本論文は、南アメリカ大陸北部に位置するベネズエラ共和国カリブ海岸地方の港町プエルトカベージョ市サンミジャン地区におけるアフロ系文化復興運動を、文化人類学の手法を基本としながら、歴史学および政治学の手法を加味して分析した力作である。現在の文化人類学においては、かつて行われた未開社会の社会文化の全体像を分析する民族誌学的研究から、境界が明らかでない民俗社会の構成、民俗文化運動の分析へと対象をシフトしてきた。そして、以前のような社会の閉鎖性を前提にしたミクロな社会分析のみに対象を限定することは不可能となり、国家や世界体制をも視野に入れたマクロな分析も必要となってきた。研究手法も狭義の民族誌学的手法と、隣接学問分野の手法を加えて行われる分析手法の有効性が認められつつある。 本論文は、このような研究動向に沿った形で実施された調査研究の成果である。サンミジャン地区における現地調査は、1996年から1999年まで断続的に実施され、以下の2つの課題すなわち、「かつて社会的劣等感を持ったコミュニティが、民俗文化を全国市場に投影することによってポジティブな文化的自画像を構築するに至る成功過程を、地域社会の現代史として記述すること」および、前記の記述を「ベネズエラの政治・経済のマクロ情報のなかに位置づけ解釈しなおすこと」に応えることである。 本論文は、「はじめに」、第I部、第II部、第III部、結論、エピローグ、資料篇、参考文献、からなる。また、第I部は第1章〜第2章、第II部は第3章〜第7章、第III部は第8章〜第12章に分けられている。本文A4版198頁(脚注、写真、図版等を含む)、資料編26頁、参考文献表10頁からなるが、論文には著者が撮影した映像資料・音響資料が、編集されたビデオテープ及びCDの形で参考資料として添付されており、本文に収録された写真とともに、研究対象についての理解を容易にしている。 在学年限短縮に対する特別審査であるため、まず本論文の内容について通常より詳しく紹介しておくことにしたい。論文の概要は以下のとおりである。 「はじめに」では、全体を貫く理論的視座を簡潔にまとめている。最近の文化人類学研究において頻繁に取り上げられるようになった「文化の客体化」から出発し、これまたしばしば文化人類学者の口にのぼる「文化の政治性」の問題へと考察を発展させている。文化の客体化の問題はすぐさま「主体」「イメージ」「アイデンティティ」といった概念を呼び出すものであるが、筆者は「ナショナル・エリート」「ローカル・エリート」「普通の人々」など様々なレベルの主体が相互に影響しあうなかでアイデンティティが構築されていく過程を重視し、こうした主体同士の相互関係が織りなす文脈を丹念に読み解いていこうとする方向性を示している。 第I部は、本論文の中心的な研究対象であるサンミジャン民俗文化救済会成立の背景を記述している部分である。まず、第1章「アフロ系ベネズエラの捉えにくい民族境界」では、ベネズエラにおけるアフロ系社会文化の位置を明らかにしている。すなわち、同国のアフロ系の人々は、自分たちのことを自ら「カフェ・コン・レーチェ(ミルクコーヒー)」と表現するように、混血の度合いも進んでいて、ひとつの「民族」として境界をさだめることができないものであることを筆者は強調している。しかし同時に、アフロ性が「混血のクリオージョ」という「ナショナル・アイデンティティ」を支えるものとなり、これをまた支える文化的要素としての「タンボール」が重要性を持つ点についても指摘している。 第2章「民族誌的背景」では、プエルトカベージョ市およびサンミジャン地区の歴史的・社会的背景が簡潔に記述されている。そこでは首都カラカスの西部に位置する中規模の地方港湾都市プエルロカベージョを中心部(筆者の言葉では「堀の内」)と周縁地区(「川向こう」)に大別し、かつては中心部と貧困な周辺地区という形で明瞭に存在した両者の区分が次第に有名無実化するのにともなって、サンミジャンの人々が逆に自らの文化的劣等感を意識していく過程が、色鮮やかに描写されている。 第II部は《港町/バリオ/タンボール》と題され、サンミジャン民俗文化救済会のミクロな分析が展開されている。第3章「民俗へのまなざし」では、サンミジャンにおけるアフロ系民俗芸能の歴史が叙述されている。1940年代から国民文化の中でアフロベネズエラ文化は評価され始め、50年代後半からは国家による振興政策の対象となった後、60年代の石油ブームなどの影響を経て、70年代後半にはアフロ系芸能の「文化による生産」「メディアによる流通」「大衆による消費」が定着する時代が到来した。そして筆者は、ベネズエラ中央海岸地帯において都市化とともに衰微しつつあったアフリカ系祭礼芸能は、「再活性化」したのであり、サンミジャンに興った文化運動もこうした文脈の中で理解されるとしている。 第4章「復興という名の文化創造」では、サンミジャン民俗文化救済会の旗揚げに続く、運動の勃興期について記述されている。同会はヘルマン・ビジャヌエバを指導者として結成され、「伝統芸能の復興」「太鼓芸能を通じた青少年の非行防止」「地域芸能の全国的普及」を目標に掲げて活動を開始した。同会は次第にプエルトカベージョ民俗文化の中核と位置づけられるまでになり、数々の文化賞を受賞するようになったが、同会の運動は地域文化を革新する近代化路線を特徴とし、民主的共同原理に基づいたものであったと筆者は評価している。組織は、票決による意思決定、執行部の互選といった民主的行動原理に基づいていた一方、責任分担制と目標達成主義、規律の徹底、暴力の排除など品行の確立を希求する組織文化を持っていたとするのである。 第5章「バリオの再帰的近代」では、これまでの近代主義的特徴に一見反する1980年代初めからの運動の流れについて述べられている。すなわち、スポンサー契約やレコード制作をめぐる文化産業との対立、それに起因する商業主義への不信、宗教性の増大がめだってくると筆者は述べる。そして、この過程で「信仰に奉仕する芸能者」というアイデンティティが浮上し、かつて「逸脱者」とみなされた人々が、「新しい伝統観」の中心的価値を担うものとして語られて行くというのである。 第6章「文化復興の思想」では、ヘルマン・ビジャヌエバによる民俗文化復興思想の理念について語られる。筆者によれば、ビジャヌエバはサンミジャン民俗文化を全国の文化市場に普及させるために、「黒人系民俗文化」「ルーツとしての黒人奴隷」という既成の「名付け」を進んで受け入れ積極的に利用したが、具体的な「われわれ集団」に対しては、「黒人」を「サンミジャン住民」「プエルトガベージョ市民」という国民マジョリティを指す無徴の記号をもって置き換える。それは、既成のレッテルを利用しつつ国民文化市場の中で黒人系文化の担い手としての地位を確立するための正統性獲得戦略、すなわち「イメージの政治学」であると筆者は解釈する。 第7章「血・パフォーマンス・自己実現」では、第I部のしめくくりとして、「黒人であること」とは何を意味するかについての「現地の普通の人々」の視点からの解釈を呈示している。筆者によれば、サンミジャンの人々は伝統的祝祭から現代的舞台公演にいたる民俗文化の諸相をひとつの体系的理解、すなわち、一連の肯定的価値を生み出す舞台芸能は、聖人祭における太鼓の宴から派生したものであり、その中核には聖人信仰が不可欠であるという理解を共有しているという。ここに見られる「現代的メディアを包摂した伝統文化観」を、筆者はこの文化運動が構築した最も独創的な価値であると評価する。 第III部《文化/政治、政治/文化》で筆者は、第II部において記述されたような展開をみせたサンミジャンの文化運動を、現代ベネズエラ政治のマクロな枠組みの中に位置づけ直そうとする。第8章「『石油国家』の近代化とベネズエラ型民主主義」では、20世紀ベネズエラの政治・経済・社会が手際よくまとめられている。筆者にしたがえば、ベネズエラの近代化は石油レントを原資として達成され、レントへの依存体質は市民社会やブルジョア層の成長を遅らせ、強力な中央集権国家の構築を招いた。そして、ベネズエラ国家の最大の関心事項は「いかにして多くのレントを取り込み、それをいかに配分するか」という問題であったが、また同時にレントへの依存からの脱却が経済ナショナリズムにおける最大の課題となった。また政治の面では、ベネズエラの「民主主義」は政党エリート間の妥協に基づくポピュリスト的なものであり、「見返り」と表裏一体であるこの妥協(協定)は巨大なクライアンテリズムのヒエラルキー構造を生み出した。そして現在、レント依存経済が破綻したとき、協定民主主義の構造的矛盾が一気に噴出・露呈したのだと筆者は結論づけている。 第9章「民俗文化と新左翼-国民アイデンティティの救済思想」では、1970年代末からのベネズエラにおける新左翼政治運動と文化運動のつながりについて論じている。前章で描写された石油ブームによる経済活況と協定民主主義による政治的安定の時代は、筆者によれば、疎外された諸勢力からの異議申し立ての時期でもあり、文化的エリートによる文化変容への批判が表出した時代でもある。これは、「国民アイデンティティの救済思想」と呼ばれている。そして、新左翼的な運動家を取り込んだペレス政権下において民俗文化復興運動は「救済思想」の下、文化政策と接合していくのだと筆者は分析している。 第10章「サンミジャン文化運動の群像-文化と政治を結んだ人々」では、サンミジャン民俗文化救済会と外部世界との接合に大きな役割を果たした中間リーダーたちの活動を分析している。同会の指導者ビジャヌエバは、地域の枠組みを超えた活動機会を運動の発展に確実に結びつけてきたが、その成功は、筆者によれば、彼と外部世界を媒介し運動の価値を同時代の政治と社会の文脈に位置づけるブレーンの存在に負うところが大きかった。筆者はその中心となった2人の人物を追うと同時に、外部の価値観が流入することによって生じた運動内部の権力構造の変化にも言及している。 第11章「2つの事件」では、1980年代後半から90年代にかけてサンミジャンに起こった2つの重大事件である油脂工場立ち退き事件とサンミジャン太鼓会館の建設が扱われている。サンミジャン地区に隣接していた油脂工場を立ち退かせた事件と、太鼓会館の建設においてビジャヌエバは大きな役割を果たしたが、この2つの事件において外部エリートの仲介によって目標を達成するという形で運動を展開し、一般地域住民の参加チャンネルを開かなかったと筆者は分析している。そして、これらの運動を通してビジャヌエバが特定の政治家との関係を深めていったことが、次章で述べられる彼の失墜を招くことになったと語られている。 本論の最後を飾る第12章「『真実』を暴く儀礼」では、ビジャヌエバの権威の失墜と内部からの造反について語られている。彼は、1999年3月にプエルトガベージョ市役所員の地位を解任され、サンミジャンにおいてもビジャヌエバとは違う形で地域自治会を発足させようとした動きが表面化した。これらの造反メンバーはかつて彼と共に運動を進めた人々であり、それ後ビジャヌエバが民俗文化救済会を地域から切り離し、商業的に活動するグループとして再編成する決意を表明する場面で、本論は終わっている。 最後の「結論 周縁における民主主義とアイデンティティ構築」では、以下のように結論づけられている。ビジャヌエバが提唱したサンミジャンの文化運動は大きな成果を収め、サンミジャンの名はプエルトカベージョ地域文化の代名詞となり、地域の若者はタンボールを通じて他に替えがたい自己実現の可能性を得たのである。しかしながら、すべてのアイデンティティ構築運動は、集団内部の多様な声を抑圧する側面を持っている。サンミジャンの内部では民族意識や歴史意識に都市コミュニティならではの多様性があるにもかかわらず、ビジャヌエバは「我々はかつて抑圧されたネグロである」という言説しか呈示できなかった。曖昧な境界を持つアフロベネズエラのエスニシティの特性ゆえに、第三者から見て肌の色の白い個人までがビジャヌエバの提唱する運動に自己同一化し、さらには「肌の色は明るくても、身体のなかにいつもタンボールの血が流れているから、私はネグロだ」という「文化的ネグロ」まで生み出すに至った。このような混血のアイデンティティと「ネグロ」概念の多義性を巧みに利用したビジャヌエバであったが、1990年代末、その状況にも変化が顕れはじめた。 第1に、ミクロな状況の変化がある。地域社会内部には「タンボールだけがサンミジャンの文化ではない」という多様性への主張が顕在化した。第2に、マクロな民族状況の変化がある。石油経済で潤い民政が継続した過去40年間のベネズエラには、世界各地から移民が殺到した。一世から三世までを含めた新移民コミュニティすなわち「バイナショナル=バイカルチュラル」集団は、総人口の42%を占めるという。つまり、ベネズエラはアメリカ合衆国的な多民族国家になりつつあるというのである。90年代の政治的・経済的不安定情勢の下、新移民の中には急速に民族自律意識を強めた集団があり、このような集団のメンバーを当事者とした様々な社会的紛争が「民族問題」として語られる例が報告されている。また、これまでクリオージョ社会に溶け込んでいたかに見えた多くの先住民コミュニティが1992年を契機にベネズエラにおいても続々と「民族」の名乗りをあげた。先住民コミュニティは1999年の制憲議会選挙で初めて民族マイノリティとして議席を獲得し、クリオージョのヘゲモニーに異議を唱え、多文化政策を要求しはじめている。こうした社会状況を再び問いなおし地域社会に対して新たなオルタネイティブを呈示できなかったビジャヌエバの地域文化運動は、その発展の限界に到達したのである。 そして最後にエピローグとして、サンミジャン太鼓会がカラボボ州の文化財として認定された事実を記し、記念祝典の盛り上がりを描写して全編を締めくくっている。 以下、本論文に対する審査委員会の評価を述べる。 本論文の意義は以下の4点にまとめることができる。 まず第一に、長期間のフィールドワークおいて集積された多くの実証データにもとづいたミクロレベルの文化人類学的研究と、意欲的な理論への探求に基づくマクロレベルの政治経済学的研究を組み合わせることによって、サンミジャン民俗文化救済会の全体像や、プエルトカベージョというベネズエラの一地方都市またサンミジャンという一地区の具体的な姿を、見事に描き出した点は、地域文化研究の博士論文として非常に高い評価を与えることができる。 第二に、4年間という長いタイムスパンの中で、現地に密着した調査を続けたことによって、民俗文化復興運動をはじめとする社会運動体の研究にときどき見受けられる過度の感情移入が抑制され、単なる運動の成功物語に終わらせずに、運動の変質やビジャヌエバの権威失墜に至る経緯までも冷静に明らかにしている点を挙げることができる。このような小さな調査対象に密着することによって、権力の狡猾さ・柔軟さ・規制力の大きさなどが浮き彫りにされ、汎用性の高い研究となっていると評価できる。 第三に、具体的な事実に対する確かな描写力によって、運動の熱や失墜の苦しみなどが鮮明に伝わってくることを挙げることができる。文化の「真正性」や「客体化」などについての議論において、しばしば理論的検討のみが先行して、資料的裏付けが不足しがちな傾向があるのに対して、本論文では、綿密な現地調査において獲得された詳細な資料に基づく、実証性の高い研究が展開されている。 最後に、添付されたビデオテープやCDによって、研究対象に対するよりよい理解が獲得できることを挙げなければならない。文字による研究分析成果の呈示と映像・音響資料によるものを組み合わせる手法は、情報処理技術の急速な進展によってますます実行可能性が増加しており、文化人類学や地域文化研究の分野においても、これらを統合して記録する媒体の利用による研究成果の発表が将来は普通になると思われる現在、それにつながる先駆的論文であると評価できる。 本論文には難点もなしとしない。 第一に、民俗文化救済会と地域社会との関係を論ずる際に、地区のカトリック司祭との関係についての説明が不足していたり、新左翼運動と文化救済運動との間の関係についての具体的記述が不足するなど、本論文全体の理解のための記述が補足されるべきである部分が見受けられることを、指摘しておかなければならない。 また第二に、理論的枠組の呈示や全体構成についての方法論的記述が、論文冒頭において不足しているため、第II部におけるミクロな記述と第III部におけるマクロな分析の統合が、いささかまだ脆弱である印象を与える。ふたつの大きく異なる視点を統合して論文を書き上げるのは至難の技であるが、筆者の将来の一層の努力を求めるものである。 しかしながら、上記2点の難点も論文全体の価値を大きく損なうものではない。ラテンアメリカ地方都市における文化復興運動をベネズエラ国家全体の動きと連動させて大きなスケールで論じた本論文は、きわめて現代的で先進的なテーマに対するオリジナリティあふれる分析の成果である。 したがって、本論文は在学年限の短縮という特別措置をもって博士(学術)の学位を授与するに相応しいものと認定する。 |