学位論文要旨



No 114824
著者(漢字) 岩田,太
著者(英字)
著者(カナ) イワタ,フトシ
標題(和) 合衆国における刑事陪審の現代的役割:死刑陪審の量刑裁量をめぐって
標題(洋)
報告番号 114824
報告番号 甲14824
学位授与日 2000.01.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第153号
研究科 法学政治学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,範雄
 東京大学 教授 伊藤,眞
 東京大学 教授 井上,正仁
 東京大学 教授 北村,一郎
 東京大学 教授 寺尾,美子
内容要旨

 本稿は,死刑犯罪で有罪となった被告人に対し死刑を科すか,終身刑にとどめるかにつき,陪審が行使する量刑裁量に焦点をあて,合衆国における刑事陪審の現代的意義を検討する.従来の陪審研究は,有罪・無罪を判断する陪審の事実認定機能を中心に分析し考察するものがほとんどであった.しかし,本稿では,一方で謀殺罪という典型的な犯罪の処理における,量刑の妥当性をも含めた陪審の機能に焦点をあてつつ,同時に公判での機能にとどまらず,実体法の影響など刑事司法全体における陪審の位置づけを常に意識しながら,その現代的意義を探る.そのために3つの観点から考察を試みた.第1に,イングランドおよび合衆国における陪審の量刑裁量の成立過程を跡づけ,第2に,現代合衆国の死刑陪審法制の概要を把握し,第3に,死刑陪審の実態に関する最近の研究を紹介し分析する.最後に,刑事陪審の現代的意義を考察する.

 第1章では,イングランドと合衆国における陪審による死刑量刑制が成立する過程を探る.そのため,19世紀までのイングランドおよび植民地時代からの合衆国の歴史を検討する.

 イングランドにおいては,伝統的に陪審機能は事実認定だけとされ,制度上陪審は量刑に関与しなかった.しかし,実態面に眼を向ければ,陪審は有罪・無罪の判断を行う際,死刑という刑罰の妥当性まで考慮していた.つまり,当時の絶対的死刑制度の下では,陪審の有罪評決が即,死刑を意味したため,陪審は,被告人の罪が明白であっても,罰則である死刑が過剰と感じ,時折無罪評決を行った.これは,いわゆるジュリー・ナリフィケーション(陪審による法の適用拒否)の問題であるが,本稿ではそれを陪審量刑制の萌芽と捉える.

 さらに,合衆国では,独立過程で果たした重要な役割,および,国内での州権派と連邦派(中央政府派)の対立から,イングランド以上に陪審を重視した.その結果,建国初期は,伝統的な機能である事実認定だけでなく,法律判断,一般刑事事件の量刑,死刑事件における量刑なども陪審に委ねられた.今日でも,第2の非死刑事件での陪審量刑制は少数ながら維持され,さらに,死刑事件における被告人に死刑を科すか否かの判断は,死刑を持つ州の大多数で陪審が行う.

 合衆国において死刑陪審量刑制が創設されたのは,ジャクソニアン・デモクラシーが高揚した1830年代であるが,その過程は死刑縮小の流れと緊密な関係にあった.そもそもイングランドに比べ植民地時代から死刑犯罪が少数だったことに加え,18世紀末から4つの方向から死刑の縮小化が起る.第1に,死刑相当犯罪が謀殺のほか2,3の犯罪に限定化されるだけではなく,19世紀前半には死刑縮小運動が最高潮に達し,実際,数州で死刑の全廃が行われた.第2に,近代的刑務所の成立によって,18世紀末から刑罰としての拘禁刑が確立する.第3に,犯罪の等級化がなされ,同一犯罪類型内でも,罪の重さによって死刑相当犯罪とそれ以外の罪へと分化する.第4に,絶対的死刑制度から陪審による裁量的死刑制への移行である.このような死刑限定化の背景には,死刑に対する民衆の躊躇とそれを反映した陪審の行動があった.イングランド同様,陪審は絶対的死刑制に反発し,死刑の過剰さを理由に,実際には有罪の者を無罪とした.このような状況を回避するため,陪審量刑制が創られた.つまり,合衆国においては,非公式的もしくは制度的に,犯罪者に死刑を科すかどうかの判断は,常にコミュニティを代表する陪審に委ねられてきた.このような歴史は,陪審と裁判官の機能区分についての伝統的な説明である「陪審は事実問題を,裁判官は法律問題を決定する」という命題の不十分さを改めて浮き彫りにする.

 さて,合衆国の死刑運用においては,陪審を通じたコミュニティの関与にその正当性を大きく依存するが,それだけでは運用の適正さを担保できなかった.つまり,1960年代までは明らかに人種差別的,恣意的運用がなされていたために,死刑の適正な運用を確保する何らかの手だてが必要であった.このような現代合衆国における死刑運用の法的規制をめぐる問題点については第2章で検討した.

 合衆国(連邦)最高裁は,「残酷で異常な刑罰」を禁止する合衆国憲法第8修正を根拠に,死刑の決定過程に対し詳細な手続的規制を行う.死刑自体の実体ではなく,決定過程という手続を問題とするのは,連邦制と密接に関係する.すなわち,連邦憲法が本来連邦政府の権限行使に対する制約を目的とするものであることに加え,「残酷かつ異常」という第8修正の文言が明確な倫理的判断を要求するために,大多数の国民が死刑を支持し,多くの州が死刑制を維持する状況では,最高裁は違憲判断に消極的にならざるをえない.それに対し,手続的規制は裁判所の伝統的な領域であり,かつ,公正な裁判の促進という目的が批判の対象になり難いという利点を持つ.

 そして,Furman(1972)およびGregg判決(1976)によって,死刑決定過程の手続的規制が本格的にはじまり,現代的な死刑制度の枠組みが形成される.しかし,その後も連邦制への配慮がなされ,具体的な手続策定のイニシアティブは常に州に委ねつつ,連邦最高裁はそれらの適正さを事後的に判断するという手法をとる.

 現代の死刑決定過程における最大の懸念は,恣意的な運用の可能性である.そこでは,死刑判断者として基本的に陪審が予定され,陪審の裁量のコントロールが中心課題となる.死刑陪審の量刑裁量に対する規制には,3つの場面がある.第1に,陪審員の人的構成の問題であり,具体的には信念として死刑に反対する者を排除する実務に対する規制である.現代の基準では,死刑に何らかの躊躇いを持つだけでは不十分で,死刑反対の信念が適正な量刑判断を実質的に阻害する場合だけに排除が許容される.第2は,死刑判断にあたって考慮しうる情報の規制である.そのため,罪責審理と量刑審理を分離する2段階手続,および,量刑判断のための指針を与える指針つき裁量制が採用された.一般的には,考慮要因の範囲につき,加重事由は制定法に限定列挙され,反対に,死刑を科すべきではないという判断に関連する減軽事由は限定できない.第3は,陪審員の役割認識に対する規制である.死刑という究極の刑罰を科す以上,陪審がその役割を正確に理解し,重大な責任を自覚しなければならない.そのため,決定責任を低減するような言動は禁止される.連邦最高裁は,これらの3類型の規制により,真に死刑が必要な犯罪者を適正に選出できると想定する.

 このような連邦最高裁による想定の現実的効果を検討するため,第3章では死刑決定過程の実態面に焦点をあてる.第1に,死刑反対者の排除実務が死刑判断に与える影響についての研究によれば,一般刑事事件の陪審を基準とした場合,女性,人種的少数者がより多く排除される死刑陪審は,被告人に対して非寛容で有罪傾向が強いことが示された.第2に,最高裁による量刑審理への規制について,詳細な研究を行った死刑陪審プロジェクトの成果についても詳しく紹介し分析した.まず,2段階審理・指針つき裁量制という基本構造,考慮要因の範囲および立証のルールについて,陪審の理解は不充分なものであった.また,実際の判断過程で重要なのは,法定事由か否かに関係なく,被告人の将来の危険性であり,それは死刑が科されない場合の刑期,それも直感や不正確な情報に基づく陪審の推測から判断されていた.さらに,陪審は死刑についての決定責任を負うことに消極的で,可能な限りその責任を軽減するよう努力していた.それでも裁判官と比較すれば,依然として陪審による死刑評決の割合は低く,被告人に寛容であることも示された.

 本稿のむすびとして,陪審の領分,連邦制度下における陪審,死刑事件における陪審の意義という3つの問題を考察した.まず陪審の領分については,量刑判断の機能的分析によれば,量刑作業には,陪審が伝統的に得意な事実認定やコミュニティの応報感情の算定がしばしば含まれる.つまり,陪審量刑制の歴史,および,量刑作業の機能的分析からみると,制定法の定義を絶対視し,陪審の領分を犯罪の構成要件に限定する連邦最高裁判例の問題点が明らかになる.従って,仮に,陪審の領分が歴史および課題の機能的分析によって画定されるとすれば,量刑においても陪審の権利を保障すべきであるという主張が十分可能であることを確認した.第2に,McGautha判決(1970)のHarlanとBrennanの対立を参考にしつつ,連邦制度における陪審の位置づけが,従来の理解とは異なり,陪審の重視が直接的に被告人の人権保障の促進に繋がらない可能性を示す.つまり,連邦制度の下では,陪審を重視しつつ,連邦による州への規制・介入を否定することにより,結果的に,被告人の救済を否定するという議論が一定の説得力を持ち,それがアメリカにおける陪審の意義および限界を考える上で重要であるとの示唆をした.最後に,死刑事件における陪審の意義を,死刑の特殊性の観点から考察した.すなわち,死刑という究極の刑罰は倫理的な問題で,個人の正義感,信条に密接な関係があり,また,政治的にも意見が鋭く対立する問題であるために,運用の一貫性,合理性を維持することは至難の業であった.そして,本稿は,そのような困難な判断を陪審に委ね,適正さを担保しようとしたところに,アメリカ社会の姿勢および陪審制の意義を見出した.

審査要旨 I論文の課題設定

 本論文は、アメリカ合衆国における死刑陪審--死刑を科しうる犯罪で有罪になった被告人に対し実際に死刑にするかまたは終身刑にするかの判断を行う陪審--の現代的意義につき考察した200字換算2000枚を優に超える論文である。序章と終章の間に3つの章をおき、多様な角度から死刑陪審の意義を考察する。

 まず、序章においては、論文の問題設定が行われ、次のような課題と筆者の問題意識が明らかにされている。

 アメリカの刑事司法において、裁判官と陪審の役割分担については、事実認定を行い、それに裁判官によって説示された法をあてはめて有罪・無罪を認定するのが陪審であり、有罪とされた場合に量刑を行うのは裁判官であるといわれる。だが、このような図式的理解では不十分であるという指摘から本論文は始まる。「事実問題は陪審に、法律問題は裁判官に」という標語は一般論としては正しくとも、現実の陪審は、「事実認定を超える」機能を果たしている。それが典型的に顕れる場面が、死刑陪審である。

 そもそもアメリカにおいては、母国イギリス以上に、「事実認定を超える」機能を陪審が果たしてきた。すなわち、まず、植民地時代と建国初期を通じて、陪審には事実認定のみならず、法の妥当性をも含めて判断する権限を認める法域が存在した。次に、(死刑判断に限らず)陪審が一般的に量刑も行うとする法域が多数あり、現在もなお、少数ではあるもののそのような法域が存在する。さらに、死刑事件については特にその傾向が顕著であり、現在、死刑制度を維持する38州および連邦のうち、刑の決定につき陪審の関与を認めない州は5州に過ぎない。

 陪審が「事実認定を超える」機能を果たしてきたことについては、いわゆるジュリー・ナリフィケーション(jury nullification=陪審による法の無視)をめぐる議論が比較的よく知られているが、これまでの研究は、陪審制度の政治的側面に着目し、政治性の強い刑事事件におけるジュリー・ナリフィケーションの意義を強調するものが多かった。これに対し、政治的事件のみならず非政治的な通常の刑事事件においても、陪審が「事実認定を超える」機能を果たしてきたことを示すことが、本論文の第1の目的である。

 本論文の第2の目的は、現代アメリカにおける陪審制度の意義を刑事司法制度全体の中に位置づけて分析することである。陪審については、素人あるいは一般国民の司法への関与という側面のみが強調されるが、陪審制度の意義は、それにとどまらず、陪審が名実ともに公正な裁定者たりうるための手続やメカニズムに存する。刑事司法制度の中で、どのようなメカニズムが作られ、働いているかを検討する上で、死刑陪審は好個の素材となる。

 本論文の第3の目的は、死刑と陪審という、それぞれ、それ自体として大論争の課題となり得る2つの重要テーマを結びつけることにより、現代のアメリカにおける陪審の意義を、より鮮明に浮かび上がらせることにある。アメリカのみならずわが国においても、死刑に関する研究も陪審に関する研究もそれぞれ膨大なものがあるが、この2つをつなぐ研究は驚くほど少ない。現在、アメリカにおいては、死刑陪審に関する実態調査研究(capital jury project)が進行中であり,本論文は、その成果を取り入れつつ、陪審制度がある種シンボリックな重要性をもつ場面において鮮明に顕れるその理念と、さらに現実との乖離を明らかにしようとした。

II論文の概要

 1.以上のような課題設定を受けて、本論文は次のような構成をとる。

 まず第1章では、「陪審の量刑裁量の起源とその発展」と題して、陪審発生の地イングランドの歴史に遡り、陪審が量刑を含む権限を実質的に行使してきたことを論証し、さらにアメリカではそれがいっそう強化され、かつ制度化されたプロセスが詳しくたどられる。そこから導かれるものは、刑事陪審の権利を保障する憲法第6修正につき現在の連邦最高裁がとっている解釈、すなわち、量刑についてはその保障の対象とならないとの解釈論に対する厳しい批判である。

 第2章では、「合衆国における死刑陪審:連邦最高裁の想定する陪審機能」との表題の下に、死刑に関する最高裁判例の分析が行われる。そこから抽出されるものは、最高裁が、陪審の裁量に対し、憲法上一定のコントロールを要求することにより、適切な死刑制度の運用を図ろうとする姿である。

 第3章は、「死刑事件における陪審の実際的機能」と題して、死刑陪審に関する最も新しい実態調査を含めた研究成果を検証し、最高裁が発展させてきたルールに対する実証的な検討が試みられる。その結果、陪審の裁量に対し最高裁が形成した判例法のルールと実態との間の重要なギャップが明らかになるとともに、それにもかかわらず大多数の州で死刑判断を陪審に委ねるところにアメリカの陪審制度の根強さを見ることができるとされる。以下、各章の内容をやや詳しく紹介する。

 2.第1章は、量刑について陪審の関与の存在を歴史的に検証する部分である。

 イングランドにおいては、「陪審は事実認定、裁判官は法的判断」という枠組みが制度的に維持されてきた。これは陪審発生の起源に由来する。初期の陪審は、当該事件の証人としての性格が強く、まさに事実を認定する有力な手段であった。後の16世紀に、陪審の性格が事実提供者から中立的な事実裁定者に変化した後も、陪審は有罪・無罪に関する事実認定を担当し、量刑については裁判官が判断するという原則が維持された。

 だが、制度の実態面では、イングランドでも異なる側面がみられる。それは、実体刑法上、犯罪を重罪と軽罪とに二分する考え方が同じ16世紀半ば頃確立するが、重罪に対する刑罰は一律死刑と決められており、実は裁判官にも量刑裁量がなかったという事情による。正当な殺人や免責しうる殺人という類型もあったものの、それらは法律上きわめて限定されており、その結果、制度上、殺人のケースの大多数は死刑になるはずであった。ところが、陪審は、事実提供者としての機能を利用し、事案に応じて、被告人が死刑にならない形での判断を導いた。16世紀になると、殺人罪の中で、死刑にならない殺人類型である故殺類型が確立し、死刑とされる謀殺との間で区別がなされるようになるが、その場合でも、故殺にあたる事実認定を陪審が行う限り、陪審が、実際上、量刑判断に関わるという実態は変わらなかった。要するに、イングランドの刑事手続においては、制度上、量刑判断と切り離された陪審が、実際には量刑に関与する、関与しうるという状況が続いたのである。

 アメリカ合衆国では、量刑に関与する陪審の機能が真正面から承認されるという事態が生ずる。建国初期に陪審がそもそも事実だけでなく法の判断も行うとされる州があったこと、大多数の州では量刑も陪審の機能とされたこと、さらに、死刑事件においては、現在もなお圧倒的多数の州で、制度上、陪審が死刑か終身刑かの決定を行っている。

 特に建国初期において陪審の機能が強化された理由としては、第1に、植民地時代にイギリス本国の圧制に対する防壁として陪審が機能したこと、第2に、連邦派対州権派という政治的対立の中で、中央の権力に対する防壁として陪審の果たす役割に期待がもたれたこと、さらに第3点として、当時の個々の裁判官の資質に低い評価が与えられたことがあげられている。本論文は、ヴァージニア州の例をみることで、このような一般的説明を検証している。

 ところが、アメリカにおいても、特に1930年代以降、陪審量刑制に対する批判が強まった。陪審量刑制をとる州の数も60年代には13州に減り、さらに現在では8州にまで落ち込んでいる。その理由として、陪審が量刑を行う場合、1)量刑における不均衡が生じやすいこと、2)罪責判断と量刑判断の混淆が生じやすいこと、3)社会復帰モデルの下での近代的量刑制度は、量刑前調査書の準備期間等の時間的制約から来る陪審制度との齟齬の他に、そもそも陪審の能力を超える判断を要求する性格のものであるということがあった。

 しかしながら、死刑判断については、なお陪審による決定がほとんどの州で維持されている。そもそもアメリカでは、歴史的にみて、死刑に対し制限的な法制度がとられ早くから死刑廃止運動が盛んであった。死刑陪審制度の確立にも、このような死刑縮小・廃止という流れとの相関関係が大きい。だが、近年のように死刑維持の世論が圧倒的隆盛の中でも、死刑陪審廃止の動きはないことから、あらためて死刑陪審の意義をいかに説明するかが課題となる。その一方で、連邦最高裁は、1968年のWitherspoon判決以来、合衆国憲法第6修正による刑事陪審の審理を受ける権利には、死刑か終身刑かの判断について陪審によるという趣旨を含まないとの解釈を一貫してとってきた。憲法上の保護の対象とされるのは、犯罪の構成要件事実に関する事実認定に限るとされている。量刑一般が第6修正の対象とならないばかりでなく、死刑に関する決定についてもそのことは変わらない。

 だが、このような連邦最高裁の解釈は問題だと、本論文は説く。第1に、第1章で詳述したように、イングランドでもアメリカでも、歴史的にみて、陪審は量刑に関与してきた。特に第6修正成立時の18世紀末のアメリカにおいては、むしろ陪審量刑制度の方が多くの州で行われていた。最高裁は歴史的検討なくして結論を導いている。

 第2に、量刑のプロセスを分析すると、単なる法的・政策的判断以外の要素を含むことが明確になる。たとえば、量刑判断には、抗弁に関する事実や量刑事由を基礎づける事実の認定が不可欠である。最高裁は、第6修正が保障する陪審審理の対象を構成要件事実に限るとすることで、結果的に、立法府の構成要件の定め方によって、憲法による保護の範囲を狭くする道を開いている。ここでも最高裁は、量刑のプロセスを何ら機能的に分析することなく結論を導いている

 第3に、死刑判断については、同じ量刑といってもその特殊性が明らかである。現代のアメリカにおける量刑理念には、社会復帰モデルから応報モデルへの回帰がみられ、しかも死刑の決定は二者択一であって、むしろ共同体の倫理的判断を要求する。そこには、陪審審理を憲法上も要求すべきだとする要素が歴然と存在している。

 このように論じて、本論文の第1章は、陪審量刑に関する歴史的考察から、現代のアメリカ最高裁による憲法第6修正解釈に対する批判を導いた。

 3.第2章は、視点を変えて、最高裁が想定する適切な死刑陪審像を、判例分析によって明らかにする部分である。死刑陪審が憲法第6修正上の要請でないとすることは、死刑陪審が実際に用いられる場合について、最高裁が何ら関与しないことを意味するわけではない。1970年代初めのFurman判決およびGregg判決を嚆矢として、連邦最高裁による死刑の手続的規制が始まる。それは、死刑判断者としての陪審に対するコントロールという性格をもっていた。

 まず、このような規制が行われる背景として、アメリカにおける深刻な人種問題があり、人種差別的な陪審選任手続と、結果として死刑になる被告人について、統計上、人種的差異が有意な程度に見られることについての最高裁判例が紹介される。

 その上で、最高裁による陪審の裁量に対する規制が行われる場面に3段階のものがあると説く。第1に、陪審の構成の場面、第2に、陪審が考慮しうる情報規制の場面、そして、第3に、陪審が決定を下すにあたり自らの重大な責任を自覚することが求められる場面である。

 第1の、陪審を構成する段階では、信念に基づき死刑に反対の立場をとる死刑反対陪審候補者の排除の問題が扱われる。最高裁の判例によれば、一般的に死刑に反対するというだけで陪審から排除することは認められないとする一方で、事実の如何を問わず死刑に常に反対する者を排除することは認められ、さらにその排除の認定を緩和する方向にある。その結果、死刑反対者を排除した陪審が、有罪に傾く傾向を示すことが、社会的調査で明らかにされている。

 第2の、情報規制の側面においては、最高裁は、有罪・無罪を判断する罪責審理と、死刑にするか否かを判断する量刑審理の段階を分ける二段階手続を要求するとともに、陪審が死刑判断を行うための指針を作ってきた。指針つき裁量制である。一般的には、加重事由は制定法で限定列挙し、減軽事由については制限ができない。定められた加重事由が少なくとも1つ以上あり、かつ減軽事由と総合的に判断した上でなければ、陪審は、死刑を科すことができない。

 第3の段階、死刑判断に際して陪審が責任意識を持つという点について、最高裁は、一定の陪審説示を違憲無効とした。州知事による恩赦がありうるという言明や、死刑評決は自動的に最高裁へ上訴されそこで終局的な判断が下されるという摘示につき、陪審の責任ある判断に影響があるとして、憲法上違憲とされる程度のものかが審査された。

 本論文では、このようにして、連邦最高裁の死刑に関する判例を、陪審に対するコントロールという側面から見て分析した後、連邦最高裁の提示する像が、連邦制度の制約の下で複雑な様相を示し、人権派イコール陪審尊重派というような単線的思考では理解できない場面があるという重要な指摘を導いた。一例は、Brennan裁判官とHarlan裁判官との対立に見られる。Brennanといえば、死刑反対論者として有名であり、かつ一般的にもリベラル派を代表する存在である。ところが、この局面では、Harlan裁判官が、陪審の裁量に対する規制に消極的な態度を示したのに対し、Brennanは、最高裁による手続的規制に積極的な態度をとった。その背景には、明らかに、連邦制度への異なる認識と評価が存在する。

 4.第3章は、アメリカにおいて死刑陪審に関連して行われてきた実証研究の成果によって、現行の死刑陪審制度を評価する部分である。

 まず、死刑反対者を排除することが陪審の評決の結果にいかなる影響を及ぼすかが検討される。死刑反対者が排除されて構成された陪審と、そのようなことを行わずに構成された陪審とで、判断の傾向にどのような差異が見られるかにつき、いくつもの調査がなされてきた。それらによれば、死刑反対者を除いた陪審は、有罪という結論を導く傾向を明らかに示す。次に、そのような排除の手続自体がどのような影響を及ぼすかについての実証研究の紹介・分析がなされる。ここでは、陪審選考段階で死刑反対者を排除する手続そのものが、死刑に有利な心理的効果を持つことも、いくつかの調査で明白だとされる。これらの調査は、死刑反対者を排除する現行実務が、公正な陪審による裁判の保障と矛盾していないかとの疑問を導く。

 第2に、現在なお進行中の死刑陪審プロジェクト(capital jury project)と呼ばれる大規模な実証研究が取り扱われる。そこでの調査対象の1つは、最高裁が提示した陪審コントロールの枠組みが、現実に機能しているか否かである。この調査では、実際に死刑判断に関与した陪審に、直接、体系的・組織的なインタビューが行われた。

 その結果、最高裁が設定した陪審に対する情報規制と、同じく責任意識を持たせようとする努力が、成果をあげていないという知見が得られた。まず、罪責と量刑を二段階に分けて審理するという構造や、量刑における指針つき裁量制に対する陪審の理解は十分ではない。2つの異なる審理の混淆が見られ、加重事由と減軽事由の総合判断というルールも、陪審が死刑の判断に際し実際に重視するのは、被告人の将来の危険性だという回答によって裏切られている。有罪と判断した後に陪審が行うのは、死刑と終身刑の選択であるが、死刑を科さずに終身刑とした場合の実際の刑期についても、現実よりもはるかに短いと陪審が誤解していることも明らかになった。

 陪審が死刑判断に際し真摯かつ重大な責任を引き受けていると意識しているかについては、ある調査では、この責任が陪審のみにあると回答したのは27パーセントに過ぎず、約4分の3の人たちは、陪審だけの責任ではなく陪審以外の者との共同責任であると回答している。

 結局、最高裁が一連の判例によって提示する死刑陪審像と実像には大きな乖離があることが確認された。

 しかしながら、他方では、それにもかかわらず、陪審と裁判官を比較すると、依然として陪審による死刑判断の割合は低く、被告人にとっては、陪審審理を選択する方が有利であるとの結果も出ている。たとえば、陪審の判断を裁判官に対する勧告とし、裁判官がそれに従わないこと(override)を認めるフロリダ州の統計では、陪審が終身刑としたのを裁判官が死刑にした例が136件、逆に陪審の死刑判断を覆し終身刑にしたのは51件というデータが出ている。

 このような傾向を説明するために、本論文は、第3章の末尾において、犯罪と死刑に関する政治状況を分析し、国民の中に近年明白に見られる厳罰傾向、死刑への支持の動きが、政治過程の影響を受けやすい裁判官に色濃く出ている様子が描かれる。

 5.本論文の終章は、第3章までの叙述を振り返って簡潔にまとめるとともに、本論文の意義を次のような3点に分けて提示する部分である。

 第1に、陪審の「領分」につき、伝統的な説明である、事実と法律の二分論が不正確な命題であることを論証した。量刑判断は法律問題とされているが、歴史的にも、量刑過程の分析からもそのような単純な言明は出てこない。現在の連邦最高裁は、刑事陪審による審理を保障する憲法第6修正の解釈として、その保障は量刑に及ばず、かつ死刑陪審の場合も同じだと簡単に説明するが、それは歴史的・機能的解釈からは支持しえない。

 第2に、Brennan裁判官とHarlan裁判官との対立に見られるように、連邦制度の枠組みの中で、陪審の位置づけも単線的思考による解釈ではなく、複線的思考が要求されることを指摘した。陪審が人権保障の防壁とされることは、直ちに陪審に無限の裁量を認めることにつながることにならない。連邦最高裁が指示する一定のコントロールを要求する方が、むしろ人権の砦たる陪審の維持につながるとの議論は、連邦制度が絡むと陪審制度への評価も複雑化することを端的に示す。

 第3点として、本研究からは、死刑判断の特殊性とそれに応える装置としてアメリカにおいて陪審制度が存在することも明らかにされた。死刑は究極の刑罰であり、倫理的な判断を要求する。アメリカでは政治的にも先鋭な対立をもたらす論点であり、それだからこそ、陪審に依拠するという構造になる。そのことが、最終的には、アメリカ社会の特徴と現代における陪審制度の意義を示すというのが本論文の結論である。

III論文の評価

 本論文には、以下のような長所が認められる。

 第1に、本論文の対象とする死刑陪審は、アメリカにおける陪審制度の意義を理解するうえで、それ自体きわめて重要なテーマでありながら、わが国においてはこれまで、ほとんど研究されてこなかったものである。このテーマを多角的な視点から重層的に論じたことが本論文の第1の特色であり、その点で大きな意義を有する。イングランドにおける前史にまで遡り、今日に至る陪審による量刑裁量の歴史を明らかにしたこと、死刑に関する連邦最高裁の判例を陪審へのコントロールという観点から整理・分析し直したこと、そしてさらに、最新の実証研究にまで論及し、判例法理と実態との乖離を摘示したことは、それぞれ意義を持つばかりでなく、全体として、死刑陪審の位相を明らかにする上で有効なアプローチであったということができる。

 その結果として、たとえば、アメリカ憲法第6修正に関する連邦最高裁の解釈を批判する視角が提示され、また連邦制度の制約の下で、陪審に対するコントロールをめぐる議論の複雑化の構造が明らかにされ、単に、陪審の重視をリベラル派というレッテルに直結させる構図では捉え切れない議論の様態が明確にされた。このことから、本論文は、死刑という裁判の実体と陪審という裁判の手続とのかかわりに関する鋭い問題意識に支えられ、しかも両者の関係が歴史的背景や連邦制という制度的枠組みによって影響されていることを実証した意義をもつものと評価される。

 第2の長所は、死刑陪審の実態の解明を通じて、陪審制度の運用に関して従来必ずしも十分理解されていなかった部分に有益な示唆を与える点である。そもそも根本的な制度的枠組みとして、「陪審は事実問題、裁判官は法律問題」という截然とした役割分担があり、刑事手続では、有罪・無罪の判断は陪審が、量刑判断は法律問題として裁判官がそれぞれ担当することが自明の事柄であるように理解されてきたが、本論文は、そのような認識の不正確さを例証するとともに、陪審の手続に関するアメリカ法の歴史、判例法理および実態を明らかにした点で、大きな意義が認められる。この意味で、本論文は陪審制度全体についての今後の検討に大きく寄与するものである。

 第3に、本論文は、主題に関するほとんどすべての文献・資料を幅広く渉猟し、それぞれを十分に読みこなし適切な分析を加えたうえで、それらを総合することにより、全体的理解を導き出している。相当に長文で、かつ内容の点でも情報量の多いものでありながら、叙述は全体として平明であり、明晰な労作として評価しうる。

 しかしながら、本論文についても、さらに望みたい点がないわけではない

 第1に、上述のように3章構成で多角的に死刑陪審を論じたところは、本論文に重層的な厚みを与えている反面、個々の点に物足りなさの残る部分がある。たとえば、初期のアメリカにおける陪審量刑の制度的拡大やそれ以降の批判、その中で死刑陪審が批判を免れる過程の歴史的変遷が、資料的制約はあるにせよ、不十分な部分があると思われること。また、州の裁判所によるコントロールにふれるところがないために、陪審の裁量に関する法的コントロールの全体像が完全な形で明示されるまでには至っていないことなどがある。

 第2点として、本論文は単なる陪審賛成論や反対論に与することなく、冷静に陪審の機能を分析しようとしたものであるが、テーマ自体の興味深さに依存するだけでなく、いっそう立体的な観点からそれを大きく超える理論やモデルを結論部分において提示することに成功していたとすれば、本論文の価値はより増したであろうと思われる。

 しかしながら、以上のような問題点はあるものの、それらも本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、死刑陪審を素材としてアメリカにおける陪審制度の重要な機能を明らかにした力作であり、博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

UTokyo Repositoryリンク