学位論文要旨



No 114879
著者(漢字) 大森,康伸
著者(英字)
著者(カナ) オオモリ,ヤスノブ
標題(和) 惑星大気観測のためのレイトレーシングを適用したコヒーレントシグナルアレイング
標題(洋)
報告番号 114879
報告番号 甲14879
学位授与日 2000.03.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4567号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣澤,春任
 東京大学 教授 桂井,誠
 東京大学 教授 高野,忠
 東京大学 教授 保立,和夫
 東京大学 教授 日高,邦彦
 東京大学 助教授 森川,博之
内容要旨

 本論文では,惑星大気内での伝搬路の屈折によって発生するドップラー周波数シフトをレイトレーシングによって推定して,受信信号のS/N比が低い場合においても受信周波数を補償し,効果的にアレイングを行うための手法についての研究結果を述べている.NASA(米国航空宇宙局)の惑星探査機ボイジャー2号(Voyager 2)が1989年に海王星を探査した際の電波オカルテーション観測データを用いて,この方法の適用と検証を行なっている.

 第1章では,本研究の研究の背景となった海王星観測とその観測の中で行なわれた電波オカルテーション観測について概略を解説する.また,本論文のあらましについて紹介する.

 第2章では,海王星の電波オカルテーション観測と,その初期の観測の結果について述べる.ここでは,日本の臼田,オーストラリアのキャンベラとパークスで受信された信号と受信局の諸元について述べ,各局で行われたオカルテーション観測について述べる.次に,この観測データを用いて行なわれたコヒーレントシグナルアレイングに関して,その原理と結果について述べる.一般に,複数のアンテナから受信された信号をコヒーレントに合成することによって,信号のS/N比を向上させることが可能であり,アンテナアレイングの様に個々のアンテナ素子が近接する場合は,位相差補償・制御と信号合成によって容易に実現する.本研究のコヒーレントシグナルアレイングで目指すものは,このアレイアンテナとは異なり,例えば日本とオーストラリアのように離れて位置する異なる受信局の受信信号の受信周波数,伝搬時間差,位相差を比較・解析し,受信周波数と位相差を補償してシグナルアレイングを行なうことである.過去の研究では,直線伝搬を仮定してドップラー周波数を推定し,周波数差を補償していた.この方法では惑星大気中を伝搬し探査機からの電波が屈折する場合には,送信波の出射方向などが変化するので,ドップラー周波数に偏差が生じ,周波数差の補償は不完全になる.そこで,補償できない周波数変移成分については,スペクトルから経験的に周波数推定と周波数補償をおこない,アレイング処理が行なわれていた.この様に従来の方法では,ドップラー周波数の周波数補償をスペクトルから周波数推定せねばならず,この推定結果の良否によってアレイングの成否が左右された.そこで,特に受信信号のS/N比が低い場合にはアレイングの性能が劣化し易いことについて述べ,この問題を解決することを目指して,レイトレーシングを用いたアレイングを提案することにした.

 第3章では,レイトレーシングを用いたアレイングに必要な惑星大気のモデリングについて論ずる.受信周波数(ドップラー周波数),伝搬時間差などの推定にレイトレーシングを適用する場合には,伝搬路上での屈折を模擬する必要があり,特に本研究において扱う海王星の大気中においては強い屈折が現れる.この屈折のシミュレーションのために必要とされる海王星の大気組成の垂直プロファイルは,ボイジャ-2号の電波オカルテーション観測から得られているものしかなく,特定緯度のものしか得られていない.そこで,その限られた惑星大気の観測データを外挿する手法を考案し,惑星の時点軸に対称で,惑星の偏平な形状を反映した大気モデルの構成を可能とした.外挿手法としては,海王星の重力ポテンシャルを求め,大気が静水圧平衡を満たして,等ポテンシャル面上では大気圧が一定であるという仮定をする方法を提案した.

 第4章では,第3章で構成した大気モデルを用いて伝搬路を推定するレイトレーシングの方法について論じている.最初に,不均質に分布する大気モデルを多層(layer)に分割し,各層は均質でその中では光線は直進し,層と層の境界では光線はスネルの法則に従って屈折するものとして扱い,伝搬路を推定する方法について検討した.この方法では,入射角に対する屈折角の変化が単純でなく,かつ不連続にもなり,精密な伝搬路の推定には不適切であることが明らかになった.そこで,この問題を克服するために,惑星大気の屈折率分布モデルに基づいて,微分方程式で表現される光線の方程式を元にして伝搬路を逐次的に追跡する方法を考案した.さらに,この手法を用いて探査機のドップラー周波数を求めて,その有効性を議論した.また,波長以下の精度で伝搬路長を求めるための正確な伝搬路推定のために,レイトレーシング時に,各計算ステップの設定が重要であることについても述べた.

 第5章では,第4章で提案したレイトレーシングを海王星最接近時のジオメトリに適用した.まず,地球,惑星,探査機の位置関係と逐次的な伝搬路推定の手順について説明した.次いで,レイトレーシングの繰り返し(iteration)によって伝搬路を効率的に推定する方法を論じた.更に,ドップラー周波数遷移を含む受信周波数を推定し,その精度の評価から手法の有効性について考察した.この結果,約10Hz程度の高精度なドップラー周波数推定結果が得られ,コヒーレントシグナルアレイングに必要な周波数推定精度を達成することが可能になった.

 第6章では,まず前半では,第5章で述べた方法で精密に推定した受信周波数を用いて,受信信号をベースバンドに変換し,2受信局の周波数差および位相差を除去し,アレイングする処理について述べた.この方法の検証にはボイジャー2号の海王星大気オカルテーション観測時のS-band(2.3GHz)の受信信号を用いた.アレイングの結果,理論計算通り,総じて約2dBのS/N比の向上が見られる結果を得た.後半ではレイトレーシングを活用して,ディフォーカシングと呼ばれる惑星大気を通過するビームが広がる現象のシミュレーションについて論じた.そして,このシミュレーションの結果と受信信号の信号強度を比較し,両者が同じ傾向を示し,惑星大気によるオカルテーション時の信号の減衰の主因はディフォーカシングであることが明らかにした.

 最後に,第7章では,本研究についての結論として,コヒーレントシグナルアレイングの研究結果を総括する.

審査要旨

 本論文は、「惑星大気観測のためのレイトレーシングを適用したコヒーレントシグナルアレイング」と題し、探査機からの送信電波を利用する惑星大気観測に関して、惑星大気内での伝搬路の推定にレイトレーシングを適用する新たな方法を提案し、それを地上局での受信信号のSN比の増大を図るコヒーレントシグナルアレイング等に適用した一連の研究の成果を述べたものでおって、7章からなる。

 第1章「序論」では、本研究の背景をなしている海王星の電波オカルテーション観測の概要を紹介すると共に、本論文のあらましを述べている。

 第2章は「惑星の電波科学観測」と題し、深宇宙探査機による惑星大気オカルテーション観測の原理と方法、及び米国の探査機ボイジャー2号による海王星の観測の概要とそこで行われたコヒーレントシグナルアレイングの試み、すなわち、地球上、大きく離れた二つの地上局で受信した周波数2.3GHz、および8.4GHzの信号をそれぞれ重ね合わせてSN比の増大を図るという試みについて紹介し、コヒーレントシグナルアレイングをより効果的なものとする上での課題、問題点を指摘、本研究においてレイトレーシングに着目するに至った経緯を論じている。

 第3章は「海王星大気モデルの作成」と題し、レイトレーシングを適用する上で必要となる惑星大気の屈折率分布モデルを、限られた大気観測データしか存在しないという制約のもとにそれを用いて推定する方法を論じている。具体的には、海王星に関して、唯一実在するデータであるボイジャー2号の特定緯度に関する観測データを利用し、それらを、大気の静水圧平衡の仮定のもとに、重力ポテンシャルの観測データを用いて、大気全体の屈折率分布へと外挿する方法を提案、その方法によって求めた海王星の大気モデルを提示している。

 第4章は「レイトレーシングの手法」と題し、伝搬路の推定に幾何光学を近似的に適用できる可能性を吟味した上で、大気を屈折率の異なる多数の層に分割し、スネルの法則に従って光線を追跡する方法と、大気を屈折率が滑らかに変わる連続媒質とみなし、微分方程式である光線の方程式を用いて伝搬路を逐次追跡する著者提案の方法、の二つについて論じている。前者はレイトレーシングの標準的な方法と見なせるものであるが、計算技術上、分割できる層数には限界があり、そこで起こる不連続的な振る舞いのために本課題への適用は不適切であることを示し、一方、後者ではその難点が避けられるとの予測の上で、惑星大気に適用するための理論式の導出と、惑星大気内で伝搬路を推定する手順に関する詳細な考察並びに評価を行い、実行可能なレイトレーシングの手法として提示している。

 第5章は「伝搬路推定」と題し、前章に述べられたレイトレーシング手法を応用して、惑星探査機から地球上の受信局までの伝搬路を推定し、ドップラー効果による受信周波数の偏移を計算する方法について述べている。その方法を海王星と地球局との間の伝搬に適用した結果はドップラー周波数偏移を約10Hzの精度で推定できることを示しており、コヒーレントシグナルアレイングを行う上で十分な精度の周波数推定が行えることを結論している。

 第6章「レイトレーシングによって得られた結果」では、ボイジャー2号の海王星会合時に受信された信号に実際にアレイングを施した結果と、惑星大気中の伝搬においてビームが空間的に拡がるディフォーカシングの解析にレイトレーシングを適用した結果について述べ、本論文に提案したレイトレーシングの手法が有効に機能することを確認している。

 第7章「結論」では、主要な成果のまとめを行っている。

 以上これを要するに、本論文は、深宇宙探査機からの送信電波を利用した惑星大気観測技術に関して、レイトレーシングを適用して惑星大気内での伝搬路を推定する方法を提案し、複数地上局での受信信号のコヒーレントシグナルアレイング、およびディフォーカシングの解析等に適用してその有効性を示したものであって、電気通信工学上貢献するところが少なくない。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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