学位論文要旨



No 114922
著者(漢字) 武田,啓司
著者(英字)
著者(カナ) タケダ,ケイジ
標題(和) 高スピンマンガンクラスターにおける熱的および量子的磁気緩和
標題(洋) Classical and Quantum Magnetic Relaxations in High-Spin Manganese Clusters
報告番号 114922
報告番号 甲14922
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第264号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 阿波賀,邦夫
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 助教授 和田,信雄
 東京大学 助教授 小形,正男
内容要旨

 単磁区磁性体や極微小磁性体は応用工学の分野で重要である一方、メゾスコピック系特有な現象が現れることから、基礎科学の研究対象ともなっている。このような物質系の合成法としては、蒸発法などの物理的合成法が主流であるが、純粋な錯体化学合成によるクラスター作成も急速な進歩を遂げている。このような化学的手法で合成されたクラスターの中で、現在最もその磁気特性が注目を集めているのが12個のMnイオンから成る混合原子価クラスター、[Mn4+4Mn3+8O12(O2CR)16(H2O)4]・nA(R=CH3-,C2H5-,C6H5-,…;A=溶媒分子)である。分子内イオンのスピンが20K以下で秩序化して、極低温ではあたかもS=9〜10の1つの磁気モーメントのように振舞う。この磁気モーメントの挙動は、分子内の強い1軸異方性を反映した次のようなハミルトニアンH=DSz2-gBSzHz(1)で記述されるため、磁化容易軸に対して平行と反平行の状態間にエネルギー障壁が存在するような、2極小ポテンシャルモデルで説明される1)(図1)。ここには0exp(E/BT)(2)に従う熱活性型の緩和、および量子トンネルによる緩和など、ナノスケール磁性体特有の現象が観測され、図1のモデルを用いてかなり詳細な定量的議論がなされてきた。Mn12を交流磁場中に置き、温度を10K以下に下げると、そのポテンシャル障壁のためS=9〜10の磁化の運動は外部磁場に追従できなくなる。これ故、交流磁化率の虚数部"が次第に現れる。さらに温度を下げ、いわゆるブロッキング温度TBを通過すると、磁化の運動は完全に凍結され、"は実数部’とともにゼロとなる。したがって磁化凍結過程では"は極大を見せることになるが、これまで報告されているほとんどのMn12誘導体で、"の温度依存性に2Kおよび5K付近に2つの極大が観測されている。これは単一組成のクラスター結晶中に2種類の緩和過程が存在していることを示している。式(1)による解析から、5Kの極大はESR/B〜60Kに従う遅い緩和過程(SR)、2Kの極大はEPR/B〜30Kに従う速い緩和過程(FR)に分類される2)。磁気モーメントの反転が凍結するブロッキング温度も、SRではTBSR〜3K、FRではTBFR〜1Kと異なっている。当初から最も盛んに研究されてきた酢酸配位の誘導体、[Mn12O12(O2CCH3)16(H2O)4]・2CH3CO2H・4H2O3)ではSRがメインとなり、数%存在するFRは不純物に由来するとみなされていた。本研究では、Mn12を含む2種類の超分子磁性体の研究により、FRがMn12に本質的であることを示すことができた。2種の緩和過程の由来を、分子論的に追求した。

図1 S=10のMn12のポテンシャル有機ラジカルによるMn12クラスターの緩和促進

 Mn12に関しては、1電子還元状態も安定であることが知られている。1電子還元型クラスター[Mn12O12(O2CC6H5)16(H2O)4]-の対陽イオンを、安定有機ラジカルイオンm-MPYNN+、及び非磁性イオンP(C6H5)4+とした2種類の錯塩を作成し、多結晶試料の磁性測定を行った4)。1分子のみに由来するとされるクラスターの緩和機構が、周りの磁気的環境の変化によりどのような影響を受けるかを調べることは、ナノスケール磁性体の理解に非常に重要であるばかりか、将来的にクラスターを用いて新しい物性を示す超分子を構築するためのヒントを与える。m-MPYNN+塩のEPR測定は、有機ラジカルがもつ強いスピン格子相互作用がクロス緩和を介して[Mn12]-の緩和を促進すことを示唆していた。しかしこの両者の極低温における挙動を決定づけたのは、このクロス緩和の有無ではなくm-MPYNN+塩ではFRが、P(C6H5)4+塩ではSRが支配的になるという事実で、1.7Kで測定した磁化曲線には、P(C6H5)4+塩の場合大きなヒステリシスが現れるのに対して、m-MPYNN+塩ではヒステリシスは生じなかった(図2)。これまでSRは不純物の影響ともされてきたが、m-MPYNN+塩で支配的である以上、Mn12に本質的なものであるということが示された。

図2 "vs.T プロット
SRとFRの分子論的起源

 先の研究で、結晶溶媒に安息香酸を有する中性型クラスター[Mn12O12(O2CC6H5)16(H2O)4]・2C6H5CO2Hを偶然ではあるが得ることができた5。この誘導体が、SRとFRの由来を考える上で非常に有用であることがわかった。図3はこの誘導体の結晶構造のc軸投影図である。b軸(またはa軸)に対して2方向に配向した分子が存在する。実線の矢印は分子軸でそれぞれb軸に対して±9°傾いている。

図3 結晶構造のc軸投影。図中、実線の矢印は分子軸。破線の矢印はFR分子の容易軸

 図4、5はあるパッチの結晶1個を用いて測定した、交流磁化率の温度依存性と1.7Kでの磁化曲線である。"には2つのピーク現れているが、その強度が同じオーダーになるという新奇性がある。交流磁化率のデータから式(1)を用いてSRおよびFRの緩和時間を見積もった結果は、SRについてはESR/B=66K、TBSR=2.7K、FRについてはESR/B=38K、TBFR=1.3Kとなった。一方、1.7Kの磁化曲線は、2段階に飽和する、非常に特徴的な形状をしている。そこで結晶内にSRとFRの2種類の緩和時間をもつ分子が共存していると仮定して、図5の磁化曲線を解釈した。測定温度1.7KではSRの分子は磁化の反転が凍結しているため、これに由来する磁化曲線MLSRはヒステリシスをもつ(図5中の点線)が、FRの分子は磁化が揺らいでいるために磁化曲線MLFRはヒステリシスをもたないと考えられる。さらに磁場に比例する垂直磁化MT(図5中実線(細))寄与を考慮した結果、実験データをよく再現することができた(図5中実線(太))。MLSR、MLFRそれぞれの飽和磁化の比MSSR:MSFR、および交流磁化率の実部’の’T vs.Tプロットにおける’Tの変化の大きさの比:’TFRは、ともに結晶内におけるSRとFRの分子の存在比に比例すると考えられる値であるが、両者はほぼ一致した。これはSRとFRの分子が単一の結晶内に共存している確たる証拠といえる。

図4(a)’T vs.T,(b)"vs.T図6 磁化曲線(1.7K)図7 磁化曲線の角度依存性(1.7K)

 同じバッチの結晶を用いて、1.7Kにおいてab面内で回転させながらゆっくりとした磁場掃印速度で磁化曲線を測定した。この磁化曲線上には量子トンネル効果によりステップが観測された。このトンネル現象は1.7Kでヒステリシスの生じるSR分子のみに由来している。式(1)のハミルトニアンによれば、クラスターのエネルギーはE(m)=Dm2-gBmH2と表される。ゼロ磁場下では対称な2極小ポテンシャルが、磁場をかけていくに従い、ゼーマン項-gBmH2の影響で非対称になる。そしてある特定の磁場で両側の±mの準位が一致して、一致した準位間での量子トンネルにより磁化の急速な反転が起こる。これが磁化曲線上のステップの原因である。この共鳴磁場の角度依存性から、磁化容易軸はb軸から±50°傾いており、図3の分子軸に一致することがわかった。よってSR分子の容易軸は分子軸に平行であるといえる。

 次に10Kにおいて、磁化のab面内で角度依存性測定を行った。この場合は結晶内で多数を占めるFR分子の磁気特性を見ることになる。詳しい理論解析の結果、FR分子の場合、その磁化容易軸が分子軸から約10°傾いている(図3中破線矢印)ことがわかった。熱的な緩和と量子的な緩和に支配されている磁化曲線の角度依存性を丹念に調べることにより、SR分子とFR分子の磁気異方性の違いを明かにすることに成功した。

 さて、X線構造解析の結果にもどると、このデータもやはり結晶内で支配的なFR分子を反映しているといえる。多くのMn12誘導体では、各Mn3+でヤーンテラー変形により伸びた軸は分子軸に近い方向にあり(図3(a))、寄与を足し合わせると分子軸に対して完全に平行な方向で極大となる。ところがこの結晶では8つのMn3+のうち1サイトだけ分子軸から60°以上傾いた2つの軸が伸びて、分子軸に近い軸が短くなっていることが分かった(図3(b))。8つのMn3+の異方性di(i=1.2,…,8)から分子全体の容易軸Dを計算で見積もっところ、Dは分子軸から約10°傾いた方向に存在すると予想され、磁化の角度依存性の実験と一致する結果となった。

 [Mn12O12(O2CC6H5)16(H2O)4]・2C6H5CO2Hの結晶は、容易軸が分子軸に平行なSR分子と、容易軸が分子軸から約10°傾いたFR分子とが共存するモザイク様の結晶になっている可能性が高い。これにより単一の結晶にも関わらず2種類の緩和過程が観測されるわけである。ここで興味深いのは、8つのMn3+のうち1つのサイトの歪み方が微妙に異なるだけで、緩和時間が大きく異なってしまうという事実である。単分子磁石としての性質を得るためには、各サイトの異方性をそろえることが重要であることがわかる。またFR分子のトンネル効果に関しては、現在盛んに研究されているSR分子のものよりも数段複雑な様相が予想され、今後の展開が期待できる。

引用文献1 R.Sessoli,D.Gatteschi,A.Caneschi,and M.A.Novak,nature 365,141(1993).2 H.J.Eppley,H.-L.Tsai,N.de Vries,Kirsten,G.Christou,and D.N.Hnedrickson,J.Am.Chem.Soc.117,301(1995).3 T.Lis,Acta Cryst.B 36,2042(1980).4 K.Takeda and K.Awaga,Phys.Rev.B 56,14560(1997).5 K.Takeda,K.Awaga and T.Inabe,Phys.Rev.B 57,11062(1998).
審査要旨

 本論文は4章からなり、第1章は導入説明にあてられている。第2章は有機ラジカルを対イオンとする1電子還元型Mn12核クラスターの磁性について、第3章では結晶溶媒を含む中性型Mn12核クラスターの構造と磁性の関係について記されている。第4章では全体の結論が述べられている。

 第1章は本論文の導入説明として、微小磁性体の研究の概要を説明した上で、Mn12核クラスターの構造と物性について言及している。単一の磁区をもつ微小磁性体では、バルクの磁性体とは異なり、メゾスコピック系特有の熱的および量子的磁気緩和が観測されるが、その研究の基礎的、応用的意義について説明している。次に、その実験対象としてMn12を取り上げ、その反応性等の化学的性質と、磁性を中心とする物理的性質を紹介している。スピン数Sや磁気異方性Dをパラメータとする、Mn12の熱的および量子的磁気緩和に関しての研究が、微小磁性体についての理解を飛躍的に向上させたことを述べている。つまりMn12はS=10の高スピン基底状態とD=-0.6Kの強い1軸性の異方性をもつことから、分子の磁化は容易軸に対して平行と反平行の2状態が安定で、その状態間にはエネルギー障壁E=|DS2|=60Kのが存在する。この障壁の存在によって約3K以下で磁化の反転は凍結されることを紹介している。これまでの研究により、全てのMn12誘導体の結晶中には、この磁化凍結温度が約3Kの遅い緩和成分(SR)のほかに、凍結温度が約1Kのマイナーな速い緩和成分(FR)の存在が知られている。本研究の目的が、この2種類の緩和過程の起源を分子論的に解明することにあるとして結んでいる。

 第2章では、1電子還元型クラスターの対カチオンを、安定有機ラジカルイオンとした錯塩(m-MPYNN+)[Mn12O12(O2CC6H5)16(H2O)4]-、および非磁性イオンとした錯塩(P(C6H5)4+)[Mn12O12(O2CC6H5)16(H2O)4]-の磁性測定の結果を述べている。第1節は、1分子由来といわれるMn12の性質が、外部の磁気環境の変化から受ける影響を調べるという研究目的を述べている。第2節は試料作成の手順を述べている。第3節では、m-MPYNN+塩のEPR測定の結果、ラジカルがこの塩の中で安定に存在するものの、Mn12との直接の交換相互作用は弱いことを説明している。第4節には、2種類の塩の1.7Kにおける磁化曲線が紹介してあり、P(C6H5)4+では磁化の熱揺らぎが凍結したことを示すヒステリシスを生じるにもかかわらず、m-MPYNN+塩では生じないという決定的な違いを記している。

 第5節は、交流磁化率の測定を行い、第3節のEPRおよび第4節の磁化曲線の結果と対応付けた解釈を述べている。交流磁化率の測定の結果、2種類の塩ともSRとFRが観測されるが、メインとなる緩和がP(C6H5)4+塩ではSR、m-MPYNN+塩ではFRとなっており、それぞれの試料の磁化凍結温度と磁化曲線の測定温度を考えることにより、1.7Kにおける大きな磁化曲線の違いを説明することに成功している。本章の結果として、Mn12と有機ラジカルとの超分子化合物中では、FRが全体の緩和を支配し、それにより1分子由来とされてきたMn12の緩和が促進されていることを挙げている。FRがMn12の緩和において本質的なものであることを見いだした、という点で評価された。

 第3章は、[Mn12O12(O2CC6H5)16(H2O)4]・C6H5CO2Hなる誘導体を用いて、分子構造と磁気異方性の測定により、SRとFRの起源解明にいたる経緯を述べたものである。第1節は導入部で、前章までの結果を振り返った後、SRとFRの起源は何か、SRとFRの比率を変える要因は何か、という問題提起を行っている。第2節は、試料作成および物性測定についての詳細が記されている。第3節は、この誘導体ではSRとFRとの比率が大きなバッチ依存性をもつことと、2種類のバッチの結晶それぞれの交流磁化率、極低温の磁化曲線についての測定結果が書かれている。まず交流磁化率の結果より、バッチAではSRとFRとの比率が約3:7であるのに対し、バッチBはほぼFRのみを示すことを見いだした。バッチAの磁化曲線は非常に変わった形状をしているが、結晶内にSRとFRの緩和時間をもつ2種類の分子が共存していると仮定して定量的に説明することができたことが述べられている。第4節ではFR分子のみからなるバッチBの結晶についての構造解析の結果を記している。そこでは異方性の原因となる8つのヤーンテラー変形したMn3+のうちの1つが異常な変形をしていることを見いだしている。第5節ではSRおよびFR分子の磁気異方性を調査した結果が記されている。まず、バッチBの結晶を用いて熱的緩和の詳細な角度依存測定を行うことでFR分子の容易軸が分子軸から傾いていることを見いだし、次にバッチAの結晶を用いて量子的緩和の角度依存測定を行いSR分子の容易軸が分子軸と平行であることを確認している。第6節では、バッチBの結晶を用いてFR分子としては初めての量子的緩和の観測を行い、その結果とSR分子のものとを比較している。第7節では、第4節でのFR分子の構造解析の結果が、第5節で求められたFR分子の磁気異方性に対応しているかどうかの検証がなされている。個々のMn3+の異方性の寄与を足し合わせて見積もられた分子の容易軸は、異常な変形を起こした1つのMn3+の影響により分子軸から傾き、第5節の磁性測定から求められた容易軸とほぼ一致したことが記されている。さらに高周波数EPRの詳細な角度依存測定を行い、上述の結果と矛盾なく説明できることを示した上で、磁化容易軸と垂直な面内にも異方性が存在する、2軸異方性の単分子磁石になっていることを確認している。本章の結果としては、SRとFRの比率の異なる2種類のバッチの結晶を用い、様々な測定法を駆使して、Mn12の結晶がわずかに構造の異なる2種類の分子からなるモザイク結晶となっていることを明示し、両者の磁気異方性、磁化凍結温度、量子的緩和現象を明らかにした点が評価された。

 第4章は結論にあてられている。(m-MPYNN+)[Mn12O12(O2CC6H5)16(H2O)4]-を得てMn12では2種類の緩和過程がともに本質的であることを示し、[Mn12O12(O2CC6H5)16(H2O)4]・C6H5CO2Hの構造解析や詳細な磁性の角度依存測定により、2種類の緩和過程が生じる原因を解明するとともに、分子内構造と磁気異方性との関係を明らかにしたことをまとめて述べている。最後に、今後の展望として、本研究で得られた構造と異方性に関する知見をもとに、高い磁化凍結温度をもつ単分子磁石作成の可能性、およびFR分子が2軸異方性の単分子磁石であることに関連して、量子干渉効果などの新たな量子効果が観測される可能性を示している。

結び

 なお、本論文中の第3章の一部は、山口明氏、石本英彦氏との共同研究であるが、論文の提出者が主体となって磁気測定と解析を行っている。また第3章の一部は、稲辺保氏、マックサイエンス社との共同研究であるが、論文の提出者が主体となって構造解析を行っている。そして第3章の一部は、野尻浩之氏、本河光博氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって高周波数EPRの解釈を行ったもので、いずれも論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク