内容要旨 | | 本研究は,学校教育における民俗学の受容を,民俗と教育との関係が活発に議論された1933年から1962年にかけての,郷土教育・生活綴方教育・社会科教育の実践事例に即して叙述し,学校教育における民俗の発見と国民の創出との相剋を,以下のような歴史的構造において明らかにした. 民俗の発見を基盤として子どもの国民意識を再構築しようとする教育実践は,1930年代に成立し,1945年を画期とする戦後復興期とそれに続く高度経済成長期に列島各地に普及している.1933〜37年にかけて民俗学は,郷土教育と生活綴方教育の実践において受容されている.民俗学を受容した教育実践(以下,民俗教育と略記)は,民俗を国民にとって同一性において表象し得るものとして捉えようとする一方で,民俗を均質化し得ぬ多様な差異を含むものとして発見する契機を含んでいた. 1945年の敗戦を経て,民俗学は,1947〜62年にかけて戦後新設された社会科教育において受容されることになった.1945年の敗戦により,学校教育の公的目標は,天皇に自発的な忠誠を誓う臣民の育成を目指す戦前の教育から個々人が権利と義務を保障しあう自立的で平等な国民の育成を目指すことへと転換している.また,民俗学も翼賛文化運動から解放され,研究の自由を新たに獲得していた.にもかかわらず,この時期,国民に同一な民俗像を予め設定し,子どもに教えようとする民俗教育の新たな様式が登場している.このような様式の教育実践は,教科書作成を媒介として,列島各地で取り組まれ,民俗教育の主流をなすことになった.戦後,民俗学を受容して構想された教育実践において,子どもの民俗の多様性に対する注目は総じて薄れていったのである.以下,各章の議論を要約し,学校教育における民俗学の受容の歴史を改めて俯瞰してみたい. (1)第一部 民俗教育の創造 民俗学が近代的な自律した学問としての体裁を整えた1930年代に,民俗学の学校教育への受容は本格化している.第一部では,1930年代における民俗教育の創造を四つの章において検討した.小学校教師が民俗学に接近した背景は,郷土教育からの影響,生活綴方教育からの影響,地方主義文芸運動からの影響,民俗学自体への学問的な関心という四つの類型に整理し得る.特に民俗教育の成立に大きな影響を与えた郷土教育と生活綴方は,個別の地域に生きる子どもの具体的姿に注目したことから,一部の教師は,地域の特異性に即して人々の生活文化を明らかにしようとする民俗学に興味を抱くことになった(第一章). 民俗学に接近した教師たちが発見した民俗の差異は,取り換えのきかなさという固有性,共同体を越えて人や民俗が移動するという越境性,様々な文化の複合的構成という異種混淆性の三つの様態に整理し得る.第二章では,民俗の固有性に発見した教師として長野県上伊那郡川島小学校の教師竹内利美を取り上げた.竹内は,固有な民俗の背後に「教育現象」を発見し,従来の学校が「国民教育」のみに依拠し,村の日常における「教育現象」と断絶してきたことを問題にしている.その上で竹内は,民俗を子どもに採集させ記録させる教育実践を展開することを通して,日常生活で受けている無意識の教育を子どもに自覚させ対象化させる場へと学校を転換しようとしていた(第二章). 第三章では,民俗の越境性を発見した教師として,大阪府泉北郡池田小学校の教師だった宮本常一を取り上げた.宮本は,村人の「慣行自治の教育」に「旅」が大きな役割を果たしたと考え,子ども達が近在の民俗を採訪するという小さな旅を学校教育の中に組織している.宮本は,近在での民俗採集を通して自らの村の民俗を子どもに振り返らせ,「感情的紐帯」という村人の集合心性を新たな形式において再生しようとしていた(第三章). 第四章では,民俗の異種混淆性を発見した教師として青森県弘前市石川小学校の教師だった三上斎太郎を取り上げている.三上は,民俗学を拠り所として日常語の価値を再発見して方言での識字教育を試み,標準語による国語の教育に対抗しようとしていた(第四章). 以上のように,1930年代に民俗教育を試みた教師たちは,民俗の差異の発見を媒介にして,国民教育と村における教育作用とが出会いせめぎあう場として学校を位置づけ直そうとしている.教師たちは,国民教育の存在を否定した訳ではなかった.例えば三上斎太郎が,子どもの「方言」を国語の一形態と見なし,国民に「国語」という単一の言語が共有されているという観念を補強しようとしていたように,教師たちは,発見した民俗の差異を再び国民化する論理も準備していたからである. (2)第二部 民俗教育のイデオロギー 第一部で検討した民俗の国民化の論理の特徴を歴史的に位置づけるために,第二部では,学校教育における1900年代から1920年代にかけての民俗学の受容と,1940年代前半における民俗学の受容を,特に国民への統合と排除の論理に焦点を当てて取り上げ,戦前期における民俗の国民化の論理がどのように変容していたかを検討した. 内地周縁部では,既に1900年代から民俗学的言説を受容して子どもを国民化しようとする取り組みが異民族を対象にした学校教育で試みられている.本研究では,民俗学の受容が特に顕著だったアイヌ教育の事例を吉田巌の教育実践に即して検討した.アイヌを国民としての日本人に含める言説と異民族と捉えて日本民族から排除する言説という二つの民俗学的言説は,教養・衛生・観光という三つの文脈で組織された吉田の教育実践に受容され,子ども達の民俗を国民化する過程で,国民の多数派としての日本民族の標準型から改めて異化し,アイヌという民族意識を子どもに再構築していた(第五章). それに対して第一部で検討した1930年代になると,民俗教育は日本民族の子弟を対象にして日本全域で構想され,子どもの民俗を国民化して捉えようとする過程で異化し,その異化した民俗を手がかりとして村人意識を再構築することになった. 1940年代前半になると,民俗を国民化するための新たな論理が生成されている.それは,国民文化の起源型という新たな意味付けを眼前の個々の民俗に与えようとするものであった.1930年代の民俗教育では,村の教育作用と国民教育とが村人の生活において対抗性をはらんでいることが強調されていた.それに対して1940年代前半になると,村の教育作用は国民教育の古型と見なされ,村の教育作用と国民教育とが歴史的な連続性の下で捉えられる傾向が新たに生じることになったのである(第六章). (3)民俗教育の再編 1945年の敗戦を契機として,民俗教育は再編されている.国民一般に共有される民俗像を予め設定し,それに関する知識を子どもに付与するという,戦後の民俗教育の主流をなした教育実践は,次の二つの手法において展開されていた. 第一に歴史教育に民俗学を受容し国民化した民俗の変遷史を教養として子どもに付与するという手法である.代表的なのが和歌森太郎の歴史教育論であった.和歌森の構想は,列島内部の多様な民俗から日本人の民俗の発展史を創出する重出立証法を援用し,子どもの民俗を日本人の民俗の発展史の中に位置づけようとする傾向を含んでいた(第七章). 第二に一般社会科に民俗学を受容し,農村文化的な民俗事象を国民一般の民俗の起源型と見なした上で,それを知識として子どもに習得させようとする手法である.代表的なのが,成城学園初等学校における「柳田社会科」の実践であった.「柳田社会科」は,かつての日本人が共有していた生活習慣として一般化した民俗像を教育内容に設定し,どこにもありそうでどこにもないものとして理念化されたムラやイエのイメージを,郷愁と共に受容することを子どもに求めていた(第八章). このような二つの手法において,民俗は農村文化,それも稲作文化に由来するものにほぼ限定されていた.畑作文化や漁業文化,渡り職人など遍歴者の文化,都市生活の文化など,列島内部に存在する多様な文化にそれぞれ民俗を読みとるのではなく,農村文化に由来する生活習慣にのみ民俗の存在が読みとられている.戦後の民俗教育において,個別具体的な地域における子ども達の民俗の多様性に対する意識は総じて希薄化されていた. ただし,個々の民俗の微細な差異を子どもに対象化させようとする実践も一部の教師によって試みられている.そのような教師の代表として群馬県勢多郡横野中学校の教師都丸十九一がいる.都丸は,人々が字(あざ)ごとに独自の気風を備えていることに気づき,その気風を「村がら」と名付け,「村がら」の省察を子どもに促す教育実践を展開している.しかし,都丸の実践もまた,国民における民俗の同一性を自明の前提としていた点で,戦後における民俗学受容の枠を越えているものではなかったのである(第九章). |