学位論文要旨



No 114864
著者(漢字) 高橋,都
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ミヤコ
標題(和) 乳がん手術後のセクシャアリティに関する質的研究 : 変化と対応のプロセス
標題(洋)
報告番号 114864
報告番号 甲14864
学位授与日 2000.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1529号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保木,富房
 東京大学 助教授 福岡,秀興
 東京大学 助教授 大嶋,巌
 東京大学 講師 河,正子
 東京大学 講師 三浦,宏子
内容要旨 第1章研究の背景

 悪性腫瘍はわが国の死因の第1位を占め、常に死と結びつけられてきた疾病である。しかし治療の進歩による生存期間の延長にともない、単なる生存ではなく生活の質(以下QOL)の改善が重要視されるようになった。しかしQOLの構成要素としてセクシュアリティ(身体の一部としての性器や性行動のほか、人間関係における社会的・心理的側面やその背景にある生育環境などもすべて含む概念と定義)が注目されてきたのは最近であり、特にわが国では、がんの発病や治療が患者のセクシュアリティに及ぼす影響を調べた研究は数少ない。取り上げられるがんの種類も、婦人科や泌尿器科領域、あるいは人工肛門/膀胱に関連したものに偏っており、下半身以外の身体部位の障害に関する研究は遅れている。

 本研究では、わが国の女性乳がん患者を対象として、以下の2点を明らかにすることを目的とした。

 (1)乳がんの発病と治療が、患者とパートナーのセクシュアリティに与える具体的影響の内容と、当事者による対応のプロセスを明らかにする。

 (2)変化や対応のあり方を左右する影響要因を明らかにする。

第2章研究方法

 本研究では、乳がん術後の性の実態や影響要因に関する多元的なプロセスを、当事者の視点から探索的に明らかにするため、乳がん患者対象の半構造化面接を施行した。関東地区にあるA,B病院の乳腺外来担当医師に、面接協力者を募るちらしを配布してもらい、調査に応じた21名の外来乳がん患者を対象にして、1998年1〜5月を中心に一人あたり約1時間半の面接をそれぞれ1〜3回施行した(総面接時間約50時間)。面接内容は協力者の同意を得た上で録音し、逐語的にテープおこしをして、グラウンデッド・セオリー・アプローチの手順に従って分析した。面接では、セクシュアリティそのものに関わるトピックだけでなく、術後のボディ・イメージやパートナーとの関係、治療法選択の経緯、周囲への病名公表度などに関する質問も加えた。乳がんの進行度や治療内容などの医学的情報は、面接協力者の主治医から得た。データ分析の過程では、コーディングや概念間の関係について、一般心理臨床とセックスカウンセリングを専門とする心理臨床家と密接な意見交換が行われた。さらに、2000年1月には最終的な分析結果を5名のインタビュー協力者に郵送し、分析内容の妥当性についてフィードバックを得た。

第3章分析結果

 (1)面接協力者の背景:21名の面接協力者の平均年齢は42.2±7.5歳、手術から初回面接時までの時間経過の中央値は16.5ヶ月。面接時の婚姻状況は既婚17名、未婚2名、離婚1名。臨床病期はStageI、IIを中心としており、2名に骨転移を認めた。術式は非定型的乳房切除術または乳房温存術(扇状切除)が多く、全員が、何らかの補助療法(放射線療法・化学療法・ホルモン療法)を受けていた。術前に性的パートナーを持っていたのは21名中17名であった。

 (2)乳がん手術前後の性の変化と対応のプロセス:生データは、大別して「性行為再開に至るまで」「再開後の性行為の変化」「性行為の変化への女性側の認識と対応」「性的関係の長期的帰結」という4つのテーマに分類された。図1は、術前に性的パートナーが存在した17名との面接に基づき、テーマ間の関係を図式化したものである。

図1 乳がん手術後の性行為の変化と対応のプロセス術後の性行為再開までの経過

 術前に性的パートナーが存在した17名中16名が術後に性行為を再開し、その時期は術後数日から10ヶ月後まで様々であった。性行為の再開は、「カップルにおける性的結びつきの重要度」「心身の回復度」「パートナーの反応への怖れ」という要因に左右されていた。

 【再開後の性行為の変化内容】性行為を再開した16名中13名は性感や性行為への積極性に何らかの変化を認めた。(1)性感の低下:術後の性行為には、性交痛、術創の疼瘤、放射線照射部位や腋窩付近の皮膚の違和感、パートナーのからだの荷重による苦痛など、種々の身体的負担がともなっていた。それらはまた、女性側の性欲を2次的に低下させる原因となっていた。また、パートナーが乳房や胸部全体への愛撫を躊躇することも性感の低下に結びついていた。(2)性行為への消極化:<患者本人の消極化>16名中12名は術前に比べ明らかに性行為に消極的になっており、原因として、「性感の低下による2次的な性欲低下」「パートナーの反応への怖れ」「妊娠への怖れ」が挙げられた。パートナーの反応を怖れて性行為に消極的になるのは、乳房を女性の身体的象徴と考えるため自らの術創を受容できないケースであり、12名中6名は性行為の最中に下着などで胸部を隠すようになっていた。<パートナーの消極化>患者本人の身体的変化のためパートナーが性行為に消極的になるケースだけでなく、患者の"健康ではない"からだが性行為に耐えられないのではないか、あるいは性行為が乳がんの再発率を上げるのではないかとパートナーが危惧するケースが認められた。

 手術前後の性行為に変化がないと語った3例は、夫婦関係において性的側面を重要視しない例、あるいは術後乳房の審美性への満足度が高い例であった。

 【性行為の変化への対応】術後の性行為に変化を認めた13名のうち、10名は状況を改善させるために積極的対応を試みていた。具体的には、(1)パートナーとのコミュニケーション(2)医療従事者への相談(3)外科的乳房再建の考慮という3点が挙げられた。積極的に対応するかどうかは、そのカップルにおける性的結びつきの重要度や性行為にともなう苦痛の程度に影響されていた。医療従事者への相談には抵抗を感じて自力解決を試みる面接協力者が多く、敢えて相談した場合でも満足のいく対応は得られていなかった。外科的乳房再建術を希望していたのは2名のみであり、再建手術による侵襲や再入院による家族の負担を考慮して再建術は希望しないと答えた者が多かった。

 【性的関係の長期的問題化の有無】性行為を再開した16名中13名はパートナーとの性的関係が長期的には問題化していなかったが、3名では性的関係の悪化がカップル関係の深刻な危機に発展していた。性的関係が問題化する程度は、パートナーによる女性の心身の負担への配慮や、日常生活全般への支援のあり方に左右されていた。

第4章考察

 乳がん手術後のセクシュアリティについて、国内の先行研究や一般向け書籍では"性生活に支障はない"という言説が主流である。しかし、それは単に「膣-ペニス性交に物理的な障害はない」または「性行為の再開によって乳がんが進行することはない」という意味に過ぎないと考えられる。今回の面接協力者の多くは性行為にともなって種々の身体的・心理的負担を抱えていた。人間のセクシュアリティをQOLの一要因として位置づけるなら、医学的側面や生殖に関する側面だけでなく、楽しみとして、あるいはパートナーとの親密性のあらわれとしての性の記述も必要であろう。カップルの性的関係は男女の相互作用である点も重要である。また、術後の性に変化が見られても特にそれを問題視しなかったケースも見られたが、人間関係全般における性的関係の重要度はカップルによって異なり、その多様性を認めることも大切だと考えられる。

 医療従事者が術後の性への支援を考慮する際は、(1)"性の悩みも相談できる"というメッセージを明らかにすること(2)プライバシーの確保や支援者の性別に配慮すること(3)支援者が専門家という立場で自分の個人的価値観を押しつけないこと(4)入院中から外来通院時にかけて持続的に支援を提供することなどに留意する必要がある。支援内容としては、性的合併症の症状や対処方法に関する具体的な情報提供が挙げられる。その際、性的関係の重要度や性欲の回復程度はケースによってさまざまであることから、術後の性のあり方について一律に"こうあるべき"という基準を設けるのではなく、カップルの双方にとって無理のない性的関係が持てるよう、率直なコミュニケーションを促すことが重要だと考えられる。

 本研究は、あくまで乳がん手術を受けた女性側の視点を明らかにしたに過ぎず、妻または恋人の乳がん発病がパートナーの精神状態や性機能に与える影響については、パートナー自身を対象にした調査が必要である。また、今回の面接協力者はすでに術後数年を経過してある程度心身のエネルギーを回復しているケースであり、過去を振り返って語られる体験は、問題が頂点に達していた当時の状況と微妙に異なる可能性はあるだろう。

 今後も、より多様な背景を持つ乳がん患者への面接調査を継続し、術後のセクシュアリティの実態や影響要因についてさらに検討していきたい。またパートナー対象の面接調査を通じて女性側の視点との異同を考察し、カップル双方を対象にした支援介入のあり方を検討していく予定である。

第5章結語

 わが国の女性乳がん患者21名を対象にして計50時間の半構造化面接を施行し、内容を質的に分析した結果、術後のセクシュアリティについて以下の知見を得た。

 (1)面接協力者の大部分は、性感の低下や性行為への消極化という変化を認めていた。

 (2)性行為の変化を認めた場合、それを問題視して積極的な対応策をとるケースと問題視せず静観するケースとがあり、そのカップルにとっての性的関係の重要度に影響されていた。

 (3)性行為の変化に対して解決を試みる場合、医療従事者への相談には抵杭感があるため自力解決を試みる例が多く、敢えて相談したケースも満足のゆく対応は得られていなかった。

 (4)インタビュー協力者にとってパートナーとの性的関係が長期的に問題化するかどうかは、パートナーの配慮や日常生活における支援度に影響されていた。

審査要旨

 本研究は、(1)乳がんの発病と治療が患者とパートナーのセクシュアリティに与える具体的影響と当事者による対応のプロセスを明らかにすること、(2)それらを左右する要因を明らかにすることの2点を目的としている。乳がん患者の協力を得て行ったインタビュー調査により以下の知見が得られた。

 1.乳がん手術後の性行為再開時期は術後数日から10ヶ月後と個人差が大きく、再開を左右する要因として、カップルにおける性的結びつきの重要度、心身の回復度、パートナーの反応への怖れが挙げられた。

 2.従来、乳がん手術後の性に関する国内の先行研究では"性生活に支障はない"と結論づけるものが多かったが、本研究では、性行為を再開した16名中13名が性感の低下や性行為への消極化という変化を認めていた。性感の低下は性行為に伴う身体的負担や胸部への愛撫の変化によって引き起こされており、術式や補助療法の内容に影響されていた。性行為への消極化には患者本人の消極化とパートナーの消極化が認められた。本人の消極化の原因として、身体的負担による2次的変化、パートナーの反応への怖れ、妊娠への怖れが挙げられた。また、パートナーは、患者の身体が性行為に耐えられないのではないか、あるいは性行為が再発率を上げるのではないかと危惧していることが示唆された。

 3.術後の性行為に変化を認めた13名中10名は状況を改善するため積極的対応を試みており、具体的には、パートナーとのコミュニケーション、医療従事者への相談、外科的乳房再建の考慮という3点が挙げられた。対応を試みるかどうかは、そのカップルにおける性的結びつきの重要度や性行為に伴う苦痛の程度に左右されていた。

 4.患者は性行為について医療従事者に相談することに強い抵抗感を持っており、多くは自力解決を試みていた。敢えて医療従事者に相談したケースも、その対応に満足してはいなかった。外科的乳房再建術を希望していたのは2名のみであり、希望しない理由として、再建術による侵襲や再入院による家族の負担が挙げられた。

 5.性行為を再開した16名中13名はパートナーとの性的関係が長期的な問題とはなっていなかったが、3名では性的関係の悪化がカップル関係の深刻な危機に発展していた。性的関係が問題化する程度は、パートナーによる患者の心身の負担への配慮や、日常生活全般への支援のあり方に左右されていた。

 以上、本論文は、がん患者の生活の質を考える際にわが国で顧みられることが少なかったセクシュアリティの領域に着目し、発病と治療によって引き起こされる具体的変化と当事者による対応のプロセスの詳細を明らかにした。特にがんとセクシュアリティに関する国内の先行研究が婦人科・泌尿器科領域を中心に行われてきたのに対し、膣-ペニス性交を直接妨げないまでも患者のボディーイメージを大きく変容させる乳がんをとりあげたことは、下半身以外に障害を得たがん患者のセクシュアリティ研究の視点からも意義がある。また、カップル関係全般における性的関係の重要度や女性の身体における乳房の意味、さらには専門家による支援介入への期待度や受容度は社会的・文化的背景に大きく影響されるだけに、本研究はわが国のがん患者のセクシュアリティに対する効果的支援を検討する際に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値すると判断された。

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