学位論文要旨



No 114860
著者(漢字) 原田,耕治
著者(英字)
著者(カナ) ハラダ,コウジ
標題(和) 免疫ネットワークシステムにおける自然寛容の動的成立
標題(洋) "Dynamic Establishment of Natural Tolerance by an Immune Network System"
報告番号 114860
報告番号 甲14860
学位授与日 2000.03.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第238号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 池上,高志
 東京大学 教授 江里口,良治
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 助教授 嶋田,正和
 東京大学 助教授 佐々,真一
内容要旨 ■目的

 免疫系は、細菌やウイルスなどの異物の学習、記憶、それに伴う自己と非自己の認識などの特殊な機能を進化的に獲得したシステムである。同様の機能は脳科学などで頻繁に議論されてきた。そこで常に問題になるのは、これらの機能発現の原因を個々の細胞が密に繋がったネットワークそのものに求めるのか、それとも個々の細胞に還元することができるのかということである。現在まで、免疫学は分子生物学的手法により個々の分子や細胞レベルの膨大な知識を獲得している。しかし、先に上げた特殊な機能発現の原因は未だはっきりしていない。それは1974年にイェルネが提案したネットワーク的な視点が欠如しているからではないだろうか。ネットワーク的な視点で大切なことは、システムの個々の要素の性質には還元できないメタレベルの性質に注目することである。それに対する教育的な例として、一次元セルラーオートマトンが示す複雑な時空間パターンが上げられるだろう。本研究は、ネットワーク的なアプローチから上に上げた機能について考察する。

 免疫系を構成する細胞の一種であるB細胞は、認識分子として抗体分子を利用している。抗体分子の特徴は、非常に多様な形のものが存在することにある。抗体分子どうしはこの形の相補性を用いて、認識できる分子とできない分子を見分けている。このことは抗体が抗原を認識する時にも同様である。

 今回、我々は抗体分子からなるネットワークモデルを利用して、いかにして免疫系が定常的な抗原刺激に対して寛容な状態を実現しているのかを力学的、構造的視点から理解することである。さらに、このような寛容状態はいかにして破られるのかを同じ視点から考察する。このことは"何故免疫系が我々の体内分子を攻撃しないのか"を説明する手がかりを与える。

■モデル

 我々が使用したモデルの基本的な骨格はイェルネのイデオタイプネットワークモデル(1974年)に基づいている。このモデルはB細胞を抽象化したイデオタイプと呼ばれるものから構成されるネットワークで、個々のイデオタイプは他のイデオタイプを認識する部位(パラトープ)と認識される部位(イデオトープ)と持っている。またイデオトープとパラトープは形の多様性を持ち、各イデオタイプは、自らのパラトープとイデオトープを利用して相互に認識しあうことができる。あるイデオタイプが他のイデオタイプを認識すると認識した方のイデオタイプは濃度を増やすことができ、逆に認識されたものは濃度を減らす。

 我々はさらにこのモデルに認識の曖昧さを決めるパラメータをメタダイナミクスとしていれることでイデオタイプ間の特異的認識と非特異的認識を議論できるようした。また各パラトープの特異性のレベル間では、突然変異による濃度変化がある。

 抗原はイデオトープのみを持つとする。

 このような特徴を持ったイデオタイプに関する離散時間ポピュレーションダイナミクスを計算する。

 今回の計算機実験では、認識の曖昧さを表すパラメータは特異的な認識から非特異的な認識まで5段階の値をとるとする。またイデオトープとパラトープは各々5種類用意しそれぞれに0から4までの番号を付ける。また番号の近いものが形の上で似たものを表すとする。またイデオトープ,パラトープ間では同じ番号のものが形の上で完全に相補的である。

■結果●抗原特異反応と非特異反応の動的実現

 今回の計算機実験はタイプ4の抗原を利用して行うが、計算結果は抗原のタイプには依存しない。

 図1では、タイプ4の抗原の濃度をパラメータとした時、その抗原に直接結合するタイプ4のパラトープをもつイデオタイプの1万ステップでの平均特異性を示している。

 この図から抗原濃度(約9.5)を閾値として、抗原特異的なイデオタイプの特異性の、不連続的な上下動がみられる。また図2は、図1に対応した最大リヤプノフ数である。これらの図を比較してわかることは抗原刺激に対して特異的反応を起こさない、すなわち寛容なカオス状態(タイプ1)と、特異反応を起こしている安定固定点(タイプ2)の状態が共存していることである。

 図1でグラフの不連続な上下動は、抗原刺激に対して寛容なカオス状態が純粋なアトラクターでなく超過渡状態であることを示している。超過渡状態は高自由度系でよくみられ、その主な特徴は非常に長い時間その状態に留まり、その後、別のアトラクターへ遷移する点である。そのことをさらに詳しく調べるために、図3では、各抗原濃度に対して、ランダムに選んだ100サンプルのイデオタイプに関する初期条件からダイナミクスを動かしたとき、どのくらいのステップ数でタイプ1から2の状態に移れるかを計算した。この図から、ある大きさの抗原刺激(11.5)に対しては非常に長い時間、寛容な状態に留まることがわかる。(105stepgsで12 percent)このことから超過渡カオス状態は抗原刺激をうまくネットワーク全体に分散させることで抗原特異反応がおこるのを防いでいることがわかる。

図表図1 抗原濃度に対する特異性の変化 / 図2 抗原濃度に対する最大リアプノフ数の変化 / 図3 あるステップ数(104,5×104,105)で、寛容から抗原特異的な状態へ遷移する割合
●ネットワークトポロジーから見た動的寛容の特徴

 図4に抗原特異的な状態(図4右の図)と、抗原非特異的な状態(図4左の図)のネットワークトポロジーを示す。この図から抗原刺激に対して寛容な状態は、個々のイデオタイプの特異性が低く、その結果、多対多的な相互作用を実現し多くのイデオタイプを取り込んだ高自由度のネットワーク構造を持ち、逆に抗原特異的な状態は小数自由度で、主に抗原によって1対1相互作用で維持されるような構造を持っている。多対多的な構造を形成することで、ネットワーク全体の調整を働かし、抗原刺激を集中させず全体に分散させることで抗原に対する寛容状態を実現している。われわれの結果は、バレラやスチュワートらの寛容に関するストーリー"イデオタイプ間の相互作用が多体多的になる程、より強い免疫寛容が実現される"をサポートする。このようなストーリーは、伝統的な免疫寛容実現に対する考え方、"自己抗原と反応する免疫細胞は発生初期段階で除去されることにより成立する"とは異なった見方を提供する。これらの結果は我々によって始めて導入された特異性に関するメタダイナミクスに依っている。

図4 抗原特異的な状態でのネットワークトポロジーと非特異的な状態でのネットワークトポロジー。△記号は抗原、□記号はパラトープ、○記号はイデオトープを表現している。各記号内の数字はタイプを示す。矢印は刺激の向きを示す。
審査要旨

 学位論文として提出された原田耕治氏の博士論文は、免疫システムの持つ記憶や認識といった機能を数理的に理解することを目的とし、抗原認識部位の特異性が適応的に変化する力学系のモデルを提案し、計算機シミュレーションを手法として解析したものである。

 本論文は全6章から成っている。第1章では本研究を始める動機と理論生物学の研究の意味と昨今の発展が簡潔に述べられている。第2章では本研究の背景となるバーネットのクローン仮説、イエルネのイディオタイプネットワーク仮説が紹介され、免疫システムを内部的な抗原抗体反応のネットワークとして理解する生理学的な知見が解説される。その上で最近の免疫系の生理実験の中から、抗体の抗原認識部位の特異性が適応的であるという報告が紹介される。この知見は第3章で紹介されるモデルの実験的基盤を与えるものである。

 第3章では、イディオタイプネットワークが、最小の非線形性を持った捕食被捕食方程式として表される。方程式の各変数は各イディオタイプの濃度であり、イディオタイプはある強度でもってお互いに増殖・抑制の相互作用している。このモデル方程式において重要な点は、イディオタイプ同士の相互作用の強さが動的に変更される点にある。以下の章ではこの方程式を用いたシミュレーションの結果が報告される。

 第4章では、まずはじめに外部抗原を外力としてこの方程式に加えた場合にどのような応答が生じるかを論じている。免疫系の抗原抗体反応では、抗原の量に対し免疫システムがベル型の応答を示すことが知られているが、この方程式はそれを再現することに成功している。すなわちある抗原の量に対してのみ高い特異性を持った抗体の算出をみることができる。

 今までの免疫系のモデルがアドホックに抗原の量に閾値を設けることでベル型応答関数を模倣していたのに対し、ここではそれを力学的状態の転移によりもたらされることを示した点が評価される。興味深いことは、相対的に高い特異性を示さない時のネットワークの状態がカオス的であるのに対し、相対的に高い特異性を示す状態が長時間のカオス的な過渡状態として出現するという点にある。

 さらにこの特異性が高い領域を詳しく解析することにより、高い領域への転移がクライシスとよばれる機構によるのではないかということ、準周期的なアトラクターが多数存在していること、その準周期解のまわりを経巡るカオス運動があること、などが報告されている。

 第5章では、免疫系の1次反応2次反応の違い(免疫の記憶)がこの方程式にもみられるかというシミュレーション実験の結果が報告されている。免疫系の記憶効果は、結果としてこの方程式系でも十分再現することができた。このモデルが提唱するように免疫の記憶は相互作用の特異性の進化を導入してはじめて、簡潔に表すことのできる性質であるように思われる。

 第6章では全体の総括と今後の研究の方向が、実際の免疫系の実験を意識しつつ展開されている。

 本論文は、免疫系の機能を力学系という視点から独自にとらえ直したものである。抗原認識部位の特異性の進化が、ここで扱ったように実はネットワーク説に基づいた方程式で表現できるということは全く新しい知見である。昨今のネットワーク説を支えるかと思われる実験例と併せて、免疫系のネットワーク理論の再考をうながし、より一般的に方程式の構造を自己決定していく動力学の研究としても、今後の発展が期待されるものである。

 以上、当博士論文の研究は、十分に独創的なものであり、力学系として免疫システムを考えていく際に、可能なモデル化の仕方の新しい方向を指し示したといえるだろう。本論文で提案された力学系のモデルはある意味非常に簡潔なものであり、今後変数空間を限定しない、空間構造を考える、など発展させる方向が多く考えられる。そうした点からもこの論文は評価できるだろう。

 本論文で挙げられた結果のうち第3章と第4章を併せた部分が、論文として専門誌に印刷中である。第4章の一部と第5章に関しては、投稿準備中である。また共著論文に関しては、それらを博士論文として提出することに関する共著者の同意が得られている。以上のように論文提出者の研究は、力学系としての免疫系の記憶構造や認識の動力学に関して独創的かつ重要な寄与をなしていると考えられる。

 以上の点から本論文は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。

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