この論文は、労働契約における賃金構造に関する理論的な分析を行った4つの章と展望の章からなっている。この論文において分析の対象となっている賃金構造とは、長期的な雇用関係におけるwage profile(賃金プロファイル)のことである。 労働者が企業と長期的な雇用関係を結ぶとき、雇用期間内の各期の賃金はその時の労働者の生産性に等しくなる必然性はない。企業に勤めている期間の長い労働者の方が賃金が高くなる傾向にあるという「年功賃金」的な賃金構造が観察されることが多い。こうした年功賃金の存在に関しては、いろいろな理論的説明が試みられている。その中の有力な議論の一つに、年功賃金が労働者の労働誘因を高める手法となるという見方がある。すなわち、雇用期間の初期の段階には賃金を低く設定し、雇用期間の後期に賃金を高く設定することで、雇用期間の途中で解雇されることの経済的損失を大きくするようにする。このような賃金体系と、(不完全にならざるをえない)モニタリングを組み合わせることで、労働者の労働意欲を高めようとするのだ。 この博士論文においてはこうした視点から、賃金契約や雇用契約の構造について、二期間の雇用契約モデルを用いて、いくつかの基本的問題について分析している。以下、各章の内容について、もう少し詳しく説明してみたい。 第1章では、この分野の文献を展望した上で、この研究の目的と結果について整理している。まず、契約理論の大まかな展開について概説した後、それが労働契約の問題にどのように応用されてきたか展望がなされている。そしてその上で、この研究の目的が述べられている。 本論文全体を通して重要な意味を持つのが、将来の景気や経済環境に不確実性があるという点である。そのため、将来にわたって雇用保証が確保されているわけではない。第2章と第3章では、あらかじめ景気などの外部環境におうじた雇用(解雇)について契約が書けて実行できるケースを考察している。論文の中で使われている表現を使えば、complete contract(完全契約)のケースである。 第2章では、将来の需要の不確実性などによって雇用調整が起こりうるケースを想定して、その場合にモニタリングのコストが賃金プロファイルや雇用調整行動にどのような影響を及ぼすのかということが分析されている。 この章では、将来時点での景気の状況に応じての雇用調整は、すべて契約に書き込んで実行可能であると想定している。ただし、労働者の行動(努力の程度)については、モニタリングをしないと分からない。このモニタリングが不完全であると想定すると、労働者に高い労働意欲を持たす手法は二つの手法の組み合わせとなる。一つは1期目の賃金を低く抑え、(賃金と雇用調整から決まる)2期目の期待賃金を高くすること(以下ではdelayed compensation schemeと呼ぶ)である。そしてもう一つは、モニタリングの強化である。モニタリングの費用が高いほど、delayed compensation schemeに頼らざるをえなくなる。モニタリングの費用が高ければ、非常に不完全なモニタリングしかできない。そこで、2期目の賃金を高くし、かつ景気が悪くてもできるだけ解雇をしないような雇用契約を結ぶことで、契約違反を行う労働者の損失が大きくなるようにするのだ。この章の分析の貢献は、景気の変動の中で雇用をできるだけ保証するような契約の根拠として、不完全なモニタリングを補完する機能という面を明らかにした点がある。そして、それは賃金プロファイルが急になる(delayed wage payment)という現象と組み合わされてより強化されるのである。 第3章では、第2章で取り上げたモラルハザードに、労働者のタイプが多様であることによって生じる逆選択(adverse selection)の問題を加えることによって、この二つの問題に対処する方法として賃金プロファイルとモニタリングがどのように利用されるかが分析される。ここでも、企業側がどの程度モニタリングを強化するかが関心の対象となる。モニタリングが強化されるほど労働意欲の低下やさぼりは防げるが、それだけモニタリングに伴うコストが高くなる。そこで、モニタリングの効率を高めるため、賃金プロファイルが利用されるのだ。 契約形態を決める時のポイントとなるのは、(1)いかに労働者の労働意欲を高めるのかというモラルハザードの問題と、(2)能力の低い人が自分の能力を偽って申告することを防ぐ逆選択の問題を、どのように同時に解決するかということである。能力が高いと申告した人に対してより厳しいモニタリングを課すことで、そしてそのような人にはよりdelayed wage schemeを提示することで、二つの問題を同時に解決することになる。 第4章と第5章は、労働契約における労働組合の役割について論じる。これらの章において光が当てられる組合の機能とは、企業との間で賃金水準を交渉するというものではなく、景気低迷期に雇用削減をしようとする企業に抵抗し、雇用安定を志向する圧力団体としての労働組合である。労働組合が存在することが労働契約に関して一つのcommitment schemeになって、組合の存在が労働者にも企業にもより好ましい結果を生み出す可能性があることが示されている。 こうした問題を考察するため、これらの章では、第2章、第3章とは異なった状況を考える。すなわち、景気の動向の不確実性の下で、景気変動による雇用調整について事前に企業と労働者の間で契約を結ぶことができないと想定する(incomplete contract)。こうした雇用契約に関する不完全性を補う機能が労働組合に求められるのである。 第4章では、非常に強い力を持った組合を想定することで、組合による雇用削減への抵抗が雇用安定化の手法となり、労働契約をより優れたものとすることが示される。[契約の不完全性のため、企業は予め雇用安定化にコミットすることができない]→[それを予想した労働者は、契約で決められる賃金を高めに要求する]→[賃金が高めに設定されているので、景気が悪くなれば雇用削減を厳しくせざるを得ない]。これが、組合の存在しないときの契約の状況である。ここで、雇用削減に強く抵抗する組合を組み込むと、次のようなメカニズムが組み込まれる。[企業は景気が悪くても雇用削減がしにくくなる。]→[雇用がより確保しやすくなった労働者はより低い賃金でも雇用契約に応ずる]→[賃金が低くなるので、景気低迷期でも雇用削減をゆるめることのコストは小さくなる] 第5章では、第4章とは少し異なった構造のモデル(組合の行動の構造が異なる)で同様のことが示される。すなわち、労働組合の存在の下では雇用確保をcredibleに保証することができ、それが賃金引き下げを可能にする。次にこれを受けて、労働者の努力が不完全なシグナルとしてしか企業側に見えないケースを考察する。このような場合、組合の存在によって雇用の安定性が保証されると、労働者は努力に関するcheatingをする誘因を持つことになる。一般的にシグナルが不完全であるほど、すなわち労働者の努力水準が企業側に見えにくいほど、組合の存在による雇用安定化がもたらす契約をより好ましいものにする効果は弱くなる。こうした場合には、企業の方も組合の積極的な意味合いを見いだしにくくなる。この結果を受けて筆者は、ブルーカラーとホワイトカラーの間で組合の組織率に顕著な違いがあるのは、前者よりも後者の方が労働の成果が見えにくいことによるものであるという解釈を提示している。 以上でこの博士論文の内容の概説を試みた。2期間の雇用モデルで、様々なケースを想定し、興味深い結果を出していると思う。論理展開は比較的分かり易く記述してあると思われる。出された結論についても、それがどのような意味を持っているのか、比較的説得的な議論がなされているのではないだろうか。雇用契約にモデルについては、様々な角度から多くの研究が行われており、新たな貢献をするのは容易ではない。そうした意味からは、賃金プロファイルに焦点を絞って分析を行っている本論文は、上で指摘したようないくつかの新たな視点を提示したのではないかと考えられる。 ただ、この論文にも不満を感じる点がないわけではない。まず、厳密なモデルで考えようとするため、理論分析の結果に都合がよい観察事実だけ取り出してきたのではないかと感じさせられる部分がある。賃金プロファイルという問題がこの研究全体に関わっているのであれば、筆者自身が実証研究を行わないにしても、過去の様々な実証分析結果などについてもう少し包括的な言及がなされるべきであったと考えられる。また、本論文の重要な部分を構成しているモニタリングについて、それが現実的にどのような現象を指しているのか、必ずしも明らかでない。 理論的な分析そのものについても、未解決な部分が残っていないわけではない。第2章と第3章の完全契約のケースについては、そのような契約が書かれ実行されるのが企業の評判のメカニズムによるという但し書きが書かれている。しかし、労働者のライフサイクルのなかでの賃金プロファイルを分析するような長期を想定した場合、企業の直面する環境の悪化はたんに景気低迷だけでなく、構造的な衰退産業になるような場合も考えられる。そのような場合には、あらかじめ書かれた契約が実行されるというような保証はないとも考えられる。こうした点については今後さらに検討されるべきであろう。 第4章と第5章で展開されている労働組合の機能に関する研究は、commitment deviceとしての組合の機能を明確に出すという意味では成功している。ただ、そのため、組合の機能があまりにも単純な形でモデル化されており、より一般的な状況でも同様のことが言えるのか明らかではない。今後は、組合の行動パターンについてより広範な考察が行われ、この論文で導出された結果がどの程度の一般性を持っているか確認する作業が行われる必要があるだろう。 このようにさらに改善すべき点がないわけではないが、全体としてはきちっとした研究結果が提示されていると考えられる。上で指摘した本論文の問題点については、江口氏の今後の研究に期待したい。以上により審査員は全員一致で本論文を博士(経済学)の学位を授与するにふさわしい水準にあると判定した。 |