水素結合は、近年発達してきた分子集合体の科学における構造制御の有力な手段として、活用されている。一方、水素結合は、プロトンの移動に基づく動的な性質を担いうる点に特色があり、生体系におけるプロトン輸送や氷の示す誘電性、伝導性などの特殊な性質は、この動的性質の側面によりもたらされているといえる。しかしながら、このプロトンの動的過程の直接的な観測の難しさがあり、そのメカニズムの詳細は十分明らかにされていないのが現状である。従って、プロトンの運動様式と分子の性質や、集合体としての構造との関係を明らかにしていくことは、今後の新たな機能性物質開発という点でも重要である。本研究では、水素結合性有機結晶における分子間水素結合内のプロトン移動にみられる、量子現象の発現や分子間での協同現象に注目し、このような現象を観測しうる分子・結晶の設計を行なっている。次いで、新たに構築された水素結合性結晶の誘電率を測定することにより、特異な誘電挙動を見出し、それにより、水素結合性結晶中でのプロトン移動の本質を解明する議論を展開している。 第一章では、一次元水素結合系におけるプロトン移動発現のための分子・配列設計に関する要点が述べられている。一次元水素結合系では、系内のプロトン移動と電子系の切り替えが連動し、協奏的プロトン移動に基づく巨大な電気分極を示す可能性がある。そこで申請者は、エネルギー的に困難な協奏的なプロトン移動によらずプロトン移動を実現させるために、まず、プロトンポテンシャル内の障壁を低くするという観点から、イオン性の水素結合を利用する方法を提案している。本研究で取り扱っている四角酸(1)は酸性が強いために、プロトンを解離したエノレート構造を取りやすく、エノール・エノレート間の強固なイオン性水素結合(C-OH…(-)O-C)の構築が容易である。もしこのようなイオン性水素結合が形成されれば、プロトンは、量子的な運動をし易いと予想される。第二の方法は、一次元水素結合鎖内のイオン性欠陥種が連鎖的プロトン移動に伴って、ソリトンとして系内を動き廻る現象を利用するものである。四角酸は3-ヒドロキシエノン(s-トランス)骨格を取り込んでおり、それによる一次元水素結合鎖は無限系として等価な二つの状態(構造)を取りうるため、一部イオン性の欠陥種を取り込んでいる可能性が高いことを指摘している。後続の各章では、これらの機構に基づくプロトン移動系の具体例が論じられている。 ヒドロキシエノン(s-トランス型)における一次元水素結合鎖と協同的プロトン移動 第2章で申請者は、ベンゼン環に対称に2つの四角酸を導入した化合物(2)を取り上げ、イオン性水素結合における量子的プロトン移動の発現について検討している。2の結晶はエノール・エノレート間の強固かつ対称的なイオン性水素結合による一次元鎖を形成していることが、X線構造解析の結果明らかになった。またこの水素結合は結晶中での対称性が高く、プロトントンネリングが発現する可能性が極めて高い構造である。交流誘電率の測定により、誘電率の値は、室温から液体ヘリウム温度まで殆ど温度依存性を示さないことが判った。一方、重水素化した結晶においては、温度の降下に伴って誘電率は上昇し約28Kにおいて、(反)強誘電性転移特有の誘電率の降下が観測された。従って、水素体における誘電応答が温度に依存しない現象は、「トンネル機構に基づくプロトンの揺らぎが、その高い量子性ゆえに、低温域においても秩序化しない状態」と解釈でき、一種の"量子常誘電性"が観測されたものと結論づけている。四角酸結晶は超高圧下においてのみ量子常誘電性が発現することが報告されているが、水素結合系の変化によって、同じ分子骨格から顕著な量子効果が引き出された点が注目される。 第3章では、四角酸誘導体の一次元水素結合系におけるプロトン移動が述べられている。申請者は特に、ビ四角酸(3)に注目し、その結晶の互変異性の協同効果や、誘電性などについて検討を行なった。ビ四角酸は強力な有機酸(pKa2=-4.49)で、結晶構造解析により、結晶中で分子内の各ヒドロキシエノン部は、それぞれ強固な一次元水素結合鎖を形成していることが知られている。しかし従来の結晶作成法では、電気物性測定に耐えるだけの大きさの結晶は得られず、これまでこの結晶の物性については、全く研究が行なわれていなかった。申請者は結晶作成法を粘り強く探索した結果、60〜70℃の水溶液から蒸発法で再結晶することによって、初めて測定可能な大きさの結晶を得ることに成功した。この結晶作成は、本研究を遂行する上での大きなブレークスルーになったといえる。誘電率の測定の結果、約290K-において誘電率の急激な上昇が観測された。また、低温X線構造解析(200 K)を行ったところ、水素結合型結晶構造の変化が認められた。従って、室温域での誘電応答は、分子間のプロトン移動に基づくものと解釈される。一方、さらに低温域(水素体40K、重水素体135K)においても誘電率の降下が認められ、プロトンの秩序化が二段階に渡って起こっていることが示された。この現象は従来の水素結合性誘電体においては例がなく、本系の特質を示すものである。 これらの測定結果を受けて、申請者はここでのプロトン移動が、一次元水素結合鎖において提案されているソリトンモデルでよく説明できることに着目し、さらにソリトン(荷電欠陥種)の存在を分光学的手法により実証した。本章において述べられた一次元水素結合系のソリトン現象は、本研究での最大の発見であり、関連分野においてすでに注目を浴びている。 第4章では、更なる構造体のバリエーションとして、いくつかの四角酸誘導体結晶において、水・四角酸の混合水素結合ネットワーク構造が見出されたことが述べられている。特に四角酸のベンゼン三置換体(5)の結晶においては、水と四角酸の混合水素結合ネットワーク上でプロトン運動が起こっていることを示唆する結果が得られている。現実の生体プロトンポンプは有機物質の水の混合ネットワークによって構成されていることが近年注目されており、本章で述べられている結晶群は、単なる有機結晶よりもさらに生体系に近いモデル物質と見なすことができよう。 従来、水分子の一次元鎖における荷電ソリトンの振る舞いが、氷や生体系の水素結合系におけるプロトン移動の理論的モデルとして研究されてきた。今回構築されたビ四角酸の水素結合系におけるプロトンダイナミックスは水の一次元鎖と同様な議論が可能であり、その妥当性を吟味する上で、格好のモデル物質を創出したといえる。従って、本研究で得られた結果は,固体物性に止まらず周辺分野へ強い波及性を持つという点で、意義深いものと認められる。 以上の成果で明らかなように、申請者は有機分子に対する深い洞察力に基づき、適切な分子群を選び出し、良質な結晶作成に成功するなど、物性化学者としての資質を備えていることを示した。一方で、得られた特異な誘電挙動の解釈に関しては、その本質をより深く解明すべく、物理学的議論を展開しており、その研究内容は本専攻にふさわしいものとして高く評価できよう。 これらを総合して、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位にふさわしいものと判定した。 |