本論文は、-相互作用をもつ多量体分子系の電子遷移過程について、その相互作用の異方性や強さが、電子遷移のダイナミクスにどのような影響を及ぼすのか、物理化学的に検討したものである。クロモホア間の電子移動や励起エネルギー移動は、複数の分子軌道間の相互作用によって引き起こされる電子遷移の帰結として観測される現象であり、これらの分子軌道を含む全体を一つの分子系とすれば、その分子系における広義の電子遷移過程と考えることができる。これまで、クロモホア間の相互作用が比較的弱い分子系では、電子遷移のダイナミクスが、クロモホア間の距離依存性やエネルギーギャップ依存性において理論的予測とよく合うことが報告されてきた。しかしながら、クロモホア間に比較的強い相互作用がある場合、これらの電子遷移のダイナミクスは、その相互作用による分子系自体の変化が主体的役割を担うことにより予測が困難となる。強い相互作用下における分子系の電子遷移過程が明らかにされれば、高速電子移動や高速励起エネルギー移動を行う分子系設計への新たな指針が得られるものと考えられる。本論文は、これらを明らかにする目的で、大環状電子系を持つポルフィリンやピレンをクロモホアとして用い、これらのクロモホア間に強い相互作用がある新しい多量体分子系を構築し、-相互作用の異方性や強さと電子遷移との相関、ならびに、その分子系の置かれた環境による影響等について検討したもので、全8章から成る。 第1章は序論であり、本研究の背景と目的、ならびに、本論文の構成が述べられている。 第2章では、電子やエネルギーの供与体と受容体が直結した新しい分子系であるメソピレニルポルフィリン誘導体の合成と、その電子遷移過程が述べられている。この分子系では、ポルフィリンの第二励起一重項状態において電子移動が起こり、これに続く電荷再結合により最低励起一重項状態が生じることが明らかにされている。ポルフィリンの第二励起一重項状態の寿命は2〜3ps程度であり、通常最低励起一重項状態に内部転換した後に電子移動が起こるが、本分子系では内部転換よりも速い電子移動と電荷再結合が起こることを示している。これは、近接したクロモホア間で、内部転換の速度を超える高速電子移動が起こり得ることを示した初めての例である。 第3章では、同じ分子系について、ピレン部分の光励起状態からの電子遷移過程が述べられている。ピレンとポルフィリンを組み合わせた分子系では、ピレンの励起状態からポルフィリンへの励起エネルギー移動と電子移動の両方がエネルギー的に許容される。しかしながら、この分子系では、ポルフィリンへの励起エネルギー移動が主に起こることが明らかとなった。ここでは、ポルフィリンの第二励起一重項状態への励起エネルギー移動の他、電荷移動励起状態を経由する間接的な最低励起一重項状態への励起エネルギー移動も観測された。これは「クロモホア間の電子移動が励起エネルギー移動を媒介する」という新しい電子遷移の機構を示したものである。 第4章では、ピレンをポルフィリン環に対して垂直方向から結合した分子系の電子遷移過程が述べられている。これらの分子系では、周囲を取り巻く溶媒の極性に依存して電子移動と励起エネルギー移動の量子収率が変化することが明らかにされている。この変化は、溶媒極性の違いによる電荷移動エネルギーの差により、電子遷移のダイナミクスが異なるためであることが結論されている。 第5章では、強い-相互作用下における多段階励起エネルギー移動が述べられている。励起エネルギーの受容体となるポルフィリンを中央にもつデンドリマー型複合多量体では、励起エネルギー移動は段階的に起こることが示されている。また、中央のポルフィリンの分子修飾により、励起エネルギーをわずか90mV上昇させるだけで、端のポルフィリンから中央のポルフィリンへの励起エネルギー移動が抑制されることが明らかにされている。このように、-相互作用をもつ分子系では、溶媒の極性や分子修飾によるわずかな電子状態の変化が、電子移動と励起エネルギー移動に大きな影響を及ぼすという結果が述べられている。 第6章では、外部から電子状態を制御できる分子系として、ポルフィリンの中心リン原子の軸配位水酸基の状態による電子遷移制御が述べられている。この分子系でも、光励起状態のピレンからポルフィリンへの電子移動と励起エネルギー移動は競争的に起こるが、溶媒のpHによる軸配位水酸基の状態に対応してポルフィリンの電子状態が変化し、電子移動と励起エネルギー移動のいずれかが選択されることが明らかにされている。これは、-相互作用をもつ分子系において、外部から電子移動と励起エネルギー移動のスイッチングが可能であることを示したものである。 第7章では、複数のクロモホアが相互作用する多量体分子系を構築する観点から、クロモホア同士のホスト-ゲスト相互作用による多量体分子系の構築が述べられている。 第8章は結論であり、本研究で得られた結果が要約されている。本研究では、強い相互作用をもつクロモホア間の電子遷移過程について、クロモホア間の配向により-相互作用の様相が異なり、そのダイナミクスが著しく変化するばかりでなく、その経路まで変化することが明確に示された。この結果は、-相互作用下における電子遷移過程の本質的理解に加え、これを利用した分子系設計に対する重要な指針を与えるものと考えられる。 よって本研究は、博士(学術)の学位論文としてふさわしいものであると審査委員会は認め、合格と判定した。 |