1,3-双極成環付加反応はヘテロ5員環を合成する重要な反応として古くから知られている。また、キノン類はその置換パターンにより1分子内に最大4種類の不飽和結合を持ち、親双極化合物として成環付加反応の反応挙動等を調べる良いプロープとなる。白石らはキノンとニトリルオキシドとの成環付加反応を中心に研究を行い、その中で、2,5-および2,6-ジアルキルキノンとニトリルオキシドとの成環付加体の一部が、塩基により異性化反応を起こすことを明らかにしていた。しかし、その構造については各種スペルトルデータにより推定していたが、単結晶の作製が困難であったために構造が確定しているとは言えなかった。そこで、2章ではこの異性化生成物の構造を決定するために、その単結晶を作製しX線結晶構造解析を行った。その結果、この反応が塩基性条件下で成環付加体の橋頭位のアルキル基の、隣接するカルボニル炭素への転位を伴う非常に興味深い反応であることが明らかになった。また、この転位反応は橋頭位の置換基がメチル基の場合と2,6-位にt-ブチル基がある場合には起こらないことがわかっており、置換基の種類と位置のわずかな違いが反応の生起を左右することから、まず種々の置換基を持つ成環付加体を合成し、転位の有無を調べたところ、橋頭位がメチル基の場合はいずれも転位反応は起きず、生成物は複雑な混合物となった。橋頭位の置換基がエチル基、イソプロピル基、t-ブチル基、およびベンジル基の場合、2,6-位にt-ブチル基を持つ場合を除いて転位反応が進行した。このことから、転位反応は橋頭位の置換基が立体的にかさ高い場合に起きると考えられた。2,6-位にt-ブチル基がある場合に転位反応が進行しないのは、転位生成物においてかさ高いt-Bu基が隣合うことができないためと理解できた。 また、この反応の機構を考察するためにいくつかの実験を行った結果、反応はまず、塩基により橋頭位のプロトンが引き抜かれ、このあと、橋頭位にかさ高い置換基を持つ成環付加体では、その置換基が隣のカルボニル炭素に転位し、溶媒からプロトンを供与されて転位生成物が生成するものと考えられた。このことはプロトン性溶媒中でこの反応が速やかに進行することから支持された。 3章では、この転位反応がキノンと他の1,3-双極子との成環付加体でも起きるかどうかを調べるため、ニトロンおよびジアゾメタンとの成環付加体を合成し、塩基との反応を試みた。 キノンとニトロンとの成環付加反応についてはすでに報告されていたが、イソキサゾリジン環の3-位と4-位の水素の相対的な配置は1H NMRからシスと推定されていた。しかし、キノンとニトロンとの成環付加体を合成し、そのX線結晶構造解析を行ったところ、イソキサゾリジン環の3-位と4-位の水素は互いにトランスの関係にあることがわかった。この成環付加体に水酸化ナトリウムを作用させたが転位反応は起きず、原料を回収した。 次に、キノンとジアゾメタン類との反応を検討したところ、ジフェニルジアゾメタンは2,5-ジメチルキノンおよび2,6-ジエチルキノンと反応したが、得られた生成物は1,3-双極成環付加体ではなく、窒素が脱離したシクロプロパン誘導体であった。これらの成環付加体は塩基による転位反応を起こさなかった。 また、トリメチルシリルジアゾメタンとの反応では、2,5-および2,6-ジ-t-ブチルキノン(25DBQおよび26DBQ)との反応が進行したが、得られた生成物は単純な1,3-双極成環付加体ではなく、トリメチルシリル基の結合した炭素上の水素が1-位の窒素原子上に移動した異性体(1H-ピラゾリン誘導体)であった。 これらの付加体に塩基を作用させると、25DBQとの成環付加体では高い収率で転位生成物を与えることがわかった。26DBQとの成環付加体との反応では、原料は消費されたものの生成物は複雑な混合物となり、転位生成物は得られなかった。トリメチルシリルジアゾメタンと25DBQとの成環付加体と、ニトリルオキシドと25DBQとの成環付加体は等電子構造をしており、塩基による転位反応がこれらの化合物の特異な構造に由来するものであると考えられた。ヘテロ5員環部分の芳香環化が反応の駆動力の一つであると考えられた。また、トリメチルシリルジアゾメタンと26DBQとの成環付加体からは転位生成物が得られず、ニトリルオキシドと26DBQとの成環付加体の場合と同様な置換基効果が見られることもわかった。 4章ではキノンとトリメチレンメタンとの反応を検討した。1,3-双極成環付加反応がヘテロ5員環を形成する反応であるのに対して、トリメチレンメタンと電子不足オレフィンとの[3+2]の成環付加反応はシクロペンタン環を1段階で合成する有用な反応である。Pd錯体を用いてキノンとトリメチレンメタンとの成環付加反応を検討したところ、25DBQ、26DBQおよびテトラメチルキノンとの反応では中程度の収率でメチレンシクロペンタン誘導体が得られた。しかし、メチルキノンとの反応では複雑な混合物が得られ、生成物を単離することができなかった。また、得られた付加体と水酸化ナトリウムとの反応を検討したが、いずれも反応は起きず、原料を回収した。 5章では成環付加体および転位生成物と酸との反応を検討した。ニトリルオキシドとキノンとの成環付加体から得られた転位生成物はジエノン構造を有するため、酸との反応でジエノン-フェノール転位と類似の反応を起こしフェノール誘導体が生成することが期待されたため、転位生成物とあわせて成環付加体を無水酢酸/硫酸で処理した。その結果、成環付加体との反応では、いずれも橋頭位の置換基が脱離し,ヒドロキノン誘導体を高収率で得た。転位生成物との反応では、置換基の種類により生成物はヒドロキノン誘導体、カテコール誘導体もしくはその混合物として得られた。この生成物の相違は立体的な効果により、反応の最初の段階で水酸基のプロトン化が優先するか、アセチルカチオンの求電子反応が優先するかによるものと考えられた。 6章ではフェノールの酸化によるキノン合成について検討した。キノンの合成には、フェノールを酸化する方法が一般的であるが、酸化剤は環境に優しくないものが多い。錯体触媒を用いた酸素酸化法はクリーンな方法であるが、活性や選択性に問題があった。ビピリジン骨格を有する配位子を持つコバルト錯体が2,6-ジ-t-ブチルフェノールの酸化によるキノン合成のよい触媒となることが明らかにされていたので、この錯体のキノン合成に対する有用性を調べたところ、2,6-位にt-Bu基とi-Pr基を持つフェノールはほぼ100%の収率と選択性で対応するキノンへと酸化できた。フェノール性水酸基の周りの立体障害が減るにつれ収率、選択性ともに低下していくが、これまでに知られている触媒系に比べ、活性・選択性とも高い結果が得られた。 |