走化性は免疫系、発生過程における形態形成、ニューロンのネットワーク形成などにも関与する生物にとってきわめて重要な過程であるにもかかわらず、その分子機構には未知の部分が多い。本論文では、真核細胞における走化性の分子機構解明に向けて細胞性粘菌(Dictyostelium descoideum)から走化性にかかわる遺伝子を単離し、その遺伝子産物の細胞内機能の解析をおこなった。 まず第一章では、ランダムタギング法である、REMI(restriction enzyme-mediated integration)法で突然変異を導入した粘菌細胞がら、「飢餓状態でも細胞が集合できない」というおそらく走化性に異常をきたした株を単離した。得られた突然変異株よりタグを含むゲノム断片を回収し、全塩基配列を決定した結果、導入されたタグは新規遺伝子trfA(tetraicopeptide repeat family gene A)に挿入されていることがあきらかとなった。こうしてクローニングした遺伝子を用い、相同組み換え法でtrfA遺伝子破壊株を作成したところ、この破壊株は上記REMI法で得られた株と同様の表現型を示したことから、この遺伝子の破壊が「集合体を形成しない」という表現型をもたらすことが明らかになった。このtrfA遺伝子の一部をプローブとして、cDNAライブラリーからtrfA遺伝子のcDNAをクローニングし、その塩基配列も決定した。これらのゲノムおよびcDNAの塩基配列から、このtrfA遺伝子は4つのエクソンからなる全長4182bpの遺伝子で、1390アミノ酸残基からなる分子量約160kDaのタンパク質TRFAをコードしていることがわかった。この遺伝子産物TRFAは出芽酵母の転写調節因子Ssn6(Cyc8)に高い相同性を持ち、TPR(tetratricopeptide repeat)モチーフをもっTPRファミリータンパク質であることがわかった。 TPRファミリータンパク質は34アミノ酸残基の保存配列を1ユニットとするTPRモチーフを含み、幅広い生物種で様々なタンパク質問の相互作用に関与する。またその機能は細胞周期の制御や転写調節、タンパク質輸送など多岐にわたる。Ssn6もTPRファミリータンパク質であり、出芽酵母で広範な転写調節因子として機能している。TRFAタンパク質もSsn6も10ケの連続したTPRユニットを含み、両者のTPRユニット間の相同性は58%であった。また互いに長いポリグルタミン配列をもつなど、他の領域についても両者はよく似ていた。 TRFAの機能を解析するため、まず、ノーザンブロット法でtrfA遺伝子の発現量を全生活史にわたって調べた。その結果、trfA遺伝子の発現量は栄養条件下で最も高く、発生を開始すると次第に低下することがわかった。trfA遺伝子破壊株細胞と野生株細胞を用いたウエスタンブロットの結果、野生株細胞の場合のみ、約160kDaの位置に抗TRFA抗体と反応するバンドが現れた。このことからTRFAは塩基配列から予想された分子量160kDaのたんぱく質であることがあきらかとなった。またこの抗TRFA抗体を用いた蛍光抗体法により、TRFAは栄養および飢餓条件下で、つねに核内に局在することがわかった。 次に第二章では、trfA遺伝子破壊株が栄養条件、飢餓条件下でどのような欠陥を示すかを検討した。trfA遺伝子破壊株は、栄養条件下では増殖速度と細胞形態に異常を示した。また、飢餓条件下では細胞集合がおこらなかった。細胞集合に欠陥があることは走化性が正常でないことを示唆している。そこで、走化性に関する検定をおこなったところ、個々の細胞は正の走化性物質であるcAMPにも葉酸にもきわめて弱い反応しか示さず、trfA遺伝子破壊株ではたしかに走化性に欠陥があることがわかった。走化性に関する欠失をさらに明らかにするため、飢餓で誘導されるcAR1やACAの発現について調べたが、ともに野生株(AX2)とほぼ同様な発現パターンを示し、この部分には異常がないことがあきらかとなった。またcAMP刺激によるcAMP濃度の一過的上昇についても野生株とほぼで同様あった。しかし、cAMP刺激によるcGMP濃度の上昇は見られず、野生株とは大きく異なった反応を示した。以上の事実から、trfA遺伝子破壊株では飢餓状態に陥ると発生開始のスイッチは入り、集合を促すcAMPパルスも発生するが、cAMP受容体の下流にあるシグナル伝達系、具体的にはcAMP刺激に呼応したcGMPの一過的合成に欠陥があることがあきらかとなった。このことはGCAが発現していないか、あるいはGCAを活性化させる要素が欠けていることを意味する。 栄養条件下、飢餓条件下両面における以上のような多面的欠失と、Ssn6との配列上の類似性を考えると、TRFAはSsn6-と同様、細胞性粘菌Dictyosteliumにおいて広範な生理機構にかかわる複数の遺伝子の転写調節を行っていると想像される。これには上記のようにGCAそのものあるいはGCA活性化にかかわるたんぱく質の遺伝子の転写調節もふくまれるだろう。酵母Ssn6はTUP1というタンパク質と複合体を形成し、広範な転写調節に関わると推測されている。細胞性粘菌においても既にTUP1の相同遺伝子Dtup1がクローニングされており、Ssn6/Tup1という酵母の転写調節系と同じ機能をはたす細胞性粘菌TRFA/DTUP1系の存在も予想される。こうした転写調節系は、走化性もふくめて細胞性粘菌の成長・分化において重要な働きをはたしていると考えられる。 このように本論文では、走化性という生物にとって重要な過程の分子機構解明に向けて独創的な第一歩を踏み出しており、得られた結果も重要でこの分野に対する貢献も大きい。以上により本論文は博士(学術)を授与するに相応しい内容であると判定した。 |