統計力学の目的は多くの自由度を含む系の巨視的な振舞いを微視的な観点から説明することにある。熱平衡状態にある系に対する統計力学は、物性物理学に対する様々な応用を始め、極めて大きな成功を収めている。一方非平衡系に対しては、熱平衡状態に近い場合に関しては線形応答の理論があるが、平衡から遠く離れた系に対する一般的な原理は見つかっていない。定常状態に限ってみても、平衡系に対するGibbsアンサンブルのような標準的な枠組みは無いのが現状である。このような状況であるから、平衡から遠く離れた非平衡系の研究にあたっては、問題の本質をうまく捉えているような簡単なモデルの性質を詳しく調べることが重要である。 こうした問題に取り組むのにいくつかのアプローチが考えられる。例えばある種の反応拡散系などに対しては、平均場による取り扱いが現実の現象を説明するのに十分よい近似となる。しかし平均場近似においては相関が無視されるため、揺らぎの影響が大きいような系の性質を正しく記述できず、特に低次元系ではこの傾向が著しい。非平衡系の揺らぎを採り入れた取り扱いにもいろいろな方法があるが、われわれはマスター方程式による確率的な記述を採用する。マスター方程式による定式化にはいくつかの利点があり、例えば次のような点が挙げられる。それはマスター方程式が、時間発展を記述する遷移確率行列をハミルトニアンと見れば、形式的に虚時間のシュレディンガー方程式とみなせるということである。このことは、非平衡系の性質を解析するのに、元来量子力学的な問題を解くために開発された様々な手法を用いる事ができる可能性のあることを意味する。 本論文では、一次元中を多数の粒子が何らかの相互作用をしながら拡散する確率過程を考察する。一つ一つの粒子は左右非対称なランダムウォークをするようなものを考えるので、われわれはこれらの模型を非対称拡散模型と総称する。このような模型の中でもっともよく研究されているのは非対称排斥過程(asymmetric simple exclusion process(ASEP))という模型である。これは格子上の模型であるが、粒子間には体積排除の効果が働き、一つのサイトを2個以上の粒子が占めることは出来ない。一見簡単な相互作用だと思われるが、ASEPは種々の興味深い性質を持つことが知られている。 非対称拡散模型はこれまで、数学、物理、化学、生物学といった広い領域の研究者達の興味を集めてきた。その理由はいくつか考えられる。まず第一に広範な応用があると言うことが挙げられる。例えばASEPは最も簡単な交通流のモデルと考えることができる。また界面の成長模型とみなすことができたり、メッセンジャーRNA上のリボゾームの動きの模型として考察されることもある。第二に、これらの模型は非平衡系特有のいろいろな興味深い現象を示すことが知られている。例えば衝撃波解を持つ、境界条件によって相転移を起こす、特異なスケーリングを示す、ことが知られている。非対称拡散模型は、平衡系においてIsing模型が果たしたような役割を非平衡系において果たすものと期待されている。第三にこのような模型は、非平衡系における普遍性といった統計力学における基礎的な問題に対する理解を深めるのに重要である。特にASEPが示すような異方的臨界現象は、共形場理論で説明される等方的臨界現象に比べて理解が遅れており、その解明が期待されている。第四に、空間一次元という模型の特殊性から、ベーテ仮設法やいわゆる行列積仮設を用いて厳密な解析が可能である。理想化された模型の厳密解による詳細な解析は、より複雑な現象の理解を助けるのに多いに役立つ。 本論文の構成は、次のようになっている。 第1章 Introduction 第2章 開放的境界条件下におけるASEPの定常状態 第3章 不純物粒子が一個存在するASEPの周期的境界条件下における定常状態 第4章 体積排除のない非対称拡散模型 第5章 非対称拡散模型の行列式解 第6章 まとめと結論 本論文で取り扱う問題は、大きく分けて2つある。 前半(第2章、第3章)では、ASEPの定常状態の性質を詳しく調べる。第2章では開放的境界条件下でのASEPを考える。この模型は境界のパラメーターによって相転移が起こることが知られている。粒子が一方向のみに移動する模型は行列積仮設という方法を用いて1993年にDerrida等によって解かれていた。粒子が両方向に移動する場合は数年来未解決だったのであるが、この章では行列積仮設に直交多項式の理論を組み合わせることによりこの問題に対する解決を与える。まず行列積仮設を説明した後、既に解かれていた特別な場合について概説する。その後行列積仮設と直交多項式の理論の関係を示し、粒子の流れや粒子密度といった物理量を計算する。その結果、相関長の相図が粒子が一方向のみに移動する模型よりも複雑な構造を持つことをみる。 第2章で導入される方法はさらに一般化された種々の模型への拡張が可能である。その一例として第3章ではASEPに一つだけ性質の違う粒子(不純物粒子)が入っている模型の定常状態を調べる。不純物粒子に関係するパラメーターの値によって粒子の流れや粒子密度がどのように変化するかを計算する。またこの模型は第2章の開放的境界条件下でのASEPと深く関係しており、その事実を用いて後者の定常状態における全粒子数の揺らぎも計算される。 後半(第4章、第5章)では非対称拡散模型の時間発展に関係する問題を調べる。ASEPは界面成長におけるKardar-Parisi-Zhang(KPZ)方程式と同様な振舞い示すことが知られており、両者ともKPZユニバーサリティークラスに属すると考えられている。しかしこのユニバーサリティークラスに特徴的な異方的スケーリングの本質はあまり理解されていないのが現状である。第4章では、非対称拡散模型がKPZユニバーサリティークラスに属するにはどのような相互作用が本質的か、という問題意識の下に粒子間に体積排除相互作用の無い模型を導入する。この新しい模型の時間発展演算子はq-ボソンと呼ばれる演算子を用いて書かれる。まずこの模型に対するL-行列と呼ばれるものを見出し、時間発展演算子を含む互いに可換な無限個の演算子が存在する事、つまり可積分性を示す。さらにこの模型はベーテ仮設による解析が可能で、有限サイズ効果による補正を計算する事によりこの模型がKPZ方程式に特有な異方的スケーリングを示す事をみる。すなわちこの模型はASEPとは全く異なった粒子間相互作用を持つにもかかわらず、同じKPZユニバーサリティークラスに属するのである。また、この模型の連続極限をとると微分型非線形シュレディンガー(DNLS)模型が得られる事も示す。DNLS模型は格子上で定義された模型と比較して非線形項は分離された形で時間発展演算子に取り入れられているので非線形の効果を摂動的に取り扱う事が出来る可能性がある。これはKPZ方程式の時間発展に関する性質を調べる際の新しいアプローチとなり得る。 第5章では、非対称拡散模型の時間依存相関関数を厳密に得る試みとして、いくつかの模型のグリーン関数が行列式の形に表示されることを示す。まず例としてDNLS模型に対するマスター方程式の行列式解を具体的に構成する。その後体積排除の効果の無い場合も含めた種々の非対称拡散模型についても行列式解が存在する事、さらにこの表示が自由フェルミオンに対するスレーター行列式の変形とみなせる事を示す。 以上のように、一次元非対称拡散模型の厳密な解析により、非平衡系の定常状態と時間発展に関して多くの新しい知見が得られた。第6章ではそれらの成果をまとめる。 最後に今後の研究の発展の方向について述べる。まず行列積仮設と直交多項式の理論を組み合わせる方法を、粒子の種類が複数あるような模型に拡張・適用してゆく事によりさらに多くの興味深い現象を厳密に解析することができるであろう。特に2種類の粒子があるような模型は、対称性の自発的破れ、粒子の凝縮、相分離といった現象を示すことが数値シミュレーションの結果から分かっており、厳密な結果も得られつつある。また本論文では議論しないが、行列積仮設は手法そのものとしても興味深いものである。例えばASEPに対する行列積仮設が一次元可積分系の分野でザモロチコフ代数として以前から知られていた代数の極限をとったものとみなせる事などが既に分かっている。このような関連をさらに明らかにしてゆけば、一次元可積分系の手法を非平衡の問題へ応用する可能性がさらに広がると期待される。最後にベーテ仮設法、行列式解等を用いて時間発展に関する厳密な結果を得ることは今後の重要な課題である。それはある模型の厳密解ということにとどまらず、KPZユニバーサリティクラスの本質を明らかにすると同時に平衡から遠く離れた非平衡系の物理に関する我々の理解を深めてくれるであろう。 |