学位論文要旨



No 114961
著者(漢字) 塩川,教次
著者(英字)
著者(カナ) シオカワ,ノリツグ
標題(和) 高Q値光微小共振器による単一原子の観測と運動制御
標題(洋)
報告番号 114961
報告番号 甲14961
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3725号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 秋山,英文
 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 助教授 黒田,寛人
 東京大学 助教授 酒井,広文
 東京大学 助教授 香取,秀俊
内容要旨

 物質と光との相互作用を考える上で、最も単純で教科書的なモデルは単一2準位原子と単一光子との結合系であり、このような系の持つ物理情報を実時間で観測し、これを制御することは、シュレディンガー猫状態の生成のような量子力学の根本原理にかかわる実験や、量子計算や量子通信などの量子情報分野への応用につながる可能性を秘めている。またこのようなミクロな系の量子情報を観測・制御することは、最近盛んに行われるようになったボーズ・アインシュタイン凝縮相にある原子集団を用いた数々の研究の対極としても位置付けることができ、これと相補的な立場にある研究としても非常に興味深い。しかしながら、1原子-1光子系のようなミクロな系が持つ物理情報を観測し、これを制御することは、二者間の結合強度の微弱さから非常に困難であることが容易に想像できる。

 近年のレーザー冷却技術の発展は、数cm/sといった超低速の原子群を容易に生成することを可能にし、一方、誘電体薄膜蒸着技術、表面研摩技術の進歩は、99.9999%といった驚異的な反射率を持つミラーの作成を実現している。これら一見関係のなさそうに見える二つの異なる科学技術を組み合わせて用いることで、前述の困難な実験条件を打破し、1原子-1光子系の物理情報を実時間で読み出すことができる。本論文では、上記したような応用実験に向けての第一ステップとして、単一光子による単一原子の実時間検出を行うための実験系の構築法およびこの実験系を用いておこなった実験結果を中心に述べる。また、応用実験を行う際に必要となる、単一光子による単一原子のトラップに関して、新たな方法を提案する。

 単一光子によって単一原子を実時間で検出するためには、この両者間の相互作用による何らかの物理情報の変化を実時間で観測する必要がある。この観測の可否を定量的に議論するためには、以下に示すような4つのパラメータを導入して考えると分かり易い。一つは1原子と1光子のコヒーレントな時間発展のレートを決めるいわゆる真空ラビ周波数であるg0、二つ目に原子のインコヒーレントな減衰を決める自然放出レート、三つ目に光子のインコヒーレントな減衰を決める共振器の損失レート、最後に原子-光子の相互作用時間の逆数1/Tである。本論文中で述べるように、これら四つのパラメーターがg0>>≫1/Tといった関係を満たす条件下で実験を行うことができれば、原子-光子間のコヒーレントな相互作用を、系に固有なインコヒーレントな減衰に邪魔されることなく、十分長時間にわたって観測することができる。

 実際の実験においてこの条件を満たす系を組むためには、次のような装置を用意する必要がある。まず、微小な(固有モード体積の小さい)共振器を構築し1光子を小さな領域に閉じ込めることで、1光子の作り出す実効的な電場密度が非常に大きくなるようにする。これによってg0は原子数・光子数がそれぞれ1個とはいえ、先の条件式を満たすのに十分な程大きくすることができる。また、このとき共振器を構成するミラーの反射率を上げることで、共振器中での光子の寿命が非常に長くなるようにする。これは光子が共振器中で何度も往復し、実効的な光路長が長くなるためである。したがって、共振器の減衰レートが減少し、こちらも先の条件式を満たすのに十分な程小さくなる。さらに、レーザー冷却技術を用いて共振器に導入する原子を低速にすることで、共振器中に原子が滞在できる時間Tも非常に長くすることができる。これによって1/Tの値も先の条件式を満たすのに十分な程長くなり、長時間にわたる観測が可能となる。つまり、まとめると、高Q値微小光共振器とレーザー冷却された原子を組み合わせて用いることで、原子-光子間の結合強度を上げ、かつ、その結合寿命を長くし、実験的に単一量子間の相互作用を観測することを可能にしているというわけである。

 前述のような実験系を用いた単一原子の実時間検出は、次のような手順で行われた。まず、一対の超高反射低損失ミラー(曲率半径:440mm,反射率:99.998%,損失:12ppm)によって、Fabry-Perot型高Q値光微小共振器(フィネス:1.5×105,共振器長:100m)を構成し、この共振器の周波数特性を透過光強度をヘテロダイン検波により測定することでプローブしておく。次に、磁気光学トラップ、偏光勾配冷却によって捕獲・冷却された85Rb原子を、原子噴泉によって先の共振器内部に打ち込む。原子が共振器内部に存在する時には、原子-光子のコヒーレント相互作用によって結合系のエネルギー固有値はラビ分裂し、これに従って共振器の周波数特性も変化する。周波数特性の変化は共振器の透過光強度の変化としてプローブで検出される。これは、いわば、原子-光子結合系の真空ラビ分裂を観測することに相当するものであり、かようにして、単一原子の共振器内部への進入を検出することができる。

 上記のようにして共振器モード内に検出された単一原子を共振器モード内にトラップするため、本論文ではTEM01モードを用いたトラップ法を提案する。これはTEM01モードの暗点(光電場強度がゼロになる位置)に原子を閉じ込めることによって、これまで行われてきたTEM00モードによるトラップの実験で問題になっていた、自然放出の影響や、共振器長揺らぎが引き起こす光ポテンシャルの振動による原子の加熱を回避する方法である。また本論文では、このような単一原子トラップを実現するための第一ステップとして、TEM01モードを用いた単一原子の検出実験を行った。実験の方法は、前述のTEM00モードを用いた場合の実験とほぼ同様であるが、共振器内に形成される光電場がTEM01モードとなるように実験条件を多少変化させる。この実験の装置構成の模式図と実験結果を4ページ目の図に示す。実験結果を見ると、単一原子の通過によって、透過光強度がおよそ15sにわたって減少していることが分かる。この信号が単一原子の通過を表すものであることは、原子の速度と共振器モードのビームウエスト径から計算される相互作用時間とこの信号の時間幅が良く一致していることから裏付けられる。つまりまとめると、共振器のTEM01モードを用いて単一原子が共振器内を通過する様子を実時間で検出した、ということになる。今後はこの原子の通過信号によって共振器内光電場の周波数、およびその強度を制御することで、TEM01モード内での単一原子トラップを実現し、より長時間にわたって光子と相互作用できるようにすることで、冒頭で述べたような応用に利用する予定である。

図:実験装置の模式図(上)と観測された単一原子の通過信号(下)
審査要旨

 本論文は、「高Q値光微小共振器による単一原子の観察と運動制御」についての実験的研究を、5章からなる和文でまとめたものである。

 実験の概要は、磁気光学トラップ・偏光勾配冷却によって捕獲・冷却されたルビジウム原子を、Fabry-Perot型高Q値光微小共振器の内部に原子噴泉によって打ち込み、その際に原子-光子のコヒーレント相互作用によってラビ分裂をおこし変化した共振器の周波数特性を、プローブ透過光強度のヘテロダイン検波により検出するというものである。とくに、この手法を用いた応用実験につなげるために、世界的に初めて、TEM01モードの光を用いたトラップの手法を新たに提案し、かつ、TEM01モードの光プローブを用いて実験を行ったものである。

 本論文第1章では、序論として、研究の目的と意義や背景が述べられている。物質と光との相互作用を考える上で、最も単純で教科書的なモデルは単一二準位原子と単一光子との結合系であり、このような系の持つ物理情報を実時間で観測し、これを制御することは、シュレディンガー猫状態の生成のような量子力学の根本原理にかかわる実験や、量子計算や量子通信などの量子情報分野への応用につながる可能性を秘めている。またこのようなミクロな系の量子情報を観測・制御することは、最近盛んに行われるようになったボーズ・アインシュタイン凝縮相にある原子集団を用いた数々の研究の対極としても位置付けることができ、これと相補的な立場にある研究としても非常に興味深い。

 本論文第2章では、この論文の実験で使用されたファブリーペロー共振器の基礎理論と実際についての説明がなされている。この論文の実験で使用されたファブリーペロー共振器は、特別に低損失で非常に反射率の高い誘電体多層膜蒸着ミラーを必要とする。そのため、設計は本人らが行い、作製を日本航空電子(株)に依頼して行い、かつ、その評価も本人らが行ったものである。ミラーは、中心波長780nm、反射率99.9980%、透過率8ppm、損失12ppmのものが得られ、ファブリペロー共振器は共振器長0.1mmでフィネスが1.5×105、共振線幅10MHzという性能が実現された。

 本論文第3章では、実験の基礎となる光と原子との相互作用についての説明がなされ、本実験がクリアすべき実験条件が示されている。

 単一光子によって単一原子を実時間で検出することの可否を定量的に議論するためには、以下に示すような4つのパラメータを導入して考えると分かり易い。一つは1原子と1光子のコヒーレントな時間発展のレートを決めるいわゆる真空ラビ周波数であるg_0、二つ目に原子のインコヒーレントな減衰を決める自然放出レート、三つ目に光子のインコヒーレントな減衰を決める共振器の損失レート、最後に原子-光子の相互作用時間の逆数1/Tである。これら四つのパラメーターがg_0>,≫1/Tといった関係を満たす条件下で実験を行うことができれば、原子-光子間のコヒーレントな相互作用を、系に固有なインコヒーレントな減衰に邪魔されることなく、十分長時間にわたって観測することができる。

 本論文第4章では、単一原子の実時間計測の実験の装置、方法および結果の説明がなされ、第5章でそのまとめがなされている。実際の実験には、レーザーの周波数制御、原子の冷却および打ち上げ、高Q値光微小共振器、バランストヘテロダイン検波を用いた微弱光検出系が、要素技術として重要である。ルビジウム原子を0.7m/s程度にまで遅くして高Q値光微小共振器に打ち込み、80マイクロ秒程度の相互作用時間を得て、中心周波数88MHz、帯域100-300kHzのヘテロダイン検出系でショットノイズリミットの微弱光検出を行い、単一原子と数個のレベルの光子との相互作用を実時間で検出した。TEM00モードの光をプローブとした実験のみならず、運動制御やトラップ、その先の応用実験に向けてTEM01モードの光をプローブとした実験も行い、単一原子の検出に成功した。

 同種の実験は、本研究の他には、世界的にみて、キンブルらのグループと、マイクロ波領域においてハロウシュらのグループにて進められているのみであり、高い技術とオリジナリティーが認められる。とくに、TEM01モードの光を用いた新しいトラップ方法の提案と、運動制御にむけてTEM01モードの光を用いて単一原子の観察とに成功したのは本研究が始めてであり、大いに評価できる。

 なお、本研究は指導教官らとの共同研究の形で行われているが、測定装置の開発、実験の遂行、結果の解析、など本人の寄与が本質的であることが認められた。

 よって、本論文をもって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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