学位論文要旨



No 114883
著者(漢字) 増井,大
著者(英字)
著者(カナ) マスイ,ダイ
標題(和) 架橋硫黄配位子を含む遷移金属多核錯体の合成と反応性
標題(洋) Preparation and Reactivities of Multinuclear Transition Metal Complexes Containing Bridging Sulfur Ligands
報告番号 114883
報告番号 甲14883
学位授与日 2000.03.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4571号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 干鯛,眞信
 東京大学 教授 相田,卓三
 東京大学 助教授 橋本,幸彦
 東京大学 助教授 八代,盛夫
 東京大学 助教授 石井,洋一
内容要旨

 硫黄配位子はその多様な金属間架橋能のため多様な遷移金属多核錯体を形成することが知られている。それら硫黄架橋多核錯体は,自然界では酵素中に例えば鉄-硫黄多核錯体としてその構造が見られること,あるいは不均一系脱硫触媒の活性中心のモデル化合物として考えられることから,その合成や反応性は近年注目されている。一方,均一系金属錯体触媒を用いた有機合成は広く研究されているが,そのほとんどが単核の錯体を触媒として用いており,多核錯体を触媒として用いた反応の報告はまだ限られている。単核錯体触媒の中でも,ルテニウム,ロジウム,イリジウム,白金,パラジウムなどの8-10族貴金属元素は盛んに研究されており,それらの金属元素を組み合わせた多核錯体の反応性には興味が持たれる。そこで本研究では架橋硫黄配位子を含む種々の遷移金属多核錯体の合成と反応性,とりわけそれらを用いた触媒反応の検討を行なった。

 第一章では、硫黄架橋多核錯体を反応場として選ぶにあたり、多核錯体上での基質の活性化および硫黄架橋多核錯体の合成法について、その特徴・利点を交えて記述した。また、硫黄架橋多核錯体にとって関連深いとされる、酵素あるいは工業的に用いられる触媒についても触れ、本研究の意義・目的・位置づけを述べた。

 第二章では、ルテニウム二核チオラート架橋錯体を触媒として用いた末端アルキンに対する特異的な触媒的変換反応を扱った。この研究に先だって、2-プロパンチオラート架橋カチオン性錯体がフェロセニルアセチレンと反応して二核ブテニニル架橋錯体を与え,これが更にフェロセニルアセチレンを触媒的に二量化・三量化することが当研究室において見出されていた。この反応で見られるような末端アルキンの二量化反応はエンイン類の合成法として注目され,さまざまな触媒の開発が盛んに行われているが,実際に直鎖脂肪族アルキンを含む種々のアセチレンに対してhead-to-head Z選択的にエンインを与える触媒はほとんど報告されていない。この二核錯体は,複数の活性サイトが協調的に基質を活性化し,さらにその構造によって選択性を制御するという多核錯体触媒ならではの特徴を有するものの,有効な基質はフェロセニルアセチレンに限られていた。そこで本研究では、この二核錯体を足がかりに,より広い範囲の末端アルキンの触媒的二量化反応へ適用できる多核錯体触媒の探索を目指した。

 その結果、直鎖末端アルキンとして1-オクチンを基質に用いた場合、従来のイソプロビルチオラート架橋二核錯体は活性を示さなかったが、架橋チオラート配位子のアルキル部分をイソプロピル基にかえてメチル基としたメタンチオラート架橋二核錯体を触媒とし,メタノール中で反応させることにより,head-to-head Z二量体が高い収率で生成することを見出した。さらに錯体に対し2当量のテトラフルオロホウ酸アンモニウムを添加剤として加えることにより,生成物の収率が向上することがわかった。なお,これらの場合に三量体などが副生しないことも確認している。この二核錯体は、直鎖アルキル基上にクロロ,ヒドロキシ,エステル等の置換基を持った末端アルキンに対しても高選択的にhead-to-head Z二量体を生成物として与えることから、本反応は合成化学的にも有用である。

 さらに錯体上の架橋チオラート配位子のアルキル鎖がエチル,プロピルの二核錯体についても1-オクチンを基質としてhead-to-head Z二量化反応に対する触媒活性を調べたところ,いずれもメタンチオラートを架橋配位子として持つ錯体と比べて遜色ない活性を示した。2-プロパンチオラート架橋の錯体が事実上触媒活性を持たないことと比較して、チオラート上のアルキル置換基のうち,炭素が一級であることが反応性をほぼ決定していることがわかった。また、錯体の回収実験において添加物を加えない系では高収率で元の錯体を回収し、添加物を加えた系でも元の錯体および系中で発生したと考えられるカチオン性の錯体を回収した。これらの事実と、類似の2-プロパンチオール架橋カチオン性錯体を用いた,フェロセニルアセチレンの二量化・三量化反応ではブテニニル架橋錯体を経由して反応が進行していることから,今回見出した系においても錯体は二核構造を保ったまま,ブテニニル架橋錯体を経由して,反応が進行していると考えている。

 第三章では、ヒドロフルフィド架橋二核イリジウム錯体から合成される、パラジウム-イリジウムおよび白金-イリジウムを含む三核錯体についての研究を記述した。当研究室で既に合成されているパラジウム1原子,モリブデン3原子,硫黄4原子からなる立方体型の構造を有するキュバン型錯体は,プロピオール酸メチルなどの活性アルキン類へのアルコール付加反応において高選択性・高活性を示すことが知られているものの,電子吸引基を持たない不活性アルキンに対しては活性を示さないことが知られていた。このキュバン型錯体の反応サイトはパラジウムにあると考えられていることから,パラジウム原子が他の硫黄架橋多核錯体骨格に埋め込まれた錯体を用いれば,不活性アルキンに対する反応性を示す可能性があると考えた。

 まず、ヒドロスルフィド架橋二核錯体から簡便に合成されるイリジウム2原子,パラジウム1原子,硫黄2原子からなるコアを持つ三核錯体を用いて,不活性アルキンの触媒的反応を検討したところ、基質として内部アルキンである1-フェニル-1-プロピンを用いたところ,Markovnikov型の付加物はほとんど生成せず,anti-Markovnikov型の付加物を98:2の高選択性で与えることが見出された。内部不活性アルキンへの触媒的アルコール付加反応は少数の例しか知られておらず,今回見出されたような内部アリールアルキンへのanti-Markovnikov型付加を高選択的に行う例はないことから、他の基質に対する反応性をさらに検討したところ、基質のフェニル環上に電子供与性基を導入した場合にのみ選択性の低下がみられたものの、その他の基質に対しては良好な選択性でanti-Markovnikov型の生成物を与えた。興味深いことにパラジウムにかえて白金を含む三核錯体では,反応は進行するものの選択性のみが74:26と低下した。また、今回用いた三核錯体の原料となるヒドロスルフィド架橋二核イリジウム錯体とパラジウム錯体の両方を用いる系において、若干選択性が劣るものの高いanti-Markovnikov選択性がみられたことは、多核錯体の合成・単離を経ない、より簡便な多核錯体の使用法を示したと言える。本反応は硫黄架橋多核錯体を用いて始めて実現される反応性として興味深い。

 このような興味深い反応性を示すパラジウム-イリジウム三核錯体およびその類似錯体である白金-イリジウム三核錯体の反応性も検討した。それぞれの三核錯体とdppe配位子とを反応させることにより、良好な単結晶を得て、X線構造解析によりその構造を明らかにし、従来知られていたトリフェニルホスフィンとの反応性と異なり容易にジカチオン性錯体を与えることを示した。さらに、一酸化炭素との反応やXPS測定も行い、錯体中のパラジウム原子が2価としては電子豊富な状態にあることがわかった。

 第四章では四核キュバン型錯体についての研究を述べた。パラジウム-モリブデンを含むキュバン型錯体は電子求引性基を持つ活性アルキンに対するアルコール付加反応を触媒することから、パラジウム-モリブデンを含むキュバン型錯体のパラジウムを白金にかえた錯体の合成と反応性には興味が持たれる。

 硫黄架橋混合金属キュバン型錯体の合理的合成法として、不完全キュバン型三核錯体と金属単体との反応が知られており、パラジウム-モリブデンを含むキュバン型錯体も原料となるモリブデン三核錯体とパラジウム単体との反応によって合成されるが,白金単体を用いた同様の方法では,白金を含むキュバン型錯体が合成できないことが知られていた。今回、ビス(ジベンジリデン)白金錯体を白金源としてメタノール中で反応を行ったところ褐色粉末がえられ,これらを1,2-ビス(ジフェニルホスフィノ)エタン配位子(以下dppeと略)誘導体として同定し,その構造をX線構造解析あるいはNMRによって明らかにした。まず、3分子のdppe配位子をもつ非イオン性のキュバン型錯体は、得られた単結晶をX線構造解析することにより,各モリブデン上にdppe配位子をもち,白金1原子,モリブデン3原子,硫黄4原子からなるキュバン型の骨格をもつことを明らかにした。また,当研究室で既に合成されているモリブデン上にトリアミン配位子をもつパラジウム-モリブデンキュバン型錯体との比較では,白金-モリブデン間がパラジウム-モリブデン間よりやや短くなっているなどの差はあるものの,全体としてコア部分の距離・角度はモリブデン上の配位子や電荷が大きく異なるにもかかわらず近い値を示したことは興味深い。4分子のdppe配位子をもつカチオン性キュバン型錯体についても合成に成功し、この錯体と先の非イオン性キュバン型錯体は,ともにリンNMRによりその構造を議論し,カチオン性キュバン型錯体においてもキュバン型骨格を持ち,白金原子上に単座配位のdppe配位子をもつことを明らかにした。さらに、これらの類似錯体としてパラジウム-モリブデン錯体およびニッケル-モリブデン錯体に関してもdppe配位子を有する錯体の合成を行った。

 白金-モリブデンを含むキュバン型錯体は白金原子上に塩素配位子もしくはホスフィン配位子を持つものが合成されたが、一酸化炭素やモノホスフィンとの配位子置換反応に対して不活性であることが明らかとなった、またパラジウム-モリブデン錯体が触媒する電子吸引性基をもつアルキンへのアルコール付加反応に対しても不活性であった。類似のニッケル-モリブデン錯体やパラジウム-モリブデン錯体も、それぞれ同様の配位子置換反応や触媒反応に対して不活性であることが示された。X線構造解析がなされた白金-モリブデン錯体についてはファンデルワールス半径を考慮した分子モデルによって、その反応性が配位子の立体障害によるものでないことを示した。よって、これらの反応性は、モリブデン上に配位したdppe配位子や塩素配位子が、錯体骨格を通して白金やパラジウム、ニッケルに影響した結果であると考えられる。

 最後に、第五章としてこれら二核から四核の硫黄架橋遷移金属多核錯体を用いた研究にたいする総括と展望を記述した。

審査要旨

 硫黄配位子はその高い金属間架橋能により多様な遷移金属多核錯体を形成することが知られている。それら硫黄架橋多核錯体は,自然界では酵素中に例えば鉄-硫黄多核錯体としてその構造が見られること,あるいは不均一系脱硫触媒の活性中心のモデル化合物として考えられることから,その合成や反応性は近年注目されている。一方,均一系金属錯体触媒を用いた有機合成は広く研究されているが,そのほとんどが単核の錯体を触媒として用いており,多核錯体を触媒として用いた反応の報告はまだ限られている。特に,8-10族貴金属元素の錯体にはさまざまな触媒活性が知られていることから,それらの金属元素をさらに組み合わせた多核錯体の反応性には興味が持たれる。このような背景から,本論文では貴金属元素を含んだ二核から四核の硫黄架橋遷移金属多核錯体に着目し,そのような錯体の合理的合成と反応性の検討,とりわけそれらを均一系触媒として用いる特異な触媒反応の開発を目指した研究が行なわれた。

 第一章は序論であり,本論文での研究の背景となる多核錯体上での基質の活性化における特長,および硫黄を架橋原子として含む多核錯体の合理的合成の現状について述べ,本論文の目的を示している。

 第二章では,これまで研究されてきたルテニウム二核チオラート架橋錯体を改変することにより,各種の末端アルキン類のhead-to-head Z選択的な二量化反応に有効な触媒を開発した結果を述べている。すなわち,2-プロパンチオラート架橋をもつカチオン性二核ルテニウム錯体がフェロセニルアセチレンと反応して二核ブテニニル架橋錯体を与え,これが更にフェロセニルアセチレンを触媒的に二量化・三量化するという従来の知見をふまえ,架橋チオラート配位子のアルキル鎖をイソプロピル基からメチル,エチル,プロピル基へと変えることにより,種々のアルキン類とりわけ官能基を持った直鎖脂肪族末端アルキン類に対してhead-to-head Z選択的な二量化を行なえる触媒の開発に成功した。従来,直鎖脂肪族アルキンに対してhead-to-head Z選択的にエンインを与える触媒はほとんど報告されておらず,本反応は適用可能な基質の種類が幅広くかつ高い選択性を示すことから,有機合成的見地からも有用であることが示されている。

 第三章では,イリジウムおよびパラジウムを含む硫黄架橋三核錯体を触媒として用いた内部アリールアルキン類へのアルコールの付加反応について述べている。すなわち,1-フェニル-1-プロピン等の内部1-アリールアルキン類へのアルコールの付加反応に対し,硫黄架橋を持ったイリジウム-パラジウム混合金属三核錯体が活性を示し,反マルコフニコフ付加物にあたるケタールを高い位置選択性で与えることを見出した。電子吸引性基を持たないアルキン類への触媒的なアルコールの付加反応にはごく少数の報告しかなされておらず,さらに本反応で見られる高い反マルコフニコフ選択性を示すものは知られていない。また,パラジウムのみ,あるいはイリジウムのみを含む錯体では本反応は行いがたいことから,イリジウムとパラジウムからなる三核構造が特異的に本反応に有効であることを示した。さらに,触媒に用いた三核錯体について誘導体を合成してX線構造解析を含めた同定を行ない,またXPS測定により三核錯体中のパラジウム原子が2価としては特に電子豊富な状態であることを明らかにしている。単核を含む従来の錯体触媒では達成できない反応性を,硫黄架橋混合金属多核錯体を触媒として用いることによって実現した点で本研究は興味深い。

 第四章では,モリブデンと白金を含むキュバン型骨格を有する錯体の合成とその反応性の検討結果を述べている。モリブデン3原子,硫黄4原子からなるいわゆる不完全キュバン骨格を有する錯体への異種金属元素の取り込みは従来単体金属などを用いて検討され,モリブデン-パラジウムクラスターなどが合成されてきた。本研究では白金源として低原子価白金錯体であるビス(ジベンザルアセトン)白金錯体を用いることにより,新たにモリブデン-白金キュバン型クラスターを合成することに成功した。この新規クラスターはジホスフィン誘導体としてその分子構造を明らかにするとともに,リン31 NMRスペクトルの詳細な検討を行ない,対応するモリブデン-ニッケル,モリブデン-パラジウムクラスターのジホスフィン誘導体とあわせてその同定を行なった。また,これらのホスフィンを含むクラスターの反応性を検討し,モリブデン上の配位子が白金中心の反応性に大きな影響を与えることを示した。本研究では合理的手法により新規なクラスター骨格を合成することに成功しており,多核錯体の合成に有効な方法を提供するものである。

 第五章では,二から四章において明らかにされた硫黄架橋遷移金属錯体上での特異な触媒反応,および多核錯体の合成を総括しその展望を述べている。

 以上のように,本論文では硫黄架橋遷移金属多核錯体の合理的な合成法を開発するとともに,従来の単核錯体触媒では行なえない反応が硫黄架橋多核錯体を触媒とすることにより達成できることを明らかにした。これらの結果は有機金属化学及び有機合成化学の発展に寄与するものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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