学位論文要旨



No 114943
著者(漢字) 井手,剛
著者(英字) Ide,Tsuyoshi
著者(カナ) イデ,ツヨシ
標題(和) 強相関電子系の共鳴X線発光スペクトルにおける非局所効果の理論的研究
標題(洋) Theoretical Study on Nonlocal Effects in Resonant X-Ray Emission Spectra of Strongly-Correlated Systems
報告番号 114943
報告番号 甲14943
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3707号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 木下,豊彦
 東京大学 教授 藤森,淳
 東京大学 教授 今田,正俊
 東京大学 助教授 清水,明
 東京大学 助教授 辛,埴
内容要旨 第1章:序論

 内殻準位に対する分光法は,物質科学における有用な研究手段として認知されている。内殻軌道は強く局在しているため,dまたはf電子系に対しいわゆる不純物アンダーソン模型による解析が理論研究の主たる地位を占めてきたのは自然なことであった。しかしながら,1993年にvan VeenendaalらがNiOのNi 2p光電子スペクトル(XPS)に強い「非局所遮蔽効果」を見出して以来,内殻準位分光スペクトルにおける非局所効果の寄与に,すなわち不純物模型では記述できない現象の寄与に興味が持たれている。

 近年の高輝度光源の進歩によって共鳴X線発光分光法(RXES)の実験データがここ数年数多く報告されている。1996年,手塚らは,TiO2のTi 3d-2p RXESにおいて,2系統の異なった入射光エネルギー依存性を持つスペクトルの存在を報告した。ひとつは,わずかに入射光エネルギーにスペクトル形状が依存しつつ,入射光エネルギーが上がるにつれ,なめらかに非共鳴のX線発光スペクトル(NXES)に移行する成分である。これを「蛍光成分」と名付ける。もうひとつは,入射光エネルギーに比例して射出X線のエネルギーが変化してゆく成分である。これを「ラマン成分」と名付ける。

 RXESは他の分光法にない種々の特徴を持ち,今後の発展が期待される実験手法であるが,その基礎的理解はまだ十分ではない。とりわけ,多くの遷移金属酸化物で共通に観察される上記2成分の分離の起源については,何らの合意も形成されていない。また,van Veenendaalらの見出した非局所効果がRXESへ及ぼす寄与についても,それを実証した研究はいまだ存在していない。

 本論文の動機の第一は,遷移金属酸化物における上記の特異な入射光エネルギー依存性の起源を理論的に解明することにある。第二は,光電子分光スペクトルの研究で発見された種類の非局所効果が,RXESのスペクトルにいかなる寄与をするか調べることである。第三は,RXESの偏光・角度依存性,および移行運動量依存性の理論的研究を通して,新実験手法としてのRXESに理論的視座を与えることである。

第2章:RXESに対するクラスターサイズ依存性

 d0電子配置の下,(dp)N型の構造を持つ1次元の非縮退周期アンダーソン模型でX線吸収スペクトル(XAS)およびXPS,NXES,RXESの計算を行い,スペクトルのN依存性を調べた。有効混成エネルギーにより軌道縮退が取り込まれていると考えれば,この模型は,並進対称性を備えたTiO2の有効模型のうち最も単純なものと見なせる。

 TiO2を模した計算結果によれば,RXESの蛍光成分は,中間状態において,内殻から励起された電子が,内殻正孔のあるサイトからそれ以外のサイトに逃げ出すことで生じる。一旦内殻正孔の束縛から逃れれば,その後生ずる輻射遷移は必然的にNXESに似る。Ti系に対する現実的なパラメターの範囲内では,3d電子間,あるいは内殻と3d電子の間の強い相互作用が実験に見られる蛍光成分を説明するのに必要であることがわかった。

 f0電子配置を持つCeO2に対しては,不純物アンダーソン模型が,XAS,XPSに加え,RXESスペクトルもよく再現するという事実が知られている。パラメターをCeO2に対応したものに選び直すことにより,この模型でCeO2のRXESスペクトルについても議論した。その結果,TiO2に対応する計算結果と対照的に,並進対称性の結果はスペクトルに本質的な影響を与えないことが示された。

第3章:縮退のあるd0およびd1系におけるラマン成分と蛍光成分の共存

 前章の模型では軌道縮退を無視したため,いわゆる非結合性の状態が原理的に存在せず,特に吸収の主ピークに入射光が共鳴した時に,実験と計算の対応がうまくつかないという憾みがあった。本章では局所的に二種類の対称性を持つ2重縮退周期的アンダーソン模型を提案し,RXESにおける軌道縮退と並進対称性の効果を議論した。

 まずd0配置については,不純物模型の範囲内で,非結合性の状態がラマン成分を与えること,また,吸収の副ピークに共鳴した時には反結合性の状態が強く共鳴増大を起こすことが示された。大きなクラスターでは,これらに加えて蛍光成分がスペクトルに重なり,実験スペクトルに見える蛍光成分とラマン成分の共存が非常によく再現される。

 d1配置を持つモット-ハバード型絶縁体については上記3種の構造のほか,原子内,および原子間のd-d遷移がスペクトルに寄与する。電荷ギャップの由来の相違にかかわらず蛍光成分の存在が示されたことは,前章において提案した蛍光成分出現機構に支持を与える。本章の結果は,電子相関を正しく取りいれた模型に基づいて蛍光成分とラマン成分の共存を実証した初めての研究である。

第4章:Nd2CuO4のCu 4p-1s RXESにおける局所励起と非局所励起

 高温超伝導体の母物質においては,Cu 2p-XPSの研究から,非ドープ系においても,Zhang-Rice 1重項(ZRs)形成に由来するピークがスペクトルに強く現れることが示されている。Cu 4p()-1s RXESの中間状態においても,2p-XPSの終状態と同様な,強い内殻正孔ポテンシャルの効果によるZRs形成が期待され,コヒーレントな二次光学過程を通して,その動態がRXESスペクトルに現れることが予想される。実験によれば,XASの主ピークに入射光エネルギーをあわせた時,吸収強度の大きさにもかかわらず5.7eV近傍の非弾性ピークが共鳴増大を示さない。むしろ吸収の副ピークにおいて強い共鳴増大が観察される。

 この実験結果を説明するため,初めに不純物アンダーソン模型でCu K-XASおよびRXESを調べた。RXESスペクトルには,2eVおよび5.7eV近傍に非弾性散乱の構造が現れる。これらの強度は入射光エネルギーに依存して大きく変化する。その依存性は,中間状態および終状態の電荷移動励起の空間的広がりの大小を強く反映していることが示される。励起状態の空間的広がりは,ある種の部分状態密度を計算することで直接見ることができる。計算結果はおおむね実験を説明するものの,不純物模型によっては5.7eVピークの入射光依存性についての実験データを説明することができないことが確認された。

 上記の結果と対比しつつ,大きなクラスター模型(Cu5O16クラスター)による計算結果を議論した。まず,不純物模型による結果と異なり,K吸収端の主ピークがZRsによる構造であることが,部分状態密度計算により直接証明された。ZRsは本質的に非局所効果であるため,この吸収ピークに共鳴した時のRXESの終状態では,局所的電荷移動に伴う励起状態の強度が弱い。すなわち,実験で観測された5.7eVピークの抑制効果は,中間状態におけるZRs形成の直接の帰結である。また計算によれば,吸収の主ピークに共鳴した時には2eV近傍の非弾性ピークが強い共鳴増大を示すが,これは,電荷ギャップを与える状態が,ZRsバンドと上部ハバードバンドの間の電子正孔対生成と解釈できることを示唆する。以上の結果は,XPSの研究で見出された非局所遮蔽効果が,RXESにおいても顕著な効果を与えることを定量的に示した初めての研究で2ある。さらに,強相関絶縁体の電荷ギャップの構造を調べる手段としてのRXESの有用性を示したものと言える。

第5章:Nd2CuO4の電荷移動励起における偏光および運動量依存性

 RXESは系の局所的な対称性と並進対称性を同時にスペクトルに表現するという著しい特徴を持っている。RXESの偏光ないし角度依存性は前者に支配され,移行運動量依存性は後者に関係する。いずれも新世代の放射光光源を用いた新実験手法として興味が持たれる。

 まず,コヒーレントな二次光学過程の式からRXESの偏光に依存する遷移演算子を導いた。1s軌道は軌道縮退を持たないため,理論解析が極めて単純になる。これをもとに,最新の実験結果におけるCu 4p-1s RXESの偏光依存性を解析的に検討した。実験によれば5.7eV励起が最大の共鳴増大を示す入射光エネルギーが,偏光により約10eVも異なる。非弾性散乱の強度においてもかなりの違いが観測される。これらの顕著な偏光依存性は,遷移演算子の偏光依存性から数学的によく説明された。これは端的に二次光学過程としてのRXESの定式化に支持を与えている。

 次に再び不純物アンダーソン模型とCu5O16クラスターを用いてRXESスペクトルの入射光依存性を調べた。中間状態における4pと4p電子の違いは,RXESの終状態には顕著な効果を及ぼさず,後者のRXESスペクトルの入射光エネルギー依存性は,基本的に前者を再現する。

 最後にX線の移行運動量(q)がCu 4p-1s RXESスペクトルに与える影響について調べた。CuO2面同士の結合は弱いので,面に垂直な方向へのqに対してはRXESスペクトルはほとんど依存しない。一方,1次元のクラスター模型の範囲内で面内のqに対するスペクトルの変化を計算したところ,2eV付近の電荷移動励起には強いq依存性があり,5.7eV付近の励起のq依存性は弱いことが見出された。これから2eV励起の遍歴的性格と,5.7eV励起の局在的性格が示唆される。この結果は,前章の電荷移動励起の空間的広がりに関する議論と一貫している。

審査要旨

 本論文の公開審査会は平成12年1月11日に行われた。本論文は、6章からなり、全体は分かりやすい英文で書かれている。論文の主題は、従来局在不純物アンダーソンモデルで説明されてきたdまたはf電子系の内殼準位スペクトルのうち、特に共鳴軟X線発光スペクトルに注目し、そこに非局所効果を取り込むことによって、初めて説明できる現象を示したことである。第1章では、今回研究を行うにいたった動機や歴史的な経緯、又、計算に用いた理論モデル等について記述されている。第2章では、dおよびf電子系の例として、TiO2とCeO2に対して、クラスターサイズを大きくして行った時の共鳴X線発光スペクトルの計算を行い、d電子系の場合にサイズが大きくなるにつれて、非局所効果を反映して蛍光成分が現れてくることを示唆した。第3章では第2章で検討したモデルに軌道縮退の影響も取り入れた議論を展開している。第4章では、高温超伝導体の母物質である銅酸化物で従来Zhang-Rice 1重項形成に由来するピークがスペクトルに現れることが示唆されていたが、ここでは、中間状態或いは終状態の電荷移動の空間的広がりを考察することにより、その形成の説明を試みた。第5章では、同じく銅酸化物の共鳴X線発光スペクトルにおいて、偏光依存性、運動量依存性を取り込んだ解析を行っている。第6章では全体のまとめがなされている。

 まず、第2章ではTiO2の共鳴軟X線発光スペクトルにおいて実験的に見い出された蛍光成分の由来を、発光過程の中間状態で内殻から励起された電子が、内殻ホールのあるサイトからそれ以外に散逸する効果で説明できると結論している。一方、より電子状態が局所的なf電子系の例であるCeO2の場合には、クラスターサイズの大きさはスペクトルに本質的な影響を与えず、不純物アンダーソンモデルで良く説明できることを示している。第3章では、このモデルにさらに軌道縮退の効果を取り入れ、より実験結果との対応をよくした結果を導き出している。特に電荷ギャップの由来の相違に関わらず、蛍光成分が存在することを示したり、蛍光成分とラマン成分の共存を実証した結果はオリジナリティのある研究であると判断される。

 第4章では、高温超伝導体の一つである、Nd2CuO4のCu 4p-1s共鳴軟X線発光スペクトルの説明を行うために、大きなクラスター模型(Cu5O16)について計算を行っている。実験スペクトル中、2eV及び5.7eV付近にあらわれる非弾性散乱ピークの存在そのものは局在モデルで説明が可能であるが、その強度の入射光エネルギー依存性については説明できない。本研究による大きなクラスターモデルの計算の結果、光電子スペクトルでも観測されているZhang-Rice 1重項が、共鳴X線発光スペルトルの中間状態においても形成され、5.7eVの構造の共鳴増大が、局在モデルで予想されるものよりも弱くなることを示した。これは、Zahng-Rice 1重項の形成により、局所的電荷移動に伴う励起状態が弱くなっていることを示しており、光電子スペクトルと発光スペクトルにおける非局所効果について定量的な見解を与えたものとなっている。

 第5章では、同じくNd2CuO4のCu 4p-1s共鳴軟X線発光スペクトルの説明を行うために、発光スペクトルにおける偏光と、運動量依存性について議論している。ここでは第4章で示された5.7eV構造の入射光エネルギー依存性の偏光による実験的な違いを説明することに成功した。又、運動量依存性の研究からは2eV構造の遍歴的性格と5.7eV構造の局在的性格を見い出しており、第4章の結果とあわせて、電荷移動励起の空間的広がりに関する議論と矛盾しない結論を得ている。

 このように本論文中では、第2、3章で電子相関を正しく取り入れたモデルで、共鳴X線発光スペクトルに蛍光成分とラマン成分が共存することを初めて実証したり、第4、5章ではこれまで光電子スペクトルの研究で見い出されていた非局所遮蔽効果が共鳴X線発光スペクトルでも顕著な効果を与えることを示したりするなど、物性物理における新しい知見を含んでいる。また、これらの議論をとおして、今後解決すべき問題が明確に示唆されており、その内容は価値の高いものであると判断される。

 審査中の質疑応答の過程で、次に掲げるような問題が指摘されていたが、その問題はただちに修正されている。そのうちの一つは、第2章、TiO2の蛍光成分の説明で、中間状態において、内殻から励起された電子がホールのあるサイトからそれ以外のサイトへ散逸する効果がその起源であるとしているが、この効果が支配的であり、その他5(フォノンなど)の効果よりも効いているのかという指摘である。この指摘に対し、井手氏は南&那須が提案している光子緩和シナリオとの関係を示し、スピンレス模型では実験結果を説明し得ないことを示した。また、第4章の、Zahng-Rice singletに由来するスペクトルの説明の部分で、計算では5.7eV付近のサテライトの光エネルギー依存性が非局所効果を入れることでよくあうと説明しているが、実際には2eV付近の構造が実験でほとんど見えていないなど、計算と実験スペクトルの振る舞いが異なっており、本当にこの計算が妥当であるかを指摘された。それに対しては、いくつかの実験例で2eV付近の構造が確かに存在することのほかに、本研究の数値計算上の制約などを示し、2eVの構造の詳細を論ずる難しさについても認めている。しかし、本論文の本質である、5.7eV構造の電荷励起に働く抑制機構については影響を受けないという説明によって、審査員の理解を得ている。

 この博士論文の第2章から第4章の内容は、指導教官である小谷章雄教授との共著論文として3報発表されている。実際の計算、解釈等は論文提出者が主体となって行ったもので、その寄与が十分であると判断される。

 以上のように、井手剛氏提出の博士論文は優れた内容を有しており、博士(理学)を授与できるものと審査委員全員が認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54756