学位論文要旨



No 114925
著者(漢字) 古澤,力
著者(英字)
著者(カナ) フルサワ,チカラ
標題(和) 細胞分化の動的モデル細胞社会におけるルールの生成
標題(洋)
報告番号 114925
報告番号 甲14925
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第267号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 助教授 佐々,真一
 東京大学 助教授 安田,賢二
 生理学研究所 教授 永山,国昭
内容要旨

 生命現象を、進化の過程によって奇跡的に組み上げられた機械としてではなく、その背後に何らかの普遍的構造をもった現象として捉えることを試みる。本研究では特に、多細胞生物の細胞社会に注目し、その発生過程に見られる細胞が多様化していく機構や、そこでの安定生といった性質が、どのような普遍的な構造を持つのかを探求する。

 しかし、現存する生物のみを調べても、そうした背景にある構造を理解することは難しい。なぜなら、現存する生物は進化の過程を通じて変化してきたものであり、それが持つ性質が生命現象にとって必然的なものが、あるいは単に偶然的なものかを分別することが難しいからである。それに対し、そこで成り立つ普遍的な構造を探求するのであるなら、それが成り立つクラスは現存の生物に限ることはないという立場を採る。本研究では、その系を理解するのに必要な構成条件によって、こちらからある世界を論理的に構築し、そこで必然的に見られる性質を調べることによって、現存する生物の背景にある構造を理解することを試みる。

 本研究では、細胞社会における細胞の多様性と安定性を理解するために、以下に示す3つの構成条件を採用して、それによって構成される系における性質を調べた。

 ・ 細胞内部の化学反応ダイナミクス

 ・ 細胞間相互作用

 ・ 細胞の増殖・死

 この構成条件からさまざまな抽象的な細胞社会モデルを計算機上に構成し、そこで共通に見られる性質を調べた。その結果をまとめると、以下のようになる。

 まず、適当な細胞内の化学反応ネットワークを採用すると、細胞数が増加していく過程において、系全体が細胞間相互作用によって不安定な状態となり、一部の細胞が別の状態に遷移する。この多様な細胞への「分化」は、系に特別な機構を作り込まなくても出現する、この系における一般的な性質である。また、この過程によって出現した多様な細胞からなる集団は、細胞を取り除くといった外部からの摂動に対しての安定性を持つ。これは、細胞が多様な状態へ分化することによって細胞集団が安定な状態になっており、そこに摂動を加えると集団全体として再び不安定な状態となり、それを安定化する方向への分化が起こるためである。

 こうした自発的な細胞多様化と、そこに見られる安定性は、発生過程がどのようにして「うまくいく」のかを理解する基盤となると思われる。しかし、上で述べた細胞多様化の機構は、うまい反応ネットワークを選ばなければ出現せず、いかにしてこの細胞多様化の機構が進化の過程において出現し得るかは理解されていなかった。そこで、この過程を通じて多様な細胞から構成されるようになった細胞集団と、一様な細胞集団の増殖速度を比較したところ、前者の多様化した細胞集団の方が速い増殖速度を持つことが示された。この結果は、こうした多様な細胞からなる集団が進化の過程において出現することが、偶然の積み重ねによるのではなく、むしろ細胞が集団として生きていくために持たなければいけない性質であることを示唆している。また、この速い増殖速度を持つ細胞集団に共通に見られる性質として、多様性を生み出す幹細胞的な役割を持つ細胞と、そこから分化してくる細胞への分離が見出され、またその「分化の方向」に沿って、細胞内の物質多様性といったダイナミクスを特徴付ける量が減少していことが確認された。

 また、適当にモデルを拡張することにより、上で述べた細胞多様化の過程によって、どのような空間パターンが出現するかを調べた。その結果、外部から濃度勾配といった非対称性を導入することなく、分化した細胞による同心円状や縞状の空間パターンが出現した。空間パターンを生み出す非対称な濃度場は、細胞間の相互作用によって維持されるものであり、そこでは細胞内ダイナミクスと相互作用の双方から、空間的分化を制御する位置情報が生成されたと見ることができる。またこのダイナミックな位置情報の生成によって、空間パターンの安定性の出現が見出さ、パターンが「再生」していく過程が観察された。

 またこれらの結果を用いて、多細胞生物における個体の再生産の根幹をなしている幹細胞システムにおける、確率的分化とその制御について、新たな理解を試みた。

 結論としては、多細胞生物において共通に見られる発生過程における細胞多様化やそこでの安定性といった性質が、進化の過程において偶然に獲得されたのではなく、それが相互作用している細胞系において普遍的に見られる構造であることが示唆された。

審査要旨

 一つの細胞が増殖とともに分化し、複雑な多細胞生物をつくる過程-これは生命現象に興味を持つ者を魅了してやまない現象である。細胞生物学ではその発生過程を、非常によくプログラムされた機械的過程として捉え、その各過程の詳細を明らかにしようとしている。しかし、細胞分化を含む発生過程の本質は、あるクラスの力学系の生成する普遍的構造としてとらえられるのではないだろうか?このような問題設定は既になされていたが、古澤力氏は、提出された博士論文において、適切な力学系モデルのクラスを構築して、この問題をこれまでにない深さと広がりをもって徹底的に追求している。膨大な数値計算とその中からの普遍的現象の抽出により、多細胞生物の多くの基本的性質が、力学系の不安定性に由来する安定的な振舞として導かれている。

 本論文は6章140ページからなる。第1章では、生命システムの持つ普遍的性質を構成的なアプローチで捉えるという研究の立場が多細胞生物の発生との関連で議論される。ついで第2章では、以下で用いる、発生現象の最低限のモデルが導入される。これは、(1)細胞内部の自己触媒的な化学反応ネットワークによる化学成分の濃度のダイナミクス(2)細胞間の拡散的な相互作用(3)細胞の体積の増加/減少による細胞の増殖/死、の3過程からなる力学系モデルである。こうしたモデルの振舞は化学反応ネットワークの選択に依存するが、ランダムに選んだ1000近いネットワークの数値計算の結果から、細胞集団の振舞は(1)化学成分の濃度のカオス的振動をへた後で、増殖とともに細胞の状態がいくつかの状態に自発的に分化する場合(II)化学成分があまり変動せずに細胞が一様なままでいる場合の2つに分離される。ここで前者の場合は、後者と異なり、細胞集団として速い増殖速度を保つ。いいかえると、制限された資源の中で増え続けられたという最低限の要請だけで、細胞分化を示す多細胞生物が一般的に進化して来たと推定される。さらに、(1)の細胞集団の場合では、多様性を生み出す「幹細胞」とそこから分化してくる細胞への分離が共通して見出される。更に、その時間発展の方向に沿って、細胞内の物質多様性やダイナミクスの不安定性が減少するという形で発生の不可逆性が特徴づけられる。

 第3章では上のような細胞分化を示すネットワークを持つ系の数値計算から、幹細胞からの分化のルールがどのように生成されるかが解析される。分化した各細胞タイプは相互作用により安定化された状態として表現される。一方、幹細胞はカオス的ダイナミクスに由来する確率的分化を示す。特に、この分化確率は他の細胞の分布により調整され、その結果、幹細胞システムの安定性を導く。この幹細胞システムの特性は、第5章で、実験結果と詳しく対照される。その結果、従来の確率分化モデルと比較して、確率の起源の説明、自発的調節機能、安定性の点で優れていると結論づけている。

 一方、第4章では、以上の考え方を生物のパターンの形成過程にあてはめ、外部からの濃度勾配を導入しなくても、分化した細胞が同心円や縞状のパターンを形成していくことが示される。従来の発生の理論と異なり、細胞内ダイナミクスと相互作用の双方から位置情報が生成されており、それゆえ形成された空間パターンは安定であり、実際、パターンが「再生」していく過程が見出されている。また、細胞接着性を考慮すると、細胞集団の成長後、一部の細胞が放出されそれをもとにして、次世代の多細胞生物が再帰的に生成され、多細胞生物の生活環が現われる。

 前述したように第5章では幹細胞システムの実験と2、3章の結果を対照し、幹細胞システムへの新しい仮説を提唱し、その検証のための実験も提案している。最後に、第6章は今後の展望にあてられている。

 力学系に基づく発生現象の理論はチューリングの先駆的理論以降、研究されている。しかし、本論文では細胞内部のダイナミクスと細胞増殖を真剣に考慮した結果、多細胞生物の発生過程における幹細胞からの分化現象、発生過程の安定性と方向性、位置情報の生成などが、相互作用している細胞系の普遍的性質であることが示されている。それにより、分子生物学での「プログラム中心的な見方」に対抗しうる、説得力のある理論が提示されたといえる。本論文においては、発生生物学での実験との対応、これまでの解釈との対比も各所で議論されており、遺伝子や細胞分裂に起因しない細胞状態の変化、また細胞集団の多様性と増殖の関係などの新しい実験への示唆、予言もなされている。むろん、本論文で提示された発生現象へ動的な見方がどこまで現存の生物で有効かの決着は、今後の細胞生物学の実験を待たねばならないだろう。また、理論としては反応ネットワークの進化、発生の不可逆性の一般的定式化など今後解決すべき問題も残されている。しかし、本論文が発生生物学の新しい方向を決定的に提示しているのは確かである。更に、研究の独創性、計算機実験の解析と理論的解釈の完成度、実験との対比の議論のいずれに関しても高い評価が与えられる。本論文の結果は今後「発生の生物物理学」という分野をつくっていくための基本的かつ重要な貢献となっていくであろう。

 なお、本論文の結果は既に5篇の論文として掲載または印刷中であり、その他に1篇が投稿中、3篇が投稿準備中である。

 以上の点から本論文は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。

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