学位論文要旨



No 114921
著者(漢字) 高橋,秀裕
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,シュウユウ
標題(和) ニュートン数学思想の形成
標題(洋)
報告番号 114921
報告番号 甲14921
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第263号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,力
 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学 教授 米谷,民明
 東京大学 講師 岡本,拓司
 東京大学 教授 岡本,和夫
内容要旨

 アイザック・ニュートン(Isaac Newton,1642-1727)は,近代西欧一,二の数学者である.彼は微分積分学を創始し,さらには運動法則と万有引力理論により,いわゆる地上と天上の運動を数学的法則によって統一的に扱う力学の理論体系を築いた.しかし,そこから連想される数理科学的イメージと実際そこに現れているニュートンの数学思想とは,極めて異なる様相を呈していると思われる.

 本論文は,そのようなニュートンの数学思想の基本性格を解明し,その歴史的形成過程を探ることを目的としている.特にそれは,ニュートンの数学,とりわけ流率法に関する主要な論考を年代誌的に克明に分析し,その論法の定立と概念構成の機構の形成過程を明らかにする試みである.

 ニュートンの数学的業績は,1960年代までそのほとんどが未公刊のままであった.1967年から81年にかけて,ニュートンの極めて乱雑な状態であった数学に関する膨大な遺稿類は,ケンブリッジ大学の数学史家ホワイトサイドによって『ニュートン数学論文集』全8巻(1967-81年)として編集・公刊された.まだ少なからず問題は残っているものの,これはニュートンの数学に関して論じる場合に,参照すべき最も基礎的な文献である.これによって,ニュートンの数学を原典によって論ずることが可能になり,1960年代以降のニュートンの数学に関する研究は目覚しく進展したのである.

 しかし,これまでのニュートンの数学に関する歴史的研究は,ほとんどが数学者ニュートンが誕生するまで,すなわちニュートンの初期の数学研究を分析するものと,ニュートンの最高傑作『自然哲学の数学的諸原理』(1687年初版刊行.以下,『プリーンキピア』と略記.)の数学的特質を探るものとに二分され,ニュートンの無限級数や流率法に関する論文と『プリーンキピア』の数学との関係といった問題等が十分論じられているとは言えない.ニュートンの伝記的大作『休みなく-アイザック・ニュートン伝』(1980年)の著者ウェストフォールによって指摘されたように,初期流率論によって得られた諸結果が,ニュートンが後に『プリーンキピア』を仕上げる際に本質的に機能していたとするならば,その解明には,数学文献に基づく詳細な分析がなされなければならない.本論文の最大の特色の一つは,この点に焦点を当てていることである.

 その試みを実行するためには,ニュートンの「数学思想の転換」という視点を導入する必要がある.近年の数学思想史の研究は,ニュートンは1670年代から,デカルトの自然哲学に批判的姿勢を見せ始めたのと並行して,自己の流率論を古代の伝統に従って幾何学的スタイル(特にパッポスの様式)のものに合わせようとし,その過程で『プリーンキピア』の数学スタイルが形成されたということを指摘した.本論文はこの視点から,転換期の数学文献の詳細な分析をおこない,実際青年期以降のニュートンが自己の数学思想をどのように転換していたのかを探る.この作業は,『プリーンキピア』の数学,さらにはニュートンの数学に明解な解釈を与え,それらの歴史的形成過程を追うためのいわば必要条件となるのである.

 本論文の第二の特色は,ニュートンの発見した微分積分学が,極めて特異なものであったということをより一層鮮明にすることにある.「複数の数学思想に基づく微分積分学の形態・段階」という視点は,微分積分学の形成過程におけるニュートンとライプニッツの比較を行う場合に重要になってくると考えられる.

 また,本論文のように,ニュートン数学思想の形成過程を,ニュートンの初期段階から晩年に至るまでの広範囲を考察の対象として論じるものが,いままで邦語文献の中にほとんど存在しなかったということも本論文を特色あるものにしていると言えるかもしれない.

 本論文は大きく二つの部分からなる.最初の三つの章(第1章〜第3章)では,17世紀前半から青年期ニュートンの解析的流率論1が成立するまでの論理の変遷を考察する.その研究は,まず1666年までの時代の空気を感じつつ,ニュートンがほぼ二年間で,新しい基礎の構築に着手した技法的背景の分析から始め(第1章,第2章),続いて,流率論に関する三つの主要論文を分析する(第3章).特に,流率概念と表記法の変遷,またそのなかで理論がどのような基本概念の上に立てられ,展開されているか,そしてどのような結果に到達しているかを考察する.

 後半の三つの章(第4章〜第6章)は,本論文の主題が展開される部分である.そこでは,ニュートンの数学思想のいわば転換の問題が考察の中心となる.上で触れたように,実際,青年期以降のニュートンが自己の数学思想をどのように転換していたのか,その事情をより十全に明らかにすることは,われわれの課題として残されているのである.ここでは従来の研究を一歩でも進めるために,ニュートンの「幾何学的流率論」ともいうべき内容に関する論文2篇(『プリーンキピア』も含む),また純粋幾何学に関する草稿1篇,そして晩年のいわば総括的な流率論1篇を選び,それらを詳細に分析する.

 最終章では,最近の研究を踏まえ,微分積分学の成立とその問題点について包括的に考察する.そこではニュートンの微分積分学(流率論)が如何に特異なものであったかが,ライプニッツのそれとの比較を通してより一層明確にされる.

 1ニュートンの初期流率論がいわゆる代数解析的技法によるものであることから,われわれはそれを解析的流率論と呼ぶ.

 全体を通して心掛けたことは,『ニュートン数学論文集』の内容を,ニュートン自身の論理展開にできる限り沿って考察したことである.しかし,内容が紹介に終始しないよう,その思想史的・社会史的背景をも考察することに努めた.

 以下,各章ごとに,本論文で明らかにしたことを概略的に述べておこう.

 第1章「ニュートン以前の17世紀数学」では,まず17世紀前半の英国の代表的な数学者を取り上げ,その業績の意義を概観した.あわせて,当時の新進学問の中心は大学ではなかったことも確認した.その後,17世紀の中頃を挟んで,「無限小幾何学」が積極的な態度で展開され,その中から運動学を媒介とする「運動幾何学」の流れが形成されてきたのである.

 第2章「ニュートンの流率概念の形成」では,ニュートンの初期の数学研究の草稿を分析し,流率論の第一論文ができるまでを考察した.はじめニュートンはどんな予備知識をもっていたかを概観し,それに関連して,ニュートンの最初の大功績である一般二項定理の導出について詳細に検討した.また,そこではデカルトの『幾何学』(1637年)がニュートンに与えた影響を跡づけることを中心に,「流率」概念がどのように形成されて行ったかが詳しく分析され,1666年5月にはほぼ流率法が出来上がっていたことが確認された.その中で,バロウとニュートンの関係についても一考察が加えられた.

 第3章「解析的流率論の成立」では,ニュートンの解析的流率論の三つの主要論文「流率に関する1666年10月論文」,『無限個の項をもつ方程式による解析について』(1669年),『級数と流率の方法』(1670-1671年)を詳細に分析した.まず,第一論文の分析では,前二章を踏まえて,流率法の基本的アイデアは,ほとんどすべて当論文に含まれていたということが明らかになり,以前に用いられていた概念機構からの変遷が一層明らかになった.また,流率論第二論文の分析では,ニュートンの流率論にとっての,いわば車の両輪の一つとして決定的に重要な「級数展開による積分のための技法」を考察し,その過程で,この第二論文の主要目的は,陰関数f(x,y)=0が与えられたとき,yをxのベキ級数で表す方法を示すことであったということが明確にされた.第三論文は,前二論文を総合,発展させたものである.この分析を通して,前期ニュートンの数学思想の位置づけが結論づけられた.

 第4章「数学思想の転換」では,これまでの科学史の先行研究に基づき,ニュートンの自然哲学思想を概観し,それと並行して起こった数学思想の転換の内容を,実際の二つの数学文献「『級数と流率の方法』の補遺」(1672年),『曲線の幾何学』(1680年頃)を分析することによって明らかにした.その中で,ニュートンはすでに『級数と流率の方法』(1670-1671年)執筆直後に,転換の方向に走り出していたことが確認された.

 第5章「『プリーンキピア』の数学」では,前章で検討した数学思想の転換の過程の中に『プリーンキピア』を位置づけることによって,そこで展開されている数学的手法を分析した.

 第6章「晩年の数学研究」では,古代ギリシャへの畏敬と流率論と,さらにはその先取権をめぐる緊張関係の中で行われた純粋幾何学の研究論考『幾何学3巻』とニュートン最後の流率論文となった「曲線の求積について」を詳細に分析した.その中で,ニュートンは『プリーンキピア』執筆時の数学思想を,「古代の幾何学」と自己の「流率論」を合体させた壮大な作品として纏め上げ,世に問おうとした形跡があるということも指摘した.

 最後に,本論文の結論を今後の課題も含めて総括的にまとめておこう.

 本論文の前半部の探求は,ニュートンが17世紀前半から用意された代数的解析スタイルをどのような過程で素早く自己のものとし,それをどのような論法技法と概念構成で流率論に結実させたかを理解するものであった.また,後半部での検討で,ニュートンの幾何学的流率論における数学スタイルは,まさに『プリーンキピア』を記述する数学的言語になったということが,実際の数学文献に基づいた本論文の研究によって,より一層明確になったと言えよう.これらの考察の過程で,ひとつ一つの細かい数学的問題にも,時には冗長ともいえる検討を加えたが,それは,ニュートンの用いている「概念と技法」に研究者自らが精通することを通してのみ,彼の方法が如何に独自なものであるか,あるいはそれが如何に苦心して創り上げられたものであるかを理解することが可能であると考えたからである.

 本論文の克明な分析により,初期の著作から晩年までのニュートン流率論の中心的な表現機構は,次の四つに分類されると考えられる.

 (i)有限量の無限に小さい構成要素として微分を用いること.

 (ii)ある無限に小さい時間間隔に運動によって生成される無限に小さい構成要素としてモーメントを用いること.

 (iii)有限変量とそれらの変化の比率を用いること.

 (iv)流量とそれらの速度(流率)を用いること.

 彼の初期の諸著作において,ニュートンは高次のモーメント(「微分」)に消約の原理を使用した.彼はそれを後に,『プリーンキピア』と「曲線に求積について」において,一つの極限理論として発展させたのである.

 ニュートン流率論のこれらの表現機構が,ニュートン自身にとって,総体的に自己の流率論の正当な基礎として理解されたとするならば,ニュートンの数学思想は,本論文の中心的主題であった解析的流率論から幾何学的流率論への数学スタイルの転換という大きな側面と,両者に共通する論法の概念機構は転換と言えるほどのものではなかったという面の両面性を兼ね備えていたということになろう.確かに,このような視点からの考察は,今後の検討課題として残されよう.しかし,本論文でより明らかになったように,ニュートンの数学思想は,彼の一般的思想傾向と適合的であり,1680年代以降のニュートンの数学論考は,彼がはっきりと古代ギリシャを向いていたことを示している.また,特に晩年のニュートンが幾何学的厳密性に固執したのは,彼がデカルトやライプニッツの代数解析的伝統に満足できなかったからにほかならなかった.われわれはそのような視点を明確にすることによって,ニュートン数学思想の解釈に非歴史的逸脱がないように注意しなければならないのである.

 いずれにしても,ニュートンは,流率法で得た豊富な定理や諸結果を自分の弟子たちに残した.と同時に,彼はまたその方法や概念のかなり混乱した表現をも残すことになった.しかし,そこには決して形式主義的な態度は見当たらないのである.ましてや,われわれがニュートンの数学をどうして「純粋な数学的形式」だけで解釈できようか,ということは言えるであろう.

審査要旨

 本論文は、17世紀英国の数学者アイザック・ニュートンの数学思想の発展を、可能な限りの文献を渉猟して追跡し、再構成した画期的研究である。

 ニュートンは古典力学を創造した学者として著名であが、同時に流率法と呼ばれる特異な微分積分学の形態をライヴァル・ライプニッツに先立って創造した数学者としても知られる。しかし、ニュートンの数学草稿の大部分は、今世紀の60年代末からケンブリッジ大学の数学史家ホワイトサイドが全8巻にまとめて編集公刊するまでは、一般の研究者の目から遠ざけられていた。高橋氏は、この数学論文集などの史料に取り組み、さらには、ホワイトサイドの編集姿勢にも批判的に臨んで、ニュートンの数学にまつわる数多くの謎を解明することに成功した。そのことによって、近代数学の形成にとって枢要な17世紀西欧の無限小解析の実像と、その中でニュートンが果たした役割がいかなるものであるのかを歴史的に示しえた。

 本論文の独創的貢献をもっと詳細に述べれば、以下のとおりである。

 (1)ニュートンの数学、とくに流率法の形成過程を年代史的に辿り直し、その全体像を明らかにしたこと。本研究によって、ニュートンの数学の17世紀数学史における画期的意義は確定したと見なされうる。

 (2)ニュートンの初期の代数解析的流率法は、1669年ころを境に総合幾何学的流率法に転換した。その転換がデカルト思想に対する反逆など一般的な思想的転回の一環であったことを明らかにした。ちなみに、この転換以降の幾何学的流率法をもとに、『自然哲学の数学的諸原理』(プリーンキピア)は書かれた。

 (3)微分積分学発見の先取権をめぐるライプニッツとの論争がいかにして起こったのか、その解消はいかになされたのかの問題に決着をつけた。さらに、19世紀初頭までの英国のニュートン学派とヨーロッパ大陸のライプニッツ学派の相違の中核的部分をも明らかにした。

 本論文は、数学思想に集中した論文である。力学形成、神学思想との関連をもっと綿密に研究すれば、もっと完全になったであろう。けれども、高橋氏はそのことを十分理解しており、また分量的にそれを本論文に盛り込むことは不可能である。審査委員全員は、本論文をもって学位取得のためには十二分であると判断した。1960年代以降、数学史研究の世界的な一大隆盛が見られる。高橋氏の論文は、この動向に乗り、日本の地で、この流れに棹さす仕事を、高校教師であり、かつ僧職にある身で成し遂げた。本論文は、高橋氏が世界的に第一線に立つ数学史家たる人材になりうることを示している。

 よって、本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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