内容要旨 | | 学位論文のテーマとして、私はこれまで、有機ラジカル磁性体のミュオンスピン回転・緩和・共鳴(SR)実験を行ってきた(図1(a)、(b))。有機ラジカル磁性体は、実用を主な目的として近年研究開発が行われている。芳香族置換基の相違にともなって異なる結晶構造をもち、その結果としてさまざまな磁性を示す。バルク強磁性体に限らず、個々の結晶構造と磁性を系統的にかつ微視的に観測することには、有機ラジカル磁性体における磁気相関等を理解するために重要な意義がある。 図1:代表的な有機ラジカル磁性体の構造式。(a)p-NPNNおよび(b)p-Cl-C6H4-CH=N-TEMPO。どちらもN-Oサイトにラジカルをもつ。 私は、有機物質のように内部磁場が比較的小さく、保磁力も小さいソフトな磁性体には、外部磁場を印加せずに微視的内部磁場を高感度で観測できるSR法[1,2]が極めて有効であると考え、4つのTEMPO誘導体における磁気的性質に対しSR実験を行った。有機ラジカル磁性体の中で最初に発見され、これまでさまざまな研究が行われたp-NPNNについては、すでに強磁性相におけるSR実験が行われている[3,4]。一方TEMPO誘導体は、p-NPNNとは異なり強い2次元性を示すことが知られていながら、水素原子を多く含んでいるなどの理由により、微視的な測定が何も行われておらず、磁気的秩序状態における次元性の議論もなされていない。SR実験法により、長距離磁気秩序状態のほか、磁気相転移における転移温度の高温側でのスピン構造やその揺らぎなども明らかにされる。 TEMPO誘導体中でのミュオンサイトおよびその状態 有機物質中では、正ミュオンはしばしば、減速過程において電子をひとつ捕獲し、ミュオニウムと呼ばれる軽い水素原子のような束縛状態を形成する。また、分子との弱い結合状態をつくることも考えられる。TEMPO誘導体におけるミュオンの位置と状態が理論計算[5,6]によって明らかになり、SR実験の結果の解釈にミュオニウムを形成したミュオンは通常、捕獲した電子の超微細場によって非常に速く歳差運動するが、この電子と酸素サイトに局在したラジカル電子が化学的に結合することで、ミュオンは周りの分子のラジカルスピンによる双極子場のみを感じることがわかった。磁気秩序状態に対する零磁場下でのSR(ZF-SR)において観測されたミュオンスピン回転の信号は、このミュオン成分によるものである。また、アゾメチン結合(-CH=N-)の部分に止まるミュオニウム成分が存在することがわかった。この場合ミュオニウムは、2重結合を切ることによって生じる不対電子からの大きな超微細場を感じることが予想され、SR実験によって確認された。 ZF-SRによる磁気相転移および磁気秩序状態の観測 p-Cl-C6H4-CH=N-TEMPO、p-Ph-C6H4-CH=N-TEMPOおよびPh-CH=N-TEMPOは、それぞれ0.3K、0.27K、0.18Kにおいて交流帯磁率のピークが観測され、強磁性相転移が示唆される物質である[7,8,9]。これらの系に対しZF-SRを行った結果、それぞれ0.28K、0.22K、0.17K以下で長距離磁気秩序の発現を示すミュオンスピンの回転が観測された[10,11]。図2(a)、(b)はそれぞれ、p-Cl-C6H4-CH=N-TEMPO、Ph-CH=N-TEMPOにおけるミュオンサイトの内部磁場の温度依存性である。Ph-CH=N-TEMPOについては、内部磁場の大きさの異なる2種類のミュオンサイトが存在した。 図2:ZF-SRで観測された、p-Cl-C6H4-CH=N-TEMPO(a)およびPh-CH=N-TEMPO(b)のミュオンサイトの内部磁場の温度依存性。 これらは零磁場下でTEMPO誘導体の磁気相転移を観測した最初の例であり、得られた転移温度は、交流帯磁率の結果よりも低温である。臨界指数は、測定された3つの系すべてに対して3次元ハイゼンベルク模型に対する理論値と近い結果が得られた。 LF-およびTF-SRによる臨界現象の観測 p-Cl-C6H4-CH=N-TEMPOに対しSR測定によって得られた転移温度の0.28Kは、比熱測定からも支持されている[12]。しかし一方では、交流帯磁率が急激に増加し始める0.4K以下で強磁性を示す磁化のヒステリシスが観測されている[7]。この2つの温度間の領域における磁気構造を調べるため縦磁場下でのSR測定(LF-SR)を行ったところ、通常はスピン揺らぎによるミュオンスピンの速い緩和が期待されるTC直上の0.30Kにおいて、ランダムな静的内部磁場が観測された(図3(a))[13]。ミュオンサイトにできたこのランダムな磁場の、縦磁場に対して垂直な成分の分布幅は、縦磁場の増加にともなって広がり(図3(b))、150G程度で飽和する。また磁場の印加に伴って、縦磁場反対方向の内部磁場が増加することから、ラジカルのスピンが磁場によって整列し、その揺らぎも抑えられていく様子が観測された。LF-SRの結果は、同様に系の2次元性を反映した何らかの短距離秩序を反映している可能性も考えられる。 図3:0.30Kにおいて観測された、p-Cl-C6H4-CH=N-TEMPOのLF-SR時間スペクトル(a)と、ランダムな静的内部磁場の分布P(Hi)を示したもの(b)。 また、同じ温度領域における、この系の横磁場下での測定(TF-SR)では、印加されたTFに相当する周波数をもつミュオンスピン回転成分のほか、0.30Kでおよそ80%という大きなシフトが観測された[14]。これは、スピン揺らぎの周波数の変化にともない常磁性ミュオニウムが受ける電子の超微細磁場が変化したことを反映していると考えられる[15]。 まとめ 本学位論文のための研究を通して得られた注目すべき結果は、TEMPO誘導体における長距離磁気秩序状態の発現が、SR測定によって零磁場下で初めて微視的に観測されたことである。磁気相転移を示す直上の温度においては、ランダムな静的内部磁場が観測された。ランダムな磁場の分布輻が外部磁場の増加に伴って広くなり、150G程度印加したところで飽和してしまうという結果は、磁化測定という巨視的な測定手段を用いて得られた結果とも酷似する[7]。外部磁場の向きに対して垂直方向の磁場誘起があり、かつ等方的であることは、試料の軸方向の分布に起因するとして説明できるが、SR測定から得られたTCより高温で見られるヒステリシスが2次元性を反映したものであるならば、それがSR実験によっても観測されたといえる。 参考文献[1]R.S.Hayano et al.,Phys.Rev.B20(1979)850.[2]Y.J.Uemura et al.,Phys.Rev.B31(1985)546.[3]S.J.Blundell et al.,Europhys.Lett.,31(1995)573.[4]L.P.Le et al.,Chem.Phys.Lett.206(1993)405.[5]T.M.Briere et al.,Physica B(in press).[6]J.Jeong et al.,Physica B(in press).[7]T.Nogami et al.,Chem.Lett.,1995 635.[8]T.Ishida et al.,Chem.Lett.,1994 919.[9]T.Nogami et al.,Chem.Lett.1994 29.[10]R.Imachi et al.,Chem Lett.1997 233.[11]T.Ishida et al.,submitted to J.Materials Chem..[12]Y.Miyazaki et al.,Bull.Chem.Soc.Jpn.to be published.[13]S.Ohira et al.,Riken Review No.20(1999)48.[14]S.Ohira et al.,Physica B(in press).[15]M.Senba et al.,J.Phys.B:At.Mol.Opt.Phys.24(1991)3531. |
審査要旨 | | 分子設計の検証とS=1/2のHeisenberg低次元磁性体としての興味などから,有機強磁性体はp-NPNNでの強磁性体の実現以来,盛んに研究が行われている.本研究は新しく作られたTEMPO誘導体とよばれる一連の物質群について,それらの強磁性長距離秩序や磁気的揺らぎを+SRによる微視的手段により調べたものである. +SRの実験による磁性解析に先立ち,入射された+は試料のどの位置にどのような状態で静止するのかを明らかにする必要がある.論文提出者は理論計算で求められた可能性のある状態と,いくつかの手法や実験条件での+SR観測結果との比較を行った.そして,磁性解析に必要な,長距離秩序に伴う静的内部磁場を検出するミューオンのサイトやそこでの状態等を決定することを行った.これは他の同類の物質群についての今後の+SR実験においても有用な基礎的知見を与えるものである. 次に論文提出者は,磁化率測定から強磁性転移が示唆された4つのTEMPO誘導物質群について,自発磁化によるミューオンへの静的内部磁場を直接的に観測し,その温度依存からゼロ磁場における正確な相転移温度Tcを決定した.またTcでの臨界指数が3次元Heisenberg強磁性体の場合に予測されている値になることや,低温でのスピン波励起による磁化の温度変化のべき指数をもとめた. さらに論文提出者は2次元的な面内相互作用が面間にくらべて20倍程度大きい低次元的特徴を持つp-Cl-C6H4-CH=N-TEMPOについて,3次元相転移温度Tc以上における静的および動的スピン揺らぎを調べている.その結果,動的揺らぎとともに,マイクロ秒の時間スケールでは静止して見える内部磁場の分布が観測された.これはTc=0.28Kから0.4K辺りまで見られる.交流磁化率測定では,約0.4K以下で2次元的な強磁性スピン相関の発達に伴う急激な磁化率の増加が観測されているが,これとの関連が示唆される.Tc以上での内部磁場の分布は,磁場の印加で誘起される一様磁化により,150G程度以上で消える.このような結果は,以前同様の実験がなされた3次元的強磁性体であるp-NPNNでは見いだされなかった新たな実験結果である. 有機強磁性体としてはp-NPNNに続いて行われた+SR実験である本研究では,有機磁性体中のミューオンの静止位置と状態の詳細な決定を行ったこと,TEMPO誘導体の3次元強磁性転移温度Tcの決定,さらにTc以上での新たなスピン揺らぎを初めて見いだしたこと,が評価される.本研究は指導教官らとの共同研究であるが,本論文の中核をなす+SR実験では,希釈冷凍装置等の運転とともに,+SR測定とその解析・解釈に至るまでを論文提出者が主体的に行ったものであると認められる. したがって本論文の内容は,博士(理学)の学位授与に値するものと審査員が全員一致で認めた. |