学位論文要旨



No 114899
著者(漢字) 岡本,忍
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,シノブ
標題(和) ラン藻Synechocystis sp.PCC 6803の運動に関係するpil遺伝子の分子生物学的解析
標題(洋) Molecular analysis of the motility-related pil genes in the cyanobacterium Synechocystis sp.PCC 6803
報告番号 114899
報告番号 甲14899
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第241号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大森,正之
 東京大学 教授 須藤,和夫
 東京大学 助教授 箸本,春樹
 東京大学 助教授 池内,昌彦
 東京大学 助教授 渡辺,雄一郎
内容要旨

 ラン藻は光合成を行う原核生物で、その祖先は約25億年前に地球上の大気に酸素をもたらしたと考えられている。ラン藻は自律的な運動能を獲得した最初の生物の一つであり、運動メカニズムの本質が現在に至るまで残されていると考えられる。多くのラン藻は外界の光刺激などに応答して運動を行うことが1世紀以上前から報告されている。しかしながら、光学顕微鏡、樹脂包埋による電子顕微鏡による観察では表層に既知の運動器官等は見つからず、運動のメカニズムは未だに不明である。

 高等植物の葉緑体はラン藻の祖先種が宿主細胞に共生した結果、形成されたものと考えられている。Synechocystis sp.PCC 6803は単細胞性のラン藻で光合成のモデル生物として広く研究がなされ、1996年にその全塩基配列が決定された。また形質転換を行うことが出来るので分子生物学的な手法を用いる研究には適している。このPCC 6803のPasteur Culture Collectionの元株(PCC元株)は、運動性があり、寒天プレート上でコロニーが拡がっていく。私は、この元株を用いて、ラン藻の運動メカニズムに関係する遺伝子の探索を行った。また、その過程で配列決定されたPCC 6803の株はオリジナルのPCC元株よりも挿入配列(IS)が4つ多いことを見いだした。その解析から、ゲノムデーターベースを利用し表現型の解析や遺伝子破壊を行う際には親株を慎重に選ぶ必要があることを示したので併せて報告する。

1)配列決定株にのみ存在する挿入配列(IS)

 Synechocystis sp.PCC 6803では突然変異誘発法が確立されていない。そこで、運動能を有するPCC 6803のPCC元株にトランスポゾン、ランダムカセット挿入などの方法で突然変異誘発し、運動しない株のスクリーングを試みた。4つの運動欠損株を単離して、変異部位の同定を行ったがトランスポゾンの挿入により破壊された遺伝子と運動欠損という表現形の間の関係を再現することが出来なかった。しかし、その解析過程において興味深い事実が明らかとなった。ゲノムデーターベースに存在しているIS(sll1474)が実験に用いたPCC元株には存在していないことが分かった。その結果、配列決定された株ではISの前後にある独立したORFとして命名されていたsll1473,sll1475はPCC元株では一つのORF(sll1473-sll1475)であり光受容タンパク質のフィトクロム様の蛋白質として機能している可能性が示唆された。さらにsll1474をプローブとしてサザンブロット解析を行ったところ合計4つのISが配列決定株でのみ挿入されていることが明らかになった(図1.)。この4つのISの挿入により改変を受けた遺伝子を表1にまとめた。これらの解析から配列決定株では比較的最近の間にゲノム上に変異が起こっていることが分かった。

図1.Synechocystis各株から抽出したDNAに対してiS(sll1474)をプローブとしたサザン分析。野生株(レーン1,4)、GT株(レーン2,5)、配列決定株(レーン3,6)から抽出したDNAをIS(sll1474)の内部を切らない制限酵素、Sau3AlとHincllで分解した後ISの内部983bpをプローブとしてサザン分析を行った。*は配列決定株でのみ挿入が確認されたIS。矢印はデーターベース上に存在しない新規IS。表1.配列の決定されたSynechocystis sp.PCC 6803に存在するsll1474タイプの挿入配列(IS Y203 family)
2)運動関与遺伝子の検索と破壊

 近年、ラン藻やそれ以外のバクテリアから運動に関係すると思われるいくつかの遺伝子が単離されてきた。そこで、これらの運動関与遺伝子の中から、様式の異なる運動に関与する遺伝子を網羅するように候補を選び、Synechocystis sp.PCC 6803のデーターベース上から相同遺伝子を検索した。検索結果から8種類の候補遺伝子を選択し、それらの遺伝子の破壊株を作製した。これら8種類の候補遺伝子のなかでpilT1(slr0161)の破壊株において寒天プレート上でコロニーが拡がらなくなるという表現形が観察された。(図2.)この表現形は運動能が失われた結果であると考え、pilT1破壊株の解析を行った。pil遺伝子群は、Pseudomonas,Myxococcus,Neisseria,E.coli,など広い範囲のバクテリアに存在するピリ(pili)と呼ばれる線毛のタンパク質構築に関与する遺伝子群である。

図2.pilT1遺伝子破壊によるコロニー形状の変化WT、野生株;pilT::M、薬剤耐性遺伝子挿入によるpilT1破壊株
3)pilT1遺伝子破壊株の性質i)細胞の運動

 細胞の運動能が個体レベルで失われているかどうかを確認するために、光学顕微鏡とCCDカメラ、タイムラプスVTRを用いたシステムを作り、個々の細胞の動きを時間軸に沿って詳細に観察した。野生株の運動速度は最大で約0.15m/sであった。また「細胞の運動頻度」は寒天プレートの濃度に依存して変化した。野生株では寒天濃度2.0%でほとんど運動しないが、寒天濃度が下がるにつれ運動する細胞が多くなり、寒天濃度0.8%でほぼ100%の細胞が運動することが明らかになった。また、この方法を用いて解析すると今まで運動性欠損の変異株であると思われていたグルコース耐性株(GT株)でも低濃度の寒天上では運動することが観察された。一方、pilT1遺伝子破壊株では実験を行った最低の寒天濃度(0.4%)でも運動する細胞は見られなかった。このことからpilT1破壊株は直接的に運動にかかわる変異株だということが示唆された。

ii)細胞表層の線毛構造の観察

 pilT1の破壊による細胞表層および、線毛の形状に及ぼす影響をネガティブ染色法による電子顕微鏡観察により調べた。その結果、野生株のSynechocystis sp.PCC 6803の細胞表層では直径約4nm、長さ約2〜6mの線毛が細胞から放射状にのびているのが観察された(図3.A)。一方pilT1変異株にも線毛は存在し、その直径や形状に変化は認められなかった(図3.B)。さらに多くの細胞を観察したところ、細胞当たりの線毛の数が増えているのではなくて、長さが伸長して細胞の周囲に絡み合っていることが明らかになった。(図3.D,E)

図3.ネガティブ染色による細胞表層の線毛のTEM像A、野生株;B、pilT1破壊株;C、野生株;D、pilT1破壊株;E、Dの部分拡大図
iii)pilT1破壊株の形質転換効率

 pilT1遺伝子はBacillusのDNA受容能に関わる、comGA遺伝子と約20%の相同性をもつ。BacillusではcomGA遺伝子が破壊されると外来のDNAを細胞内に取り込めなくなる。そこで6803のpilT1破壊株においても形質転換効率を調べた。その結果、実験を行った条件下ではpilT1破壊株において形質転換体は得られず、野生株のおよそ100分の1以下にまで形質転換効率が低下していることが明らかになった。PCC 6803の派生株であるGT株は形質転換能が野生株よりも100倍程度高いことが知られている。そこでこのGT株を親株としてpilT1遺伝子の破壊株を作製し、同様に形質転換効率を調べた。GT親株に比べてpilT1破壊株では形質転換効率がおよそ7000分の1以下にまで低下していた。このことから、pilT1はPCC 6803の形質転換にも必須な遺伝子であることが明らかになった。

4)pilT1遺伝子産物の機能

 pilT1のコードする推定タンパク質は369アミノ酸から成り、Kyte-Doolittleのアルゴリズムによるハイドロパシープロファイルには際だった疎水領域は存在せず、可溶性のタンパク質と考えられる。PilT1は中央部分にATP/GTP結合モチーフであるWalker box Aとバクテリアでのタンパク質輸送に関与するタンパク質、GPS(General Secretion Pathway)タンパク質のコンセンサス領域をもっている。以上のことから、PilT1はATPを基質として加水分解する際に得られるエネルギーで、一種の分子モーターとして働き細胞を運動させるのではないかと考えた。そこで大腸菌内でPilT1をHis-Tag標識した組み替え型タンパク質として発現させて、精製しATPase活性を測定した。その結果、精製したPilTの画分にATPase活性があることが明らかになった(図4.,図5.)。さらにPilT1-ATPaseの生化学的特徴を調べた。PilT1-ATPaseは、Mg2+要求性であり、そのKmは約600MでVmaxは約30nmol Pi min-1 mg-1であった。Km値は大腸菌のH+-ATPaseやNa+-ATPase、またK+-ATPaseに比べると小さく、シャペロンタンパク質DnaKや相同組換えに必要なRecAなどの値に近かった。抗PilT1抗体を用いたウエスタンブロット解析からPilT1は膜画分に存在することも明らかになった。PilT1タンパクには推定される膜貫通領域等が見あたらないことから他の蛋白質と相互作用するなどして膜に局在しているものと考えている。

図4.His-PilT1タンパク質の精製分子量マーカー(レーン1);大腸菌総抽出液IPTG未誘導(レーン2)10g;大腸菌総抽出液IPTG誘導後(レーン3)10g;可溶性画分(レーン4)10g;Ni-NTAキレートカラム(レーン5)1g;HiTrapQ陰イオン交換カラム(レーン6)1g図5.His-PilT1タンパク質のATPase活性A、His-PilT1タンパク質のHiTrap Qによる精製プロファイルとATPase活性 B、His-PilT1-ATPase活性のATP濃度依存性
まとめと展望

 本研究において、ラン藻Synechocystis sp.PCC 6803の運動と形質転換にpil遺伝子群のひとつpilT1が必要なこと、また、pilT1遺伝子産物がATPase活性を有することを明らかにした。一つの細胞において、運動と形質転換という一見異なる表現形が一つの遺伝子により制御されている可能性があることは非常に興味深い。今後、pilT1遺伝子産物のポイントミューテーションによるin vitroでの活性解析、in vivoでの表現形の解析、またPilT1と相互作用するタンパク質の探索などを行い一連のメカニズムの全容を探りたい。

審査要旨

 ラン藻は自律的な運動能を獲得した最初の生物のうちの一つであり、そのメカニズムには運動能そのものの本質が現在に至るまで残されていると考えらているが、運動のメカニズムは未だに不明である。Synechocystis sp.PCC 6803は単細胞性のラン藻で光合成のモデル生物として広く研究がなされ、1996年にその全塩基配列が決定された。このPCC6803のパスツールカルチャーコレクションの元株は、運動性をもつ。申請者、岡本忍君はこの元株を用いて、ラン藻の運動メカニズムに関係する遺伝子の探索を行った。

1)配列決定株にのみ存在する挿入配列(IS)

 Synechocystis sp.PCC6803の運動能を有するPCC6803の元株にトランスポゾン、ランダムカセット挿入などにより突然変異誘発し、運動しない株のスクリーングすること試みた。その解析過程において興味深い発見をした。ゲノムデーターベースに存在しているIS(sll1474)が実験に用いたパスツールカルチャーコレクションの元株には存在していなかった。その結果、配列決定された株ではISの前後にある独立したORFとして命名されていたsll1473,sll1475はパスツールカルチャーコレクションの元株では一つのORF(sll1473-sll1475)であり光受容タンパク質のフィトクローム様の分子として機能している可能性が示唆された。さらにsll1474をプローブとしてサザンブロット解析を行ったところ合計4つのISが配列決定株でのみ挿入されていることを明らかにした。

2)運動関与遺伝子の検索と破壊とその表現形

 バクテリアの運動に関係すると思われる遺伝子のSynechocystis sp.PCC6803のデーターベース上から相同遺伝子を検索した。検索結果から8種類の候補遺伝子を選択し、それらの遺伝子の破壊株を作製した。これら8種類の候補遺伝子のなかでpilT1(slr0161)の破壊株において寒天プレート上でコロニーが拡がらなくなるという表現形が観察された。この表現形は運動能が失われた結果であると考え、pilT1破壊株の解析を行った。pil遺伝子群は、Pseudomonas,Myxococcus,Neisseria,E.coli,など広い範囲のバクテリアに存在するピリ(pili)と呼ばれる線毛の生合成関与する遺伝子群である。

 ネガティブ染色法による電子顕微鏡観察により、野生株のSynechocystis sp.PCC6803の細胞表層の線毛は直径約4nm、長さ約2〜6mの線毛が細胞から放射状にのびているのが観察された。一方pilT変異株にも線毛は存在した。また、その直径や形状に変化は認められなかった。多くの細胞を観察したところ、線毛の長さが伸長していることが明らかになった。

 pilT1遺伝子はBacillusのDNA受容能に関わる、comG1遺伝子と約20%の相同性をもつ。BacillusではcomG1遺伝子が破壊されると外来のDNAを細胞内に取り込めなくなる。そこでPCC6803のpilT1破壊株においても形質転換効率を調べた。その結果、実験を行った条件下ではpilT1破壊株において形質転換体は得られず、野生株のおよそ100分の1以下にまで形質転換効率が低下していることが明らかになった。このことから、pilT1はPCC6803の形質転換にも必須な遺伝子であることが明らかになった。

3)pilT1遺伝子産物の機能

 PilT1は中央部分にATP/GTP結合モチーフであるWalker box Aとバクテリアでのタンパク質輸送に関与するタンパク質、GPS(General Secretion Pathway)タンパク質のコンセンサス領域をもっている。以上のことから、PilT1はATPを基質として加水分解する際に得られるエネルギーで、一種の分子モーターとして働き細胞を運動させるのではないかと考えた。そこで大腸菌内でPilT1をHis-Tag標識した組み替え型タンパク質として発現させて、精製しATPase活性を測定した。その結果、精製したPilTの画分にATPase活性があることが明らかになった。抗pilT1抗体を用いたウエスタンブロット解析からPilT1は膜画分に存在することも明らかになった。

 以上のように、申請者はいままでメカニズムの不明だったラン藻の運動に関して分子生物学的な手法により、解析の端緒をひらいた。この研究はラン藻のみにとどまらず、生物の運動能獲得という根元的なテーマに迫ることが期待される。さらに、この研究の過程で生理学、分子生物学の手法、及び科学的な方法論を広く修得した。よって、申請者は博士(学術)の学位を授与されるに値する。

UTokyo Repositoryリンク