学位論文要旨



No 114920
著者(漢字) 高須,勲
著者(英字)
著者(カナ) タカス,イサオ
標題(和) 水素結合性有機結晶における分子間プロトン移動に基づく誘電的性質
標題(洋) Dielectric Properties Based on Intermolecular Proton Transfer in Hydrogen-Bonded Organic Crystals
報告番号 114920
報告番号 甲14920
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第262号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 助教授 阿波賀,邦夫
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 松下,信之
 東京大学 助教授 小倉,尚志
内容要旨

 水素結合は、近年発達してきた分子集合体の科学における構造制御の有力な手段として用いられている。一方、水素結合は、プロトンの移動に基づく動的な性質を担いうる点に特色があり、生体系におけるプロトン輸送や氷の示す誘電性、伝導性などの特殊な性質は、この動的性質の側面によりもたらされているといえる。このようなプロトンの運動様式と分子の性質や、集合体としての構造との関係を明らかにしていくことは、今後の新たな機能性物質開発という点でも重要であろう。本論文は、水素結合性有機結晶における分子間水素結合内のプロトン移動における、量子現象の発現や分子間での協同現象に注目し、このような現象を観測する上での分子・結晶設計について議論し、その上で、誘電率測定によって実際観測された特異な誘電挙動について考察を加える。特に一次元水素結合系では、系内のプロトン移動と電子系の切り替えが連動し、協奏的プロトン移動に基づく巨大な電気分極を示す可能性があり、この点について、具体例を提示することが本論文の主要な目的である(図1)。

図1 ヒドロキシエノン(s-トランス型)における一次元水素結合鎖と協同的互変異性と分極反転
分子・結晶設計

 水の一次元鎖モデルで指摘されているように、一次元水素結合系においては、協同効果による系内の協奏的なプロトン移動はエネルギー的に困難である。そこで、一次元水素結合系内においてこのような現象を観測する上で2つの方策が考えられる。一つは、水素結合力を高め、プロトンポテンシャル内の障壁を低くするという点から、イオン性の水素結合を利用する方法である。本論文で対象としている、「四角酸」は酸性が強いために、プロトンを解離したエノレート構造を取りやすく、エノール・エノレート間の強固なイオン性水素結合(C-OH…(-)O-C)の構築が容易であると考えられる。もう一つは、一次元水素結合鎖内のイオン性欠陥種を利用するものである。四角酸は3-ヒドロキシエノン(s-トランス)骨格を取り込んでいる。それによる一次元水素結合鎖は無限系として等価な二つの状態(構造)を取りうるため、一部イオン性の欠陥種を取り込み、それらが連鎖的プロトン移動に伴ってソリトンとして系内を動き回れる可能性がある。

 

イオン性水素結合における量子的プロトン移動

 p-フェニレンビス四角酸(PBSQ)は四角酸骨格同士の直接的な共役がフェニレン基によって弱められている点に特徴がある。四角酸骨格内の3-ヒドロキシエノン骨格が5%トリフルオロメタンスルフォン酸水溶液から再結晶することにより、PBSQ:H2O=1:2の組成の結晶が得られた。結晶中、水分子にプロトンを一つ与えてモノアニオンとして存在するPBSQ-は、PBSQ分子間で上述のような、エノール・エノレート間の強固かつ対称的なイオン性水素結合による一次元鎖を形成している(O…O:2.47Å)(図2)ことがX線構造解析の結果明らかになった。このような水素結合様式では、プロトンの移動と系の切り替えは結合しないため、よりプロトンの有効質量が小さいと考えられる。従って対称かつ障壁の低いプロトンポテンシャルが形成されれば(結晶中での対称性が高ければ)、量子的なプロトン移動の発現が予想される。一方、この結晶では対カチオンとして存在するH5O2+内にも対称水素結合が形成されている(O…O:2.4-5 Å)ことが判った。交流誘電率の測定においては、誘電率の値は、室温から液体ヘリウム温度まで殆ど温度依存性を示さない。一方、重水素化した結晶においては、温度の効果に伴って、誘電率は上昇し、約28Kにおいて、(反)強誘電性転移特有の誘電率の降下が観測された。従って、特に水素体において、誘電応答が温度に依存しない現象は、プロトンの揺らぎが、その高い量子性ゆえに、低温域においても秩序化しない状態であると解釈できる(量子常誘電性)。一方、重水素体において、転移後の誘電率の値の落ち方が小さいことも、量子効果が強く効いていることを示唆している。

図2 PBSQ結晶における水素結合系の模式図
擬一次元水素結合系における連鎖的プロトン移動

 PBSQ結晶においては高い量子効果が観測できたが、一次元水素結合系の特徴である、高い協同性やソリトンの効果を見出すことはできなかった。そこで、「ビ四角酸」に注目し、その互変異性の協同効果や、誘電性などについて検討した。ビ四角識は強力な有機酸(pKa2=-4.49)として知られている。結晶中で分子内の各ヒドロキシエノン部は、それぞれ強固な一次元水素結合鎖を形成しているが、交差共役系によって結ばれているために水素結合鎖間の相互作用は弱く、本系は擬一次元水素結合系と見なすことができる。報告されている結晶作成法では電気物性測定に耐えるだけ大きさの結晶は得られず、さらに作成法を探索した結果、60〜70℃の水溶液から蒸発法で再結晶することによって、測定可能な大きさの結晶が得られた。ビ四角酸結晶の分子配列面方向の交流誘電率を、4Kからの昇温過程について測定した。その結果、約290Kにおいて、顕著な周波数依存性を伴なった、誘電率の急激な上昇が観測された(図3)。室温のX線構造解析において、分子骨格は動的あるいは静的ディスオーダーによって、結合交替が平均化された構造であることが報告されている。ところが、低温X線構造解析(200K)を行ったところ、分子骨格の対称性の低下(D2h-→C2hが認められ、低温では、鎖間で双極子モーメントが互いにうち消すように水素の秩序化が起こっていることが判った(図4)。従って、室温域での誘電応答は、分子間のプロトン移動に基づくものと解釈される。

 

図3 ビ四角酸結晶の交流誘電率温度依存性図4 ビ四角酸結晶低温相の模式図

 一方、さらに低温域(水素体40K、重水素体135K)においても、誘電率の降下が認められ、プロトンの秩序化が二段階に渡って起こっていることが示された。この現象はKDP(KH2PO4)型の水素結合性誘電体においては例がなく、本系の特質を示すものである。

 結晶内での極性反転の機構であるが、図1のような中性分子間での一斉のプロトンの受け渡しは、エネルギー的に大変不利な過程と考えられる。一方、このような一次元的な水素結合鎖には、プロトンを2つもったカチオン種、プロトンを持たないアニオン種といった荷電分子が、欠陥種として少量とりこまれていることが指摘されている。まず、室温付近での誘電率の上昇は、構造転移に伴って、連鎖的なプロトン移動が発生し、欠陥種が自由に動ける状態になることに伴うものと考えられる。一方、40Kでの誘電率の落ち込みは、秩序相においても存在する欠陥種近傍の強力な水素結合内に残ったプロトン移動が停止する過程であると解釈している(図5)。ここで仮定したイオン欠陥種に関しては、IRスペクトルの測定によって、その存在を支持する結果が得られている。

図5 構造相転移に伴う、荷電欠陥種と介した連鎖的プロトン移動

 従来、水分子の一次元鎖における荷電ソリトンの振る舞いが、氷や生体系の水素結合系におけるプロトン移動のモデルとして理論的に研究されてきた。ビ四角酸のような水素結合系は水の一次元鎖と同様な議論が可能であり、これらを議論の妥当性を吟味する上での格好のモデル物質であると言えよう。

四角酸・水混合水素結合ネットワーク構造におけるプロトン移動

 他の四角酸誘導体結晶において、水・四角酸の混合水素結合ネットワーク構造が形成されることが見出された。四角酸ベンゼン1,3,5-位3置換体(TSQB)の結晶は、TSQB:H2O=1:2の組成で構成され、水分子は結晶学的に等価な3つの四角酸部位のカルボニル基と水素結合を形成している(O…O:2.61Å)。また2つの水分子をつなぐ四角酸部位はX線構造解析上、結合交替が平均化されており、さらに水素結合内の水素はディスオーダーした状態で観測されており、プロトンの移動の存在が示唆される。イオン性水素結合の形成によって、異分子間においてもプロトン移動が起こるかどうかは今後の興味ある課題と言えよう。

 以上、本論文では、様々な水素結合様式、ネットワーク様式の四角酸誘導体結晶を用い、その違いが様々なプロトン移動様式を発現すると同時に、それらが誘電性として顕著に観測されることを明らかにした。

図6 TSQBにおける水・四角酸複合水素結合ネットワークの模式図
審査要旨

 水素結合は、近年発達してきた分子集合体の科学における構造制御の有力な手段として、活用されている。一方、水素結合は、プロトンの移動に基づく動的な性質を担いうる点に特色があり、生体系におけるプロトン輸送や氷の示す誘電性、伝導性などの特殊な性質は、この動的性質の側面によりもたらされているといえる。しかしながら、このプロトンの動的過程の直接的な観測の難しさがあり、そのメカニズムの詳細は十分明らかにされていないのが現状である。従って、プロトンの運動様式と分子の性質や、集合体としての構造との関係を明らかにしていくことは、今後の新たな機能性物質開発という点でも重要である。本研究では、水素結合性有機結晶における分子間水素結合内のプロトン移動にみられる、量子現象の発現や分子間での協同現象に注目し、このような現象を観測しうる分子・結晶の設計を行なっている。次いで、新たに構築された水素結合性結晶の誘電率を測定することにより、特異な誘電挙動を見出し、それにより、水素結合性結晶中でのプロトン移動の本質を解明する議論を展開している。

 第一章では、一次元水素結合系におけるプロトン移動発現のための分子・配列設計に関する要点が述べられている。一次元水素結合系では、系内のプロトン移動と電子系の切り替えが連動し、協奏的プロトン移動に基づく巨大な電気分極を示す可能性がある。そこで申請者は、エネルギー的に困難な協奏的なプロトン移動によらずプロトン移動を実現させるために、まず、プロトンポテンシャル内の障壁を低くするという観点から、イオン性の水素結合を利用する方法を提案している。本研究で取り扱っている四角酸(1)は酸性が強いために、プロトンを解離したエノレート構造を取りやすく、エノール・エノレート間の強固なイオン性水素結合(C-OH…(-)O-C)の構築が容易である。もしこのようなイオン性水素結合が形成されれば、プロトンは、量子的な運動をし易いと予想される。第二の方法は、一次元水素結合鎖内のイオン性欠陥種が連鎖的プロトン移動に伴って、ソリトンとして系内を動き廻る現象を利用するものである。四角酸は3-ヒドロキシエノン(s-トランス)骨格を取り込んでおり、それによる一次元水素結合鎖は無限系として等価な二つの状態(構造)を取りうるため、一部イオン性の欠陥種を取り込んでいる可能性が高いことを指摘している。後続の各章では、これらの機構に基づくプロトン移動系の具体例が論じられている。

ヒドロキシエノン(s-トランス型)における一次元水素結合鎖と協同的プロトン移動

 第2章で申請者は、ベンゼン環に対称に2つの四角酸を導入した化合物(2)を取り上げ、イオン性水素結合における量子的プロトン移動の発現について検討している。2の結晶はエノール・エノレート間の強固かつ対称的なイオン性水素結合による一次元鎖を形成していることが、X線構造解析の結果明らかになった。またこの水素結合は結晶中での対称性が高く、プロトントンネリングが発現する可能性が極めて高い構造である。交流誘電率の測定により、誘電率の値は、室温から液体ヘリウム温度まで殆ど温度依存性を示さないことが判った。一方、重水素化した結晶においては、温度の降下に伴って誘電率は上昇し約28Kにおいて、(反)強誘電性転移特有の誘電率の降下が観測された。従って、水素体における誘電応答が温度に依存しない現象は、「トンネル機構に基づくプロトンの揺らぎが、その高い量子性ゆえに、低温域においても秩序化しない状態」と解釈でき、一種の"量子常誘電性"が観測されたものと結論づけている。四角酸結晶は超高圧下においてのみ量子常誘電性が発現することが報告されているが、水素結合系の変化によって、同じ分子骨格から顕著な量子効果が引き出された点が注目される。

 第3章では、四角酸誘導体の一次元水素結合系におけるプロトン移動が述べられている。申請者は特に、ビ四角酸(3)に注目し、その結晶の互変異性の協同効果や、誘電性などについて検討を行なった。ビ四角酸は強力な有機酸(pKa2=-4.49)で、結晶構造解析により、結晶中で分子内の各ヒドロキシエノン部は、それぞれ強固な一次元水素結合鎖を形成していることが知られている。しかし従来の結晶作成法では、電気物性測定に耐えるだけの大きさの結晶は得られず、これまでこの結晶の物性については、全く研究が行なわれていなかった。申請者は結晶作成法を粘り強く探索した結果、60〜70℃の水溶液から蒸発法で再結晶することによって、初めて測定可能な大きさの結晶を得ることに成功した。この結晶作成は、本研究を遂行する上での大きなブレークスルーになったといえる。誘電率の測定の結果、約290K-において誘電率の急激な上昇が観測された。また、低温X線構造解析(200 K)を行ったところ、水素結合型結晶構造の変化が認められた。従って、室温域での誘電応答は、分子間のプロトン移動に基づくものと解釈される。一方、さらに低温域(水素体40K、重水素体135K)においても誘電率の降下が認められ、プロトンの秩序化が二段階に渡って起こっていることが示された。この現象は従来の水素結合性誘電体においては例がなく、本系の特質を示すものである。

 これらの測定結果を受けて、申請者はここでのプロトン移動が、一次元水素結合鎖において提案されているソリトンモデルでよく説明できることに着目し、さらにソリトン(荷電欠陥種)の存在を分光学的手法により実証した。本章において述べられた一次元水素結合系のソリトン現象は、本研究での最大の発見であり、関連分野においてすでに注目を浴びている。

 第4章では、更なる構造体のバリエーションとして、いくつかの四角酸誘導体結晶において、水・四角酸の混合水素結合ネットワーク構造が見出されたことが述べられている。特に四角酸のベンゼン三置換体(5)の結晶においては、水と四角酸の混合水素結合ネットワーク上でプロトン運動が起こっていることを示唆する結果が得られている。現実の生体プロトンポンプは有機物質の水の混合ネットワークによって構成されていることが近年注目されており、本章で述べられている結晶群は、単なる有機結晶よりもさらに生体系に近いモデル物質と見なすことができよう。

 従来、水分子の一次元鎖における荷電ソリトンの振る舞いが、氷や生体系の水素結合系におけるプロトン移動の理論的モデルとして研究されてきた。今回構築されたビ四角酸の水素結合系におけるプロトンダイナミックスは水の一次元鎖と同様な議論が可能であり、その妥当性を吟味する上で、格好のモデル物質を創出したといえる。従って、本研究で得られた結果は,固体物性に止まらず周辺分野へ強い波及性を持つという点で、意義深いものと認められる。

 以上の成果で明らかなように、申請者は有機分子に対する深い洞察力に基づき、適切な分子群を選び出し、良質な結晶作成に成功するなど、物性化学者としての資質を備えていることを示した。一方で、得られた特異な誘電挙動の解釈に関しては、その本質をより深く解明すべく、物理学的議論を展開しており、その研究内容は本専攻にふさわしいものとして高く評価できよう。

 これらを総合して、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位にふさわしいものと判定した。

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