学位論文要旨



No 114892
著者(漢字) 凃,玉盞
著者(英字)
著者(カナ) トゥ,ユィチャン
標題(和) 証空の浄土教研究
標題(洋)
報告番号 114892
報告番号 甲14892
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第278号
研究科 人文社会系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 教授 木村,清孝
 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 助教授 下田,正弘
 東京大学 教授 丘山,新
内容要旨

 本論文は証空(1177-1247)の教学思想の解明を目的とするが、彼の教学思想の展開過程である初・中・晩の三期にそれぞれ生み出された『自筆鈔』、『他筆鈔』、『積学鈔』の三鈔を主たる考察対象とする。それによって証空が善導の教学を受けとめて自己の教学を構築していった軌跡を提示することを、論述の方法としたい。

 証空は、善導『観経疏』「玄義分」をめぐって、一代教法の法門分類(教判論)、衆生の存在相(機根論)、『観経』の二尊教、衆生の得益(証得往生)という課題を主として論じている。まず、一代教法の法門分類について、『自筆鈔』では行門・観門・弘願という三の分類を設けて、調機の次第で言えば、自力行門の機が他力観門へと導かれ、最後は弘願に帰するとし、教法の次第で言えば、逆に一切の根源である弘願から観門が開かれ、さらに方便の行門が展開される、と把握される。『他筆鈔』になると、顕行・示観(行門・観門に当たる)、正因・正行(弘願に相当する)という独自の概念が用いられ、『積学鈔』では、前の二鈔の用語を融合的に用いて解釈が進められている。

 機根論について見るならば、証空にとって、仏性とは仏と衆生との交接点である。証空は、弘願の体から理性の弥陀をたてて仏性と称し、すべての衆生に遍満していると考えるのであるが、能化の仏と所化の衆生との差別はない、とする。

 『観経』の二尊教については、証空は『観経』の「観」字に釈尊・弥陀二尊による教化を説く経典であることが示されていると考える。法を説く側の釈尊からいうと、「観」は能詮の義であり、釈尊は能詮の観仏である。そして説示される内容は「観」に収められた無量寿仏の弘願の体(仏体)であり、弘願は所詮の念仏である。法を受ける衆生の側からいうと「観」は領解の心であり、三心である。

 『観経』は「序分」においてすでに「一経の本意」を予説しているとする証空は、それが特に欣浄縁の密益に託されていると理解している。つまり、法の発起とされる欣浄・顕行・示観の三縁の最初である欣浄縁に込められた「密」益は、続く顕行縁で釈尊が散善を自開し、さらに示観縁で韋提希に「汝是凡夫」と諭すことをよって、機に凡夫としての自覚(自分が凡夫であると信ずる心)が生じ、これにより他力観門(示観)の仏意が領解され、衆生往生の行は弥陀の弘願であるという欣浄縁の「密」益が顕らかになるのである。

 また、証空は顕行縁の経文「広説衆譬」に、往生の行である弘願の体(所詮の念仏)を説き顕わす能詮の義を読みとる。この弘願の体こそが往生の行であるという証空の見地からすると、諸経及び『観経』の文面に説かれるあらゆる善(衆生の行)は往生の行ではない。『観経』で散善が説かれることによって顕らかになるのは弘願の体としての往生の行なのである。つまり、散善とは弘願の体、すなわち仏体としての念仏を説く教なのである。そして示観とは、釈尊の側には弥陀の弘願を説示すること、能詮であり、衆生の側にはその説示を領解し、三心を発し、往生の決定を得る深信である、という。

 『観経』の中心となるのは十六観よりなる観法であるが、証空は十六観の「観」を「観門」と理解する。この観は仏智であり、それが言葉として顕われたのが十六観の佛語である。このような他力能詮の佛語(観)は修行の方法ではなく、弘願の体を説き顕わす能詮であり、したがって定善の十三観は弥陀の依正二報の功徳を説き顕わしている、と主張される。

 証空によれば、散善の三観は弥陀の利生を顕わしている。散善を論ずる過程で明らかとなったことは、以下の五つにまとめることができる。

 (1)散善の要である三福・九品はともに弘願を説き顕わす能詮である。

 (2)三心釈。凡夫が発する三心は行を浄めるから雑善・雑行の失がなくなり、諸行はすべて往生の助業である正行となる。したがって、二心を領解すること(=発すること)によって弥陀に帰し、往生が決定する。

 (4)念仏。『観経』の念仏とは阿弥陀仏に帰命することであるが、念声是一に先立って三心具足の帰命(信心)が要求される。また、仏体は衆生の往生行である。

 (5)証空は證得往生から即便往生と当得往生との二種往生説を立てる。すなわち平生の往生を即便往生と名付け、臨終時の来迎を伴う往生を当得往生と呼び、一人の念仏者の上にこれら二つの往生を説くのである。

 以上が本論文の概容であるが、善導や法然の思想を忠実に継承しようと努めつつも、「道理」、「義」、「文証」の三つ及びそれらの相互関係を重視し、思考の筋道とその実証を重んじる証空は、結果的に独自の思索を進めて、多くの特徴をもつ教学体系を築いたのであるが、一人の凡夫が釈尊の能詮によって領解し(三心を発して)弘願に帰することによって弥陀の救済に与かる、という思想は、証空の生涯に一貫しているのである。

審査要旨

 日本の浄土教は鎌倉時代に法然が出て新たな進展を迎えた。法然自身は専修念仏を確立したが、必ずしも理論的に十分に展開したとは言えなかった。そこで、理論的な充実が法然門下の課題となった。とりわけ、証空・隆寛・親鸞らは他力を強調し、法然を一歩進める新しい発展へと進んだ。しかし、親鸞に関しては研究が進んでいるものの、証空・隆寛らの研究は、その重要性にもかかわらずきわめて遅れている。

 氏の博士論文は、証空の思想の全面的な解明に挑んだものである。証空は著作も多く、特殊な術語を駆使しているだけに、その解明はきわめて困難が大きい。氏は善導の『観無量寿経疏』に対する証空の三つの注釈書を比較対照するという方法を用いた。善導の『観無量寿経疏』は法然、及びその門下によって、もっとも拠りどころとされたものであり、その解釈の相違によって諸説が分かれるところであるから、氏の方法はきわめて適切なものである。また、氏が用いた三つの注釈書のうち、『自筆鈔』『他筆鈔』は一応従来翻刻されているが、『積学鈔』は写本のみでいまだ翻刻がないために、ほとんど研究がなされていない。氏はその難解な写本を全面的に解読し、基本資料として用いているが、これはまさに画期的な業績である。

 氏の論文は全五章よりなる。それは『観経疏』の構成に基づくもので、第一、二章では『観経疏』の玄義分、第三章は序分義、第四章は定善義、第五章は散善義を扱っている。特に氏が力を入れて解明したのは玄義分であるが、これは玄義分が総論に当り、基本的な問題を扱っているためで、妥当なところである。氏の分析は非常に緻密であり、証空の著作中で論じられている問題を詳細に検討している。例えば、もっとも早い時期の『自筆鈔』では、法門の分類に行門・観門・弘願という分類が用いられていたのが、『他筆鈔』では、顕行・示観、正因・正行という二組の概念に変わり、さらにそれが『積学鈔』では、前二書の概念を融合的に用いているという指摘など、きわめて注目される。

 本論文はこのように大きな成果を挙げているものの、なお欠点がないわけではない。とりわけせっかく証空の三つの注釈書を比較しながら、そこに明白な展開を描き得ていないのは残念である。そのために論述が煩瑣になって、氏自身の解明したポイントが分かりにくい。また、証空以外の隆寛や親鸞との比較も不可欠である。しかし、これらの不十分な点を今後の課題として残しつつも、本論文は博士号を授与するのに十分にふさわしい成果であると考える。

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