本論文は、日本の植民地統治下における台湾の「国語」(日本語)教育の歴史を、教育社会史的視点を加味して再考した力作である。日本統治下台湾の教育史研究は、一九七〇年代に制度史的研究から出発し、九〇年代に入り日本近代の国民形成へのかかわりの視点から、そのイデオロギー的側面の分析が進展した。また、八〇年代後半以降の台湾における台湾史研究の急速な進展により、日本統治下における台湾社会のさまざまな動向を示す諸史料の発掘なども進んだ。本論文はこうした研究動向を踏まえ、台湾総督府教育政策決定者の残した第一次史料の精査と台湾人知識人の言説の吟味とを並行的に進行させることにより、国語教育をめぐる統治者側と被統治者側の相互作用のダイナミックスを描き出そうと試みている。自身台湾出身者である著者は、このようなダイナミックスの解明により、近年日台双方に見られる誤った植民地支配肯定論の歪みをただし、近現代における台湾人アイデンティティの形成史の理解に資したいとの意欲も示している。 本論文は、第一章を序論、第八章を結論として全8章からなる。注は、各章末に付されている。巻末には本論文論旨にかかわる事項の年表および参考文献リストが付録として付されている。目次と参考文献、付録の除く総ページ数は、287ページ(A4版、30行/ページ。注部分が約33ページ)である。また、本論の論述にかかわるデータや概念を表示するため、計12の図・表が本文中に掲示されている。なお、第六章の注部分の末尾には、台湾におけるエスペラント運動や台湾話文運動に関する補足的な論述が付されている。以下、まず各章の内容を紹介する。 「第一章 序論」では、先行研究の批判的検討に基づいて、問題設定と仮説の提示が行われている。著者はまず、日本の台湾における植民地教育が、当時の先進国家にも劣らない初等教育就学率とピラミッド型の制度的構造に最終的に帰結したという日本の植民地教育の特異性を指摘し、この特異性は単に「同化」教育と一括される日本の植民地教育政策の特異性のみならず、実はある意味では積極的にこの「同化」教育に呼応していった台湾人側の対応の特異性にも求められるべきではないか、との疑問を呈する。そこで著者は日本植民地主義における「同化」の概念が「(普遍的)文明への同化」と「(支配民族固有文化、従って大和)民族への同化」の二つの側面を有しており、この二つの側面をめぐる統治側と被統治側の強制、抵抗、付与、受容、抑制といったダイナミックスとして国語教育史がとらえられるとの仮説を提示する。台湾人側としては、(1)両側面とも受け入れる、(2)両側面とも拒否する、(3)選択的に受容する、の三つの選択肢があるが、台湾人は(3)「文明への同化」を選択していたのだ、とする。第二章以下第七章までの本論は、この仮説の検証にあてらている。 「第二章 "民族の中へ"、そして"文明の中へ"-伊沢修二と草創期の国語教育」では、草創期の学務官僚伊沢修二の言説と行動の検討を通じて、植民地教育が創始されその中に国語教育が導入されていく過程が論述されている。著者は、伊沢らの言説において、「智育」にかかわる内容を"文明の中へ"の同化志向、「徳育」にかかわるものを"民族の中へ"の同化志向とし、国語伝習所を中心とする初期の教育においては、"民族の中へと台湾住民を導くための呼び水として"文明の中へ"の側面も重視されていたとする。加えて、伝統的教育方式も容認する「混和主義」が被支配者に受け入れやすかった点にも触れている。台湾を「日本の身体の一部に」という伊沢の急進的かつ平等主義(下層階級にも直ちに普及させようとする)的な初等教育拡大方針は、折からの財政難の壁にあたり、伊沢は非職となって挫折するが、国語教育はその後一九四〇年代まで続く「公学校」制度として定着し、また、「国語は日本人の精神的血液」とする上田万年の国語イデオロギーも教育関係者の言説に浸透していった。 「第三章 "民族の外へ"、そして"文明の中へ"-後藤新平、持地六三郎の教育構想」では、台湾総督府民政長官後藤新平が辣腕を振るった統治確立期の国語教育の位相が検討されている。後藤は「一視同仁」といった「同化即平等」のレトリックをもてあそびはしたが、実際にはそのいわゆる「生物学的」統治観から漢族住民の文化的同化の可能性を極めて低く見ており、平等は長期間にわたる文明向上の後とする同化観(「同化即差別」)を有しており、台湾人への教育は労働者としての質の向上に資する範囲でのものにとどめるべきものと考えていた。その下で学務部長をつとめた持地は、公学校の修業年限の短縮、義務教育促進論の阻止など、この後藤の教育観に沿った普及抑制政策をとった。このため、公学校数と生徒数の拡大はこの時期に芳しくはなく、教育システムの法制化も行われなかった。 「第四章 "文明の中へ"、"文明の中へ"-国語教育草創期における台湾人の受容態度」では、このように展開してきた統治初期の国語教育に対する台湾人の受容のあり方が検討される。著者によれば、台湾人は初期の拒否反応を極めて速やかに脱して国語教育をさかんに受容し、公学校増設をさえ求めるようになった。この時期の教科書の内容を精査すると、既存研究が想定していたのとは異なり、"文明の中へ"を志向する記述のほうが"民族の中へ"にかかわる記述(たとえば皇室に関するもの)より大幅に上回っており、台湾人は国語教育の中のこの"文明の中へ"の志向に感応したのであった。本章では、台北の豪商で初期の統治に積極的に協力した李春生の文明観からもこの点が検証されており、この部分は本論文の白眉であると言える。 大正期に入ると、この"文明の中へ"に感応した台湾人の国語教育受容は、上層士紳らによる公学校増設、内台共学、中学校設置などのあからさまな要求として表面化した。「第五章 "文明の中へ"から"民族の中へ"-大正期台湾の国語教育」では、こうした台湾人の動向を「受容による抵抗」ととらへ、大正期10年余にわたって学務部長をつとめた隈本繁吉の対応を詳細に検討して、隈本のもとで総督府の教育方針が、漠然たる"文明の中へ"志向のもとで普及を抑制する方針から、教育内容を"民族の中へ"と転換することを通じて「普及による抑制」に転じていったことを示す。一九一九年の台湾教育令の制定、二一年のその更なる改定は、こうした転換の帰結であった。 さらに、こうした統治側の転換は台湾人側の新たな対応を引き出した。「第六章 "文明の中へ"、そして"民族の外へ"-「同化」教育に対する台湾知識人の抵抗」は、旧タイプの士紳でありながら二十年代穏健派民族運動のリーダーとなった林献堂、中国白話文台湾導入を提唱した黄呈聡、台湾語ローマ字普及運動を行った整培火らの言説と行動を分析する。著者によれば、この時期の台湾知識人は、一貫した"文明の中へ"志向のもとに教育の普及を求めるとともに、教育内容の"民族の中へ"への転換に危機感をもち、盛んに「同化」教育を批判するとともに諸種の文化運動を展開して自前の言語文化装置構築による近代の摂取、「自力更生」の近代化を志向したのであった。 そして、「第七章 "民族の中へ"、さらに"民族の中へ"-昭和期の国語教育」は、こうした台湾知識人の運動の盛り上がりに対し、台湾総督府がこれを政治的に抑圧・弾圧するとともに、昭和期に入り国語普及運動を社会教育としてにわかに積極的に推し進め、さらに皇民化運動期には、国民学校令を経て終に義務教育が実施される過程、およびその間における台湾知識人のジレンマとを検討する。官製の国語普及キャンペーンにおいては上田万年的国語イデオロギーのレトリックが復活し、初等教育教科書でも超国家主義的国体論のレトリックが幅を利かせるにいたった。近代性への「自力更生」の道を禁圧されながらも、国語教育を通じた"文明の中へ"の志向を放棄できない台湾知識人は、圧倒的な国語の進出を前に"文明の中へ"と"民族の中へ"を弁別すべき「フィルター」を摩滅させていかざるを得なかったのであった。 「第八章 結論」では、本論が要約されるとともに、植民地台湾における国語教育史が「文明への同化」と「民族への同化」をめぐる日本統治者と台湾人の「同床異夢」の歴史であったとされる。さらに、そこで明らかにされた国語教育をめぐる「文明」と「民族」のダイナミズムから、台湾アイデンティティ形成論への架橋が試みられている。 以上が本論文の概要である。本論文の意義としては、次の諸点が挙げられる。 まず何よりも、国語教育に対する台湾人の受容・反発のあり方を初めて一定の体系性をもって提示し、国語教育の歴史を統治・被統治側の相互作用によるダイナミックなものとしてとらえることに成功したことである。このことによって制度史、ついでイデオロギー論と展開してきた台湾近代教育史研究は、大きくその歩を進めたということができる。 さらに、第二に、著者が本研究において説得的に提示しているところの、 (1)日本の台湾植民地統治においては、文化上の強制と拒絶、弾圧と抵抗とは別の経路で、近代文明をめぐる付与と受容、希求と拒絶、自立と抑止の駆け引きの歴史の側面を有していた、 (2)日本の台湾植民地統治において達成された「近代化」とは、近代日本の国家体制の平衡維持の必要から生じた統治者と被統治者の「同床異夢」の結果であり、台湾社会に定着した「近代」は、国語教育の中から台湾人が「文明への同化」として選択的に受容し勝ち取ったものである、 との論点は、教育史のみならず、台湾近代史全般について、幅広い議論の視角を提供しているものと見ることができる。これらの視点からするならば、民族抑圧・民族抵抗の単純な二項対立から逃れた植民地期の国家・社会関係の探求が可能になり、かつ台湾史研究においてようやくに注目を集めつつある、台湾史の戦前・戦後の断絶と連続をの議論の進展にも大いに資するものであると思われる。 第三に、角度を変えて、著者の提示するダイナミックスにおいては、統治側の「同化」イデオロギーを"文明の中へ"と"民族の中へ"との両面を持った両義的なものと把握したことが重要な出発点となっているが、これは、大量の第一次史料(ほとんどが日本語)の精査とともに、日本における最近の重要な先行研究(たとえば、駒込武『植民地帝国日本の文化統・合』岩波書店、一九九六年)との周到な対話が預かって力あるところである。このことは、台湾の学界における関連の研究が往々にして近年の日本の学界の成果(当然にレリバントであるべきところの)を十分に踏まえることなく行われている事情に鑑みれば、著者が日本留学という条件を十二分に生かし、本論文において日台の学術交流の実をあげたものと評価することができる。 しかしながら、もちろん、本論文も欠点なしとしない。第一に、教育社会史的視角の不徹底、ないしは登場させるアクターの不十分さである。たとえば、現場の教師群-台湾人教員と日本人教員が、その両義的な「同化」の進行過程でとった態度等も視野に入れれば、より立体的な論述が可能となったであろう。第二に、上記叙述について、時期的に精粗のばらつきがあり、たとえば、昭和期の政策決定者の言説の分析をさらに分節化することが望まれる。第三に、筆者は、国語教育の普及を、統治者側では「国体]イデオロギーに、被統治者側では「文明への強い希求」に求めているが、例えば、その分析に、階層、ジェンダー、マイノリティなども考慮に入れたならば、より論述がニュアンス豊かなものになったのではないか、と思われる。 しかし、このような欠点も、本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、上記のように、台湾近代教育史研究の水準を高からしめる成果であるとともに、台湾近代史研究全般にも新たな視野を開くものであり、博士(学術)の学位を授与するにふさわしい業績であると認められる。 |