1.研究の主題 本研究は、幼稚園教育実践のための物的環境である幼稚園建築すなわち園舎の展開過程を、近代日本の園舎形態の変遷ならびに幼稚園教育及び園舎の実現を援助した諸条件を通して分析することによって、園舎成立の原理と幼稚園教育実践に対するその意味を考究することを目的とする。 明治期から昭和前期に於ける幼稚園教育の導入と展開については既に多くの先行研究がある。しかし園舎に注目して歴史を再び読み解こうとする試みは、未だ体系的な成果が見られていない。園舎形態の総体は、その当時の幼稚園を取り巻く地域世論、建築の史的水準、文化の総体など、様々な相を具現するもの、すなわち社会的表象の一つとして、実に多くのことを語る。しかし、これまでの教育学界では、園舎を含む学校建築は単に人間(教師・子ども)や教育活動を収納する道具であるモノとして認識されるに留まってきた。他方の建築史研究界に於いても、明治初期〜中期の学校建築意匠史研究は多く見られるものの、形態・意匠の画一化が顕著となり独自の道を進んだ明治後期以降の学校建築史研究は乏しく、ましてや幼稚園舎史研究は未着手の現状にある。 2.研究の視点 (1)園舎を、幼稚園教育思想・概念のみならず広く社会の諸相を表象し、文化・社会を具象化・顕在化・視覚化することによって再びそれらを方向化する力を有する建築の一つとして、とらえる。 (2)幼稚園教育および園舎の展開と成立を、各幼稚園を取り巻く地域の諸相の中に位置づけて描出していく。 (3)園舎・実践に関して示された各種の国家的規定や、それぞれの時期に広く実践や園舎形態に影響を及ぼした教育論や言説も、必要に応じて適宜言及する。 (4)園舎に於ける実践活動については、空間の中での実態を追究する。すなわち、具体的な実態に即した実践の描出を目指す。 (5)園舎を、あくまで建築の一つとして認識し考究を行なう。建築とは、(a)建築そのものが置かれる環境の中にその成立の端緒としての諸要素を有し、(b)その建築のユーザーや、建築を取り巻く人々がそれらの諸要素を一個の個体である建築として成立させることを意図し、(c)その無数の意図を建築家が構造化して具体化・実現化したものである。 なお、考究に用いる史料は、園舎に関する図面や計画書や写真などや、教育実践に関する研究記録・実践記録・保育日誌、各幼稚園の運営・成立を支えた文化・経済・建築・風俗・伝統的民間教育など、現地の幼稚園や関係機関などで収集した地域史に関する原史料を中心に、各歴史研究の隣接領域で蓄積された先行研究資料を参考とした。 3.研究の時期区分と対象および構成 本研究では、対象時期を明治9(1876)年から昭和12(1937〉年の凡そ六十年間とし、この時期を三期に区分した第I部〜第III部の三部構成によって考究を行なった。 第I部は、日本で最初の独立園舎を建てた東京女子師範学校附属幼稚園の開設された明治9(1876)年から、「幼稚園保育及設備規程」が定められた明治32(1899)年を対象期とする。園舎事例に対応した全6章と、京阪神地域の幼稚園教育実践および保育研究を辿った一つの章の計7章をもって考察した。対象幼稚園及び園舎は、東京女子師範学校附属幼稚園舎、松本市開智学校附属幼稚園舎など計7棟である。 第II部は、幼稚園の存在が社会的承認を得た一方、各々の園舎に種々の形態のボキャブラリーが混在して多様化現象を示した、明治33(1900)年から大正9(1920)年を対象期とする。第I部と同じく事例に対応した全3章と、この時期の東京女子高等師範学校附属幼稚園で展開した実践および、主として環境に関する同園での理論研究をまとめた一つの章の計4章で構成する。対象とする園舎は大阪市の愛珠幼稚園舎など計3棟である。 第III部は、独立園舎がほぼ完全に達成されながら、少ない国家レベルの法的規定に反して園舎の定型化が進んだ、大正10(1921)年から昭和12(1937)年を対象期とする。対象園舎は、岡山市の深柢小学校付設幼稚園舎や東京女子高等師範学校附属幼稚園舎など計6棟で、それらを全3章で構成する。 4.考察の内容と結論 第I期の幼稚園舎は、その大半が民家や寺社の代用園舎や小学校舎の一角の間借り園舎で占められており、設計段階から幼稚園舎として計画された独立園舎を持っていたのは、本論文で対象とした東京女子師範学校附属幼稚園や、全国各地の師範学校附属幼稚園などのごく少数であった。東京女子師範学校附属幼稚園が明治9(1876)年に全国で初めて設けた独立園舎は典型的なコロニアル式住宅の意匠・平面計画であり、明治10年代の全国の師範学校附属幼稚園舎はこの摸倣によって設計された。この系の園舎には遊戯室と保育室の静動分離、内外空間連結、保育室と廊下の採光換気などは図られておらず、園舎としての機能や、周辺に在する民間住宅などとの呼応関係は見られない。同幼稚園が明治19(1886)年に新築した第二独立園舎では、いわゆる片側廊下計画が導入され、静動分離や採光換気への配慮、内外空間連結条件の向上が見られた。この園舎で導入された南側・東側廊下、北側・西側保育室の平面計画は、座業型・一斉指導(保育)型の実践に適することから、明治30年代以降の学校舎の基本計画として文部省が推進した計画であり、その端緒が、この幼稚園舎に出現していたと言える。一方、この時期に民間で建てられていた独立園舎には、これと反する南側廊下・北側保育室の基本計画を持つものが多く、本論文でもこの形態の園舎を考察している。その基本計画は、和式民家のもつ伝統的な縁側の延長線上に廊下を位置づけたものであって、教育実践への対応から導入されたものではなかったが、日本の幼稚園教育の導入と拡充にかけた民間の熱意を象徴する。 第II期の園舎は、代用園舎からの脱却を目指し、多くの新築独立園舎が建てられた。文部省による形態の規定化が緩やかだった園舎には、幼稚園を取り巻く地域の状況や、地域に於ける幼稚園の位置によって、多様な形態が出現した。大阪市の愛珠幼稚園舎(明治34(1901)年)では、伝統的住居の集中する富裕な商業地域を背景に、御殿式和風意匠とコの字型園舎・中庭形式の全体計画を導入し、しかも時間割方式から脱した実践方法に対応すべく、廊下を園庭側に配置した内外空間の連結と、採光換気を充分に考慮した園舎を建てた。また松本市の松本幼稚園舎(明治45(1912)年)は、嘗て附属していた開智学校の擬洋風意匠と、明治末期の文部省推奨の質朴堅牢型を接続させた意匠計画に、実践に対応した園舎・園庭空間領域の学年別領域化、更に子守学校舎や地域集会所との兼用可能な全体計画なども加味して、地域の伝統と時代のニーズに応じた園舎となった。 第III期に当たる時期には、勅令「幼稚園令」(大正15(1926)年)及び同「施行規則」が制定され、園舎に関する規定もその数を増したが、それでも校舎に比べれば規制は緩やかであった。しかし、この期の園舎には地域的特性は薄れ、寧ろ実践との対応が色濃くなった。代用園舎から完全に脱して新築された独立園舎は、いずれも内外空間連結・採光換気・静動分離などの諸条件の向上を目指し、その実現を見た。屋外空間での活動の重視や、幼児の主体的な連続的活動の尊重等の実践目標は、これらの条件を必要不可欠なものとし、園庭・園舎の改造を産み出した。岡山県下に大正期に建てられた八角形遊戯室を持つ園舎群は、遊戯室・保育室・廊下の配置を変化させつつ、諸条件を満足なものとしていった。第III期園舎の一典型として出現した東京女子高等師範学校附属幼稚園舎(昭和7(1932)年)は、上記の諸条件を満たしたうえに、幼児の園生活の充実を象徴的に具現化したものとして設計され、この園舎形態の摸倣が広く進められた。この園舎が導入したテラス型外通路は、その後の日本の幼稚園舎に典型的なものとなっている。又この期の園舎には、実践との対応と幼児の園生活の充実とが目指された反面、園舎と園庭を含む幼稚園領域の全体が内向型・完結型になったという特徴も確認された。 幼稚園舎の展開を援助した要因には、幼稚園教育実践と、各幼稚園固有の文化的・社会的文脈の二点がある。これら二つの要因と幼稚園舎は共にリンクしながら、それぞれの変容を促進し合いつつ展開した。変容する実践と、地域特有の在りかたで移りゆく幼稚園周辺の文化・社会は、一個の形態として具現化された園舎形態の中にその姿を跡づけた。その成立と発展が地域の人々に委ねられ、地域の人々や保姆によって継承拡大が進められた園舎は、教育実践、地域条件、国家的教育機関としての役割を明示化し表象するものとして機能し、再びそれらを方向づけ、新たな展開を導くものともなった。園舎とは、文化・社会等の具体化・可視化されたものであったと同時に、それらを再生産していく装置としての役割も果たしたと結論することができる。 |