本論文は、日本思想史においてその同時代以降常に重要性を認められ、その学派(「崎門」)は厳しい内部抗争を続けつつ近代にまで続き、それでいて、その実像については極端に解釈が分かれ、今なお謎めいた存在であり続けている山崎闇斎(元和4・1618年-天和2・1682年)の思想について、一つの一貫した新解釈を提出し、それによって、従来の近世日本政治思想史の書き換えを迫ろうとした作品である。 「序」と「結び」に挟まれた四章から構成されている本論文の内容は、概ね以下の如くである。 「序」において筆者は、まず、丸山真男の晩年の主要作品「闇斎学と闇斎学派」が、単に「正統と異端」という思想史上の一般問題を崎門の例をとって解析したというものではなく、日本思想の「古層」を突破する「普遍者への自覚」を彼等が有したとして共感をもって描いたものだと指摘する。そして、そのような理解に基本的に同意しつつ、なお同論文でも十分に追究されていない山崎闇斎自身の思想の実像の解明を、本論文の目的として提示する。 しかし、闇斎の膨大な著作の多くは抜粋による編纂物である。彼自身の思想を直接にまとめて示す史料は少ない。そこで、従来のほとんどの研究は、多数の弟子たちの著作を含めて「学派ぐるみ」で論ずるか(丸山の上記論文が一例)、あるいは、弟子たちの著作から闇斎に遡及する方法をとってきた。また、抜粋に付された闇斎自身による少数の評語等から、闇斎思想を再構築する方法もとられた。これらに対し、筆者は、抜粋であっても一旦闇斎が選んだ以上は闇斎の思想を示すものと見なして(朱子の文章でも異見がある場合にはコメントを付していることがその一根拠である)、彼の著作の全体をとりあげ、それを時代の文脈の中から読み直して、闇斎個人の思想を解明するという方法をとるとする。 第一章「「武俗」:武家政治体制と思想」は、三節からなる。闇斎思想の基本的立場を、中世以来の日本における権力と思想との位置関係を簡潔に回顧して確認した上で、明らかにしようとする章である。 第一節「中世・戦国と「太平」」において、筆者は、まず、『太平記』(江戸時代には広く読まれ、また聴かれて大きな影響力を有していた)が、楠木正成を『中庸』を援用して賞賛していることを、闇斎が厳しく批判していることを指摘する。闇斎は世の通念に安易に追随するようなことはしないのである。また、筆者によれば、『太平記』にいう「太平」は、「仁政」等の儒学的理念を意味するものではなく、「静謐」「無事」等と同じく、単に戦乱の終結を示すに過ぎない。しかも、そこで戦乱終結によって復帰すべき常態とは、結局、中世の「王法仏法相依論」を基盤とする「権門体制」(黒田俊雄)であった。一方、信長・秀吉政権を経て確立したいわゆる「徳川太平」Pax Tokugawanaは、それとも大きく異なる、武家を頂点とする政治体制であったことを、筆者は確認する。 第二節「「徳川太平」と「芸」」においては、その「徳川太平」が、既存の諸権威を統治下に押さえ込むことによって達成されたことが、まず確認される。宗教も、権力に対抗するものは排除され、順応するものは包摂された。それは宗教的な「正統」と「異端」の区別ではなかった。中世以来の三教一致を否定するものでもなかった。しかし、中世では政治権力と宗教が水平的補完的相互依存の関係にあったのに対し、ここでは、垂直的な支配従属の関係にあった。そして、儒教はといえば、組織もなく民衆との接点もなく、したがって幕府の統制の対象にすらならず、往々、さまざまな「遊芸」の一つとしての扱いを受けていた。筆者は、闇斎を、以上のような状況において、「道」を掲げて「御威光」に輝く当時の武家政治に立ち向かったものとみるのである。 第三節「「武俗」と山崎闇斎」では、その一面が示される。万治元(1658)年、それまで京都で活動していた闇斎は、四十一歳にして初めて武家の都、江戸に出、そこで『大和小学』を著す。筆者によれば、そこでは武家支配の下に蔓延する風俗、「武俗」が厳しく批判されている。例えば、殉死であり、「血気の勇」であり、放縦な「色」の追求であり、奢侈である。また、忌日の習慣、同姓婚、女性の再婚、婿養子、仏教的葬礼等である。闇斎は、「道」と「俗」の間の大きな落差を知りつつ、「道」を枉げて「俗」に従おうとはせず、逆に、「道」をもって「俗」を変えていくべきだとしたのである。例えば異姓養子は、当時の日本社会の一般的慣行であり、それが「家業」の継続を支えていた。しかし、闇斎は実子が無かったにもかかわらず養子をとらなかった。林羅山・伊藤仁斎等と異なり、一学派の創始者でありながら、儒学教授を「家業」とすることを拒否したのである。後に林家の後継者、林述斎は、「本邦には武辺と云一種の異端あり」という闇斎の言を罵っている。筆者によれば、これは、闇斎が「武俗」と対決したという真相を的確に(「武俗」に浸りきった側から)示した逸話なのである。 第二章「「一理」:朱子学と山崎闇斎」は、二節からなる。そこでは、闇斎が朱子学者として著した著作が克明に分析され、その儒学思想の特色が論じられている。 第一節「〈朱子主義〉」では、闇斎の儒学思想を解明する前提として、中国の朱子(1130-1200)の思想、とりわけその歴史思想との関連における政治思想が論じられている。筆者によれば、朱子の歴史思想は、孟子の「一治一乱」(『孟子』滕文公下篇)という循環の歴史観が妥当しないように見える秦の始皇帝以後の歴史をどう理解するのかという問いに始まる。朱子の考えでは、漢・唐・宋等の「太平」は古の「三代」の「太平」とは内実を異にしており、実は「小康」に過ぎない。「一治一乱」というよりは、いわば「一康一乱」である。その中で、朱子は、「結果主義」に立って「事功」の追求を重視する陳亮等「功利学派」と対決しつつ、時空を超越した絶対的「天理」の実現した世界、真の「太平」の世を追求した。その「天理」の根拠は、万人に内在する人の人たる所以、「人性」である。それ故、「修己」「復性」という、自己の内なる本性への復帰という修養の教えは、倫理の次元に止まらず、政治に直結している。時に誤解されているように朱子は政治を倫理に還元したのではない。理念の政治を志したからこそ、「修己」を強調したのである。筆者は、この意味での「修己治人」の政治思想を〈朱子主義〉と特に呼んでいる。そして、「治人」の方法としては、刑政・賞罰・制度等による「政」と、「教」とがあった。それは、「政」を蔑ろにはせず、かといって王安石のように専ら「法度禁令」に頼るものでもない。両者は並行する両輪とされる。そして、「三代」の「古」は、抽象性・超越性に陥りかねない朱子学に現実性を与える論理装置としての意味を有すると、筆者は指摘する。ところで、筆者によれば、山崎闇斎は、まさに〈朱子主義〉者であった。 第二節「「敬義学」」では、まず、若き闇斎が還俗した後、始めに仏教批判論、「闢異」を著したことに注目し、同論を分析している。同論は、公然と仏教を「異端」として排撃し、「習俗の弊」を改めることを目指している。筆者によれば、それは、当時も広く続いていた三教一致の否定であり、闇斎において思想が現実の「俗」に対決するものとなったことを意味している。同論は、体制と一線を画し、体制の変革を意図した闇斎のマニフェストだったのである。ところで、闇斎の詩には、当時の世を「太平」と讃えているように読める表現が散見される。これを一根拠として、闇斎を体制の擁護者とし、さらにはその思想を「徳川イデオロギー」だったと見なす研究者さえいる。しかし、筆者は詩を詳しく分析し、そのような解釈は、真の「太平」と、既述の単に戦乱の終結という意味での「太平」という表現との混同に起因すると指摘する。闇斎は、決して当時を理想の世だとは言っていない。筆者によれば、闇斎は、徳川家康を(「王者」ではなく単に)「覇者」と見なしていたのである。 また、筆者によれば、朱子学の修養論の両輪をなす「居敬」と「窮理」の内、闇斎は前者を重視し後者を軽視した、そして一種の日本朱子学を構築したという従来の有力な解釈も問題である。第一に、闇斎が(「心」というより)「身」を修めることを強調したのは、中国以上に仏教が儒教を圧倒している日本においては、専ら「心」を論ずる仏教との相違を強調する必要があっためであり、しかも「身心一致」が朱子の主張である以上、彼の主張は朱子学の枠を出たものではない。第二に、闇斎が尊敬した朝鮮の李退渓が「敬」中心であってその影響を受けたという説は、成り立たない。第三に、「井田制」「社倉法」の日本における実現可能性を信じ、主張した闇斎について、制度論に無関心だったなどとは言えない。闇斎朱子学の特色を、そのような点に求めることはできないというのである。 ただ、確かに闇斎は、「敬」を経典を一貫する原理に高め、「敬」を主軸として朱子学の彼なりの体系化を図った。それは、何故か。筆者によれば、朱子における理念的な「古」との対比における「今」の相対化は、結局、中国と元来「夷狄」であるはずの朝鮮や日本との差を無意味化するものである。絶対的な「古」の前では、相対的に三国は対等となる。そうであればこそ、〈朱子主義〉は日本でも可能であった。しかし、中国・朝鮮とは違う「武俗」の地、日本においては、実践方法としての「敬」がとりわけ重要になる。それが、闇斎の「敬」強調の一理由であるというのが、筆者の推論である。それは、朱子の著作を根拠にし、「理」の普遍性の確乎たる信念に基づいている。したがって、「道統」は、中国から朝鮮へ、朝鮮から日本へと順次伝わったのではない。各国は対等に「朱子の本意」に復帰すべきなのである。それ故、個々的に孔子や朱子と異なる「説」を説いても問題はない。現に朱子も、孔子の言わなかった説をも説いた。「意」さえ直結していればいいのである。闇斎は、このようによき〈朱子主義〉者として、「道統」を日本で継ぎ、普遍的な「道」の立場から「武俗」の変革を図ったのだ-それが筆者の解釈である。 なお、闇斎は、一般に人物評価には慎重だが、例外的に名を挙げて痛罵した人物がいる。それは林羅山である。家康以降の四代の将軍に仕えながら彼等に「道」を説かなかったからである。その証拠に、羅山は仏教の僧のように剃髪するという「武俗」への順応を続けた(武士たちは、儒者を医者等と同様の身分として扱ったのである)。ある羅山研究者のいう「体制内に留まるのはその体制を改めるためだ」という言い訳など、闇斎は認めないのである。 闇斎の朱子学、いわゆる「敬義学」-その「敬義」とは、「古」においてある天子の師が、天子と対等の位置に立って天子に説いた語である-は、「知」「行」両面で普遍世界を目指し、その理念の実現可能性を信じ、現実の政治権力から自立してそれを相対化する学であった。その意味で、筆者によれば、闇斎学の成立は、日本における政治理念の誕生を意味したのである。では、普遍的な「道」を信じる朱子学者闇斎が、何故「垂加神道」の創始者でもあったのか。その解明が第三章の課題である。 第三章「「妙契」:「垂加神道」」は、三節からなる。 第一節「「東遊」」では、万治元(1658)年以降の十五年間、闇斎が連続して京都から江戸に赴いたことの意味が論じられる。万治元年は、『礼記』で出仕の標準年齢とされている四十歳に闇斎が達した翌年である。「知」「行」の一致を目指す者が政治にかかわることを考えるのは当然であった。では、当時の政治構造を闇斎はどう解釈していたのか。筆者は、闇斎の「君」「公」等の用語の詳細な分析等に基づき、天皇は君主、将軍以下は全て儒学的意味でのその臣であり、ただ、将軍の下に連鎖する個別の主従関係によって肥大化した武門が「大権」を掌握した変則的な形になっていると見ていたとする。したがって筆者によれば、弟子の浅見絅斎が武士的主従関係に即した君臣論を展開したのとは逆に、闇斎は、武士的主従関係を天皇を頂点とする儒学的な「義合」の関係に組み込み、君主制を正常化することを意図していたのである。往々闇斎が武士的主従関係を絶対化した証拠とされる「拘幽操」(聖人が暴君にも逆らわなかった心情を表現した詩)の顕彰も、逆に、儒学的な「臣」の最高の境地を示して武士的主従観を正すためであった。現に、絅斎等と異なり、闇斎は、実は儒学的意味での暴君放伐を原理的には否定していない。筆者の見るところ、通説とは違って、この点で闇斎は、結局、朱子と同じ立場なのである。 闇斎は、江戸で大名と交際し、寛文五(1665)年からは、有力な大名、保科正之に「侍」する。しかし、通説とは異なり、保科との間には大きな隔たりがあったと筆者は考える。例えば、保科は放伐否定論者だった。彼が一部実行した社倉法や寺院整理も、闇斎の「仁政」論や「排仏」論とは距離がある。現に闇斎は、保科と主従関係を結ぶこともなかった。筆者は、闇斎の文の分析から、実は、闇斎は「道」の実現のために「王師」たらんとしていたがそれが思い通りにはいかなかったのだと解釈する。では、どうすればよいのか。その模索が「垂加神道」の形成に結びついたのであろうというのが筆者の推論である。 第二節「『倭鑑』」では、まず、闇斎が、ほぼ四十歳以降、中国を「華」とは呼ばず、日本の「本」に対する「異]と表記し、「華夷」論を放棄したことの意味が論じられる。それは、彼がナショナリスティックな神道者に変貌したことを意味しない。そもそも現に「中華]が「夷狄」に支配されていた当時、地理的・軍事的「華夷」論は、既に破綻していた。しかも、既述のように「古」ならぬ「今」の世にあっては、各国は絶対的「天理」の前で概ね対等である。つまり筆者は、儒学自身の論理において「華夷」論は既に事実上否定されていたのだと考える。「万国」は相互に自国を「本」とし他国を「異」とする「本異」関係にあるにすぎない。また、朱子学においては、後世は「道統」が隠没してしまった「小康」に過ぎないとしても、現に成立した統一王朝は「正統」として認められる。朱子の「経」の解釈に込められた「道統」論と「史」に示された「正統」論はセットになって朱子学を「実学」たらしめているのである。そして、闇斎が四十歳以降編纂を続け、最晩年に自ら焼却した書、『倭鑑』は、日本における「史」の記述の試みであった。僅かに残された同書の「目録」と他の史料の分析から、筆者は、闇斎の創始した「垂加神道」とは、日本の「神代」を、中国の「三代」に当たるとし、『日本書紀』「神代巻」を日本の「経」として、そこに「道」を読みとったものに他ならないとする。それは、日本の特殊な「道」の主張ではない。「一理」が、日本でも、かって見出され、実現していたというに過ぎない。「宇宙唯一理のみ」である以上、その内容は、儒学のそれと当然に「妙契」する。ただ、その理想的な「経」の時代から下降して「今」に至った。その「史」を示すはずのものが『倭鑑』であった。 第三節「<新神道>」では、「垂加神道」が論じられる。筆者はまず、中世の仏教中心の三教一致論の中での神道から、近世に入って非仏教的な儒家神道が出現して近世神道が成立した、「垂加神道」はそうした近世神道の一種であった、という通念を批判する。そもそも、近世に入っても神仏習合が基軸である。儒家神道は極く一部の知識人のものであって、それを「体制教学」などということもできない。そして筆者は、特異な儒家神道として「垂加神道」を捉え直す。すなわち筆者によれば、闇斎は、朱子学の「道統」論を踏まえつつ、『日本書記』の編纂者舎人親王を、経典を確定した孔子に、自分をその「道統」を継ぐ朱子に比定した。すなわち、闇斎は儒学において朱子の継承者たらんとした一方、神道における朱子たらんともしたのである。その意味で、その神道は「新儒学」Neo-Confucianismならぬ〈新神道〉であった。それ故、闇斎は、林羅山等の儒家神道を儒教と神道の習合であり、中世神道における仏教を儒教に置き換えたに過ぎないものとして否定する。「習合」「附会」は許されない。さまざまな「習合」の上に武家が君臨している現状を闇斎は認めない。儒学の「道」と「日本の神代の道」とは、ただ「約せずして合」し、「妙契」するのである。「一理即二道]「二道即一理」なのである。そして、朱子学にとって「古」の実在が論理装置として必要であったように、闇斎は「神代」の実在をあくまで主張する。例えば「天上」とは実は「大和国」のことであり、「天安河原」とは「今ノスガハラトテアル所」であった。そして、その「神道」は理念性をもって日本の現状を変えるべきものであった。 闇斎は、儒学者として、武士が「文」を備え「道」を知る士大夫に変わることを望んだと同様、神道者としては、「神垂冥加の人」を想定する。そして、その修養は「土金(ツツシミ)」によってなされるとする。「土(ツチ)」とは「敬(ツツシミ)」であり、「天地の位する所以、陰陽の行はるる所以、人道の立つ所以」である。「天」と「人」は「ツツシミ」において「唯一」であった。こうして、「垂加神道」では「土金の伝」が「神道一大事の伝」とされた。それは、彼の朱子学における「敬」と「妙契」するものであった。 第四章「「神風」:山崎闇斎の政治理念」は、三節からなる。 第一節「「神・聖」」は、まず、闇斎が寛文十一(1671)年に「垂加霊社」の号を受け、さらに自分の神霊を祀る生祠を京の下御霊社に立て、ついで数年後それを同社の末社である猿田彦社の相殿とするに至った事件を扱っている。筆者によれば、それは、闇斎が猿田彦を「土金の伝」を守り伝えた神とみなしたことと関連している。彼は、天照大神→猿田彦→舎人親王→闇斎という「道統」を想定し、それを示したのである。筆者によれば、闇斎は「事」の次元では直接に体制を批判することを慎重に避けた。しかし、「道」の次元では妥協しなかった思想家であった。そして、短期決戦を避け、長期戦を構想した。猿田彦社の相殿となった彼の生祠は、後世にその「教え」を伝えるものなのである。 第二節「「神国」」は、闇斎の「神国」論の特色を論じている。筆者によれば、それは従来の「神国]論と大きく異なる。従来の「神国」論は、日本を他国より当然に優越するとし、他国との対抗関係でそのアイデンティティーを求め、「武国」としての自負心と結合し、支配権力の立場に立って、現状を肯定するという性質を有していた。しかし、闇斎の「神国」論は、第一に、理念的であった。万人が「徳義」を有する理想の状態が「常世の神風」であった。第二に、闇斎は皇統の連続自体を日本の優越性などとは考えず、「道」に適った統治か否かを優越性の基準とした。第三に、武力にも「徳義」の裏付けを求めた。第四に、「万国」が「相ひ与に善を交は」る「与国」となることをおそらく構想した。 第三節「「祓え」」では、まず天和二(1682)年に闇斎が唱えつつ息絶えたとされる「中臣祓」が論じられる。それは災難除けの呪術ではない。闇斎においては、「君」と「臣」とが「中徳」を備えるための修養法である。彼においてはそれが「神国」実現のための方法であった。そして更に筆者は、彼の「敬義学」と「垂加神道」とは、往々言われているような前者から後者への移行ではなく、実は相互影響しつつ形成されたと指摘する。例として、「敬義学」の「敬」論と「垂加神道」の「土金」論の関係が詳論される。また、「祓」に一面で対応するとみなすために逆に「敬」概念に変質が生じ、彼の強引な「敬義内外」論(『易』文言伝)の解釈(それは、彼の儒学の有力な弟子たちの離反を招いた)が生まれたとされる。闇斎は「妙契」を信ずる以上、そのような「敬」論を強弁せざるをえなかった。しかし「妙契」である以上、「神道」上の概念との対応を図るためにそう解釈せざるをえないのだと説明することもできなかった。それが筆者の、この有名な事件に関する解釈である。筆者によれば、それは神道による儒学の「日本化」ではない。普遍的・理念的な「神道」創設の試みに伴う儒学の一面の変質であった。 「結び」では、山崎闇斎が、江戸時代初期において、社会や権力に思想を適合させるのではなく、思想をもって当時の政治社会を変えようとする試みをした典型的な先駆者であることが改めて強調される。そして、その神儒「妙契」論に支えられた「垂加神道」の独創性が確認される。彼以後の思想家は、彼を自分たちの思索の土壌としつつ彼と対決し、そうして近世日本の政治思想史が展開していったのである。 以上が本論文の要旨である。 本論文の長所としては、次の点を挙げることができる。 第一は、山崎闇斎という近世日本を代表する思想家の一人について、整合的・体系的な新解釈を施し、相当の説得力をもって新たな闇斎像を打ち立てたことである。従来、闇斎は、あるいは日本主義的な国体論者と見なされ(そうして賛美もしくは嫌悪され)、あるいは武士的な思考・習俗に寄り添いつつ武士のための教えを説いた「武教」論者・体制擁護者だと言われ、さらには朱子学を誤解して奇妙な日本的儒学を形成した人物だとされてきた。これに対し、筆者は、朱子学を着実に体得し、それに反する事態の蔓延する当時の日本において「理」の実現のために様々な手段を駆使して苦闘した先駆者、それ故に、普遍的な「理」の日本における現れとしての「垂加神道」をも創始した思想家という像を体系的に示したのである。これは、画期的である。本論文の闇斎像が、今後の研究に影響を与えることは必至である。 第二は、その方法である。筆者は、従来しばしば行われてきた、弟子たちの著作から遡及して闇斎を論ずる方法を批判し、朱子等の文章の抜粋をも含めた闇斎自身の著作からその思想の全体像を再現するという極めて困難だと考えられてきた方法を敢えて採り、かなり成功した。それは、膨大にして謎めいた史料群の緻密な解析と、一方で中国・朝鮮と比較し、他方で中世と連続しつつまた異なる近世日本の体制との対抗関係を見据えるという作業とに支えられている。そのために、読者は、従来の理解が次々と反転されていく本論文の展開に、時に留保しつつも、徐々に引きこまれていくのである。 第三は、筆者の朱子学理解の確かさと新鮮さである。従来の闇斎研究には、元来の中国朱子学の理解が不充分で、そのために的外れな議論をしているものも無いではない。しかし、筆者は、修士課程以来の朱子学の研鑽の成果を十分に活かし、的確な議論をしている。しかも、時に、「古今」観の構造・「華夷」論の破綻・「道統」「正統」論の相補性といった朱子学の側面への新しい洞察を示している。これらは、中国における朱子学のみを研究していたのでは気付きにくい面であり、学界の朱子学理解をさらに深めるものであるといってよい。 但し、本論文にも短所が無いわけではない。 第一に、時に議論がやや強引で、説得力が十分ではないと思われる個所のあることである。無論、史料の限定、闇斎自身によるおそらく意識的な韜晦等の事情があるのは確かであるが、筆者の論点の全てが同じだけの説得性をもっているわけではないことは、否定できない。 第二に、筆者は、日本におけるさまざまな儒学の形成を、一種の「日本化」と捉える解釈を厳しく批判する。そして、日本にも自律的な思想によって日本を変革しようとした人々がいたことを強調し、闇斎をその先駆だとする。それ自体はもっともであるとしても、しかし、そうしようとすることによって結局自から「日本化」していくこともあるのであり、闇斎もその一例であるという反論もありうると思われる。自己の解釈の独自性を強調するだけでなく、そうした点をも含めて議論してもよかったであろう。 第三に、表題の「政治理念」という語を含め、時に日本語の用法や文章に違和感を感じさせるものがあるのも事実である。 しかし、以上の短所も、本論文の意義と価値を大きく損なうものではない。これは、明らかに、独創的・画期的な山崎闇斎研究として、近世日本の政治思想史、さらに、朱子学の影響を受けた東アジアの政治思想史の研究の進展に貢献する作品である。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。 |