学位論文要旨



No 114915
著者(漢字) 平川,和貴
著者(英字)
著者(カナ) ヒラカワ,カズタカ
標題(和) 異方的-相互作用を持つ多量体分子系の電子遷移過程
標題(洋) Electronic Transition Processes in Multi-molecular Systems under Anisotropic - Interaction
報告番号 114915
報告番号 甲14915
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第257号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 瀬川,浩司
 東京大学 教授 江里口,良治
 東京大学 助教授 松尾,基之
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 助教授 増田,茂
内容要旨

 分子内、あるいは、分子間の電子移動や励起エネルギー移動は、複数の分子軌道間の相互作用によって引き起こされる電子遷移の帰結として観測される現象であり、広義の電子遷移過程に含めることができる。分子系における電子遷移過程は、多くの光化学反応における基本的過程であるばかりでなく、地球上の生命にとって重要なエネルギー獲得の手段である光合成においても極めて重要な過程である。例えば、光合成を担う光捕集蛋白や反応中心蛋白の分子系では、巧妙に配列されたクロモホア分子間を励起エネルギーや電子が高速かつ高効率で運ばれることによって、高い量子収率で光エネルギーから化学エネルギーへの変換が達成されている。仮に、クロモホア分子を人工的に配列させた多量体分子系で、同様の高速励起エネルギー移動や高速電子移動が実現できれば、多量体分子系を用いた新しい光エネルギー変換システムや光機能デバイスへの応用も可能になる。以上の観点から、これまでにも、電子移動と励起エネルギー移動を支配する要因を解明する目的で、様々な分子系の合成と物性が研究されてきた。これらのうち、分子間の相互作用が弱い系では、電子移動や励起エネルギー移動における供与体-受容体間の距離依存性、エネルギーギャップ依存性など多くの知見が蓄積され、理論的予測とよく合うものが多く報告されている。しかしながら、クロモホア間に比較的強い相互作用がある場合、多量体分子系の性質はクロモホア単体の性質から理論的に予測できるものばかりではなく、その相互作用による分子系全体の変化が主体的役割を担うことも多い。例えば、光合成で用いられているクロロフィルでは、分子間の-相互作用による電子状態の変化により電子遷移過程に大きな影響が現われることが知られているが、これが光合成の効率を高めるうえで有効に作用している。これらの比較的強い分子間相互作用と電子遷移過程との関係が明らかにできれば、高速電子移動や高速励起エネルギー移動を行う分子系設計への新たな指針が得られるものと考えられる。そこで、本研究では、電子や励起エネルギーの供与体-受容体間に強い相互作用をもつ多量体分子系を構築し、-相互作用の強さやその異方性と電子遷移過程との相関、ならびに、その制御について検討した。具体的には、ポルフィリンとピレンから構成されるいくつかの分子系を合成し、光誘起電子移動や励起エネルギー移動と-相互作用との関係を検討した。また分子認識能を持つクロモホアとしてチアカリックスアレーンを用い、ポルフィリンとの自発的な集合体形成による多量体分子系の構築についても検討した。

 まず、電子やエネルギーの供与体と受容体が直結した分子系における電子遷移過程を検討する目的で、ポルフィリン環のメソ位にピレンを直結させたメソピレニルポルフィリン誘導体(図1)を合成した。この分子では、ポルフィリンの第二励起一重項状態において、ピレンとの間で電子移動が起こり、これに続く電荷再結合により最低励起一重項状態が生じることを明らかにした。ポルフィリンの第二励起一重項状態の寿命は2〜3ps程度であり、通常、最低励起一重項状態に内部転換した後に電子移動が起こるのが一般的であるが、この場合は内部転換よりも速い電子移動と電荷再結合が起こることを示している。これは、相互作用の弱い系における電子移動では観測されない現象であり、近接したクロモホア間では、内部転換の速度を超える高速電子移動が起こり得ることを示した初めての例である。次にピレン部分の光励起状態からの電子遷移過程について検討した。ピレンとポルフィリンを組み合わせた分子系では、エネルギー準位から考えて、ピレンからポルフィリンへの電子移動と励起エネルギー移動の両方が可能である。この分子系の場合、ピレン部分を光励起すると、ポルフィリンへの励起エネルギー移動が主に起こった。その経路は、ポルフィリンの第二励起一重項状態への励起エネルギー移動が主であったが、最低励起一重項状態へ直接の励起エネルギー移動も観測された。この最低励起一重項状態への励起エネルギー移動は、ピレン-ポルフィリン間での電子交換によって起こるものと考えられる。

図1メソピレニルポルフィリン誘導体

 一方、ポルフィリン-電子系の-電子雲は、ポルフィリン環に対し垂直方向に張り出しているので、この方向から別のクロモホアを接近させた場合は、横方向から接近させた場合に比べ、より強い-相互作用が予測される。そこで、ピレンをポルフィリン環に対して垂直方向から接近させたビスピレニルP(V)ポルフィリン(図2)を合成した。これらの分子系では、ピレンのポルフィリンへの接近に伴い、-相互作用による著しい吸収スペクトル変化が見られた。ピレンは、P(V)ポルフィリンに対して電子および励起エネルギーの供与体となり得るが、極性溶媒中では、電子移動が支配的な過程であった。しかし、分子の周囲を取り巻く溶媒の極性が低下すると、電子移動のエネルギーギャップがわずかに小さくなり、これに伴って電子移動が抑えられ、励起エネルギー移動も主な過程として観測された。また、ピレンとポルフィリンの距離を遠ざけるほど、-相互作用が弱まることで電子移動が起こりにくくなり、励起エネルギー移動が優先することを明らかにした。次に、-相互作用下における励起エネルギー移動を検討する目的で、中央に励起エネルギーの受容体となるポルフィリンを持つデンドリマー型複合多量体(図3)を合成した。励起状態のピレンから、励起エネルギーは主に端のポルフィリンを経由して段階的に中央のポルフィリンへ運ばれた。これは、それぞれの分子ユニットが隣のユニットと強く相互作用しているために隣のユニットへ順番に励起エネルギー移動することを示している。また、中央のポルフィリンの分子修飾の違いで励起エネルギーをわずかに上昇させると、端のポルフィリンから中央のポルフィリンへの励起エネルギー移動が抑制され、電子移動が優先することを明らかにした。このように-相互作用を持つ分子系では溶媒の極性や分子修飾によるわずかな電子状態の変化で、電子移動と励起エネルギー移動が選択されることが明らかになった。

図2ビスピレニルP(V)ポルフィリン図3デンドリマー型複合多量体

 次に、外部から電子状態を制御できる分子モデルとして、図4に示すヒドロキシ(1-ピレンブトキシ)P(V)ポルフィリンを合成し、ポルフィリンの中心リン原子に結合した軸配位水酸基の状態による電子遷移制御を試みた。この分子系でも光励起状態のピレンからポルフィリンへの電子移動と励起エネルギー移動が競争して起こるが、溶媒のpHにより軸配位水酸基の状態に対応してポルフィリンの電子状態が変化し、電子移動および励起エネルギー移動がそれぞれ選択されることを明らかにした。これは、-相互作用を持つ分子系において、外部から電子移動と励起エネルギー移動のスイッチングが可能であることを示している。

 多量体分子系の電子遷移過程を検討するうえで、分子系の構築法に関する研究も重要である。複数のクロモホアが相互作用する大きな多量体分子系を構築する方法として、クロモホア分子同士がホスト-ゲスト相互作用によって自発的に集合体を形成できると便利である。複数のフェノールがメチレンブリッジを介して環状につながったカリックスアレーン誘導体は、カチオンの認識や芳香環の包接能を持つ分子認識のホストとして知られている。本研究では、カリックスアレーンよりさらに分子骨格のフレキシビリティーが高いp-t-ブチルチアカリックスアレーン(図5、TCA)とテトラキス(4-N-メチルピリジル)ポルフィリン(図5、TMPyP)との複合体形成を検討した。その結果、TCAのジクロロメタン溶液とTMPyPの水溶液を混合することにより、定量的に4:1の複合体が形成されることが明らかとなった。このことは、TMyPの持つ4つのカチオン性の芳香環が、TCAとの複合体形成部位になることを示すものである。本方法は、クロモホアで修飾したTCAを用いることで様々な多量体分子系の構築方法へも応用可能であると考えられる。

図表図4ヒドロキシ(1-ピレンブトキシ)P(V)ポルフィリン / 図5TCA(上)、TMPyP(下)

 以上のように、本研究では強い相互作用を持つクロモホア分子間の電子遷移過程について、クロモホア分子の接近する方向によって-相互作用の強さが異なり、その電子状態および電子遷移過程が-相互作用に影響されることを示した。特に、-相互作用下の光誘起電子移動と励起エネルギー移動は、わずかなクロモホア分子の電子状態の変化で大きく変わる場合があることを明らかにした。また、クロモホア分子の電子状態の外部からの制御による電子遷移過程のスイッチングが可能であることを示した。これらの結果は-相互作用下における電子遷移過程を利用した分子系設計への1つの指針を与えるものと考えられる。電子遷移過程の制御を利用した光機能材料などへの応用を考えるには、さらに大きく複雑な多量体分子系の設計および構築が必要と思われるが、クロモホア分子間のホスト-ゲスト相互作用の利用が1つの有効な方法になると期待される。

審査要旨

 本論文は、-相互作用をもつ多量体分子系の電子遷移過程について、その相互作用の異方性や強さが、電子遷移のダイナミクスにどのような影響を及ぼすのか、物理化学的に検討したものである。クロモホア間の電子移動や励起エネルギー移動は、複数の分子軌道間の相互作用によって引き起こされる電子遷移の帰結として観測される現象であり、これらの分子軌道を含む全体を一つの分子系とすれば、その分子系における広義の電子遷移過程と考えることができる。これまで、クロモホア間の相互作用が比較的弱い分子系では、電子遷移のダイナミクスが、クロモホア間の距離依存性やエネルギーギャップ依存性において理論的予測とよく合うことが報告されてきた。しかしながら、クロモホア間に比較的強い相互作用がある場合、これらの電子遷移のダイナミクスは、その相互作用による分子系自体の変化が主体的役割を担うことにより予測が困難となる。強い相互作用下における分子系の電子遷移過程が明らかにされれば、高速電子移動や高速励起エネルギー移動を行う分子系設計への新たな指針が得られるものと考えられる。本論文は、これらを明らかにする目的で、大環状電子系を持つポルフィリンやピレンをクロモホアとして用い、これらのクロモホア間に強い相互作用がある新しい多量体分子系を構築し、-相互作用の異方性や強さと電子遷移との相関、ならびに、その分子系の置かれた環境による影響等について検討したもので、全8章から成る。

 第1章は序論であり、本研究の背景と目的、ならびに、本論文の構成が述べられている。

 第2章では、電子やエネルギーの供与体と受容体が直結した新しい分子系であるメソピレニルポルフィリン誘導体の合成と、その電子遷移過程が述べられている。この分子系では、ポルフィリンの第二励起一重項状態において電子移動が起こり、これに続く電荷再結合により最低励起一重項状態が生じることが明らかにされている。ポルフィリンの第二励起一重項状態の寿命は2〜3ps程度であり、通常最低励起一重項状態に内部転換した後に電子移動が起こるが、本分子系では内部転換よりも速い電子移動と電荷再結合が起こることを示している。これは、近接したクロモホア間で、内部転換の速度を超える高速電子移動が起こり得ることを示した初めての例である。

 第3章では、同じ分子系について、ピレン部分の光励起状態からの電子遷移過程が述べられている。ピレンとポルフィリンを組み合わせた分子系では、ピレンの励起状態からポルフィリンへの励起エネルギー移動と電子移動の両方がエネルギー的に許容される。しかしながら、この分子系では、ポルフィリンへの励起エネルギー移動が主に起こることが明らかとなった。ここでは、ポルフィリンの第二励起一重項状態への励起エネルギー移動の他、電荷移動励起状態を経由する間接的な最低励起一重項状態への励起エネルギー移動も観測された。これは「クロモホア間の電子移動が励起エネルギー移動を媒介する」という新しい電子遷移の機構を示したものである。

 第4章では、ピレンをポルフィリン環に対して垂直方向から結合した分子系の電子遷移過程が述べられている。これらの分子系では、周囲を取り巻く溶媒の極性に依存して電子移動と励起エネルギー移動の量子収率が変化することが明らかにされている。この変化は、溶媒極性の違いによる電荷移動エネルギーの差により、電子遷移のダイナミクスが異なるためであることが結論されている。

 第5章では、強い-相互作用下における多段階励起エネルギー移動が述べられている。励起エネルギーの受容体となるポルフィリンを中央にもつデンドリマー型複合多量体では、励起エネルギー移動は段階的に起こることが示されている。また、中央のポルフィリンの分子修飾により、励起エネルギーをわずか90mV上昇させるだけで、端のポルフィリンから中央のポルフィリンへの励起エネルギー移動が抑制されることが明らかにされている。このように、-相互作用をもつ分子系では、溶媒の極性や分子修飾によるわずかな電子状態の変化が、電子移動と励起エネルギー移動に大きな影響を及ぼすという結果が述べられている。

 第6章では、外部から電子状態を制御できる分子系として、ポルフィリンの中心リン原子の軸配位水酸基の状態による電子遷移制御が述べられている。この分子系でも、光励起状態のピレンからポルフィリンへの電子移動と励起エネルギー移動は競争的に起こるが、溶媒のpHによる軸配位水酸基の状態に対応してポルフィリンの電子状態が変化し、電子移動と励起エネルギー移動のいずれかが選択されることが明らかにされている。これは、-相互作用をもつ分子系において、外部から電子移動と励起エネルギー移動のスイッチングが可能であることを示したものである。

 第7章では、複数のクロモホアが相互作用する多量体分子系を構築する観点から、クロモホア同士のホスト-ゲスト相互作用による多量体分子系の構築が述べられている。

 第8章は結論であり、本研究で得られた結果が要約されている。本研究では、強い相互作用をもつクロモホア間の電子遷移過程について、クロモホア間の配向により-相互作用の様相が異なり、そのダイナミクスが著しく変化するばかりでなく、その経路まで変化することが明確に示された。この結果は、-相互作用下における電子遷移過程の本質的理解に加え、これを利用した分子系設計に対する重要な指針を与えるものと考えられる。

 よって本研究は、博士(学術)の学位論文としてふさわしいものであると審査委員会は認め、合格と判定した。

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