観点がクローズ・アップされ、それが、憲法上の親の権利および民法上の親権に関する学説においても次第に強調されるようになっていく。著者は、一方では家族の自律を強調してそれに対する国家介入ないし"家族の法化"を限定しようとする傾向、他方では家族の自律を個々の家族構成員の自由権に還元する考え方に、それぞれ注目し、その位置づけを検討する。また、それとは別に、さまざまな論者の見解を取り上げて分析することにより、その多くは、家族に関して親自身のために認められる種々の権利を の立場で構成しつつも、子どもの育成・教育に関わる基本法6条2項の親の権利については、それを子どもの福祉のためのものとする上述の の立場を基本的には維持していると評価する。さらに、親の権利の利他性を否定し、親と子どもの双方を含む家族構成員全員の利益を語ることで、 の立場と の立場のいずれをも否定する立場-著者の言う" の立場"-をとる見解の登場が考察される。なお、この箇所で、親の権利とともに国家に対する家族の自律を保護する趣旨の自由権である"子どもの基本権"の理論についても言及がなされる。 以上の検討をふまえて、第2部第1章の最後に、子どもの育成・教育に関する国家介入の一般的な限界、および、個別的にみた国家介入の要件・態様についての考察が行われる。まず、"自己の責任を自覚した人格への発達"というような教育目標をめぐる議論、そして、そのような目標に向けての子どもの発達状況に即した教育方法について規定する民法1626条2項をめぐる議論が検討され、家族の自律の強調など、さまざまな形で"法化"批判が展開されていることが明らかにされる。他方、民法1666条1項にもとづく後見裁判所の親権への介入について"親の過失"を要件とするか否かの問題があり、否定説が有力となっていくのであるが,その根拠の一つが、基本法6条2項においては親の利益ではなく子どもの福祉が決定的であるとの、 の立場であったこと、従来は国家介入に対する防御の機能を担わされていた"親の過失"要件が1979年改正で削除された後は、"子どもの福祉の重大な侵害"の要件がその機能を担うこととなることが、それぞれ示される。 第2部第2章「子どもの自由」では、最初に、親子関係における基本権の効力の問題が取り上げられる。著者は、間接効力説を肯定し直接効力説を否定する根拠とされる私的自治ないし意思の支配の原理は、親子関係については語ることがむずかしく、したがって議論の手掛かりを別に求める必要があるとし、"国家の基本権保護義務"論の立場から基本権の第三者効問題を捉えなおす見解に注目する。その上で、著者は、基本法下における初期の"基本権上の成年"論、すなわち、直接効力説にもとづいて民法上の未成年者にも独立の基本権行使を認め、親の権利と子どもの基本権の衝突を語る議論について考察し、それが、親の権利を親のための権利として捉える当時の の立場に対応するものであったとする。 次いで、著者は、諸学説の分析から、親に対する子どもの自由を論ずる場合に、"自然的行為と法律行為的行動"の区別や、"外部関係と親子間の内部関係"の区別や、法的安定性の要請の強弱が、それぞれ問題となることを示す。そして、内部関係における親の権利と子どもの自由との関係につき、1970年代以降、著者のいう の立場に対応する理論構成が有力になってくるとして、それを検討する。親の権利が子どものための権利であることからして、それは子どもが自己決定できない限度で存在し、子どもの成熟に応じて不要となり、対象を失うことになること("後退する親の権利/増大する子どもの権利")、そこでは、親と子どもの基本権の衡量ではなく、親の教育権の、それ自体の意味・内容から導かれる限界が問題であることなどがそれである。著者は、また、 の立場からの理論構成が、国家が親に援助を与えるか拒否するかの問題(民法1631条3項など)とは結び付くが、逆に、親の権利に対する国家介入の問題(民法1666条)とは直接には結び付かず、たかだか、家族の自律の観点から"子どもの福祉の重大な侵害"が国家介入の要件とされる点で間接的に関わるにすぎないということも指摘している。他方、親の権利と子どもの自由との関係についての以上のような理論構成に対しては、"親の包括的責任"を根拠として否定的立場をとる見解もあり、これについても検討が加えられる。 以上に関連して、著者は、いわゆる"宗教上の成年"をはじめとして、子どもによる独立の権利行使の開始時期(親の権利の終了時期)を立法で部分的に定める"部分成年規定"をめぐる議論をも検討する。そこでは、子どもの発達段階を基準とした成年年齢の細分化が求められる一方で、その行き過ぎを抑えるために子どもの発達についての親の包括的責任も語られるが、後者による修正は、部分成年規定それ自体を否定するのではなく、単に微調整を求めるものにすぎないとされる。 親の権利が子どものための権利であるとの の立場が有力になるにつれ、親の権利が優位する局面においても以上のようにさまざまな理論構成の下に子どもの自由が尊重されるようになるのであるが、それにもかかわらず、1980年代以降、"親が子どもとの関係で通常最終的決定権限を有していることは否定されえない"との認識が明確に示されるようになる。しかし、著者は、それは親の権利についての の立場を否定するものではないとし、むしろ、子どもという他者の自由を親の最終的決定権限によって制約するということこそが、基本法6条2項の親の権利は他の基本権と本質的に異なるとの の立場を導くものであることを強調する。 終章では、本研究の結果とそこに含まれた日本法への示唆が、あらためて整理される。最後に、著者は、親の権利、家族の自律、子どもの自由について、"反国家的"観点のみの思考から脱却し、親の権利についての の立場、および、親の権利と子どもの自由の関係についての、 の立場に対応する理論構成を軸に考察していくべきであるとの方向性が、本研究から導き出されると述べて、その考察を終える。 以上が本論文の要旨である。以下、評価を述べる。 まず第1に、本論文は、親対子どもの関係とそれをめぐっての親対国家の関係という重層構造の中における親の法的地位の特質を解明するうえで、大きな貢献をなしたと言える。すなわち、この問題に関するドイツでの多面的な理論の展開を、憲法・民法の垣根を越えて総合的かつ立体的に分析し再構成するという大きな課題に取り組み、著者の言う の立場と の立場の拮抗関係に主要な分析軸を設定しつつ、学説判例にあらわれた諸見解の意義とその位置づけを明らかにすることにより、子どもに対する義務を内包しながら国家の介入には対抗するという親の地位の独自性についての、学問的な理解の水準を著しく高めたと評価することができる。 第2に、本論文は、子ども・親・国家の関係をいかに捉えるかという具体的な問題への取組みを、たとえば憲法上の制度的保障の理論や基本権の動態的理解の理論などの一般理論の枠組みに結びつけながら行っている。そこでの一般理論と個別問題との結びつけ方は、手堅くかつ適切であり、論旨に安定感と説得力を与えるものとなっている。 第3に、本論文において著者は、自らの観点で考察を展開する前提として、憲法および民法の双方の領域にわたって関連文献を渉猟し、かつ、それぞれの見解について、その微妙なニュアンスを疎かにすることなく誠実公正に解釈するという姿勢を堅持している。これも、高く評価されるべき点である。 もっとも、本論文にも注文をつけるべき点がないわけではない。一つは、ドイツにおける理論の展開に密着して考察が進められることの反面として、考察対象であるドイツの理論状況から距離を置き、それを歴史的または同時代的な比較のなかで相対化して位置づける作業が欠けているという点である。 もう一点挙げるとすれば、子ども・親・国家の三項関係について議論することの重要性は、それ自体は疑いのないところであるが、著者が、たとえば今日の日本の現実においていかなる問題があると認識しているのかは、個別事件への言及は別として、正面切っては述べられていない。その点に関するある程度の論述があれば、本論文の含意がもっと明らかになったであろう。 しかしながら、以上のような問題点も本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、子ども・親・家族と国家との関係における基本問題についての綿密な考察により、公法・私法を通じて、新たな議論の座標軸を提供するものである。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。 |