1972年の日中国交正常化と中国による対日賠償請求権の放棄後の日中関係の展開は対中国援助と不可分に結びついていた。本論文は、79年の大平内閣期からスタートしたこの対中国援助(以下、対中援助)の供与内容と政策決定を95年村山内閣期までの17年間にわたって跡づけ、この間の援助制度の変容と役割の解明を行うものである。構成としては、「第1章 序」で著者の問題関心、先行研究の検討、分析の枠組みを示した後、「戦後日中政治経済関係の歴史的変容過程と民間経済協力の制度作り」と題する前史、そして本論文の中心を成す対中援助の5つの政策決定を分析した5つの章が続き、最後は「結論:官邸調整型「政治援助」から漸進的構造変容」をもって結ばれている。A4版で263頁、本文400字×約860枚の業績である。 「第1章」で、著者は、日中間の政府間経済協力の内実がほとんど総額決定方式の中国向け円借款援助であった点に着目し、この対中援助の供与・凍結をめぐる政策決定ブロセスとその援助の内容と変容を解明することが、日本の対外援助政策及び日中政治経済関係の研究に重要な意義をもつに違いないとする。そして著者は、79年からの円借款パッケージの供与を中心とする日中政府間経済協力を大きくみて五つの政策決定が行なわれたとみる。すなわち、大平内閣の第一次円借款協力、84年中曽根内閣の第二次円借款協力、88年竹下内閣の第三次円借款協力、89年から90年にかけての「天安門事件」に伴う新規円借款の凍結とその解除決定、94年の第四次円借款協力と中国の核実験による無償援助の凍結決定である。これらの詳細な分析を通じ対中援助の特色を描き出すことが本論文の意図であるとしている。そのために、著者は、対外援助をめぐる「商業援助論」、「戦略援助論」、「自助努力支援援助論」などの既存の仮説を検討した上で、対中援助の全容の総合的分析に適した「内外圧調整的政治決定モデル」を独自に設定する。このモデルでは中国からの要請・圧力と米国からの外圧も取り入れ、また自民党(政府与党)や財界からの要請・内圧も考慮した上で、外務省、大蔵省、通産省、経済企画庁の経済協力四省庁の実務的積み上げと調整、及び首相官邸の政治的調整と判断が重視される。そして、経済協力四省庁と首相官邸が「直接政策決定アクター」として政策決定の主体となり、中国、米国、自民党、財界が「間接政策決定アクター」として圧力ないし影響力を行使するという。そこから、対中援助の政策決定の特徴を析出するため「内外圧反応決定一政府自主決定」「実務的省庁調整一政治的官邸調整」「内圧中心調整一外圧中心調整」という三つの分析枠組を創案し、分析を試みるとしている。 前史にあたる第2章では、79年に日中間の政府間資金協力がスタートするまでの戦後日中政治経済関係について、吉田・鳩山内閣期の政経分離政策と日中民間貿易協定、岸内閣期の日中断絶と第三次日中民間貿易協定、60年代の日中政治経済関係とLT貿易・覚書貿易、日中国交正常化と日中民間経済協力といった歴史的変容の過程と民間経済協力の制度作りが丹念に跡づけられている。 第3章では、大平内閣期の第一次対中援助の供与決定と援助内容を分析している。第一次円借款は6プロジェクトを対象に79年から84年までの5年間で15億ドルの円借款パッケージを、総枠提示方式で提供するものであった。円借款援助の供与条件は借款金利3%、10年据置を含む30年間返済、調達条件は「原則アンタイド」で落ち着く。大平内閣は「年内訪中」を想定して政府間資金協力に積極的に取り組んだ。早期に「対中経済協力3原則」をまとめ上げ、日米関係や日本・ASEAN関係との整合性を整える。首相官邸は「政府事務当局案」に、円借款の総額を約束する表現の手直しと資材の調達先を限定しない「原則アンタイド」方針を指示したほか、「対中経済協力3原則」を以って自民党からの圧力をかわした。著者は、これを「政府自主決定」及び「政治的官邸調整」であったと特色づけている。 第4章では、中曽根内閣期の第二次対中援助をめぐる政策決定プロセスを分析している。第二次円借款は84年3月「中曽根訪中」を通じて7年間7ブロジェクト4,700億円を供与するもので、複数年度総枠提示が定着した感を与えるという。第二次円借款は約1千億円の使い残し分が生じ、9案件の追加と第三次円借款の1年前倒しを余儀なくされた。借款条件は第一次とほとんど変わりがなく「毎年協議のよる金利変動」ぐらいが目立つという。中曽根首相は対中援助を通じて日中友好の再構築を図り、日米協力、日韓協力とともに一連の「手作り外交」の完成を目指した。首相官邸は自民党チャンネルを通じて日中間の政治的調整に力を入れたほか、3月訪中に臨んで省庁間の調整を促し、積み残し分の商品借款300億円を加えて援助総額を5千億円台に乗せた。総額決定及び全体の枠組みは「政治官邸調整」の要素が強く、外圧は見当たらず「政府自主決定」であったという。 第5章では、竹下内閣期の第三次対中援助の供与決定と援助内容を分析している。第三次円借款パッケージは88年8月「竹下訪中」を通じて実現し、90年度から95年までの6年間で42ブロジェクト総額8,100億円をブレッジするものであった。中国が早くも86年度末から2年間の前倒しを求めたことや、使い残し円借款1千億円と資金還流特別資金1千億円の処理問題とも絡んでいたという。第三次円借款の本格的な交渉と積み上げ調整は、竹下内閣と趙紫陽総書記・李鵬首相体制との日中両国の新指導部の誕生をもって活発になった。首相官邸が打った手は、88年4月「伊東訪中」での政治的地ならし、5月「宇野訪中」での使い残し円借款と1千億円特別資金の処理、7月外務省案の策定と村田外務次官の訪中、8月政府案の決定と「竹下訪中」であった。中国からの圧力が間欠的にみられたものの、官邸主導の「政治的官邸調整」で「政府自主決定」と言えるという。 第6章では、天安門事件に伴う第三次円借款援助の凍結・凍結解除過程を分析している。まず、宇野内閣の首相官邸は当初「日中特殊関係」論に傾き、円借款凍結にそれほど積極的ではなかった。ただ首相官邸は、中国の人権・民主化問題と絡んで「西側協調」か「日中特殊」かを選択せざるをず、外務省を中心に日米関係を考慮して円借款凍結を決めた。これは「内外圧反応決定」で「政治的官邸調整」、「外圧中心調整」と判断できるという。次に、海部内閣期の凍結解除決定においては、外務省が米欧の動静に目を配り凍結解除に慎重論を唱えた反面、大蔵省はむしろ積極的に「部分解除」を支持した。首相官邸は円借款再開に前向きだったものの米欧の世論が厳しく、米欧の了解を取り付けて「部分解除」から徐々に「全面解除」へつなげていく方法を模索した。「松浦訪中」と「雛家華訪日」を通じて日中政府間では「事実上」の凍結解除方針が確認されてから、ヒューストン・サミット直前になってようやく米政府の同意が得られ、サミットでG7の了解取りつけに成功した。海部内閣は最後まで米国の同意を求める形で円借款再開に持ち込んだ。これらは「内外圧反応決定」、「実務的省庁調整」、「外圧中心調整」であったという。 第7章では、村山内閣期の第四次対中援助の供与決定と無償援助の凍結決定を中国の核実験強行と関連づけて分析している。第四次円借款は「前3年」分の96年から98年まで40プロジェクトを対象に5,800億円を提供する内容で、環境・農業・少数民族関連等の案件が重視された。また、供与方式として「3+2」方式を取り入れ、一括総額コミットから柔軟性を確保しようと方針転換を図る。第四次円借款の決定に大きく影響した環境要因は日本の急激な政治変動と中国の核実験であった。中国は円高による返済負担増問題や台湾問題を取り上げて圧力をかけ、外務省と村山内閣は核実験を止める外交カードとして円借款援助が持ち出されるのを懸念した。この決定は「政府自主決定」及び「実務的省庁調整」であったという。次に、無償援助の凍結決定は、慎重姿勢を崩さなかった村山内閣が同内閣期の3回目の核実験に反応した結果であった。自民党や連立与党、さらに野党からも圧力が加わり、無償援助の凍結決定に首相官邸がすばやく動いた。大蔵省や通産省の動きは目立たず、「内外圧反応決定」「政治的官邸調整」「内圧中心調整」だったという。 終章では、官邸調整型「政治援助」としての対中援助の特質とその構造変容をまとめている。巨額の円借款を複数年度総枠提示で供与してきた対中援助は、中国の綿密な根回しや要請に応じつつ首相官邸の政治的調整が常に重要な比重を占めた。中国からの援助要請は日中間の政治的案件と絡むことが多く、自民党・野党からの内圧や影響力も無視できなかった。さらに、中国の民主化・人権・核実験の状況や巨大な潜在マーケットに対する欧米の関心も高かった。こうして、援助供与案作成をめぐって首相官邸の関与度が高く、経済協力四省庁の実務的調整を経てから必ず官邸調整を要する場面が多かった。80年代までの対中援助は「日中特殊関係」への配慮と改革・開放勢力の近代化推進への支援、資源と市場の確保を目指す経済外交といった側面が複合的に絡んだ官邸調整型「政治援助」であったと言えるとしている。 一方、89年度からのボスト冷戦期とあいまって、中国で「天安門事件」や核実験が起きるなど、従来の援助枠組みだけでは解決できない新たな課題が生じて対中援助のあり方は変容を余儀なくされた。民主化・市場経済化支援、環境保全、軍縮、核実験禁止などの新たな援助理念が「ODA大綱」の策定を通じて追加されることになり、国際社会の環境変化と援助制度の整備が対中援助の供与に大きく影響したという。 最後に、著者は、官邸調整型「政治援助」として対中援助と最も類似した援助ケースは83年中曽根内閣期の「40億ドル日韓経済協力」だったと指摘しつつ、他の国や地域向けの援助ケースに官邸調整型「政治援助」論が当てはまるかどうかはさらに詳細な分析と検討を要するとして、本論文を終えている。 以上が本論文の要旨である。以下、評価を述べる。 まず第1に、本論文は、対中援助は本質的に日中関係を重視する官邸調整型「政治援助」であったことと、90年代に入ってから漸進的に構造変容を遂げてきたことを明確に浮き彫りにすることに成功し、この間の日中関係の本質的部分を解明するうえで、大きな貢献をなしたと言える。すなわち、類例のない巨額の円借款パッケージ、複数年度総枠の提示、「対中経済協力3原則」、頻繁な内外圧の発生、首相官邸の調整度合いの増加などの諸特徴は、官邸調整型「政治援助」として対中援助の位置づけを裏づけているといえる。一方、対中援助の供与は90年代から日中関係や国際社会の激しい変動を受けて、援助内容、援助制度、政策決定において多くの変容を強いられたことも明らかになった。これは、従来の日中援助研究にない新たな地平を開いたものとして高く評価できる。 第2に、本論文は、対中援助が本質的に日本政府の「政治的」判断に基づく援助、つまり「政治援助」であったとみる独自の視点を確立し、「政治援助」としての対中援助が、80年代までの日中関係を重んじる官邸調整型政治援助と90年代からの省庁調整型政治援助への移行という2つの方向性を辿ったことを明らかにすることによって、「政治援助」に関する学問的な理解の水準を高めたと評価できる。しかも、援助政策の決定過程の分析が、この間に主役としてかかわった各内閣の性格を逆照射することになり、内閣史としても興味深いものにもなっている。第3に、本論文は援助政策に焦点を当ててはいるが、総じて、70年代から90年代にかけての日中関係の研究としても、他にこれだけ詳細な本格的研究がないだけに先駆的な業績として価値の高いものであると評価できる。 もっとも、本論文にも注文をつけるべき点がないわけではない。一つは、対中援助は本質的に日本政府の「政治的」判断に基づく「政治援助」としての性格が一番強かったという分析結果は肯首できるが、官邸調整型政治援助の「政治」が主として大蔵省などの「行政」に対比されているのに対し、省庁調整型政治調整の「政治」が何に対比されているか必ずしも明らかではないことである。「政治」という言葉が元来多義性を持つが故に、この点にもう少し言及がほしかった。 もう一つ挙げるとすれば、この間の対中援助政策の展開過程の分析によって、政治アクターのみならず広く国民の対中国観の変化を含め日中関係全体の歴史研究にどのような新たな光を与えることができるのかについて、もう少し巨視的な指摘と展望が示されてもよかったのではないかという点である。 しかしながら、以上のような問題点も本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、対中援助の供与及び凍結をめぐる政策決定ブロセスと援助内容の解明により、日中関係の展開に関する研究に新たな1ページを開く貴重な貢献をなすものである。したがって、本論文は博士(学術)の学位を授与するに相応しいものと認める。 |