学位論文要旨



No 114959
著者(漢字) 齋藤,雅子
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,マサコ
標題(和) 乱れたスピンパイエルス系の磁気的性質
標題(洋) Magnetic Properties of Disordered Spin-Peierls Systems
報告番号 114959
報告番号 甲14959
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3723号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今田,正俊
 東京大学 教授 青木,秀夫
 東京大学 教授 内野倉,國光
 東京大学 教授 藤井,保彦
 東京大学 教授 毛利,信男
内容要旨

 近年、低次元スピンギャップ系に対する乱れの効果が盛んに研究されている。1993年に発見された無機スピンパイエルス系CuGeO3[1]では、不純物置換効果の詳細な実験研究が可能であり、実験理論両面から不純物効果に対する理解が深まってきた。特に、このスピンパイエルス系に不純物置換すると反強磁性秩序が出現することが示されると、今までにない「スピンギャップ系の中の非磁性不純物による反強磁性秩序」として注目を集め、精力的に研究された。1995年に、Regnaultらによる中性子散乱実験で、CuGe1-ySiyO3(y=0.007)において、スピンパイエルス歪みの長距離秩序と、反強磁性長距離秩序に由来するブラッグスポットの共存が示された[2]。我々は、この実験結果に刺激されて、スピンパイエルス系における不純物効果について理論的に研究を行い、三次元性を仮定すれば、こうした長距離秩序共存が乱れたスピンパイエルス系で可能であることを示した[3]。両秩序は一様な系を念頭に置いた従来の常識からは背反と考えられていたが、我々は、両秩序パラメーターに不純物の分布を反映した空間変化を与えることで、両秩序共存が可能であること、しかもそれは長距離秩序になりうることを示した。

 本学位論文では、こうした我々の研究を踏まえ、乱れたスピンパイエルス系の磁気的性質について詳しく調べる。不純物効果の強さを表わすパラメーターをミクロスコピックな考察から仮定し[4]、それを使って、不純物が入ると基底状態は、二つの長距離秩序の共存状態になることを示す。さらに、不純物濃度、強さを変えた場合の共存状態の秩序パラメーターの変化を調べる。また、共存状態に対する磁気励起は、スピンギャップの中にスピン波励起の存在する特異な二重構造を持つことを明らかにする[5]。

 本論文では、1次元反強磁性ハイゼンベルクスピン系にスピン格子相互作用を取り込み、スピン自由度をジョルダン・ウィグナー変換、ボソン化して得た以下の位相ハミルトニアンを用いて、絶対零度のみを考える[3,6]。

 

 ここで、A=Ja/8,C=2Ja/2であり、:スピン格子相互作用、J:最近接相互作用、u(x):格子歪みの大きさ、K:弾性パラメーター、a:格子間隔である。

 位相変数はスピンの秩序状態を表わし、これを用いれば一重項基底状態とネール状態という全く異なる秩序を統一的に記述できるという利点があるが、本研究ではこの利点が非常に有効で、これにより見通しの良い記述が可能になっている。基底状態を与えるcl(の古典的成分)は、揺らぎを自己無撞着調和近似すると、

 

 から決まることになる。ここでcl(x)の空間変化の特徴的長さであり、で与えられる。

 不純物効果は、不純物の周りで起こりうる系の様々な相互作用の大きさの変化を、上式のパラメーター、、の大きさの変化にまとめて以下のように表現した[4]。

 

 ここで、a/0が不純物効果の強さを表わすパラメーターである。不純物効果を上式のように仮定すると、式(2)の解として、(i)スピンパイエルス解(cl(x)=/2),(ii)ネール解(cl(x)=0),(iii)共存解(sincl(x)=ksn((x+ximp)/0,k))の3つが得られ、また、各状態のエネルギーもこの枠組みの中で評価することができる。例えば、a/0=5、0/a=11.8に対して、2つの50サイト離れた不純物間で、図1に示すような二つの秩序が共存する解が得られる。図1から、不純物近くで、格子歪みが抑えられ、同時に磁気モーメントは誘起されていることが分かる。また、秩序パラメーターは、どちらも大きさは空間変化しながら、波数の秩序は保っていることが分かる。また、図1では、2つの不純物の間のみを示しているが、隣りの不純物間でも同様のことが起こることから、反強磁性と格子歪みの秩序はどちらも真に長距離で共存していると言える。本論文の取り扱いでは、量子揺らぎの発散は系の三次元性により起こらないと仮定した。この仮定は、不純物濃度を下げていくと適当でなくなるが、その場合の反強磁性秩序と他の状態(例えばグリフィス相やスピングラス)との競合は今後の課題として残されている。

図1 2つの不純物間での磁気モーメントと格子歪みの空間変化

 我々は、共存状態の秩序パラメーターの不純物濃度依存性についても調べた。この結果、不純物濃度が高くなると、格子歪みは全体として抑えられ、一方誘起される磁気モーメントは大きくなることが分かった。さらに濃度が高くなると、共存状態に変わって、格子歪みを伴わないネール状態が安定になる。この不純物濃度変化による相転移はCuGeO3の様々な置換系で観測されているが、特にMg置換系では、はっきりした一次転移であることが実験から分かつている[7]。我々は、この一次転移を説明するために、磁気的鎖間相互作用によるエネルギーの下がりを評価し、比較的大きな鎖間相互作用を持つCuGeO3の置換系に対してはこの転移が一次になるという結果を得た[8]。

 共存状態については今までに、不純物置換CuGeO3系を用いて数多くの実験が行われ、中性子散乱から2つの長距離秩序の共存状態はCuGeO3置換系で一般的に得られること、電子スピン共鳴からは相分離ではなく共存であること、ミュオンスピン共鳴からは磁気モーメントの大きさは空間変化していること等が確認され、我々の研究結果とよく符合している。

 さらに、我々はこの共存状態に対する磁気励起について研究した[5]。まず、2つの秩序に対応する2つのモード、すなわち反強磁性秩序に由来するギャップの無いスピン波とスピンパイエルス格子歪みに由来するギャップモードを、現象論的に詳しく調べ、これらが乱れた系でも存在しうること、ただし特異な性質を示すことを明らかにした。

 スピン波については、空間変化する反強磁性磁気モーメントを基底状態で仮定し、スピン波理論で計算した。まず、磁気モーメントの空間変化が周期的である場合を考察し、ギャップが無く線形に立ち上がるスピン波の存在することを確認した。この場合のスピン波の速度を解析的に評価し、この速度には一番小さいモーメントの大きさが強く効くという結果を得た。一つでも大きさがゼロのモーメントがあれば、スピン波励起は存在できず、速度はゼロとなる。次に、不純物の分布を反映して磁気モーメントの空間変化が非周期的な場合について考察した。この場合も長距離秩序の存在を反映して、波数kaが付近ではギャップレススピン波がwell-definedな形で残る。ところが、波数kaがからずれると、このスピン波モードは乱れを反映して幅を持つ。この幅は絶対零度でも存在し、その値は不純物間隔をGauss分布で近似した計算では(ka-)2に比例することが分かった。

 格子歪みによるギャップモードは位相ハミルトニアンの位相変数に対する揺らぎの評価から求められる。今回は、不純物の効果をボルン近似で扱って、乱れの無い系と同様にギャップが開くこと、しかし、不純物置換系では、格子歪みが平均として小さくなることにより、そのギャップが小さくなることを示した。また、乱れにより、モードに幅がつくが、幅が大きくなるのはスピン波の場合とは逆に、波数kaがに近い場合であるという結果を得た。これは、格子歪みの大きさは主にギャップに効き、モードの全体の構造は元のハイゼンベルクスピン系の相互作用,J,により決まることによる。

 以上から、乱れたスピンパイエルス系では磁気励起は特有の二重構造を持つことが分かる(図2参照)。傾きの小さいスピン波励起と、2つのモードで大きくなる波数領域が異なる、乱れによる幅は、非常に特徴的である。こうした結果は、既に得られていた非弾性中性子散乱の実験結果[9]を良く再現している。特に、スピン波励起の幅が(ka-)2に比例するという結論は、その後の実験からも支持されている[10]。

図2 乱れたスピンパイエルス系の磁気励起の概念図

 このように、基底状態で共存している2種の長距離秩序を出発点として、そこから期待される2つの磁気励起を調べる現象論的方法は、それぞれの励起の性質を調べるには有効な方法である。しかし、このやり方では、2つのモードの相互の関係、特に、spectral weightの移り変わりを議論することができない。そこでさらに、位相ハミルトニアンに欠けているスピンの回転対称性を補って、有効ハミルトニアンを作り、我々の今までの結果を再検討した。基底状態に関しては、以前の方法と同様のものが得られ、また磁気励起も2つのモードを統一的に取り扱うことができた。特に、スピン波に対するspectral weightは、乱れが小さい場合にも、波数では十分大きくなりうるという結果を得た。

 以上に述べたように、本研究では、乱れたスピンパイエルス系で発見された特異な秩序共存状態を、簡単な不純物効果の仮定から、見通しよく説明することができた。この理論の範囲で、共存状態の秩序パラメーターの濃度依存性を議論し、実験と対応する結果を得た。ただし、我々の理論には、誘起される磁気モーメントの方向が揃わないグリフィス相やスピングラス等の解はもともと含まれていない。低濃度領域で特に重要なこうした状態と反強磁性秩序の競合問題は今度の課題である。また、この共存状態をもとに磁気励起について調べ、スピンギャップの中にスピン波のある特徴的な二重構造を持つことを明らかにした。このスピン波は傾きが小さく、幅を持ち、波数/a付近でのみ十分な重みを持ちうることが分かった。

[1]M.Hase,I.Terasaki and K.Uchinokura:Phys.Rev.Lett.70(1993)3651.[2]L.P.Regnault et al.:Europhys.Lett.32(1995)579.[3]H.Fukuyama,T.Tanimoto,M.Saito:J.Phys.Soc.Jpn.65(1996)1182.[4]M.Saito:J.Phys.Soc.Jpn.67(1998)2477.[5]M.Saito and H.Fukuyama:J.Phys.Soc.Jpn.66(1997)3259.[6]T.Nakano and H.Fukuyama:J.Phys.Soc.Jpn.49(1980)1679.[7]T.Masuda et al.:Phys.Rev.Lett.80(1998)4566.[8]M.Saito:J.Phys.Soc.Jpn.68(1999)2898.[9]M.C.Martin et al.:Phys.Rev.B56(1997)3173.[10]K.Hirota et al.:J.Phys.Soc.Jpn.67(1998)645.
審査要旨

 齋藤雅子提出の本論文はスピンパイエルス相における不純物効果と磁気的性質を理論的に研究したもので、英文で5章からなる。

 近年スピンパイエルス転移の発見されたCuGeO3にわずかな不純物をドープしたときに反強磁性秩序との共存状態が生じることが報告されている。本論文ではこの実験事実に動機づけられて、理論模型でのスピンパイエルス転移に対する不純物の効果を調べ、反強磁性秩序の形成を考察したものである。

 第1章および第2章で本研究に至るまでの過去の研究の流れがレビューされ、第3章で本研究の出発点となる量子スピンと格子の結合した1次元模型およびそのジョルダンウィグナー変換によって得られる位相ハミルトニアンが提出され、従来の研究を拡張して、或るタイプの不純物とのカップリングがあるときの基底状態が研究されている。第4章では第3章で得られた反強磁性秩序とスピンパイエルス秩序の共存している状態での磁気励起がスピン波近似で研究されている。大域的なギャップ構造が不純物ドーピングの後も保持される一方、低エネルギーに現われる反強磁性ゴールドストーンモードに対応するギャップレス励起の出現の様子が議論されている。さらに、位相ハミルトニアンでは取り扱いの難しいスピンの回転対称性を満たす条件下での有効ハミルトニアンを使って、大域的ギャップ励起と低エネルギーギャップレス励起との間のスペクトル重みの移行が研究されている。

 この論文で取り扱われている位相ハミルトニアンの中の不純物項は交換相互作用やスピン格子相互作用カップリングが局所的に変調しているときに得られる。この場合に位相ハミルトニアンの古典近似解およびそのまわりのガウス揺らぎを自己無撞着調和近似の範囲で取り込み、格子変形と位相について自己無撞着に解くというのが、本研究の手法である。この計算の結果、不純物サイトの周囲で反強磁性秩序とスピンパイエルス歪みが共存するという結果が得られた。実際、スピンパイエルス歪みが不純物のまわりで局所的に少しでも減少すると、反強磁性秩序パラメタがゼロでなくなるという本研究の結果から、論文提出者は格子歪みがわずかに減少しつつ、同時に反強磁性秩序が直ちに共存し、わずかな不純物によって反強磁性は誘起されるという結論を得ている。しかしながら、スピンギャップの存在は格子歪みのわずかな変調だけでは消滅し得ないという、最近の一連のランダムボンド模型についての他の研究とこの結論とは相容れない結果となった。反強磁性対称性の破れた2つの状態を表わす位相の古典解の存在を反強磁性秩序発生の根拠としている本研究に対して、実際には量子的なゆらぎとトンネリングのために対称性の破れが解消してしまう可能性があるためにこの矛盾が生じたと考えられ、論文提出者の主張点の1つの妥当性を疑わせることが明らかとなった。不純物効果に対して敏感であるという本研究の結果は実験結果を定性的によく再現する。しかし実際の実験で行なわれているゲルマニウムサイトへのシリコンのドーピングが、ミクロにハミルトニアン中でどのような不純物項として表わすべきなのか、必ずしも明らかとなっていないことも、本研究と実験結果の直接の対比を困難にしている。本研究と対立する最近の一連のランダムボンド模型についての研究は、1次元系についてのものである一方、本研究は平均場近似を通じて多次元性を導入した形になっている。そのため実際に多次元性が強い時には本研究の結果が結果的に正しい可能性も残されているが、いずれにせよ、ランダムボンド模型の今までの研究で取り込まれ、既にその重要性の明らかとなっている量子ゆらぎの効果を無視してしまっている本研究からは、何も確かなことは明らかにできない。多次元性が強いときに、乱れた格子変調によってスピンパイエルス相から反強磁性秩序発生が可能かどうか、また可能ならばそこに至る道筋がどうなっているのかは今後明らかにされるべき課題として残った。実際、どのような条件下で、量子グリフィス相(量子ランダムダイマー相)のような相が安定化され、どのような条件でランダム系特有の相を経由せずに反強磁性が出現するのかは今後明らかにされるべき課題である。

 また、不純物効果があるサイトの量子スピンを取り去るような非磁性不純物として与えられる場合もある。これは例えばSrCu2O3のような梯子系のCuサイトをZnのような非磁性不純物で置き換えることによって実現出来るが、このような場合には、わずかな不純物であっても、反強磁性秩序が出現しうることが、理論的に確立している。本研究はそれとは異なる形の不純物効果のみを研究しているが、両者の間の理論的関係は現状でもそれほど明確ではなく、今後の課題が残っている。

 一方、もしもスピンパイエルス歪みが残ったまま反強磁性が出現する相が量子揺らぎにもかかわらず生き残ることが正しいならば、結果的に量子効果は弱いこととなり、本研究の対象である反強磁性とスピンパイエルス歪みの共存相の理論的性質は基本的には正しいことが期待される。本研究で明らかにしている性質としては、反強磁性出現に際しての一次転移の可能性、共存相でのスピン波励起と大域的ギャップ構造からなる二重構造と、スピン波励起に生ずる運動量空間での幅、二重構造間のスペクトル重みの相対強度の運動量依存性がある。これらはいずれも、信頼できる研究が中性子散乱その他で行なわれれば、実験的に検証しうるものであり、共存相の特徴を理論的に予測し検証を提起したものとして評価できる。

 まず二重構造の出現は既に得られていた中性子散乱の結果を再現しており、またこの様相はCuのZn置換のようなスピン除去不純物の場合に理論、実験の双方から得られていた結果と共通している。一方論文提出者はあらたにランダムネスに由来してスピン波励起が運動量空間で幅を持つことを予測した。さらに大域的なギャップ励起のスペクトル強度に比べて、スピン波励起の強度が反強磁性波数付近で相対的に強まるという結果を得た。定量的な比較は今後の課題として残るものの、現在までに得られている実験結果はこのふるまいを定性的に再現している。

 このように論文提出者はスピンパイエルス歪みを持つ系への不純物効果について調べ、スピンパイエルス歪みが反強磁性秩序と共存しているときの理論的性質を、反強磁性転移の次数、共存相中の磁気励起の特徴などについて詳細に研究しており、実験検証の動機付けを与えて、この分野の研究の活性化に寄与したと認められる。

 以上の成果について議論した結果、本論文審査委員会は全員一致で本研究が博士(理学)の学位論文として合格であると判定した。

 なお本研究は、指導教官福山秀敏教授、本博士課程学生谷本哲浩修士との共同研究の部分があるが、上に述べた成果の主要部分について論文提出者が主たる寄与をなしたものであることが認められた。

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