人間活動による直接的な環境影響の中で、最も大きなものの一つに土地利用の変化によるものがある。これは、土地のより高度な利用を図るために土地被覆や植生、地形などを人為的に改変することに起因する環境影響であり、森林劣化によるバイオマスの減少(と大気中への二酸化炭素放出)や生物多様性の喪失、土壌流亡・劣化などによる長期的な生態系生産基盤の疲弊などきわめて多岐にわたる。 現在IGBPなどの国際的な研究プログラムのもとで、地球環境変動に関する数多くの研究が行われている。膨大な未知の領域はあるものの、気候変化や物質循環過程などある程度、定量的な知見が蓄積され、モデル表現が可能になってきた分野も少なくない。こうした研究蓄積をもとに、地球環境の将来変動を「予測」しよう、あるいは「あり得るシナリオ」を描こうというニーズは大変強い。しかし、地球環境変動のシナリオを描くためには、入力条件である人間活動の直接的なインパクト(例えば森林伐採など)をまず明らかにすることが必要になる。すなわち、どこの地域でどの程度の、どんな形態の人間圧力が生じる可能性があるのかを明らかにすることが必要なのである。土地利用・被覆変化過程のモデル化は、まさにこの疑問に応えるために不可欠の研究であり、IGBPの次期10年間の活動計画においても、LUCC(Land Use/Cover Change,土地利用・被覆変化研究)プログラムを統合のキーポイントの一つとして、さまざまなコアプロジェクトを再構成しようという合意がなされつつある。現在いくつかのGCMによる気候変動による気温や降水量の変化推定値が、共通のシナリオとして多くの研究で参照・利用されているが、同様に土地利用・被覆変化の将来に関する共通シナリオと、そのための研究努力が必要とされているといえる。 これまで地理学などを中心として土地利用の変化に関する研究は精力的に行われてきた。しかし、その多くは局地的な調査に基づく定性的な記述にとどまっており、土地利用変化メカニズムに関して、比較的ミクロな視点から有益な知見を与えてはいるものの、定性的・断片的であり、定量的なモデル開発には必ずしも直接結びついてはいない。一方、衛星画像を利用した土地利用・土地被覆変化の面的な把握に関する研究は、比較的広域を対象として多数行われてきているが、いわゆる土地利用・土地被覆図の作成レベル(マッピングレベル)にとどまっており、土地利用変化の駆動力である社会経済活動や人口増加と結びつけて定量的に解析した研究はほとんどない。また、社会統計データを利用した多くの研究は、国、あるいは地域単位の集計量である人口密度と森林面積比率などを取り上げ、それらの関係をマクロ的、統計的に分析したものがほとんどであり、土地利用全体を支配するマクロ的な要因の抽出にはある程度成功しているものの、土地利用変化の空間分布をグリッドごとに推定することはできないこと、個別の土地・水条件などを考慮できないことなど、土地利用変化に起因する環境影響を分析するためにはきわめて不十分である。このように、土地利用・土地被覆変化のメカニズムを、個別の土地利用主体の行動原理といったミクロレベルから、その境界条件を構成するマクロ的な条件まで体系的に結びつけ、そうした知見を基に地球スケールの環境変動予測に寄与できるような広域・分布型の土地利用変化予測モデルを構築した研究は皆無といってよい。 本研究は、個々の土地条件、土地利用主体といったミクロなスケールと、国家経済といったマクロスケールの統合を可能にするような新しい土地利用変化モデリング手法を提案し、その有効性を示すことを目標としている。具体的には、GISを利用して、土地条件や水条件、さらに各土地グリッドにおける農業生産性の推定結果などミクロな情報統合し、土地利用変化を説明する自然環境的側面を表現する。その一方で、土地利用を決定する土地利用主体(農民など)を、与えられた境界条件の下で自律的に活動するエージェントとして表現し、土地利用変化をシミュレートするものである。マクロ的な要因はす、価格、都市などにおける就業機会、技術進歩などの形で明示的な境界条件として表現され、マクロな社会経済環境条件がミクロな土地利用の変化にどのように結びつくかを定量的に明らかにできる。 本論文は、8章からなっている。第1章は研究の背景、目的などがのべられている。 第2章は関連研究のレビューであり、土地利用・土地被覆モデリング研究だけでなく、地域研究など幅広い領域の研究がレビューされている。 第3章はエージェント概念を適用した土地利用モデルの枠組みを提案している。エージェントは本来コンピュータサイエンスにおいて、「変化する境界条件・環境条件に対応して適合的に機能するソフトウェア」という意味で用いられている。本研究ではエージェント概念を、農民などの土地利用主体に適用し、経済条件や土地・水条件、自身の年齢・教育水準などの属性条件に対応して適合的に土地利用の選択や移住行動などを決定するメカニズムを表現しようとしている。 第4章は、提案された土地利用モデル(AGENT-LUCモデル)の構成と各サブモデルの構造を示している。モデルはエージェントモデル(エージェントの意志決定モデル)、農業生度性モデル、都市拡大モデルなどからなっている。農産物価格などのマクロな境界条件は、需給ギャップを満足するように決定されるとしている。 第5章は、タイ国を対象に実施したケーススタディにおける入力データセットの構築プロセスについて述べている。特に土地利用データと、農業統計データ(作付け面積など)との整合性の確立方法が重要となっている。 第6章は、AGENT-LUCモデルをタイ国のいくつかのプロビンス(県)に適用した結果を述べている。1980年をシミュレーション開始年度とし、1990年までのシミュレーションを行い、1990年の実績値(土地利用図)との整合性を評価している。その結果、1980年から90年にかけて山間部に急速に広まった粗放な野菜栽培(ガーリックなど)を十分表現できていないものの、平地で耕作される米やメイズ、大豆などに関してはその作付け地域の変化をおおむね説明できることが示されている。 第7章は考察であり、AGENT-LUCモデルのシミュレーション結果と現状との差異を解析し、データの作成方法、モデルの論理構造などの改善方向を考察している。データ作成に関しては、土地利用図上、農地と色塗りされている地域などには人口が分布していると想定している一方で、劣化した森林などになっている地域には人口密度がゼロと想定したために、劣化した森林が大規模に粗放な農業に転換する現象が十分表現できなかった原因となっていること、モデルの構造に関しては、特に山岳部に関して焼畑などの農業的な土地利用のオプションに関する情報が不正確であり、実際には広く行われているにもかかわらずモデル上は経済的に劣る利用にくいオプションとなってしまっていることなどが明らかになった。また、農民の農村から農村への移動に関して、土地利用変化には比較的重要なインパクトがあることから、今後こうした情報の収集・集積が必要なことが明らかになった。さらに、生産物の価格など詳細な地域別情報がないため、シミュレーションの精度が劣化するということも原因の一つとして考えられている。 第8章は結論であり、本研究の結論とこれからの研究の課題に関して整理している。 以上をまとめると、本研究は、まず、農民などの土地利用決定行動や移住行動を、エージェント概念を利用してモデル化し、地域研究などで蓄積された定性的・定量的な知見を計算可能なモデルとして集約することに成功している。さらに土地利用主体エージェントモデルを実際に詳細な土地・水条件データや社会・経済データを用いてシミュレーションに適用することで、土地利用図や衛星などから得られる定量的データを用いてモデルの妥当性やパラメータ値の調整を可能にした点、また、土地利用主体エージェントモデルを介して、ミクロな土地・水条件などと価格変動のようなマクロな社会・経済条件を整合的に結合することに成功している点など、斬新なアイディアに基づいて従来の土地利用モデルが抱えている多くの問題に解決策を提示していると言える。実際の適用に関しては、データの不足に起因する検証の問題など残された課題も少なくないが、特に開発途上国など多様な条件下での土地利用変化をシミュレートするモデルについて、新しい方向性を示しているといえる。また、地球環境研究において、土地利用変化モデルが人間に起因するさまざまな環境影響を表現する上でのキーポイントとなっていることを考えると、将来的には社会的な貢献も大きいと判断される。よって、博士(工学)論文として合格と判断する。 |