温度Tの熱浴中におかれたマクロな物体は、熱浴中のミクロな分子等との相互作用によって、常に振動している。この熱振動のエネルギーは、どの自由度でも等しく、kBT/2である。しかし、振動のスペクトルは、物体のもつ散逸などの性質を反映している。 例えば、機械系の熱振動スペクトルは、系の共振周波数にピークをもつ。系のi番目の共振の、共振周波数における熱振動のパワースペクトル密度x2(i)は、共振での散逸を表すQ値、Qiを用いて、次のように表される。 但し、kBはボルツマン定数、Tは温度、iは共振角周波数、miは換算質量である。この式から、Q値が高い程、すなわち、散逸が小さい程、共振周波数における熱振動が大きくなることが分かる。また、振動のエネルギーは一定(=kBT/2)なので、共振周波数以外の周波数では、逆にQ値が高くなるほど、熱振動は小さくなる。 共振周波数から離れた周波数における系の熱振動は、非常に小さく、直接測定された例は少ない。しかし、重力波検出のような精密測定では、共振から離れた周波数における熱雑音が、検出器の感度を決める深刻な問題になると予想されている。干渉計型重力波検出器では、干渉計を構成する鏡の固有振動は数10kHz以上になっている。しかし、この鏡の熱振動が、数10Hzから数kHzの重力波の観測帯域で雑音となる。この振動の大きさは、通常、モード展開を使って推定されている。モード展開では、系全体を独立な調和振動子の集まりとして扱っており、これを使うと、熱雑音は、次式のように表される。 但し、()は散逸角で、-1(i)=Qiである。 モード展開を用いた推定法では、散逸が一様で、モードが独立であれば、正しく熱振動を推定できる。しかし、共振以外の周波数における熱雑音推定を行う場合には、1.共振で測定された散逸の値から、興味のある周波数での散逸を推定するために、散逸の周波数依存性を仮定する必要がある、2.散逸の分布が非一様だと、モードが独立でなくなり、正確な推定ができなくなる、などの問題がある。 本論文では、これらの問題を解決し、共振周波数以外の熱振動を実験的に調べる手段として、反共振を利用して機械コンダクタンスを測定する方法を提案している。この方法では、散逸の周波数依存性を仮定せず、散逸の分布が一様でない場合にも適用することができる。 以下に、この推定法の原理、検証実験、応用実験をまとめる。 原理 機械コンダクタンスの直接測定による熱雑音の推定 熱振動の推定は、揺動散逸定理に基づいている。揺動散逸定理によると、熱振動のスペクトル密度x2()は、以下のように表される。 但し、コンダクタンス()は、アドミッタンスY()=/fの実部。H()は、系に加えた力fから変位xへの伝達関数である。この式は、機械コンダクタンスが分かれば、熱振動を推定できることを示している。伝達関数H()の性質を調べるために、モード展開すると、 となる。1つのモードに着目すると、共振では、アドミッタンスの虚部の符号が0を通って反転し、実部(コンダクタンス)のみが残る。しかし、共振から離れた周波数においては、アドミッタンスには、コンダクタンスのQ値倍以上大きな虚部が存在する。したがって、実際にコンダクタンスを測定すると、アドミッタンスの虚部が、測定系の僅かな位相遅れによって混入し、Q値が高くなる程、コンダクタンスを分離して精度良く測定することが困難になる。 系全体の伝達関数をみると、複数の共振の間の周波数における伝達関数は、正の伝達関数と負の伝達関数の足し合わせになっていることが分かる。したがって、共振以外の周波数にも、アドミッタンスの虚部が零になる周波数が存在する。これが反共振周波数である。 この反共振周波数において、コンダクタンスを精度良く測定し、式(3)を使って、熱振動を推定する、というのが今回提案している推定法の原理である。 検証実験1.機械コンダクタンスの直接測定(本文第3章) 反共振周波数では精度よく虚部が測定できるであろう、という考えを確かめるために、簡単な振動子を用いて、伝達関数の測定を行った。振動子は、真鍮の板ばねと質量を2段に組み合わせたものである。測定の結果を、図1、2に示す。2つの共振の間に反共振が現れ、反共振周波数では、精度良く伝達関数の虚部が測定できることを確かめた。また、この測定値はモード展開から計算される値ともよく一致した。 図表図1:2-mode oscillatorの伝達関数 / 図2:反共振周波数付近での伝達関数検証実験2.熱雑音の直接測定と推定の比較(本文第4章) 検証実験1.で、反共振で伝達関数の虚部を精度よく測れることを確認し、モード展開による推定値と反共振による推定が一致することを確認した。しかし、この推定法が正しいかどうかは、やはり直接測定された熱振動と比較しないと確かめられない。そこで、実際に熱振動を測定して推定値と比較した。熱振動は非常に小さいため、直接測定することは容易ではない。なるべく熱振動を大きくするために、実験1.で使用したものより小さな振動子を作成し、熱振動を直接測定した。結果を図3に示す。推定値と測定された熱振動はよく一致した。 図3:熱振動スペクトルの推定値と実測値応用実験 干渉計型重力波検出器に用いる鏡の熱雑音推定(本文第5章) この方法を他の機械系へ応用して熱雑音を推定する場合には、 1)興味のある周波数に反共振をつくることができるか 2)どの程度高いQ値の材質にまで測定することができるか ということが問題になると考えられる。 干渉計型重力波検出器に用いる鏡を例に、上記の問題を考えた。干渉計型重力波検出器の場合、興味のある周波数は、数10Hzから数kHzの観測帯域である。実際にTAMA300レーザー干渉計型重力波検出器に用いるのと同じ大きさの鏡を使って伝達関数を測定し、振り子モードと鏡の固有振動を組み合わせて、1kHz付近に反共振を作れることを確認した。測定された伝達関数を図4に示す。 図4:鏡の伝達関数まとめと考察(本文第6,7章) 本論文では、系の散逸の周波数依存性を仮定せず、機械コンダクタンスを直接測定して、共振から離れた周波数における熱振動スペクトルを推定する方法を提案した。この推定法は、散逸が非一様な系にも適用でき、原理的にはQ値の高い材料にも応用可能である。しかし、反共振でしか熱雑音を推定できないなどの問題もある。最後にこの方法の特徴と、問題点をまとめつつ、この推定法を使った今後の研究方針を示す。 |