学位論文として提出された原田耕治氏の博士論文は、免疫システムの持つ記憶や認識といった機能を数理的に理解することを目的とし、抗原認識部位の特異性が適応的に変化する力学系のモデルを提案し、計算機シミュレーションを手法として解析したものである。 本論文は全6章から成っている。第1章では本研究を始める動機と理論生物学の研究の意味と昨今の発展が簡潔に述べられている。第2章では本研究の背景となるバーネットのクローン仮説、イエルネのイディオタイプネットワーク仮説が紹介され、免疫システムを内部的な抗原抗体反応のネットワークとして理解する生理学的な知見が解説される。その上で最近の免疫系の生理実験の中から、抗体の抗原認識部位の特異性が適応的であるという報告が紹介される。この知見は第3章で紹介されるモデルの実験的基盤を与えるものである。 第3章では、イディオタイプネットワークが、最小の非線形性を持った捕食被捕食方程式として表される。方程式の各変数は各イディオタイプの濃度であり、イディオタイプはある強度でもってお互いに増殖・抑制の相互作用している。このモデル方程式において重要な点は、イディオタイプ同士の相互作用の強さが動的に変更される点にある。以下の章ではこの方程式を用いたシミュレーションの結果が報告される。 第4章では、まずはじめに外部抗原を外力としてこの方程式に加えた場合にどのような応答が生じるかを論じている。免疫系の抗原抗体反応では、抗原の量に対し免疫システムがベル型の応答を示すことが知られているが、この方程式はそれを再現することに成功している。すなわちある抗原の量に対してのみ高い特異性を持った抗体の算出をみることができる。 今までの免疫系のモデルがアドホックに抗原の量に閾値を設けることでベル型応答関数を模倣していたのに対し、ここではそれを力学的状態の転移によりもたらされることを示した点が評価される。興味深いことは、相対的に高い特異性を示さない時のネットワークの状態がカオス的であるのに対し、相対的に高い特異性を示す状態が長時間のカオス的な過渡状態として出現するという点にある。 さらにこの特異性が高い領域を詳しく解析することにより、高い領域への転移がクライシスとよばれる機構によるのではないかということ、準周期的なアトラクターが多数存在していること、その準周期解のまわりを経巡るカオス運動があること、などが報告されている。 第5章では、免疫系の1次反応2次反応の違い(免疫の記憶)がこの方程式にもみられるかというシミュレーション実験の結果が報告されている。免疫系の記憶効果は、結果としてこの方程式系でも十分再現することができた。このモデルが提唱するように免疫の記憶は相互作用の特異性の進化を導入してはじめて、簡潔に表すことのできる性質であるように思われる。 第6章では全体の総括と今後の研究の方向が、実際の免疫系の実験を意識しつつ展開されている。 本論文は、免疫系の機能を力学系という視点から独自にとらえ直したものである。抗原認識部位の特異性の進化が、ここで扱ったように実はネットワーク説に基づいた方程式で表現できるということは全く新しい知見である。昨今のネットワーク説を支えるかと思われる実験例と併せて、免疫系のネットワーク理論の再考をうながし、より一般的に方程式の構造を自己決定していく動力学の研究としても、今後の発展が期待されるものである。 以上、当博士論文の研究は、十分に独創的なものであり、力学系として免疫システムを考えていく際に、可能なモデル化の仕方の新しい方向を指し示したといえるだろう。本論文で提案された力学系のモデルはある意味非常に簡潔なものであり、今後変数空間を限定しない、空間構造を考える、など発展させる方向が多く考えられる。そうした点からもこの論文は評価できるだろう。 本論文で挙げられた結果のうち第3章と第4章を併せた部分が、論文として専門誌に印刷中である。第4章の一部と第5章に関しては、投稿準備中である。また共著論文に関しては、それらを博士論文として提出することに関する共著者の同意が得られている。以上のように論文提出者の研究は、力学系としての免疫系の記憶構造や認識の動力学に関して独創的かつ重要な寄与をなしていると考えられる。 以上の点から本論文は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。 |