近年、日本企業の対中国投資は一時のブームを経て伸び悩んでいるかに見えるが、その一因として労務管理上の問題が挙げられている。日系企業において労務管理をめぐるトラブルで悩む日本人経営者は多い。このような現象はいまだ改善されていない。一方、中国側においては、外資系企業の増加および中国国内の産業構造の急速な変化に伴って、これに対応できる人材や熟練労働者が急速に不足してきている。その結果、日系企業における人事労務管理を通じた能力開発が注目されてきた。 ところが従来の中国における日系企業の労務人事管理の分析は、社会制度、歴史の発展、文化的要因を強調する方法に偏りを持つきらいがあった。これに対し本論文は、経営学の枠組みに踏みとどまり、その中で日系企業が中国で長期的、持続的に経営活動を行うためにはどのような管理方法が適しているのかを解明することを課題とする。そのために、科学的管理法に端を発する伝統的な人事労務管理論に代わるものとして米国で展開されている、「人間的存在としての労働者」の概念を軸とする「人的資源管理」(Human Resources Management:HRM)アプローチを採用する。具体的には、HRM理論の最近の展開を参照しつつ修正を加え、その枠組みにのっとって中国における日系企業9社と従業員(400人)を対象に事例調査を行い、これを分析する。その結果にもとづいて日本企業・中国国有企業・日系企業を人的資源管理の観点から類型化し、最終的には日系企業に適用すべきHRMの具体策を提案している。 構成としては、序章・終章と第一部・第二部に分けられた六章、それに付録と参考文献とが付されている(本文はA4版で186頁、400×約763枚)。第一部は「理論の検討」と題して、HRM理論の展開と現状を紹介し、その日本・中国それぞれにおける適用について要約する。第二部では中国における日系企業のHRMにかんする既存資料を分析し、著者が1994年に行った事前調査を要約・紹介し、これらをもとに本論文の眼目である1997年の事例調査の要約と分析を行い、それにもとづいて提言を行なっている。 序章では、論文要旨と全体の構成を述べる。 第1章「HRM理論」では、米国におけるこれまでの"Personnel Management/Administration"からそれに代わる"Human ResourcesManagement"へ理論的転換の背景を明らかにし、HRM理論にもとづく人事制度がもたらす成果を評価する。HRM理論においては、経済価値に注目する従来の「経済人」と、「人間的存在」としての労働者とが区別されている。前者は人的資源を資本の一形態として評価しその経済的意義を主張するものである。科学的管理法に代表される伝統的人事労務管理は生産において人間的要素を無視し、労働者を経済利益を創造する道具に過ぎないとみなしている。こうした伝統的な人事労務管理論に不満をもつギンズバーグ(Ginzberg.E.)は、人的資源にかんする従来の「商品アプローチ」に代えて、「人的資源アプローチ」を提唱した。これは後者の立場で、労働者の「自由、健康、自尊心、自己開発、公平」等への配慮を重視するものである。またハーバード・ビジネススクールのビアーらは、従業員が企業に対してどれだけの影響力を行使すべきか、どのように参画していくかを問い、HRM理論に新たな展望を開いた。ビアーらの理論は、労使協調の可能性、終身雇用制の役割と価値、また従業員の企業に対する影響力の測定をどう行うべきかについても考察し、それらを通じて組織における労務管理、人事管理に含まれるさまざまの活動を、(1)従業員のもたらす影響、(2)ヒューマン・リソース・フロー、(3)報酬、(4)職務システムなどHRMの四要素に分類している。本章では、ビアーらが提唱したHRMにかんする理論的枠組みをベースとして、それを日系企業の経営環境、管理スタイルの分析に適合するよう適宜変更を加えながら、HRMの要素の分類と理論枠組みを拡充する。 第2章「日本型HRM」では、日本型HRMの特質を明らかにすべく、日本的経営に関する国内の諸説を整理する。またそれにより、第二部の準備作業として日本型HRMが中国日系企業にどれだけの影響を持つかを探る。 アメリカのHRMは組織的効率を高めることを重視しているが、それ対して日本のHRMは人的資源の調達、活用、育成に重点を置くといわれる。しかし日本国内の不況に伴って日本的経営と雇用システム、賃金管理、組織のあり方などの見直しが進み、新たな経済制度が模索されつつある。一方、欧米やアジアの企業は、従来の日本的経営に学ぶ傾向がある。とくに、チームワーキングのなど仕事に対する柔軟な姿勢は引き続き注目を集めている。けれども日本型管理を外国に適用するには、現地の環境やパートナー企業の状況、従業員の素質などにより管理のあり方を変える必要がある。本章では、日本企業における企業内キャリアの形成、終身雇用制、年功賃金制、人事考課などの点で「日本的経営」を振り返り、さらには従業員の働きぶりに関する日本国内の諸説を整理した上で、日本型HRMの特質を明らかにし、評価する。 第3章「中国におけるHRMの環境と現状」では、中国国内のHRMに関する学説と定義を明らかにし、人的資源の現状を把握しつつ、従来の管理制度のもとでの人的資源活用の低さを明らかにする。HRMは、新しい概念として中国で広く伝わってはいる。しかし中国の現実は、人的資源つまり労働力供給量が豊富であるのとは対照的に、熟練労働者数の少ない点が際だっている。本章では、主に1978年以降の中国国有企業の雇用、賃金分配、教育・訓練、労働組合のあり方、経営の自主権などについて、伝統的管理制度から新たな人事制度に移行する変革の歩みを振り返る。さらに企業改革の各段階における中国政府の一連の政策の実施とその内容をまとめる。そのうえで、過去、国有企業で行われていた人事労務管理に基づき、中国におけるHRMのあり方を整理する。 第一部の総括においては、ビアーらが主張したHRMをベースとし、さらに日本型HRMと中国におけるHRMを加味すると、中国へ進出する日系企業のHRMの枠組みは次のような命題の形で挙げるべきだということが主張される。 命題1:HRMは、伝統的人事労務管理におけるすべての人事政策の諸活動を含み、そのうえで従業員の健康、自尊心、自己開発、責任感等の人格的側面をも考慮するものである。従業員の意思や役割は企業の諸活動に影響を及ぼすものであり、人事政策においてHRM要素を設定する際に重視されねばならない。 命題1に従うと、HRMの諸要素は次のように拡充される。 命題2:HRMの理念を満足し、しかも企業が持続的に成長するためには、また中国における日系企業を考察する関係上、従業員の能力開発の必要性、現地の人的資源の素質や教育制度の現状などを配慮すれば、企業におけるHRMの要素として次の8つが設定されねばならない。それは、 1)意思決定、2)リーダーシップのスタイル、3)安定契約、4)報酬、5)職務訓練、6)退職と職務満足、7)労使のコミュニケーション、8)駐在員の教育・訓練、以上の8つである。 第二部第4章「中国における日系企業のHRMの実態-資料研究-」では、先行の調査研究を紹介・分析する。とりわけ、日本貿易振興会上海事務所[1997]、日中投資促進機構[1990]、リクルートリサーチ調査部[1994]、綜合研究開発機構[1997]に注目する。 さらに著者自身が1994年7月に中国北京で4社の日系企業を対象として行った事例調査を紹介する。この調査は、企業管理のとくに企業内人材育成につき、採用、賃金、労使のコミュニケーション、教育・訓練など4つの側面からアプローチしたものである。結果として、日系企業における管理の問題点は、次のように整理された。 1)賃金の問題。2)現地人とのコミュニケーションの不足。3)採用に際して低賃金と若年従業員の重視。4)日本式管理への疑問。5)進出に際しての事前調査の欠如、以上である。 これらの調査研究は、あくまで問題点の提示にとどまるものであり、限界を持っている。たとえば日本側の調査では日本人管理者の問題が強調されているが、中国側では必ずしも同様の認識は示されていない。こうした点を考慮し、中国の労働環境、パートナー企業の状況にも配慮しつつ、日系企業に適用するHRM理論の枠組み新たに設定し直した上で、新たな調査を行う必要性がある。 第5章「事例調査」(1997)と第6章「従業員意識調査による分析」は、1997年5月〜6月に中国において日系企業9社を対象に行った事例調査、およびその従業員400人を対象に行った意識調査の結果とその分析である。第5章では、事例調査を行った日系企業の組織形態、人的資源の調達、賃金システム、人材育成システム、福祉など管理形態の属性を類型化し、それぞれの特性を分析する。 第6章は、前章の事例調査で扱った9社のうち、7社の従業員あわせて400人を対象に実施した意識調査の結果の分析である。意識調査の質問内容は、第1部の総括で提示した日系企業のHRMの8項目にもとづいて設定した。とくに日系企業のリーダーシップのスタイルにかんする分析は、ホフステッドが多国籍企業の文化的側面の研究で用いたモデルに基づいて、権力格差と不確実回避とを測定する。また、職務訓練については、ベッカーが提唱したように一般訓練と特殊訓練に区分し、特殊訓練としての日本型職務訓練のOJT、ジョブ・ローテーション、QCサークルなど日系企業への適応の可能性を検討する。さらに退職と職務満足に関しては、高橋伸夫の「退職の意思決定と職務満足」の理論を用いて、日系企業に勤める従業員の職務満足度を測定し、組織退出の要因を分析する。 以上の結果に基づいて、日系企業において今後実施可能なHRMのうちもっとも有益と考えられるものを提案し、それぞれのHRM要素にかんして具体的な実施策を提出する。総括では、これまでに明確になった事実を要約し、日系企業のHRMモデルを提示している。 以上が論文の要旨である。以下、評価を述べる。 第一に、理論的には、HRMモデルそのものの理解と応用において、新機軸を打ち出している。まずHRM理論を人事労務管理論における革新ととらえ、その米国における展開を的確に整理している。その上で、人事労務管理の理論として日本企業・中国国有企業・日系企業をともども分析しうる新たな枠組みを野心的に提示している。この作業により、対象国の社会制度や歴史の発展、文化的要因に偏って各国企業の人事労務管理を分析するきらいのあった従来の研究の枠を脱し、より中立的な比較と類型化が可能になった。この点は高く評価される。 第二に、日系企業についての事例調査および意識調査は独自のものであり、貴重である。これらの調査と分析はHRMの各要素に沿ってなされているから、事実と理論の両面において議論が明快になっている。さらに、日本企業・中国国有企業・日系企業にかんしてなされた比較と類型化も重要な成果であり、今後の本分野の研究の基礎となるべき図式を提起しえている。進出企業は、株主、日本企業と現地パートナー企業の利益を考慮するほかに、従業員を一人の人間として尊重し、彼らの思考や意見に耳を傾け、個々の従業員の職務満足を満たすべきだという本論文の主張には、アジアに進出する日系企業にとって大いに参照すべき論点が含まれているといえよう。 第三に、HRM理論そのものが社会諸科学の総合という面をもっているが、本論文は理論および実証においてバランスのとれた相関社会科学研究の一例となっている。 もっとも、以上のような評価にも留保をつけるべき点がないわけではない。 ひとつには、HRM理論はこれまで一国モデルであり、今回修正・提示されたHRM諸要素はその国際版として案出されているが、本論文において諸要素間の論理的な関係やその現実妥当性が各国の事例にも無条件で応用されるか否か、十全に検討されたとは言い難い。付け加えていうと、本論文では中国に進出している(華僑を中心とする)外国企業への言及があるが、むしろ中国以外に進出している日系企業や日本における本社との比較を参照する方が論旨が鮮明になったかもしれない。こうした点は今後の彫琢が待たれるところである。 もう一点挙げれば、中国企業にかんしては1978年以来改革が営々と続けられているために、どの時点の人事労務管理を標準的とみなすかは判断の難しいところである。本論文では国有企業を採り上げているが、それにしても標準化が可能か否かは理解の分かれるところであろう。 しかしながら、以上のような留保も本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は中国に進出する日系企業における人的資源の分析として、理論・実証の両面にわたり新機軸を打ち出している。したがって本論文は学界に寄与するところ大きく、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認められる。 |