学位論文要旨



No 114926
著者(漢字) 前里,光彦
著者(英字)
著者(カナ) マエサト,ミツヒコ
標題(和) 一軸性ひずみによる擬二次元有機導体-(BEDT-TTF)2MHg(SCN)4[M=K,NH4]の電子物性制御
標題(洋)
報告番号 114926
報告番号 甲14926
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第268号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 鹿児島,誠一
 東京大学 教授 吉岡,大二郎
 東京大学 助教授 前田,京剛
 東京大学 助教授 和田,信雄
内容要旨

 本研究では、有機結晶のように力学的に柔らかい結晶試料に一軸性のひずみを加える事の出来る一軸性ひずみ法を開発し、それを用いて有機伝導体(型BEDT-TTF塩)の電子物性制御を試みた。

 低次元の電子構造をもつ有機導体では、圧力の効果が著しく現れる例が多く、静水圧による物性制御は広く行われてきている。しかしながら、静水圧によって意図的に構造制御を行う事は不可能である。結晶試料を特定の一方向にのみひずませるという一軸性ひずみによる物性制御の方法は、精密な物質構造制御による電子構造の詳細な研究および新規電子物性の探索という観点から、非常に有効な手段であると考えられる。

 一軸性ひずみ法の基本的なアイディアは、固いシリンダーを使って圧縮する試料部分の横方向を支え、ポアソン効果で生じる応力に垂直方向への伸びを抑えるというものである。本研究では試料を「エポキシ」や「低温で凍結・固化したオイル」などの媒体の中に埋め込み、媒体ごと圧縮する事で試料のもろさをカバーしながら一軸的に圧縮する方法を開発した。エポキシおよび固化したオイルの弾性率が、有機結晶と同程度であることが重要な点である。

 いずれの方法でも実際に意図どうりの一軸性ひずみが生じている事をひずみゲージを使った予備実験によって確認している。

 以上の方法を用いて、擬二次元有機伝導体(BEDT-TTF)2Xの物性制御を試みた。この系は多彩なドナー分子配列をとり、その物性は主に伝導面内のドナー分子配列により決定されている。本研究では、型と呼ばれるドナー分子配列を持つ系に注目し、伝導面内または伝導面間方向に一軸性のひずみを加え、特定方向の分子間距離や分子配向を変化させる事によって系の物性を制御する事を試みた。型は二次元伝導面内でBEDT-TTF分子のカラムがハの字型に並んだ構造を形成している。型と類似のドナー分子配列を持つ型BEDT-TTF塩では、その多彩な電子状態が伝導面内カラム間のドナー分子間の二面体角あるいはU/W(クーロン斥力とバンド幅の比)によって統一的に説明されている事から、型の多彩な電子状態も上述のパラメーター等により統一的に理解出来ると期待される。

 -(BEDT-TTF)2MHg(SCN)4 [M=K,Rb,Tl,NH4]は、同一結晶構造をもち、室温では格子定数もほぼ等しく低温まで金属状態を保つ系であるが、NH4塩のみが約1K以下で超伝導を示し、M=K,Rb,Tlなどは、常圧下約10K以下で異常金属状態になる。この異常金属相は一次元フェルミ面のネステイング不安定性に起因したスピン密度波相と考えられている。この物性の違いの起因を明らかにするために、K塩とNH4塩の3つの結晶軸方向に一軸性ひずみを加えた状態での電気抵抗測定を行った。

 その結果、これらの物質では伝導面内の一軸性ひずみの方向によって全く異なる物性変化が現れることが分かった。

 -(BEDT-TTF)2KHg(SCN)4では伝導面内c軸方向に一軸性ひずみを生じさせると異常金属相が徐々に抑制され、高圧下では超伝導状態が誘起される。それに対して、伝導面内a軸方向に一軸性ひずみを生じさせると異常金属相が急激に抑制され、約0.5Kの低温まで正常な金属状態になることが分かった。

 -(BEDT-TTF)2NH4Hg(SCN)4の場合には、c軸方向への一軸性ひずみによって超伝導転移温度が上昇し、約6K程度にまで上昇した後、さらなる加圧によって転移温度が減少する。それに対し、a軸方向への一軸性ひずみを起こすと、超伝導状態が抑制されていき、7kbar以上の高圧下では正常な金属状態になる事が分かった。この時、中間圧力域(4-6kbar)では約10K付近で異常金属相への相転移を示唆する抵抗異常が見つかった。そこで、角度依存磁気抵抗の測定を行い、a軸方向ひずみ下におけるフェルミ面構造を調べた。その結果、抵抗異常の現れる温度以下では角度依存磁気抵抗の振動パターンに劇的な変化が現れることが確認され、元のフェルミ面が再構成されて新たな擬一次元フェルミ面が現れる事が明らかになった。これは、常圧下のM=K,Rb,Tl等と同じ振舞いであり、元の一次元フェルミ面のネステイング不安定性に起因した異常金属相への相転移によるものである事が示唆された。

 NH4塩の低温構造は、M=K,Rb,Tl等の塩に比べc/aが小さい事が分かっている。本研究の結果をもとに、K塩とNH4塩の電子状態をc/aでスケールしてみると、c/aが小さい方から順に、超伝導相、異常金属相、正常金属相が現れている事が分かる。NH4塩はc/aが小さいため、常圧下では異常金属相が現れずに超伝導状態になるという事が、本研究によって直接的に検証されたといえよう。

 さらに特筆すべきことは、一軸性ひずみの方法によって、両物質ともこれら3つの電子状態を実現出来たということである。

 一軸性ひずみは人為的に物質構造を制御する手段として、非常に有効な手段である事が分かった。一軸性ひずみでの結晶構造の変化を実際にX線回折などで定量的に評価して行く方法が確立すれば、今後、分子配列とバンド電子構造との関係を大局的に理解していく上での有力な研究手法になる事が期待される。

審査要旨

 本論文は4章からなり,第1章は研究の背景と目的・意義の記述,第2章は実験方法の説明にあてられている。第3章では得られた実験結果とその解釈および物理的考察が述べられ,最後に第4章でこの研究のまとめがなされている。

 この研究は,力学的に柔らかい有機結晶試料に一軸性のひずみを加えるための実験技術を開発し,それを用いて型BEDT-TTF塩と呼ばれる2つの有機伝導体の電子物性制御にはじめて成功したものである。

 有機導体は他の物質群にくらべて,容易にその物性を制御できると考えられるので,物性の基礎研究および工学的応用にとって大事な物質である。制御を容易にしているのは,構成分子の設計と制御がたやすいことと,力学的に柔らかく,圧力によって容易に構造を制御できることである。このため従来から,静水圧による電子物性の制御が広くおこなわれてきている。ここには,有機結晶の柔らかさのほかに,伝導電子系の低次元性が大きい役割をはたしている。しかしながら,静水圧によって精密に構造を制御することは不可能である。なぜなら,結晶試料の弾性率は異方的であることが多いから,静水圧効果と物質中の原子・分子間距離とのあいだの対応関係が明確でないからである。

 論文提出者はこのような考察にたって,結晶試料を望みの一方向にだけ圧縮するという一軸性ひずみ法による物性制御の方法を考案した。この方法は,物質構造の制御による電子状態の詳細な研究,および新規電子物性の探索という観点から,非常に有効な手段であると考えられる。一軸性ひずみ法の基本的なアイデアは,固いシリンダーを使って試料の横方向への膨張,すなわちポアソン効果をおさえるというものである。本研究では試料をエポキシ樹脂や低温で凍結・固化したオイルなどの媒体の中に埋め込み,媒体ごと圧縮することによって試料のもろさをカバーしながら,一軸的に圧縮する方法を開発した。エポキシ樹脂および固化したオイルの弾性率が有機結晶と同程度であることが,この方法を成功に導く重要な鍵である。論文提出者はまず,エポキシ樹脂の方法と凍結・固化オイルの方法のいずれでも,意図どおりの一軸性ひずみが生じていることをひずみゲージを使った予備実験によって確認した。ついで,これらの方法を2つの擬2次元有機導体,-(BEDT-TTF)2KHg(SCN)4-(BEDT-TTF)2NH4Hg(SCN)4に適用して,電子物性の制御を試みた。

 この物質群での電気伝導は,ドナー分子BEDT-TTFによってになわれることが知られている。ドナー分子は伝導面内で多彩な配列をとり,電子物性の多様性は主にこの配列によって決められている。この研究では,上記の型と呼ばれるドナー分子配列をもつ系に注目し,伝導面内または伝導面間方向に一軸性のひずみを加え,それぞれの方向の分子間距離や分子配向を変化させることによって系の物性を制御した。型物質では,2次元伝導面内でBEDT-TTF分子がハの字型に並んだ構造をつくっている。型と類似のドナー分子配列をもつ型BEDT-TTF塩では,その多彩な電子状態が伝導面内でのドナー分子間の二面体角,あるいはU/4t(電子間クーロン相互作用エネルギーとバンド幅の比)によって統一的に説明されている。したがって,型の多彩な電子状態も上述のパラメターなどにより統一的に理解出来ることが期待される。-(BEDT-TTF)2KHg(SCN)4-(BEDT-TTF)2NH4Hg(SCN)4は同一の結晶構造をもち,室温では格子定数もほぼ等しく低温まで金属状態をたもつ系であるが,NH4塩のみが約1K以下で超伝導を示し,K塩は常圧下では約10K以下で磁気抵抗が異常なふるまいをする。これは異常相と呼ばれ,その起因は一次元フェルミ面のネステイング不安定性によるフェルミ面の再構成であると考えられている。

 論文提出者は,NH4塩とK塩の電子物性の違いを解明するために,これらの物質の3つの結晶軸方向に一軸性ひずみを加え,低温における電気抵抗と磁気抵抗の測定をおこなった。実験の結果,これらの物質では伝導面内の一軸性ひずみの方向によって全く異なる物性変化がおこることがわかった。-(BEDT-TTF)2KHg(SCN)4では,伝導面内のc軸方向に一軸性圧縮ひずみを加えると異常相が徐々に抑制され,ひずみを十分大きくすると超伝導状態が誘起される。それに対して,伝導面内のa軸方向に一軸性圧縮ひずみを生じさせると異常相が急激に抑制され,実験の最低温度の約0.6Kまで正常な金属状態が続くことがわかった。-(BEDT-TTF)2NH4Hg(SCN)4の場合には,c軸方向への一軸性ひずみによって超伝導転移温度が上昇して約6K程度に達したのち,さらにひずみを増大すると転移温度が減少し始める。これに対して,a軸方向への一軸性ひずみを加えると超伝導が抑制されていき,7kbar以上の一軸圧では正常な金属状態になることがわかった。このとき,中間圧力域(4〜6kbar)では約10K付近で異常相への相転移を示唆する抵抗異常が見つかった。そこで,角度依存磁気抵抗効果の測定をおこない,a軸方向のひずみのもとにおけるフェルミ面構造を調べた。その結果,抵抗異常の現れる10K以下の温度では角度依存磁気抵抗の振動パターンに劇的な変化が現れることを発見し,元のフェルミ面が再構成されて新たな擬一次元フェルミ面が現れることを明らかにした。これは,常圧下のK塩等と同じふるまいであり,元の一次元フェルミ面のネスティング不安定性に起因した異常相への相転移がおこっていることが確認された。

 本研究の結果をもとに,K塩とNH4塩の電子状態を伝導面内の格子定数の比c/aでスケールしてみると,c/aが小さい方から順に,超伝導相,異常相,正常金属相が現れていることがはじめて明らかになった。つまりこの研究は,これらの物質の電子状態とそれを支配する要因の全貌を明らかにしたといえる。さらに特箪すべきことは,この研究で開発した一軸性ひずみの方法を適用することにより,いずれの物質にもこれら3つの電子状態を生み出すことが出来たことである。このことは,これらの物質の電子物性の制御に成功したことを意味する。なお,従来の研究によって,NH4塩のc/aはK塩に比べて小さいことが知られているが,それは,この研究で明らかになった事実の一端をつかんでいたものといえよう。

 論文提出者は,独創的な着想とユニークな実験技術の開発によって,物質構造を意図的に制御する手段として,一軸性ひずみ法が非常に有効な方法であることを実証した。今後さらに,一軸性ひずみのもとでの結晶構造の変化を実際にX線回折などで定量的に評価する方法が確立すれば,分子配列とバンド電子構造との関係を大局的に理解していく上で,一軸性ひずみの方法が有力な研究手法になることが期待される。この研究は,単に独創的な方法を開発して新規で重要な発見をもたらしただけでなく,今後の物性研究に新たな局面を切り開いた。この意味で,この研究は高く評価され,博士(学術)の学位を授与するに十分な成果をあげたといえる。

 なお,本論文中の第2,3章の一部は,加賀保之,近藤隆祐,鹿児島誠一氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験・解析・考察をおこなったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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