学位論文要旨



No 114845
著者(漢字) 江口,匡太
著者(英字)
著者(カナ) エグチ,キョウタ
標題(和) 賃金プロファイル、モニタリング、および労働組合 : 労働契約理論の視点
標題(洋) Wage profile,Monitoring,and Union : A View of Labor Contract Theory
報告番号 114845
報告番号 甲14845
学位授与日 2000.02.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第133号
研究科 経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,元重
 東京大学 教授 藤原,正寛
 東京大学 教授 金本,良嗣
 東京大学 助教授 松井,彰彦
 東京大学 助教授 柳川,範之
内容要旨 要旨

 この博士論文は労働契約理論に関する4つの論文を中心に構成される。前半(2、3章)は賃金プロファイルとモニタリングの関係について、完備契約の理論を用いて分析する。後半(4、5章)は不完備契約理論を応用して労働組合の存在意義について考える。なお、第1章は労働契約理論に関するサーベイである。

 第2章では賃金プロファイルと雇用調整との関係をモニタリング費用に注目して考える。ホワイト・カラーでは、不況時に中高年労働者が雇用調整の対象とされる。その理由として、中高年労働者の賃金がその生産性以上であることが挙げられる。実際、生産性が賃金を上回っているならば、解雇するインセンティブは企業側には生じないので、解雇が行われる以上、生産性以上の賃金が支払われているはずである。Shimada(1981)や小池(1991)などによって、ホワイト・カラーの賃金プロファイルはブルー・カラーに比べて急勾配であることが日米とも知られている。そのため、中高年ホワイト・カラー労働者の賃金が生産性以上である可能性は高く、そのために中高年労働者が解雇の対象とされることになる。

 しかし、中高年労働者が解雇の対象とされることは、解雇が頻繁に行われることを必ずしも意味しない。実際、ホワイト・カラーはブルー・カラーに比べて、解雇されることは少ない。また、中高年時の解雇の可能性は、若年労働者の熟練のインセンティブを減退させる。Lazear(1979)(1981)が指摘したように、そもそも中高年労働者の賃金がその生産性を上回るのは、労働者のモニタリングにかかる費用が大きいときに、賃金プロファイルを急にすることで、労働者に努力インセンティブを与えるためである。

 Lazearタイプの賃金プロファイルが、労働者に努力インセンティブを与える目的をもち、また、それがインセンティブを阻害する中高年労働者の解雇の原因であるなら、この背反する両者を整合的に説明する必要がある。そこで、本論文は労働者のモニタリング費用に注目し、モニタリング費用が大きいほど、賃金プロファイルは急になり、中高年労働者の賃金と生産性の乖離は大きくなるが、解雇される可能性は小さくなることを示す。

 ホワイト・カラーの仕事はブルー・カラーと違って、生産に直接リンクしていないことが多く、どの程度まじめに働いているのかを知るのは難しい。しかも、日本企業では労働者個人の仕事の範囲が明確ではなく、共同作業によるところが大きいため、一層仕事の成果を把握するのは困難である。このため、ホワイト・カラーのモニタリング費用は大きくなるであろう。

 本論文は2期間の労働契約モデルを考える。労働者にとって、賃金プロファイルが急であれば、モニタリングによる解雇による損失が大きくなるので、さぼるインセンティブは小さくなる。そこで、賃金プロファイルを急にすることで、モニタリング費用を減少させることができる。しかし、リスク回避的な労働者の効用関数は賃金に対して凹であるので、同一水準の効用を与えるためには、賃金プロファイルが急であるほど、賃金費用が高くなる。そのため、企業はモニタリングと賃金プロファイルの勾配を適当に組みあわせることで、費用を最小にする。

 そこで、ホワイト・カラーのように、モニタリングを行うのが困難な状態を考えよう。さらに、第2期の景気状態に対する不確実性を考慮し、景気状態に応じて解雇される可能性を考える。企業は労働者の技能修得のインセンティブを損なわないような解雇率を決定する。

 モニタリング費用が高ければ、高いほど、すなわち、モニタリングが困難であるほど、賃金プロファイルは急になり、モニタリングは急な賃金プロファイルに代替される。このとき、解雇される可能性も減少する。しかも、中高年労働者の賃金と生産性の乖離はより大きくなっているのに、解雇されにくくなる。これが本論文の結論である。中高年労働者の賃金と生産性の差が大きくても、解雇が行われにくくなることを、モニタリング費用の観点から説明できるところが、今までにない新しい点である。

 第3章では、さらに逆選択下における賃金プロファイルとモニタリングの関係に分析を拡張する。ここで得られる結論は、高い能力を持つ労働者ほど賃金プロファイルが急勾配になり、かつ頻繁にモニターされるというものである。その理由は以下の通りである。逆選択の下では、高い能力を持つ労働者に情報レントを保証しなければならないことが知られている。そのため、高い能力をもつ労働者は高い総賃金を得、またインセンティブの観点から賃金プロファイルは急になる。一方、低い能力をもつ労働者は、高い能力を持つ労働者のふりをして、その情報レントを獲得しようとする。こうしたことが起きるのは、労働者の努力水準が観察できないためである。ここが、労働者たちの行動(学歴水準など)が観察可能である通常のスクリーニング・モデルと異なっている点である。そのため、高い能力を持つ労働者を頻繁にモニタリングすることで、低能力労働者が高能力であるふりをする事態を防ぐことができる。モニタリングは労働者の努力インセンティブと、自己選択(self-selection)の両面にわたって機能するが、モラル・ハザードと逆選択が存在する場合には、後者の役割がより重要になることを示した。

 第4章と第5章は不完備契約を応用して労働組合の役割について考察する。労働組合の積極的な評価として、そのボイス・システムに着目したものがある。労働組合が労働者の要望や不満などをくみ上げ、経営者側に報告することで、労働者の生産性や意欲を増進させる効果を持っているという。しかし、労働組合のボイス・システムの意義に注目した考え方では、ボイス・システムの役割を労働組合以外の機関が担当しても構わず、交渉力をもつ労働組合が行う必要はないことになる。企業にとっても交渉力のない労使協議制の方が望ましいであろう。そこで、第4章では、労働組合の大きな交渉力の存在が、労働者の雇用保障の効果をもたらすことで、契約の不完備性を補い、企業にとって期待利益が大きくなる可能性を示した。これは労働組合の強い交渉力の存在が、企業にとって利益になりうることを示している点で、労働組合の交渉力は資源配分を歪めるという従来の否定的な考え方と大きく異なっている。

 具体的には、基本給に関しては立証可能な契約が作成できるが、将来の景気状況に応じた賃金や雇用保証については事前的に契約が書けない状況を考える。事後的には企業は最適な雇用量を選択するので、それを事前的に考慮して契約が作成される。労働者は努力インセンティブを要求されるため、市場より高い賃金がオファーされる必要がある。もし、労働組合が存在して、企業に高い雇用保証が実現されるならば、事前的にはより低い賃金オファーで誘因整合的な契約が作成されうる。その結果、企業にとっては、労働組合を通して事後的な雇用保証ができるために、利益が大きくなる可能性が存在する。交渉力のある労働組合の存在によって、企業は事後的には雇用量の自由度を失うが、事前的には賃金を下げることができ、利益の拡大が図られる。このように労働組合はコミットメントを可能にする環境を作り出すことに貢献していることを示した。

 しかし、労働者のモラル・ハザードを考慮すると、労働組合のこのコミットメント機能としての役割が弱められる。この点について考察したのが第5章である。

 労働組合が大きな雇用保証を実現するならば、基本給が与えられている以上、労働者の努力インセンティブは低下するであろう。そのため、インセンティブを維持するためには、高い基本給をオファーする必要がでてくる。そのため、労働組合の存在が企業の利益増加をもたらす可能性を小さくしてしまう。本論文では、労働者の努力水準に関する不完全なシグナルを考え、シグナルの精度が低いときは、労働組合の存在が企業の利益を下げてしまうことを示した。

 多くの国で、ブルーカラーの方がホワイトカラーよりも組合組織率が高い。繰り返しになるが、これはブルーカラーの労働は生産物により直接的にリンクしているので、生産量などを見れば、労働者の努力水準は観察または推察しやすい。しかし、ホワイトカラーでは、自動車や保険の営業のような仕事を除けば、仕事の成果を観察することは難しい。モラル・ハザードはホワイトカラーの方が起こりやすい。そのため、企業側は、ホワイトカラーの労働組合活動を望みにくい。労働法規によって労働組合活動に対する妨害は禁止されているものの、違法行動を立証することは難しく、組合に対する妨害は比較的観察される。これは労働組合活動のインセンティブを下げるであろう。第5章は、この定型化された事実を説明する一つの仮説を提示したことになる。

審査要旨

 この論文は、労働契約における賃金構造に関する理論的な分析を行った4つの章と展望の章からなっている。この論文において分析の対象となっている賃金構造とは、長期的な雇用関係におけるwage profile(賃金プロファイル)のことである。

 労働者が企業と長期的な雇用関係を結ぶとき、雇用期間内の各期の賃金はその時の労働者の生産性に等しくなる必然性はない。企業に勤めている期間の長い労働者の方が賃金が高くなる傾向にあるという「年功賃金」的な賃金構造が観察されることが多い。こうした年功賃金の存在に関しては、いろいろな理論的説明が試みられている。その中の有力な議論の一つに、年功賃金が労働者の労働誘因を高める手法となるという見方がある。すなわち、雇用期間の初期の段階には賃金を低く設定し、雇用期間の後期に賃金を高く設定することで、雇用期間の途中で解雇されることの経済的損失を大きくするようにする。このような賃金体系と、(不完全にならざるをえない)モニタリングを組み合わせることで、労働者の労働意欲を高めようとするのだ。

 この博士論文においてはこうした視点から、賃金契約や雇用契約の構造について、二期間の雇用契約モデルを用いて、いくつかの基本的問題について分析している。以下、各章の内容について、もう少し詳しく説明してみたい。

 第1章では、この分野の文献を展望した上で、この研究の目的と結果について整理している。まず、契約理論の大まかな展開について概説した後、それが労働契約の問題にどのように応用されてきたか展望がなされている。そしてその上で、この研究の目的が述べられている。

 本論文全体を通して重要な意味を持つのが、将来の景気や経済環境に不確実性があるという点である。そのため、将来にわたって雇用保証が確保されているわけではない。第2章と第3章では、あらかじめ景気などの外部環境におうじた雇用(解雇)について契約が書けて実行できるケースを考察している。論文の中で使われている表現を使えば、complete contract(完全契約)のケースである。

 第2章では、将来の需要の不確実性などによって雇用調整が起こりうるケースを想定して、その場合にモニタリングのコストが賃金プロファイルや雇用調整行動にどのような影響を及ぼすのかということが分析されている。

 この章では、将来時点での景気の状況に応じての雇用調整は、すべて契約に書き込んで実行可能であると想定している。ただし、労働者の行動(努力の程度)については、モニタリングをしないと分からない。このモニタリングが不完全であると想定すると、労働者に高い労働意欲を持たす手法は二つの手法の組み合わせとなる。一つは1期目の賃金を低く抑え、(賃金と雇用調整から決まる)2期目の期待賃金を高くすること(以下ではdelayed compensation schemeと呼ぶ)である。そしてもう一つは、モニタリングの強化である。モニタリングの費用が高いほど、delayed compensation schemeに頼らざるをえなくなる。モニタリングの費用が高ければ、非常に不完全なモニタリングしかできない。そこで、2期目の賃金を高くし、かつ景気が悪くてもできるだけ解雇をしないような雇用契約を結ぶことで、契約違反を行う労働者の損失が大きくなるようにするのだ。この章の分析の貢献は、景気の変動の中で雇用をできるだけ保証するような契約の根拠として、不完全なモニタリングを補完する機能という面を明らかにした点がある。そして、それは賃金プロファイルが急になる(delayed wage payment)という現象と組み合わされてより強化されるのである。

 第3章では、第2章で取り上げたモラルハザードに、労働者のタイプが多様であることによって生じる逆選択(adverse selection)の問題を加えることによって、この二つの問題に対処する方法として賃金プロファイルとモニタリングがどのように利用されるかが分析される。ここでも、企業側がどの程度モニタリングを強化するかが関心の対象となる。モニタリングが強化されるほど労働意欲の低下やさぼりは防げるが、それだけモニタリングに伴うコストが高くなる。そこで、モニタリングの効率を高めるため、賃金プロファイルが利用されるのだ。

 契約形態を決める時のポイントとなるのは、(1)いかに労働者の労働意欲を高めるのかというモラルハザードの問題と、(2)能力の低い人が自分の能力を偽って申告することを防ぐ逆選択の問題を、どのように同時に解決するかということである。能力が高いと申告した人に対してより厳しいモニタリングを課すことで、そしてそのような人にはよりdelayed wage schemeを提示することで、二つの問題を同時に解決することになる。

 第4章と第5章は、労働契約における労働組合の役割について論じる。これらの章において光が当てられる組合の機能とは、企業との間で賃金水準を交渉するというものではなく、景気低迷期に雇用削減をしようとする企業に抵抗し、雇用安定を志向する圧力団体としての労働組合である。労働組合が存在することが労働契約に関して一つのcommitment schemeになって、組合の存在が労働者にも企業にもより好ましい結果を生み出す可能性があることが示されている。

 こうした問題を考察するため、これらの章では、第2章、第3章とは異なった状況を考える。すなわち、景気の動向の不確実性の下で、景気変動による雇用調整について事前に企業と労働者の間で契約を結ぶことができないと想定する(incomplete contract)。こうした雇用契約に関する不完全性を補う機能が労働組合に求められるのである。

 第4章では、非常に強い力を持った組合を想定することで、組合による雇用削減への抵抗が雇用安定化の手法となり、労働契約をより優れたものとすることが示される。[契約の不完全性のため、企業は予め雇用安定化にコミットすることができない]→[それを予想した労働者は、契約で決められる賃金を高めに要求する]→[賃金が高めに設定されているので、景気が悪くなれば雇用削減を厳しくせざるを得ない]。これが、組合の存在しないときの契約の状況である。ここで、雇用削減に強く抵抗する組合を組み込むと、次のようなメカニズムが組み込まれる。[企業は景気が悪くても雇用削減がしにくくなる。]→[雇用がより確保しやすくなった労働者はより低い賃金でも雇用契約に応ずる]→[賃金が低くなるので、景気低迷期でも雇用削減をゆるめることのコストは小さくなる]

 第5章では、第4章とは少し異なった構造のモデル(組合の行動の構造が異なる)で同様のことが示される。すなわち、労働組合の存在の下では雇用確保をcredibleに保証することができ、それが賃金引き下げを可能にする。次にこれを受けて、労働者の努力が不完全なシグナルとしてしか企業側に見えないケースを考察する。このような場合、組合の存在によって雇用の安定性が保証されると、労働者は努力に関するcheatingをする誘因を持つことになる。一般的にシグナルが不完全であるほど、すなわち労働者の努力水準が企業側に見えにくいほど、組合の存在による雇用安定化がもたらす契約をより好ましいものにする効果は弱くなる。こうした場合には、企業の方も組合の積極的な意味合いを見いだしにくくなる。この結果を受けて筆者は、ブルーカラーとホワイトカラーの間で組合の組織率に顕著な違いがあるのは、前者よりも後者の方が労働の成果が見えにくいことによるものであるという解釈を提示している。

 以上でこの博士論文の内容の概説を試みた。2期間の雇用モデルで、様々なケースを想定し、興味深い結果を出していると思う。論理展開は比較的分かり易く記述してあると思われる。出された結論についても、それがどのような意味を持っているのか、比較的説得的な議論がなされているのではないだろうか。雇用契約にモデルについては、様々な角度から多くの研究が行われており、新たな貢献をするのは容易ではない。そうした意味からは、賃金プロファイルに焦点を絞って分析を行っている本論文は、上で指摘したようないくつかの新たな視点を提示したのではないかと考えられる。

 ただ、この論文にも不満を感じる点がないわけではない。まず、厳密なモデルで考えようとするため、理論分析の結果に都合がよい観察事実だけ取り出してきたのではないかと感じさせられる部分がある。賃金プロファイルという問題がこの研究全体に関わっているのであれば、筆者自身が実証研究を行わないにしても、過去の様々な実証分析結果などについてもう少し包括的な言及がなされるべきであったと考えられる。また、本論文の重要な部分を構成しているモニタリングについて、それが現実的にどのような現象を指しているのか、必ずしも明らかでない。

 理論的な分析そのものについても、未解決な部分が残っていないわけではない。第2章と第3章の完全契約のケースについては、そのような契約が書かれ実行されるのが企業の評判のメカニズムによるという但し書きが書かれている。しかし、労働者のライフサイクルのなかでの賃金プロファイルを分析するような長期を想定した場合、企業の直面する環境の悪化はたんに景気低迷だけでなく、構造的な衰退産業になるような場合も考えられる。そのような場合には、あらかじめ書かれた契約が実行されるというような保証はないとも考えられる。こうした点については今後さらに検討されるべきであろう。

 第4章と第5章で展開されている労働組合の機能に関する研究は、commitment deviceとしての組合の機能を明確に出すという意味では成功している。ただ、そのため、組合の機能があまりにも単純な形でモデル化されており、より一般的な状況でも同様のことが言えるのか明らかではない。今後は、組合の行動パターンについてより広範な考察が行われ、この論文で導出された結果がどの程度の一般性を持っているか確認する作業が行われる必要があるだろう。

 このようにさらに改善すべき点がないわけではないが、全体としてはきちっとした研究結果が提示されていると考えられる。上で指摘した本論文の問題点については、江口氏の今後の研究に期待したい。以上により審査員は全員一致で本論文を博士(経済学)の学位を授与するにふさわしい水準にあると判定した。

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