学位論文要旨



No 114856
著者(漢字) 朴,洪英
著者(英字)
著者(カナ) バク,ホンヨン
標題(和) 日本援助外交政策の変容 : 対ベトナム援助に見る国内外的影響要因の分析
標題(洋)
報告番号 114856
報告番号 甲14856
学位授与日 2000.03.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第234号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 恒川,惠市
 東京大学 助教授 木宮,正史
 東京大学 教授 古城,佳子
 早稲田大学 教授 白石,昌也
内容要旨

 本論は、日本援助外交(Japan’s Foreign Assistance Diplomacy)の対ベトナム援助に見る「国内外的影響要因」(International and Domestic Determinants,1953-1993)を通史的に考察することによって日本援助外交の変容を描くものである。その分析枠組みを本論では次のように設定した(表1)。

(表1)交差解釈の枠組み

 このように通史的に考察してみると、日本の対ベトナム援助外交は、対米関係において通常考えられているような「追随型」とはいえず、日本の独自性を堅持しながら「協力型」か「主導型」を駆使してきたということが明らかになった。したがって対ベトナム援助外交の振幅の大きさは、対米追随の結果ではなく、むしろ日本がそれなりの独自性の発揮を追求したためと考えられる。また、通史的に見ると、日本の独自性発揮を制約したのがベトナムの「情勢の不安定」=戦争という、要因であったことも明確になる。ベトナム戦争やカンボジア紛争といった「情勢の不安定」が生じると、日本は対米「協力型」の姿勢を維持しながらもベトナムに対しては「消極的」になった。しかし「情勢の安定」が展望されると、日本援助外交はベトナムに対して「積極的」になり、対米関係でも「主導型」の側面が強くなる。この点が本論の通史的考察の最も基本的な成果だと考えるが、以下に各時期に関する考察をまとめておきたい(表2)。

(表2)日本援助外交の変容日本援助外交の通史的再検討

 賠償期(1950年代と1960年代前半)の日本援助外交は、三つの制約要因(国際法、南ベトナムの要求、国内反対運動)に直面していた。敗戦国日本としては、これらの制約から逃れることはできず、日本の行動は「協力型」たらざるをえなかった。しかし、日本政府は国内反対運動を「利用」して、南ベトナムとの交渉を有利な方向に転換させるとともに、こうした賠償を通じて南ベトナムとの通商を拡大しようとした。ここに日本の「積極性」があった。したがって、この時期の日本援助外交は「積極的協力型」といえる。

 1960年代後半期の日本援助外交は、日米安保条約の責任を果たさざるを得ない「制約」に縛られていた。この時期南ベトナムは「情勢の不安定な戦地」であった。この「時代状況」下で日本援助外交は「外圧=アメリカからの強い要求」を受け入れやすい受動的立場にあった。しかし、日本はアメリカのベトナム戦争戦略に反して抵抗することまではいかなかったが「追随」することもしなかった。当時日本の南ベトナムへの援助量が少なかったことと、北ベトナムからの援助要請があれば応じるという「発想」が存在したことは日本の独自性を裏付けるものであった。「情勢の不安定な戦地」地域に対して援助を増やしたくないという姿勢は日本の「消極性」の現れであり、対米関係を考慮して日本は対米関係が対立関係まで発展することを回避しながらも追随することもしないという面で「協力型」の姿勢をとり続けたのである。この意味で1960年代後半期の日本援助外交は、「消極的協力型」であったといえよう。

 1970年代に入ると「情勢の安定=ベトナム和平協定問題」が議論されるなかで、日本はアメリカとの関係を再構築しようとした。再構築というのは、役割分担や独自路線の模索であった。役割分担の背景には日本経済力の増大があり、独自路線を模索した背景には米中関係の再構築というインパクトがあった。1970年代日本援助外交の戦略は、日本がインドシナ半島を含めた東南アジア地域全体の安定をはかり、日本に好ましい環境を作り出すことであった。アメリカが歓迎しなかった「北」との関係正常化を積極的に推進したこと、日本独自の「東南アジア安定策」を講じたことは日本の「主導型」に他ならない。カンボジア問題が発生してからも日本は直ちに援助凍結措置をとらなかった。日本が援助凍結措置をとることで東南アジア地域が安定化するとはいえない。援助凍結措置をとること自体は、日本の地域安定策に反する。ここで日本は「抑止と対話」の路線を打ち出し、「パイプ論」を主張しながら日本の戦略に徹してきた。この意味で、この時期の日本援助外交は「積極的主導型」であったといえる。

 1980年代前半期に入り、中ソ対立や中越関係の悪化・米ソ対立に絡められ、「情勢の不安定=カンボジア問題」がより複雑さを見せると、日本の対ベトナム「パイプ論」の名分が薄らいでいく。そこで日本政府は、「対ベトナム援助停止」というような宣言は行わなかったが、事実上の援助凍結状態に入る(1980年4月以後)。この状態は、カンボジア問題が発生してから17か月後のことである。この援助凍結措置は、当時日本が「東側の一員」であるベトナムとの関係より「西側の一員」として「国際協調」を重視し、対ベトナム「パイプ論」の意味が薄らいでいくなかで採られた措置といえる。しかし、「凍結」は「援助停止」ではなくあくまでも日本の戦略に沿って、情勢の好転を待望するための措置であった。つまり、日本は戦略をもって「地域安定策」を一時的に後退させたのである。このあたりで日本援助外交は「消極的協力型」へ変貌したと思われる。

 つづいて日本の対ベトナム援助再開に至る時期(1985年以降)だが、援助外交は、日越の意見交換拡大、日本独自のイニシアチブ、日本援助外交の力量増大、国際政治の変動という要素が影響し合いながら採られた措置であった。この過程において日本の「積極性」は、ベトナムの国際社会への復帰と改革の促進というベトナムの変化を能動的に求めていく上で現れた。この時日本の援助がベトナムにとって重要なものであったために、本格的な援助再開がベトナムの変化を促進する「アメ玉」として機能したのである。日本の独自の役割は、仲介役を主導的に展開するなかで現れた。ベトナムとASEAN諸国の仲介、ベトナムと中国の仲介、ベトナムとアメリカの仲介がそれである。ここで日本の国際的役割が高まっていく。他方でアメリカは孤立していく。この展開をバック・アップしたのは他ならぬ日本の援助であり、その重要性が国際的に高まってきたゆえんである。日本が積極的に日本案を出しながらカンボジア問題に臨み(1985-1989)、東京会議など国際会議の場でイニシアチブをとり続けたのは、日本の国際的貢献といえよう(1991-1993)。これは、日本が主導的に対カンボジア問題、対ベトナム問題、対ソ連などの社会主義圏の変動、援助の積極的活用などを「能動的」かつ「自主的」姿勢で貫いてきたことに起因する。この面で、この時期の日本援助外交は「積極的主導型」といえよう。

本論の成果

 本論から導き出された成果を総括的にいえば、次のことがいえる。

 第一点は、日本援助外交のダイナミズムが把握できたことである。日本の援助外交は、それぞれの時期における日本独自の国益に奉仕するという意味では、一貫した戦略性をもっており、自主的な性格を強くもっていた。この戦略性と自主性は、日本自身のパワー(国力、特に経済力)の増大と対米関係(主導型か協力型か)に規定され、変容してきた。

 第二点は、ベトナムは日本援助外交のダイナミズムを理解する上で典型的な事例だったことである。ベトナムは1975年まで北半分が、1975年以降は全体として、国際政治の舞台でアメリカを中心とする陣営に属してこなかった。この要素とも相まってベトナムは、日本の独自性・自主性発揮の対象となることが多かった。対ベトナム援助外交の振幅の大きさは、日本が追求した独自性と、国際情勢のなかで日本が独自の道をつらぬける条件が限定されていたことによる。ここで日本は「協力型」と「主導型」を使い分けてきた。

 第三点は、日本の国際的貢献のなかで重要な役割を果たしているのは「援助外交」だったことである。今日日本政府は、日本の「役割」と「貢献」を訴え続ける。その方策として位置づけられたのが「日本援助外交」であった。日本援助は、国際公共財として、地域開発や地域安定および国際平和に寄与する手段になっていた。日本援助外交の射程範囲は、ベトナムとの関係に即していえば、第一段階(1970年代前半まで)では、輸出促進策や通商拡大および資源確保の手段、関係正常化のための「契機造り」や過去の問題解決の手段になっていた。第二段階(1970年代後半以降から1980年代前半まで)になると、地域安定の方策や国際分業の手段になっていた。第三段階(1980年代後半以降)になると日米世界戦略にのっとった「国際協調の方策」として変容してきた。日本政府がいう「役割」と「貢献」は、主に第二と第三段階のことを指す。

 以上の点を勘案すれば、「日本援助外交」の行方を占うことはある意味では「日本外交」の行方を占うひとつの手がかりになると思われる。

審査要旨

 本論文は、ベトナムに対する日本の援助外交のありかたを、1950年代から90年代にかけて、通時的に検討したものである。

 本論文の第一の意義は、これが、いままでなかった日本の対ベトナム援助外交に関する通史であるという点にあろう。しかもその通史を、たんに歴史的経過を記述していくのではなく、ベトナムに対する姿勢が「積極的」であるのか「消極的」であるのかという軸と、国際的な状況、特にアメリカに対して日本がとる対応に関する、日本が自らの主体性をつらぬく「主導型」、主体性を保ちつつも協調も重視する「協力型」、状況追随的な「追随型」という軸を設けて分析するという、オリジナルな分析枠組みを設けて検討したことも、合わせて高く評価されるべきで、本論文の第二の意義と考えられる。

 また第三の意義は、対米追随的だとみなされがちな日本が、少なくともベトナムに対する援助外交ではかなり自主的な姿勢をもっていたこと、そのことがかえって対ベトナム援助外交の振幅の大きさを招いたことが指摘された点にあろう。たとえば、ベトナム戦争が激化した60年代後半においても、南ベトナムに対する援助はきわめて少ないなど、「追随型」とは見なし得ない対応をしていたことが指摘されている。

 これらの点に加えて、本論文のいまひとつの意義は、資料が少ない援助外交に関する通時的な分析に、国会の議事録を活用したことである。これは、今後の類似の研究に新しい資料的展望を与えるものである。また本論文は、従来の韓国での日本の援助政策研究に一石を投ずる意義も有するものと考えられる。

 以上のような点で本論文の意義は積極的に高く評価できるが、同時に、(1)用語法が論文全体で十分統一されていなかったり、一部、時期区分のメルクマールが不鮮明な面がある、(2)いくつかの論点に関して、その資料的な裏付けが不十分である、などの弱点をもっていることも、審査の過程で指摘された。このような問題点に関して、審査委員会は慎重に検討したが、これらは、本論文の積極的意義を否定するものではないとの結論に達した。

 審査委員会は、本論文が日本の対ベトナム援助外交を通時的に分析した地道な成果であると考え、博士の学位を受けるのに十分な水準に達した研究であるとの判断を下した。

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