一次の相転移現象は自然界で最も一般的な物理現象の一つである。大気中の霧の発生などはその典型例である。核生成とは、エネルギー的に準安定な相の中に、より安定な別の相が局所的に出現する現象で、これをきっかけに系全体は安定相に不可逆的に転移する。これまでの核生成のミクロな理論的解析は、均質な物質中に熱揺らぎや量子揺らぎによって臨界核が生成するとしたものがほとんどである。ところが、現実の系には不純物が不可避的に存在し、その不均一性が核生成に大きな影響を及ぼすことが経験的に良く知られている。霧の例で言えば、核生成は大気中の塵などの不純物近傍で選択的に起きる。本論文は、一次元電荷密度波(CDW)状態に電界をかけたとき、静止したCDWが動き始める現象を一種の一次相転移ととらえ、その核生成に対する不均一性(不純物)の効果をミクロなモデルに基づき議論したものである。 本論文は全体で6章から成る。第1章では、一次相転移と核生成の一般論が示されるとともに、本研究の背景と論文の概要が述べられている。続いて第2章では、フェルミ面のネスティング効果によって生ずる一次元の整合CDW状態と、その「ピン止め」について解説されている。一般に、自発的並進対称性の破れに伴ってスライディングと呼ばれる励起エネルギーゼロのCDWの並進運動モードが存在し得るが、実際の擬一次元伝導体では背後に格子構造があるので、スライディングは有限の励起エネルギーをもつ。これを整合CDWのピン止めと呼び、その並進運動はCDW状態の秩序変数である位相を用いた位相ハミルトニアンで記述できる。 第3章では、ピン止めされたCDWに、ある有限な閾値より大きな電場をかけたとき、CDWが動き出して電流が流れ始める現象、すなわちCDWの「ピン止めのはずれ(depinning)」が解説されている。この現象は、CDWがピン止めされて静止した状態からピン止めがはずれて動いているスライディング状態への、運動状態に関する一次相転移と考えることができる。ここでは、絶対零度における位相ハミルトニアンを用いた理論的な取り扱いが、古典および量子的な場合について説明されている。 第4章と第5章は本論文のオリジナルな部分である。ここでは系の不均一性の具体例として、第3章で扱った均一な系にデルタ関数型の引力ポテンシャルで表される1個の不純物を入れた場合を考察している。第4章では、絶対零度の場合について位相ハミルトニアンを用いた古典的な場合の計算がなされている。ここではポテンシャルが引力であるにも係わらず、不純物の位置によっては不純物なしの場合よりも閾電場(c)が低下することが分かった。CDWのdepinningは、傾いた洗濯板型ポテンシャルの谷に置かれた紐が、洗濯板を傾けた場合どこで動き出すかという問題と同等である。この場合、不純物ポテンシャルの存在はその一点で紐を引っ張る効果に相当する。洗濯板を傾ける方向と不純物が紐を引っ張る方向とが一致するときcが低下すると考えれば、この結果は定性的にも妥当である。さらに、cを最小にする位置に不純物を固定して、不純物ポテンシャルの強さ(v)を無限に大きくすると、cは低下するもののある有限値に収束することが分かった。以上は、核生成が不純物によって促進され、不純物付近から起こるという経験的な描像に一致する。本論文はこれをミクロなモデルから初めて導いたものとして評価できる。 第5章では、前章の議論を量子論に拡張するため、まず、この系の運動が「不純物サイトの位相変数」という一変数のみで記述できることが示されている。これによって、位相ハミルトニアンという場の理論から一変数で記述できる有効ラグランジアンが導かれた。次に、このラグランジアンに基づいて経路積分法を使って量子トンネル効果による核生成が議論されているが、具体的には、c付近でのトンネル確率の電場依存性が計算されている。その結果、不純物が1個存在するときの量子depinningは、均質な場合と異なり、トンネル確率の電場依存性がvに依って変化することが初めて分かった。 以上のように本論文は、一次元整合CDW状態のdepinningが、不純物付近での位相変数のコヒーレンス長程度の局所的なすべり(local sliding)が核生成となって引き起こされることを、ミクロな議論から初めて示したものである。エネルギー散逸が大きいときにlocal slidingがその後のマクロなdepinning現象に直結するのか、あるいは逆に散逸が小さくトンネル確率が大きいときのWKB近似の適用範囲はどうかなど、今後より定量的検討を要する問題も一部あるが、本論文の着想の斬新さは高く評価できる。 なお、本論文第4章は指導教官である福山秀敏氏と松川宏氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究したもので、論文提出者の寄与は本質的かつ十分であると判断される。 したがって、審査委員会は全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認める。 |