生命現象を、進化の過程によって奇跡的に組み上げられた機械としてではなく、その背後に何らかの普遍的構造をもった現象として捉えることを試みる。本研究では特に、多細胞生物の細胞社会に注目し、その発生過程に見られる細胞が多様化していく機構や、そこでの安定生といった性質が、どのような普遍的な構造を持つのかを探求する。 しかし、現存する生物のみを調べても、そうした背景にある構造を理解することは難しい。なぜなら、現存する生物は進化の過程を通じて変化してきたものであり、それが持つ性質が生命現象にとって必然的なものが、あるいは単に偶然的なものかを分別することが難しいからである。それに対し、そこで成り立つ普遍的な構造を探求するのであるなら、それが成り立つクラスは現存の生物に限ることはないという立場を採る。本研究では、その系を理解するのに必要な構成条件によって、こちらからある世界を論理的に構築し、そこで必然的に見られる性質を調べることによって、現存する生物の背景にある構造を理解することを試みる。 本研究では、細胞社会における細胞の多様性と安定性を理解するために、以下に示す3つの構成条件を採用して、それによって構成される系における性質を調べた。 ・ 細胞内部の化学反応ダイナミクス ・ 細胞間相互作用 ・ 細胞の増殖・死 この構成条件からさまざまな抽象的な細胞社会モデルを計算機上に構成し、そこで共通に見られる性質を調べた。その結果をまとめると、以下のようになる。 まず、適当な細胞内の化学反応ネットワークを採用すると、細胞数が増加していく過程において、系全体が細胞間相互作用によって不安定な状態となり、一部の細胞が別の状態に遷移する。この多様な細胞への「分化」は、系に特別な機構を作り込まなくても出現する、この系における一般的な性質である。また、この過程によって出現した多様な細胞からなる集団は、細胞を取り除くといった外部からの摂動に対しての安定性を持つ。これは、細胞が多様な状態へ分化することによって細胞集団が安定な状態になっており、そこに摂動を加えると集団全体として再び不安定な状態となり、それを安定化する方向への分化が起こるためである。 こうした自発的な細胞多様化と、そこに見られる安定性は、発生過程がどのようにして「うまくいく」のかを理解する基盤となると思われる。しかし、上で述べた細胞多様化の機構は、うまい反応ネットワークを選ばなければ出現せず、いかにしてこの細胞多様化の機構が進化の過程において出現し得るかは理解されていなかった。そこで、この過程を通じて多様な細胞から構成されるようになった細胞集団と、一様な細胞集団の増殖速度を比較したところ、前者の多様化した細胞集団の方が速い増殖速度を持つことが示された。この結果は、こうした多様な細胞からなる集団が進化の過程において出現することが、偶然の積み重ねによるのではなく、むしろ細胞が集団として生きていくために持たなければいけない性質であることを示唆している。また、この速い増殖速度を持つ細胞集団に共通に見られる性質として、多様性を生み出す幹細胞的な役割を持つ細胞と、そこから分化してくる細胞への分離が見出され、またその「分化の方向」に沿って、細胞内の物質多様性といったダイナミクスを特徴付ける量が減少していことが確認された。 また、適当にモデルを拡張することにより、上で述べた細胞多様化の過程によって、どのような空間パターンが出現するかを調べた。その結果、外部から濃度勾配といった非対称性を導入することなく、分化した細胞による同心円状や縞状の空間パターンが出現した。空間パターンを生み出す非対称な濃度場は、細胞間の相互作用によって維持されるものであり、そこでは細胞内ダイナミクスと相互作用の双方から、空間的分化を制御する位置情報が生成されたと見ることができる。またこのダイナミックな位置情報の生成によって、空間パターンの安定性の出現が見出さ、パターンが「再生」していく過程が観察された。 またこれらの結果を用いて、多細胞生物における個体の再生産の根幹をなしている幹細胞システムにおける、確率的分化とその制御について、新たな理解を試みた。 結論としては、多細胞生物において共通に見られる発生過程における細胞多様化やそこでの安定性といった性質が、進化の過程において偶然に獲得されたのではなく、それが相互作用している細胞系において普遍的に見られる構造であることが示唆された。 |