1.序論 漸深海性メガベントス研究の中で、分類とファウナルゾネーションの記載は、比較的巨視的な生物学的研究対象である深海生態系がいかなる個体間、種間相互作用等の生物学的要因によって維持、形成されているかを考察する上で最も基礎的な研究である。一方、比較的微視的な研究対象には、共生のような特殊な生物学的現象がある。ここでは両者ともに扱える研究材料として主に漸深海性タラバガニ類について研究した。 2.日本産オキナエビ属の分類学的検討 主に本州中部漸深海域より採集された材料に基づき、日本産オキナエビ属Nephropsisの分類学的検討を実施した。この結果、日本近海には新記録2種を含む5種の存在が判明した。 このうちヤサオキナエビ(新称)N.holthuisiの総模式標本を検討したところ、完模式標本(雄)と副模式標本(雌)に種レベルでの相違とみなせる大きな形態的相違が頭胸甲亜背面隆起と第一歩脚などに認められた。このため、別のオーストラリア産雄標本とあわせて新種として記載した。 3.東京海底谷漸深海域におけるエゾイバラガニ属の分類 漸深海性タラバガニ類に関する生態学的知見は世界的にみても少ない。中でも、エゾイバラガニ属Paralomisは詳細な検討が特に少ない分類群である。ここでは東京海底谷漸深海域を調査海域とし、この海域で周年操業を行っている商業篭漁船を採集手段として、種間ゾネーション記述を主な目的として調査、解析を行った。なお、分類実践にあたってはErnst Mayrの分類学的推論を採用した。 東京海底谷からはツブエゾイバラガニP.dofleini、イガグリガニP.hystrix、コフキエゾイバラガニP.japonicaの3種を確認できた。いずれも出現は比較的湾口部の、底層流が強い砂底から岩礁底に限定されたが、種ごとに微妙な選択性の差異が検出できた。出現水深については殆ど重なり合いのない種間ゾネーションを確認した。これは浅所から、P.hystrix(200-280m),P.japonica(280-320m),P.dofleini(320-450(?)m)の順となる。また、統計学的に有意ではないが、いずれの種でも雄個体の出現水深が雌個体よりも広いことが示唆された。今回の結果からはエゾイバラガニ属で共通して見られる繁殖周期について具体的な結果を得るには到らなかったが、断片的に得られた観察結果とあわせるならば、明確な繁殖周期は存在しないものと推察された。 4.東京海底谷漸深海域での腐食性十脚甲殻類のファウナルゾネーション エゾイバラガニ属では単位漁獲努力量あたりの採集個体数が比較的少ないが、腐食性漸深海性メガベントスとして分布および繁殖様式と摂食形態面で典型的な存在と見なせる。 前章では東京海底谷での本属での水深勾配に対する種間ゾネーションを検出した。この特性がこの海域の腐食性十脚甲殻類での一般的傾向であるかどうかクラスター解析を通じて検討した。ここではエゾイバラガニ属での分布傾向をもとにして東京海底谷を3つのサブエリアに分割して、10m水深幅のコドラートを作成し、gradient analysisとcluster analysis of speciesを実施した。 この結果、gradient analysisではサブエリアの別に関係なく、おおむね水深190m、260-280m、310-320mにて大幅な種組成の変化があり、cluster analysis of speciesでは、エゾイバラガニ属の各種がそれぞれの異なる種群とクラスター形成することが明らかになった。 これらの結果は、東京海底谷漸深海域においてエゾイバラガニ属が腐食性十脚甲殻類相を代表していることを示している。同時に、大幅な種組成の変化がエゾイバラガニ属での種間ゾネーションと対応していることは、エゾイバラガニ属各種間での、異種個体間で生じる生活環境や餌などをめぐる相互作用、競争が主要な種間ゾネーション維持の要因ではないことを示唆している。 5.南奄西海丘におけるエゾイバラガニ属の分布様式 エゾイバラガニ属は、通常大陸斜面や海山頂などの漸深海域から報告されているが、この水深帯の熱水噴出域、冷湧水帯にも認められている。ここでは、複数種がごく狭い海底環境に出現し、しかも熱水活動に関連づけられる明確な分布域の相違があることを示す。なお、沖縄背弧海盆の南奄西海丘C窪地(水深約700m)を調査した。潜水調査艇は、篭漁では得られない微細な生態的差異を観察したり、熱水噴出域のような水温、硫化水素、重金属イオンなどの物理化学的因子が急激に変化する環境下で検討個体がどのような分布上の相違を示すかを確認するのに有効である。 この結果、この窪地からはP.dofleini、エンセイエゾイバラガニP.jamsteci、ゴカクエゾイバラガニP.verrilliを同定できた。この窪地の中央部および北、北西崖には多数の活動中のチムニーが林立し、周囲をシンカイヒバリガイ類が濃密に被覆するが、多数のP.jamsteci個体のみが確認された。窪地の中央部から北東平坦面にかけては砂礫底が広がるが、ここでは比較的低密度でP.dofleini個体が確認された。 6.駆逐による種間ゾネーション維持に関する生物学的要因の特定 種間ゾネーションの維持機構を積極的に研究する最も簡便で、かつ結果の解釈が容易な例として、2種間のゾネーションを検出した後、いずれかを選択除去することが浅海域ではよく行われる。ここでは、東京海底谷にて重度の篭操業の結果発生したエゾイバラガニP.multispinaのイバラガニモドキLithodes aequispinaのオープンニッチへの侵入を解析した。 この種間ゾネーションは水深800mを境界とし、浅所からL.aequispina,P.multispinaの順となる。1980年までにL.aequispinaの駆逐が成立した。しかし、1992年から1997年までに得られた検討P.multispina個体は10000個体を越えるにもかかわらず、ほぼ全数がもとの性が雄であり、ダイオウナガフクロムシBriarosaccus callosus個体に感染した異常個体であった。さらに、P.multispina個体の侵入に伴って、B.callosus個体の感染率は殆ど上昇しないにもかかわらず、駆逐され残ったL.aequispinaの性比も、それまで著しく雌に偏っていたのが雄に偏るようになった。 以上より、東京海底谷におけるL.aequispina,P.multispinaで確認された種間ゾネーションは種間競争というよりは、それぞれの種内での繁殖に関連した同種個体間相互作用、および種特有の個体の示す生理的、生態的特質が強く作用した結果、形成、維持されていたと結論される。 7.Kentrogonid maternalization:共生のモデル フクロムシ亜目と対応するホストタクソンで認められる特異な個体間相互関係は、egg mimicryのような擬似母子相互作用やホスト個体の形態、内分泌面での著しい変化によって特徴付けられる。しかし、フクロムシ・ホストの組み合わせによってホストの変化が多岐にわたるため、生物学的現象としての適切な理解、位置付けが殆どなされていない。ここでは東京海底谷漸深海域産の、豊富な材料に恵まれた8例を検討した。なお、最も典型的なケース、B.callosus・P.multispinaについては光学ならびに電子顕微鏡観察も行った。 検討した8つのケースに共通して、雌ホストの外面形態の変化は、去勢が成立する以外は比較的軽微であった。しかし、雌ホストの場合、去勢ばかりでなく,殆ど変形がない場合から完全な女性的形態獲得に到る場合まで多様であった。B.callosus・P.multispinaのケースでは、ホストの標的器官は胸部神経節であり、そのほかの臓器への接触、侵入は全く認められなかった。また、メラニン沈着を介したホスト免疫システムによるフクロムシの異物認識は、フクロムシのexternaが脱落している場合に限られていた。 既存の報告と今回の結果をあわせて検討すると、フクロムシ・ホストの科以上のレベルでのタクソンコンビネーションにはほぼ例外なくカニ型甲殻類がホストタクソンに必ず含まれる。さらに、本来の性やジェンダーとは関係なく、ホストの擬似母親化の成立が強く期待されることを考慮し、この個体間相互関係をkentrogonid maternalizationと命名した。 |