日本近代建築史においてモダニズムを中心とする研究は盛んであるが、表現と技術の前線から撤退した宗教建築はあまり顧みられなかった。かろうじて近代和風という意匠上の問題からは言及されていたが、「宗教」建築ゆえにとりあげられてきたわけではない。それは近代という理性の時代において、神話的な時間を再現する時代錯誤的な行為に起因すると思われる。近年、国家神道下の神社建築は注目されつつあるが、いまだに新宗教の建築の研究は皆無である。これまで積極的に評価されたことはないし、否定的に評価されるというよりは、その存在は無視されてきたに等しい。一方、宗教学において新宗教の研究は蓄積されているが、教義、組織、布教、制度などを主眼とするものが多く、空間論という視点では語られていない。したがって、新宗教の空間論の研究史をひもとくための文脈すら存在しない。そこで本論は日本近代の新宗教の空間観、そして建築・都市の実態を明らかにする。 本論が研究の対象とするのは、19世紀に誕生した神道系の新宗教、すなわち、黒住教、天理教、金光教、大本教であり、主に文献史料を用いながら、それぞれの空間史を研究した。時代の範囲は、各教団において立教時の教祖が生きていた頃から戦後の代表的な造営が終わるまでを扱う。ゆえに、基本的には、各教団の建築史を年代順に追う形式である。ただし、宗教建築の特性から、当然、思想と空間の関係を考察せねばらない。そうした部分は建築史的にではなく、評論的な構えによって分析した。特に本論は以下の点に注目した。新宗教の理念(教義における空間観)と実践(具体的な建築行為)の間には、いかなる対応関係があり、いかなるズレが生じているかである。その手続きとしては、教祖の生みだした思想から空間概念を読みとり、それを後継者がいかに解釈し、現実の空間に反映させようとしたのかを検証する。また新宗教をとりまく社会的な状況と教団組織のあり方が、建築・都市にどのような影響をあたえたかを考察した。 本論は4部構成をとる。第1章は、近代の宗教建築をめぐる状況を分析し、神社建築にも触れた。第2章は、天理教の空間研究である。その空間観の強度と実現した建築・都市の独自性、また入手可能な史料の量から、多くの分析を試みた。特に世界の中心という概念、すなわちぢばと甘露台がどのように実際の空間に反映されたか考察する。第3章は、金光教の空間研究である。いかに初期の建築が後世に影響をあたえたかを追跡した。そして第4章は、大本教の空間研究である。ここでは出口なおと王仁三郎の思想と空間を分析しつつ、なぜ弾圧によって全施設が破壊されたかを考察する。 第1章「序論」は、5節に分けられる。第1節「サティアンが逆照射するもの〜神話と歴史のはざまで」は、オウム真理教のサティアンが必ずしも特殊な宗教建築ではないこと、また新宗教の建築に対する一般的な言説が公正さを欠いていることを考察した。第2節「近代宗教の建築・都市はなぜ研究されないのか」は、天理教とモルモン教を中心にその都市研究を概観したが、前者は地理学的研究に偏っていることを示した。第3節「神社木造論をめぐって〜もうひとつの神仏分離」は、伊東忠太をはじめとする神社を特殊化しつつ、木造を守るべきという神社木造論の流れを分析した。これは反対に寺院はコンクリート化しても構わないという考えと裏返しであり、神社/寺院=直線/曲線というモダニズム的な宗教観とともに、デザインの神仏分離といえる。第4節「同時代建築としての神社〜靖国神社と明治神宮」は、戦前の新しい神社建築が一般に認知され、建築界からも称賛すべき「建築」として論じられていた状況をみる。第5節「黒住教の建築〜伊勢神宮との関係性」は、神道よりの黒住教の空間を考察した。ただし、同教団では、空間観を引き出せる教義が少なく、その建築は既存の神社に類似している。戦前は大元の宗忠神社がおそらく近傍の吉備津神社の影響を受けたこと、神楽岡の宗忠神社が神社建築の制限図を参照したこと、戦後は太陽の神殿が伊勢神宮とのつながりを強調したことを分析した。 第2章「天理教における中心の概念と建築・都市」は、10節から成る。第1節「中山みきのユートピア〜隠喩としての建築」は、教祖の中山みきが屋敷の取り壊しを命じるなど、反建築的な行動をとったこと、教えに大工の用語を多用したことに注目した。第2節「甘露台という世界軸」は、天理教の人類創造神話『泥海古記』、おふでさきに示されたぢばの概念、それを表現した甘露台の関係を考察しつつ、神殿の空間構成、都市計画、地方教会の配置を通して、世界の中心という思想をいかに表現したかを分析した。第3節「神殿と教祖殿1〜大正普請」は、最初のつとめ場所から1914年に終了した大正普請までを扱う。教祖の死後、いかに教祖殿の規定したか、飯降伊蔵の天啓おさしづによる造営の指示、千木と堅魚木がついた特殊な鬼瓦の登場などを分析する。第4節「神殿と教祖殿2〜昭和普請」は、天理教独自の空間形式の生成を扱う。1934年に二代真柱の中山正善の指揮により甘露台を南北の礼拝場が挟む形式が実現し、それを受けて1984年に東西南北から囲む形式が完成した経緯を追跡した。第5節「中山正善・内田祥三・奥村音造」は、天理教の建築・都市の形成に重要な役割を果たした3人の人物を考察する。3人の関係とそれぞれの考えを明らかにしつつ、千鳥破風の並ぶ、特徴的な屋根が様式化した過程やおやさとやかた計画の誕生した背景を論じた。第6節「宗教都市の形成1〜教祖年祭の反復と詰所の増加」は、10年ごとの教祖年祭が計画的な造営につながり、都市を膨張させた歴史を記述した。また信者専用の宿泊施設である詰所の増加と移築を考察する。第7節「宗教都市の形成2〜おやさとやかた計画以降」は、戦後に天理市が誕生し、教団と市側がどのように連携し、都市計画を進めたかの評価を行う。第8節「地方教会」は、本部と地方の関係を読む。第9節「海外布教と満州天理村」は、海外布教に触れつつ、その特殊例として1934年以降、満州に建設した天理村をとりあげる。教会を中心とした小さな宗教ユートピアの建設と生活を明らかにした。第10節「ほんみち、あるいは異端の空間〜中心の喪失」は、天理教から分派した幾つかの教団を概観する。特に大西愛治郎は、柱の甘露台を人間であると読み替え、戦後に中心のない宗教空間を生みだした。また天理教以上にひのきしん(労働奉仕)を徹底し、天理教の原理主義を貫く建設活動を営む。 第3章「金光教建築の原型と様式」は、5節に分けられる。第1節「方位観の否定と広前の概念〜遍在する中心」は、教祖の金光大神の空間観を抽出した。第一に、艮の金神を忌避するのではなく、逆にまつることによって、方位を不均質にする家相から解放されること。第二に、神と信者を媒介する取次の儀式を行う広前の場所概念を生み、それはどこにも存在しうるとみなしたこと。第2節「金光教様式の誕生」は、1900年に教団が一派独立する際、教規・教則において建築の様式図が制定されたことに注目する。これは内務省宗教局が要請したものであり、教団の佐藤範雄らは初期の金光教建築や教祖死亡時の柩の位置などに根拠を求め、急いで様式図を作成したことを明らかにした。第3節「本部施設の変遷1〜聖地炎上と幻の復興計画」は、戦前の造営を扱う。様式図と同じ方法によりデザインされた1920年の大教会所、1925年の焼失、そして明快な構成をもつ幻の復興計画の実態を記述した。そして寄進に対して非常に潔癖な体質をもつことが、造営を遅らせたことを考察する。第4節「本部施設の変遷2〜戦後の広前造営」は、戦後の本部施設の計画において、広前造営委員会と設計者の田辺泰が議論したことを考察する。椅子式、千木の使用、収容人数、奉斎様式、浄財の使用法などが問題にされた。第5節「地方教会への影響と展開」は、地方教会における様式図の効力を検証する。 第4章「大本教建築の創造と破壊」は、6節から成る。第1節「出口なおの世界革命〜さかしまのユートピア」は、開祖なおの思想と儀式を分析した。彼女は艮の金神こそ世界の根本であるとみなし、世界の再転倒を唱え、1900年から翌年までの世紀の変わり目に冠島・沓島開きや元伊勢と出雲の御用などの儀礼を行い、世界の意味を組み換えた。第2節「第一の聖地、綾部の造営〜言霊の空間」は、聖師王仁三郎が綾部で言霊の概念を空間化しようと試みたことを考察する。第3節「第一次大本事件による破壊と改築〜同一性の忌避」は、伊勢神宮や桃山御陵との類似が問題視されたことが発端になり、1921年に本宮神殿と奥津城が干渉された背景を分析した。第4節「出口王仁三郎の思想と空間〜分裂する中心」は、その空間観を考察し、相互補完的する二極の構造により、綾部と亀岡の両聖地を位置づけたこと、また霊界と現実の二重世界により、霊界の写しとして聖地を造営したことを指摘した。第5節「第二の聖地、亀岡の造営〜月宮殿と長生殿」は、王仁三郎の空間観が特に反映したものとして異形の外観をもつ月宮殿と長生殿をとりあげた。彼が数字、言葉、空間を横断する独特な思考により、重層的な意味体系を付与したこと、また言霊から導かれる十字形の平面が建築的な特徴であることを考察した。第6節「第二次大本事件による存在の抹消〜記憶の空間へ」は、1936年の両聖地における施設破壊の目的と方法を検証する。そして戦後の王仁三郎亡き後、三代教主が異なる建築の路線をはじめたことや、弾圧の跡を禁足地に指定して沈黙のモニュメント化が進むことを示した。 |