学位論文要旨



No 114802
著者(漢字) 伊東,和喜
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,カズキ
標題(和) フェムト秒過渡レンズ測定法の開発とその応用
標題(洋)
報告番号 114802
報告番号 甲14802
学位授与日 1999.11.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4555号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 二瓶,好正
 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 助教授 尾張,眞則
 東京大学 助教授 藤浪,眞紀
内容要旨 緒言

 化学反応を理解するために、その反応初期過程における分子同士のエネルギー交換の研究が必須である。このため、超高速ダイナミクスの研究が、超短光パルスレーザー技術の発展に伴い急速に進展しつつある。これまで過渡吸収、発光などの分光法が超高速応答測定に用いられてきた。しかし、キープロセスに無輻射緩和過程が重要な役割を果たしており、これを直接観測する分光法が求められていた。このような背景から私は、高精度かつ無輻射緩和過程を直接測定できる新しい分光法として、熱レンズ法とポンプ-プローブ法とを組み合わせたフェムト秒過渡レンズ測定法を着想した。

装置の開発

 レーザー強度はガウス分布を持っており、軸中央で最強である。屈折率nは、n=n0+n2Iと表され、励起光強度Iに依存する。試料中の化学種が励起光と相互作用するとき、図1のように負のn2を持つ溶液は励起光の中央では周囲よりも屈折率が低い。これが、プローブ光を広げる凹レンズとして働く。その結果、この光学配置では信号が減少する。励起光がパルス的であれば、過渡的にレンズ効果が出現する。屈折率を変化させる要因を問わず図1の検出器配置で得られる信号を過渡レンズ信号と呼ぶことにする。本研究では、ピコ秒オーダーで起こる超高速レンズ効果に注目した。

図1 超高速過渡レンズ測定法の原理

 図2に開発した測定装置を示した。測定には,励起光とプローブ光を同軸で試料に入射する光学配置を採用した。モードロックチタンサファイアレーザー(パルス幅200fs、繰り返し周波数76MHz)の基本波(780nm)をプローブ光に、第二高調波(390nm)を励起光とした。励起光を1.4MHzで強度変調し、信号をロックインアンプで同期検出した。高い繰り返し周波数により多数のパルスにわたる平均を利用することでS/N比を向上させた。信号強度には、プローブ光と励起光の焦点の相対位置が大きく影響を与える。信号強度を最大にするために、励起光の広がりを制御して焦点位置を最適化した。このような改善策を施してフェムト秒過渡レンズ測定法を開発した。

超高速過渡レンズ効果の検証[1]

 -カロチン・n-ヘキサン溶液の典型的な応答及び-カロチンの準位図を図3に示す。信号増加が屈折率の増加、信号減少が屈折率の低下に対応する。-カロチン溶液では、光力-効果によるn-ヘキサンの過渡応答とは異なった。遅延時間Opsで屈折率は、励起前と比べて低くなり、それに続いて、1〜0.2psで、屈折率が増加、2〜10psで減少した。12は、-カロチンの励起状態S2、S1の寿命と対応している。

図表図2 超高速過渡レンズ効果測定装置図 / 図3 -カロチン溶液の過渡レンズ信号と-カロチンの準位図(挿入図)

 プローブ光波長780nmには-カロチンの吸収はない。そこで、過渡応答が波長780nmでの屈折率変化を反映し、その極性の変化は、次のように説明できる。S0-S2遷移によるS0状態の化学種の減少のため吸収帯より長波長側780nmでは屈折率が低くなる(遅延時間Ops)。S2-S1遷移によるS1状態の化学種の増加のため屈折率が高くなる(1〜0.2p)。その後、S1-S0の失活のため、屈折率が低くなる(2〜10ps)。上述の議論のもとにレート方程式から導出した理論曲線は、実験データをよく再現した。-カロチンの発光の量子収率は10-4以下で、主要なプロセスは無輻射的である。本手法により、このプロセスが発光や過渡吸収を用いることなく直接的に観測できることを示し、その有効性を評価できた。

オーラミンO分子の超高速緩和ダイナミクス[2]

 オーラミンOは、蛍光による粘性プローブとして用いられてきた。しかし、低粘性溶媒中では蛍光強度が弱いため、超高速ダイナミクスに関してほとんど調べられていなかった。そこで、本手法により、オーラミンO溶液の緩和時間溶媒依存性を観測した。オーラミンO1-プロバノール溶液の過渡応答は、二重指数関数で表された。従来の蛍光寿命測定では,単一指数関数で表されていた。その報告された蛍光寿命の値(24ps)は、今回得た遅い緩和時間(23ps)と一致したので、遅い緩和は蛍光過程に対応すると考えられる。一方速い成分は本研究ではじめて観測され、励起状態での分子内回転緩和と予想される。この点を検討するために分子軌道計算(MOPAC)を行った。その結果、オーラミンO分子の分子内回転緩和は、基底状態と励起状態とでは安定な角度が異なることが示された。これから、速い成分は励起状態でジメチルアニリン基が回転し、安定な構造に移る際の過程、遅い成分はそこから基底状態への緩和と結論した。従って、この速い成分も遅い成分(S1→S0遷移)と同様、溶媒の粘性により緩和時間が変化することが予想される。以下では、速い成分について考察する。

 緩和時間は溶媒の粘性で説明できるとされていた。本研究では緩和時間が粘性だけでは説明できないことを見出した(図4)。1-プロパノールとエチレングリコールは粘性が大きく異なるのに対し、緩和時間はそれほど変わらなかった。これは、緩和過程がパルクの粘性以外の因子に支配されていることを示唆する。吸収・蛍光スペクトルの測定では、溶媒によるスペクトルの変化はなかった。これは緩和時間に差が出るほど溶媒の極性がオーラミンOのエネルギー準位に及ぼす影響は大きくないことを示す。従って、分子内回転による緩和にはエネルギー準位の差ではなく溶質の分子内回転による緩和に対する溶媒分子による阻害が支配的であると考えられる。

 上記の考えを証明するために、水素結合性の溶媒について溶媒の分子量に対して速い緩和時間をプロットし、直線的な相関関係を得た(図5)。この結果に対して以下のモデルを考えた。溶質と溶媒との間で水素結合しているために溶質の回転部分は溶媒を伴いながら回転する。このとき引き連れる水素結合性溶媒分子が慣性的な効果で回転を阻害し、その状態で溶質分子の分子内回転による緩和が起こるので緩和時間が溶媒の分子量に対して増加したと考えられる。従って非水素結合性溶媒では緩和時間は分子量から予想される値より小さくなるはずであり、アセトニトリル中では水素結合性溶媒より緩和時間は小さくなった。このように、オーラミンO溶液のダイナミクスがバルクの粘性だけではなくミクロな効果を考慮しなければならないことを示すことができた。

図表図4 溶媒粘性率と緩和時間 / 図5 溶媒分子量と緩和時間の関係
銀超微粒子の超高速緩和ダイナミクス[3-4]

 ナノデバイス技術や表面化学の分野において、金属、半導体微粒子の超高速ダイナミクス測定は重要である。そこで、水中及びガラス中に分散させた銀超微粒子について、超高速ダイナミクスを調べた。典型的な銀コロイド水溶液の過渡レンズ信号を図6に示した。純溶媒である水の過渡レンズ信号は光力-効果によるものである。それに対して銀コロイド水溶液では、溶媒の光力-効果以外の応答が観測された。銀コロイド水溶液と水の過渡レンズ信号の差を指数関数の和を仮定して、緩和時間を求めた。銀コロイド水溶液の過渡レンズ信号には少なくとも、1、3、7psの緩和時間を持つ三成分があることを見出した(表1)。さらに、SDSを添加したときの銀コロイド水溶液の過渡レンズ信号も少なくとも、1、2、23psの緩和時間を持つ三成分があることを見出した。ガラス中の銀超微粒子についても、3つの緩和時間を得た。また、ポンプ光とプローブ光の偏光面を平行にした場合と垂直にした場合の過渡応答を比較した。水中でのSDSが吸着していないとき、2の強度因子は、プローブ光の偏光面に依存した。一方、銀超微粒子にSDSを吸着させた場合及びガラス中に分散させた場合、プローブ光の偏光面依存性は、見られなかった。

図6 銀コロイド溶液の過渡レンズ信号表1 銀超微粒子の過渡レンズ信号の緩和時間i(ps)と相対強度Ci

 まず、水中について考察する。1は、銀薄膜のフェムト秒過渡反射率測定の報告からの類推で銀微粒子内での励起電子の失活に対応付けられる。その後、溶媒へのエネルギー移動(4)と同時に、銀超微粒子周囲の溶媒分子の配向緩和(2)が起こっていると考えられる。この配向緩和の成分が、プローブ光の偏光面依存性を示している。SDSが添加された場合は、励起電子失活後、銀超微粒子から溶媒へ、SDSの層を経て2段階(34)でエネルギー移動が起こる。銀超微粒子と溶媒分子の間にSDS層があるため、溶媒分子の配向緩和が弱くなるので、この場合には、プローブ光の偏光面依存を示さないと考えられる。

 次に、ガラス中について考察する。まず、銀超微粒子内の電子励起に伴い屈折率が減少する。続いて、励起電子の緩和(1)を経て、銀超微粒子の温度が上昇するため、屈折率が高くなって信号強度が強くなる。その後は2つの緩和過程(34)を経てガラスにエネルギーが移動する。ガラスへのエネルギー移動が2段階なのは、銀超微粒子表面-ガラス間で速いエネルギー移動(3)が起こった後に、ガラスへの熱拡散(4)が続くためと考えている。また、過渡応答にプローブ光の偏光面依存性は見られず、このことは、銀超微粒子からガラスマトリックスへの等方的な超高速エネルギー移動が存在することを示唆している。

今後の展開

 以上本研究では、新しい超高速ダイナミクス測定法を開発し、新たな物理化学現象をとらえることに成功した。今後は顕微鏡と組合せることで超高感度化を図り、単一の分子・クラスター・微粒子の超高速ダイナミクスへの応用を考えている。

発表状況

 [1]Chem.Phys.Lett.,275(1997)349 [2]J.Phys.Chem.A,submitted

 [3]J.Phys.Chem.A,to be submitted [4]Chem.Phys.Lett.to be submitted

審査要旨

 凝縮系光反応初期過程の研究が、超短光パルスレーザー技術の発展とあいまって急速に進展しつつある。これまで過渡吸収、発光などの分光法が分子の超高速応答測定に用いられてきた。しかし、キープロセスに無輻射緩和過程が重要な役割を果たしている場合が多く、これを直接観測する分光法が求められていた。

 第1章は序論であり、前述の背景をふまえ、光熱変換分光法を超高速化させた、新しい分光法の必要性を示唆している。

 第2章では、具体的な装置の開発について触れている。光熱変換分光法に高時間分解能を持たせるため、熱レンズ法とポンプ-プローブ法とを組み合わせたフェムト秒過渡レンズ測定法を提案している。これまで光熱変換分光法で測定されることのなかったフェムト秒〜ピコ秒オーダーで起こる超高速レンズ効果に注目し、その起源を明らかにすることで新しい知見を得ることを目的としている。超短光パルスレーザー導入に伴う技術的な課題を克服し、フェムト秒過渡レンズ測定装置を開発した。

 第3章では、開発した測定装置を-カロチン溶液に適用し、-カロチンに由来する過渡応答を得、その解析を行った。得られた過渡レンズ信号には、1〜0.2ps、2〜10psの緩和時間が見積もられた。12は、-カロチンの励起状態S2、S1の寿命と対応している。このことがら、本論文では過渡応答の起源をポピュレーションに帰属している。

 -カロチンの準位図をもとにレート方程式から導出した理論曲線は、実験データをよく再現した。-カロチンの主要なプロセスは無輻射的である。本手法により、このプロセスが発光や過渡吸収を用いることなく直接的に観測できることを示した。つまり、本手法は、単に独創的なだけではなく、過渡吸収法や時間分解蛍光測定と並んで、超高速ダイナミクスの研究に有効であることが実証された。従来の方法に加え、超高速の屈折率変化を通して追究するという、新しいアプローチの仕方を提案した点は、高く評価できる。

 第4章では、本手法を用いて、オーラミンO溶液の緩和時間溶媒依存性を観測した。オーラミンOは、蛍光による粘性プローブとして用いられてきたが、低粘性溶媒中では蛍光強度が弱いことから、超高速ダイナミクスに関してほとんど調べられていなかった。そして蛍光寿命測定では報告のなかった成分を本研究ではじめて見出した。分子軌道計算(MOPAC)から、この成分は励起状態でジメチルアニリン基が回転し、安定な構造に移る過程であると結論した。本論文では、新しく見出したこの成分について更に考察している。

 緩和時間は溶媒の粘性だけで説明されてきたが、本研究で見出した成分は、粘性よりもむしろ溶媒の分子量に相関があった。ここでは、次のようなモデルを提案した。溶質-溶媒間水素結合のため、溶質の回転部分は溶媒を伴いながら回転する。このとき溶媒分子が慣性的な効果で回転を阻害するので、溶媒の分子量が大きくなると、緩和時間が増加するというモデルである。

 オーラミンO溶液のダイナミクスについて、未報告であった成分を本手法により初めて見出し、従来の知見に、分子レベルの効果の考察を新たに加えた点は、高い評価に値する。

 半導体回路の高速化、集積化に伴いナノ空間領域での超高速エネルギー移動プロセスが注目されている。また、触媒反応をはじめとする表面化学においても、金属、半導体微粒子の超高速ダイナミクス測定は必須である。そのような背景から、水中及びガラス中の銀超微粒子へ本手法を適用している。

 第5章では、水中の銀超微粒子について以下のように考察している。銀微粒子内励起電子の失活後、溶媒へのエネルギー移動と同時に、銀超微粒子周囲の溶媒分子の配向緩和が起こっている。一方、SDSが添加された場合は、励起電子失活後、銀超微粒子から溶媒へ、SDSの層を経て2段階でエネルギー移動が起こる。

 第6章では、ガラス中の銀超微粒子について考察している。銀超微粒子内の電子励起に伴い屈折率が減少する。続いて、励起電子の緩和を経て、銀超微粒子の温度が上昇するため、屈折率が高くなって信号強度が強くなる。その後は、銀超微粒子表面-ガラス間で速いエネルギー移動に続いて、ガラスへの熱移動が起こる。

 本手法により、異なる環境下の銀超微粒子の緩和ダイナミクスを追究した。微小空間における超高速熱移動について新しい知見を得た点は、評価できる。

 以上本研究では、新しい超高速ダイナミクス測定法を開発し、新たな物理化学現象をとらえることに成功した。本手法は、光熱変換分光法の特性を活かして様々な無輻射緩和過程の研究に応用されよう。超高速ダイナミクス測定としては励起光パルスの尖頭値が比較的低いので、光合成、視覚関連分子や非線形光学材料のin-vivo、in-situ測定への応用が期待できる。また、本論文では、白色光を用いてスペクトル測定を可能にし過渡レンズ信号に詳細な分子構造の情報を付加することを展望している。本論文は、今後の展開、波及効果が大いに期待されるフェムト秒過渡レンズ測定法を提案した点で高く評価できる。

 よって本論文は、博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク