凝縮系光反応初期過程の研究が、超短光パルスレーザー技術の発展とあいまって急速に進展しつつある。これまで過渡吸収、発光などの分光法が分子の超高速応答測定に用いられてきた。しかし、キープロセスに無輻射緩和過程が重要な役割を果たしている場合が多く、これを直接観測する分光法が求められていた。 第1章は序論であり、前述の背景をふまえ、光熱変換分光法を超高速化させた、新しい分光法の必要性を示唆している。 第2章では、具体的な装置の開発について触れている。光熱変換分光法に高時間分解能を持たせるため、熱レンズ法とポンプ-プローブ法とを組み合わせたフェムト秒過渡レンズ測定法を提案している。これまで光熱変換分光法で測定されることのなかったフェムト秒〜ピコ秒オーダーで起こる超高速レンズ効果に注目し、その起源を明らかにすることで新しい知見を得ることを目的としている。超短光パルスレーザー導入に伴う技術的な課題を克服し、フェムト秒過渡レンズ測定装置を開発した。 第3章では、開発した測定装置を-カロチン溶液に適用し、-カロチンに由来する過渡応答を得、その解析を行った。得られた過渡レンズ信号には、1〜0.2ps、2〜10psの緩和時間が見積もられた。1、2は、-カロチンの励起状態S2、S1の寿命と対応している。このことがら、本論文では過渡応答の起源をポピュレーションに帰属している。 -カロチンの準位図をもとにレート方程式から導出した理論曲線は、実験データをよく再現した。-カロチンの主要なプロセスは無輻射的である。本手法により、このプロセスが発光や過渡吸収を用いることなく直接的に観測できることを示した。つまり、本手法は、単に独創的なだけではなく、過渡吸収法や時間分解蛍光測定と並んで、超高速ダイナミクスの研究に有効であることが実証された。従来の方法に加え、超高速の屈折率変化を通して追究するという、新しいアプローチの仕方を提案した点は、高く評価できる。 第4章では、本手法を用いて、オーラミンO溶液の緩和時間溶媒依存性を観測した。オーラミンOは、蛍光による粘性プローブとして用いられてきたが、低粘性溶媒中では蛍光強度が弱いことから、超高速ダイナミクスに関してほとんど調べられていなかった。そして蛍光寿命測定では報告のなかった成分を本研究ではじめて見出した。分子軌道計算(MOPAC)から、この成分は励起状態でジメチルアニリン基が回転し、安定な構造に移る過程であると結論した。本論文では、新しく見出したこの成分について更に考察している。 緩和時間は溶媒の粘性だけで説明されてきたが、本研究で見出した成分は、粘性よりもむしろ溶媒の分子量に相関があった。ここでは、次のようなモデルを提案した。溶質-溶媒間水素結合のため、溶質の回転部分は溶媒を伴いながら回転する。このとき溶媒分子が慣性的な効果で回転を阻害するので、溶媒の分子量が大きくなると、緩和時間が増加するというモデルである。 オーラミンO溶液のダイナミクスについて、未報告であった成分を本手法により初めて見出し、従来の知見に、分子レベルの効果の考察を新たに加えた点は、高い評価に値する。 半導体回路の高速化、集積化に伴いナノ空間領域での超高速エネルギー移動プロセスが注目されている。また、触媒反応をはじめとする表面化学においても、金属、半導体微粒子の超高速ダイナミクス測定は必須である。そのような背景から、水中及びガラス中の銀超微粒子へ本手法を適用している。 第5章では、水中の銀超微粒子について以下のように考察している。銀微粒子内励起電子の失活後、溶媒へのエネルギー移動と同時に、銀超微粒子周囲の溶媒分子の配向緩和が起こっている。一方、SDSが添加された場合は、励起電子失活後、銀超微粒子から溶媒へ、SDSの層を経て2段階でエネルギー移動が起こる。 第6章では、ガラス中の銀超微粒子について考察している。銀超微粒子内の電子励起に伴い屈折率が減少する。続いて、励起電子の緩和を経て、銀超微粒子の温度が上昇するため、屈折率が高くなって信号強度が強くなる。その後は、銀超微粒子表面-ガラス間で速いエネルギー移動に続いて、ガラスへの熱移動が起こる。 本手法により、異なる環境下の銀超微粒子の緩和ダイナミクスを追究した。微小空間における超高速熱移動について新しい知見を得た点は、評価できる。 以上本研究では、新しい超高速ダイナミクス測定法を開発し、新たな物理化学現象をとらえることに成功した。本手法は、光熱変換分光法の特性を活かして様々な無輻射緩和過程の研究に応用されよう。超高速ダイナミクス測定としては励起光パルスの尖頭値が比較的低いので、光合成、視覚関連分子や非線形光学材料のin-vivo、in-situ測定への応用が期待できる。また、本論文では、白色光を用いてスペクトル測定を可能にし過渡レンズ信号に詳細な分子構造の情報を付加することを展望している。本論文は、今後の展開、波及効果が大いに期待されるフェムト秒過渡レンズ測定法を提案した点で高く評価できる。 よって本論文は、博士(工学)の学位論文として合格と認められる。 |