イギリス近代史研究は近年、大きなパラダイム転換をとげている。一国史という枠組への正当な批判をかかげて、一方では歴史的現象を資本主義世界システムのなかの表徴として論じるもの、他方では社会層の精緻だが静態的な分析が、この間、量産されてきた。 本論文は、そうした学界の流行とは一線を画した、長谷川自身の問題意識にもとづく発生史的研究である。18世紀後半から19世紀初めにいたる、対仏戦争中のイギリスにおける戦争・国家・公共政策・地域社会の連関に注目し、また社会層のうちとりわけ中間層ないし中間階級が時代の係争問題にどう対処しようとしたかという局面に焦点を絞り、問題を批判的に再構成しようとする意欲的な論文である。序論では、18世紀イギリス国家における教会と貧民・労働者をめぐる時論、そして財政の有機的関係が確認され、課題と方法が設定される。第1章では、新興工業都市バーミンガムにおける日曜学校の設立・運営が「モラル改革」という同時代の運動と地域社会のなかで分析される。第2章は、やはりバーミンガムに設立された総合病院のための拠金と運営にかかわる、社会層とヘゲモニーの分析である。第3章では、全国的広がりのもとに、やや時代を延ばしてナポレオン戦争の終結にまでいたる時期の「貧民の状態改善協会」と、これを推進した国教会内外の福音主義者たちの言説を分析する。 この実証研究のために、長谷川はバーミンガムとオクスフォードにおける計2年の留学によって収集したローカルな、そして全国的な未公刊史料・刊行史料を活用し、また貧困および公共政策をめぐる長大な研究史を要領よく自分のものとして議論を組み立てている。またこれは、現在、イギリスの近代史研究者のあいだで議論されている福祉国家およびヴォランタリズムの起源という論点に棹さす営みである。 この研究により、バーミンガムという急速に成長しつつある地方都市における階級関係と社会・文化的ヘゲモニーが具体的係争をつうじて形成されてくる様相が明らかにされ、また地域社会と中央政界、そして臨戦態勢の緊迫のあいだの関わりも証される。付随的に名誉革命以来のリベラルで自発的な改善策が、対仏戦争の終結による膨大な帰還兵と不況により効力を失い、やがてベンサム的改革の時代へ転じるという展望も明らかになる。 本論文について、留保すべき点も多々あり、全体の緊密な構成という面で不満が残る。日本語・英語の表記の乱れ、先験的な用語法、歴史像を描くよりは解釈の枠組を変えることに関心が向いているがゆえの痩せた筆致、せっかく参照していながら脚註および巻末の文献表に挙がってない研究文献が少なくないこと、などがそれである。こうした欠点は、今後の精進により改善することを促したい。とはいえ、真摯な探求により学界に貢献する仕事であり、将来の活躍を期待させるものがある。 以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。 |