学位論文要旨



No 114853
著者(漢字) 川端,孝一
著者(英字)
著者(カナ) カワバタ,コウイチ
標題(和) タナゴ類における新たな性フェロモンの同定と繁殖行動の解析
標題(洋) Identification of novel sex pheromones and ethological analysis of the reproductive behaviour in bitterlings
報告番号 114853
報告番号 甲14853
学位授与日 2000.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2080号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 塚本,勝巳
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 助教授 小林,牧人
内容要旨

 動物が繁殖を成功させるには、繁殖行動を構成するいくつかの行動パターンが適切な時期に正しい順序で遂行されなければならず、そのために雌雄は互いに様々なシグナルを出し合ってコミュニケーションをとり、一連の繁殖行動を成立させている。その中でもフェロモンは典型的なケミカルシグナルとして重要な役割を果たしている。魚類における繁殖行動を誘起する要因の解明は生物学的意義だけでなく水産増養殖の応用面でも繁殖成功の基礎となる知見を提供し重要であるが、魚類におけるフェロモンの知見は限られているのが現状である。

 ところで魚類では摂餌刺激物質としてアミノ酸が知られているが、申請者は摂餌刺激物質の検索過程で遊離アミノ酸がタイリクバラタナゴの放精を誘起することを以前に見いだし(Kawabata et al,Fisheries Science,58,833-838,839-844,1992)、この現象に対して、アミノ酸が産卵時に卵と共に放出されて、雄に放精のタイミングを知らせるフェロモンとして働くという仮説を発表した(Kawabata,Amino Acids,5,323-327,1993)。

 本研究では、まずタイリクバラタナゴの繁殖行動を誘導する要因を解析し、その要因を人為的に構成した人工ダミー貝のシステムを構築し、完全な繁殖行動を再現した。次に提唱した仮説を実証するために、この人工ダミー貝のシステムを応用して直接的証拠を得た。さらに国内に棲息するタナゴ類全種の繁殖行動を解析し、産卵様式およびアミノ酸フェロモンの組成等の多様性を比較して、繁殖様式の進化について論じた。その概要を以下に示す。

1.タイリクバラタナゴの繁殖行動の解析と人為的誘導

 タイリクバラタナゴは貝の鰓腔内へ産卵する習性をもつ。まずこの繁殖行動を解析し、初めに雌による貝の認識、雌への追尾、貝への雌の誘導、続いて雌による貝の認識、倒立、反転、産卵、次に雄の臭い確認、放精という各行動パターンが観察され、これを基に提唱した仮説の実証という観点からエソグラムを作成した。貝では蝶番から外に向かって出水管、入水管と配置されているが、タイリクバラタナゴでは貝への産卵行動は蝶番から出水管へという特定の方向からアプローチすることが観察された。貝の立つ角度を調節して出水管から出る水の流れを真上にすると、逆方向からのアプローチが誘導されたことから、この一方向アプローチの決定因子として出水管から出る水の角度が重要であることが分かった。逆からアプローチした場合、タナゴは出水管に産卵管を挿入して産卵する為、入水管の上を通ることになり、その際に出来る影を貝は敏感に感知して殻を素早く閉じ、タナゴの産卵を阻止することが分かった。この貝の防御機構は入水管の開口部に光感受性部位が存在し、貝は暗くなる変化に対して敏感に反応するが、暗い状態から明るくなるという光条件の変化には反応しない特性を持つことが分かった。こうした貝の光感受性防御機構を巧みにかわして産卵を成功させる戦術をタイリクバラタナゴが獲得していることが明らかとなった。次に各行動パターンを誘起する因子を解析するために、ガラス瓶を用いて人工ダミー貝を作成し、各行動パターンを誘導する因子を試験したところ、水流と貝の匂いの2因子の共存条件下で完全な産卵行動が再現されることが分かった。

2.アミノ酸の新たな性フェロモンとしての同定

 アミノ酸がフェロモンであるという仮説を実証するには、フェロモンの定義である、体内での産生、体外への放出、そして特定の行動を解発するという3つの条件を満たさなければならない。まず、排卵過程にある卵巣を摘出して切開し、卵巣洗液のアミノ酸分析を行った。遊離アミノ酸は卵巣内に排卵前は殆ど存在しないが、排卵過程で急激に増加した。アミノ酸は先ずアラニンが先行して増加し、次に他のアミノ酸が増加し、最後にシスチンが急激に増加する特徴が見られた。このような特徴は排卵特異的プロテアーゼ群の作用機序によるものと考えられたので、卵巣洗液中のプロテアーゼ活性をザイモグラフィーにより検索したところ、排卵の過程で特異的に卵巣内で活性発現するプロテアーゼ群が検出され、その発現にはカスケードが存在した。これらプロテアーゼの活性に関する生化学的性質を検討したところ、基質特異性ではカゼインよりゼラチンを良く分解し、2価イオンの要求性では亜鉛イオンを添加すると活性が増大するメタロプロテアーゼが検出された。これらの性質は細胞外マトリックスタンパクに特異的に作用するプロテアーゼの特徴で、排卵時特異的に卵巣内で活性発現するプロテアーゼ群はマトリックスプロテアーゼの類であると考えられる。これらの結果は卵細胞と濾胞とを結合している細胞外マトリックスプロテインが排卵の過程で分解され、その分解産物としてアミノ酸が産生されるという仮説を支持し、アミノ酸が卵巣内で産生されることが示された。

 次に産卵時にアミノ酸が卵と共に放出されることを実証するために、人工ダミー貝中に産卵を誘導し、放出物質を回収した。この人工ダミー貝のシステムでは、貝の匂いをビンの外側にセットし、水流と独立に設定できるように設計して蒸留水が使えるようにした。これにより飼育水中からの不純物の混入を避けて雌からの放出物質を回収したサンプルが入手可能となった。このサンプルをアミノ酸自動分析装置にかけたところ、さまざまな遊離アミノ酸が検出された。この結果は雌が産卵時にアミノ酸を放出するという直接的証拠となった。さらに以前に報告している放精誘起活性と雌から放出されたアミノ酸とを比較すると、特に高い放精誘起活性をもつ、システイン、セリン、アラニン、グリシン、およびリジンの5種類のアミノ酸は放出された卵、10卵あたりに換算して、5から20nmolと他のアミノ酸が5nmol以下であるのに対して多量に存在していた。この放精誘起活性の高さと雌から放出されたアミノ酸の量との対応はタイリクバラタナゴの繁殖システムにおいて合理的である。

 雌からの放出アミノ酸の分析値をもとに前述の5種類のアミノ酸の混合溶液を調整し、透析チューブを用いて雄のバイオアッセイを行うと放精行動が誘起された。以上の結果から、アミノ酸はフェロモンの定義を満たし、魚類における新たなフェロモンとして同定された。

3.タナゴ類の繁殖様式の多様性

 国内に棲息するタナゴ類全種の繁殖行動を観察したところ、行動パターンの連鎖に違いが見られ、3つのグループに分けられた。そこで連鎖の異なる3種について行動解析を行ったところ、ゼニタナゴの繁殖行動は貝へのアプローチが一方向性でなく、貝への産卵定位を調節する反転行動もない最も単純な連鎖で構成され、次にアブラボテではアプローチが特定の一方向からで、行動が一段高度化しているが反転行動は無い連鎖からなり、タイリクバラタナゴでは一方向性アプローチと反転行動の両方を備えた最も高度な行動パターンを持つ連鎖を構成していた。行動進化の観点からはゼニタナゴ、アブラボテ、タイリクバラタナゴという順に繁殖行動の高度化が見られ、行動の進化がこの順で進んだものと考えられる。タナゴの卵洗液をアミノ酸分析したところ、種類によってその組成および量に違いが見られた。3亜種を含む全15種のタナゴにおける分析値をもとに、2種類ごとの組み合わせでユークリッド距離をそれぞれ算出し、ウォード法によりデンドログラムを作成したところ、形態によって分類された系統樹と類似の樹形図が得られた。一般的に行われる遺伝子の塩基置換によって刻まれた直接的な進化の記録を見るという手法に対し、これはその遺伝子産物の機能発現の結果というレベルでも進化の過程がある程度反映されているという証拠を提示している。また、卵洗液のアミノ酸分析値から最も多量に存在するアミノ酸で生物試験をしたところ、ゼニタナゴ、イタセンパラなどで放精が誘起され、他の魚種でもアミノ酸が放精誘起フェロモンとして働くことが示された。しかし、カネヒラやミヤコタナゴでは透析チューブを用いたシステムで卵洗液に対しても放精は誘起されなかった。これらの魚種の放精誘起にはさらに他の要因や事前の準備要因が必要だと思われる。

 以上要するに、本研究では独立にコントロールできる人工的な要因を組み合わせて完全な繁殖行動を再現できる人工ダミー貝のシステムを構築したことで、各行動パターンを誘起する要因が独立かつ明確に解析できるようになり、タナゴ類の特異な繁殖様式における繁殖行動の解明を可能とした。さらにこのシステムの応用は絶滅が危惧されるタナゴ類の繁殖、保全にも大いに貢献する重要な基礎基盤となるデーターを提供するものである。また、透析チューブを用いた放精誘導システムは、フェロモン単独で放精行動が誘起できる点で極めて明確なバイオアッセイシステムであり、今後フェロモンの知覚機構および本能行動の解発機構を解明するうえで有力な手段となる。

 本研究で同定されたフェロモンは新たなフェロモン物質であるばかりでなく、放精を誘起するという新機能を有しており、適切な放精のタイミングを雄に知らせるフェロモンとしての役割を持つことが示された。このアミノ酸フェロモンは種特異性を持たない点で着目されるが、放精は一連の繁殖行動における最終段階の行動パターンであり、種の認識はより早い時点で達成されていれば良く、放精の時点では必要ないと考えられる。これまでアミノ酸は魚類の摂餌刺激物質として研究されてきたが、これに対して本研究で得られた結果は新たな概念を導入するもので、アミノ酸によって誘起される行動は摂餌行動であるか繁殖行動であるかを判別する必要性を提示している。

 本研究は生物学的に重要な新知見を提供するとともに、今後のフェロモン研究および本能行動の研究を推し進めるうえで、極めて重要な基盤を築いたもので、その成果は今後の研究に大きな貢献をすると考えられる。

審査要旨

 繁殖行動においてフェロモンは個体間のコミュニケーションに欠かせない役割を担っている。魚類を含む脊椎動物ではフェロモンの存在を示唆する研究は数多く報告されているが、実際にそのフェロモン物質を同定し、その機能を明確に示した研究はほとんど無い。申請者はこれまでに遊離アミノ酸がタイリクバラタナゴの放精を誘起するという現象を見いだし、産卵時に雌がアミノ酸を卵と共に放出し、雄に放精のタイミングを知らせるフェロモンとして働くという可能性を仮説として発表している。

 本研究では、貝の中へ産卵するタイリクバラタナゴの繁殖行動パターンとそれを誘起する要因を解析し、その要因を人為的に再構成した人工ダミー貝のシステムを構築して完全な繁殖行動を再現した。そして、この人工ダミー貝のシステムを応用してフェロモンの定義を満たす直接的証拠を得て仮説を実証した。さらに国内に棲息するタナゴ類全種の繁殖行動を解析すると共に、産卵様式およびアミノ酸フェロモンの組成等の多様性を比較して、繁殖様式の進化について考察した。概要は以下のとおりである。

1.タイリクバラタナゴの繁殖行動の解析と人為的誘導

 タイリクバラタナゴは貝の蝶番から出水管へという特定方向からアプローチし産卵することが観察された。貝の立つ角度を変えて出水流を真上にすると、逆方向からのアプローチが誘導されたことから、この一方向アプローチの決定因子として出水管から出る水の角度が重要であることが分かった。逆アプローチの場合、タナゴは入水管の上を通って出水管に産卵することになる。この場合、貝は入水管開口部に存在する感受性部位で近づいた魚の影を敏感に感知して両水管を素早く閉じることが示された。こうした貝の光感受性防御機構を巧みにかわして産卵を成功させる戦術をタイリクバラタナゴが獲得したことが明らかとなった。次に各行動パターンを誘起する因子を、ガラス瓶を用いて作成した人工ダミー貝で解析し、水流と貝の匂いの2因子の共存下で完全な産卵行動を再現した。

2.アミノ酸の新たな性フェロモンとしての同定

 卵巣洗液中のプロテアーゼ活性をザイモグラフィーにより検索したところ、排卵過程の卵巣内で活性発現するプロテアーゼ群が検出され、その発現にはカスケードが存在した。また卵巣内の遊離アミノ酸が排卵過程で産生されることが分かった。まずアラニンが先行して増加し、次に他のアミノ酸が増加し、最後にシスチンが急激に増加するという特徴が見られた。次に産卵時にアミノ酸が雌から放出されることを実証するために、人工ダミー貝中に産卵を誘導し、放出物質を回収してアミノ酸分析をしたところ、遊離アミノ酸が検出され、雌が産卵時にアミノ酸を放出するという直接的証拠を得た。特に高い放精誘起活性をもつアミノ酸が多量に存在した。このアミノ酸の分析値をもとにアミノ酸混合溶液を調整し、これが雄の放精誘起活性を持つことを確認した。これらの結果、アミノ酸がフェロモンの定義である、体内での産生、体外への放出、そして特定の行動を解発するという3つの条件を満たしたことから、アミノ酸が魚類における新たなフェロモンとして同定された。

3.タナゴ類の繁殖様式の多様性

 国内に棲息するタナゴ類15種全種の繁殖行動を観察したところ、行動パターンの連鎖が異なる3タイプが存在した。そこで異なる行動パターンを示したゼニタナゴ、アブラボテ、タイリクバラタナゴの3種について行動解析したところ、一方向アプローチ、産卵定位を修正する反転行動の順で、これらの行動パターンが獲得され進化が進んだと推測された。また、各種タナゴの卵洗液をアミノ酸分析したところ、種類によってその組成および量に違いが見られた。卵洗液のアミノ酸分析値から最も多量に存在するアミノ酸で生物試験をしたところ、ゼニタナゴ、イタセンパラなどで放精が誘起され、他の魚種でもアミノ酸が放精誘起フェロモンとして働くことが示された。

 以上、本研究は、人工ダミー貝によるタナゴ類の産卵誘導システムを開発し、これを用いてアミノ酸がタナゴ類のフェロモンであることを同定するとともに、タナゴ類の特異な繁殖様式を解明したもので、学術上、応用上寄与するところが大きい。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文に値すると判定した。

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