学位論文要旨



No 114965
著者(漢字) 谷田,義明
著者(英字)
著者(カナ) タニダ,ヨシアキ
標題(和) Si(001)面上のアセチレン吸着層の温度依存構造の理論的研究
標題(洋) Theoretical Study of Temperature Dependent Overlayer Structures of Acetylene on Si(001)Surface
報告番号 114965
報告番号 甲14965
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3729号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 教授 高山,一
 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 助教授 小森,文夫
 東京大学 助教授 長谷川,幸雄
内容要旨

 シリコンを基盤にした電子デバイス製造技術は既に成熟の域に達しており、次世代デバイスのための材料探索が行われだして久しい。しかし、化合物半導体を用いたデバイスが一部に存在するもののシリコンデバイスの圧倒的な優位性は変わっていない。近年の走査トンネル顕微鏡(STM)による原子スケールでのマニピュレーション技術の発展は、その応用において電子デバイスの飛躍的な集積化とその省電力化を期待させる。さらに、分子エレクトロニクスに代表されるように分子の自己組織化等を利用した新機能材料開発への展開が現実的になっている。また一方、理論的には第一原理計算の発展により様々な分子による表面再配列(吸着)構造およびその電子状態などが明らかにされている。しかしながら、吸着種(分子)間の相互作用はその重要性にも関わらず十分な理解が得られていない。本論文では、比較的小さなアセチレン(C2H2)分子とシリコン(Si)表面の吸着状態における相互作用を第一原理的手法を中心に用いて調べた。

 低温(105K)におけるC2H2分子の吸着はキネティックアップテイク法を用いて調べられており、初期付着確率が1で、その飽和吸着表面は1Siダイマーあたりに1C2H2分子が吸着した状態(1 ML)であると結論されている。ところが最近、室温におけるSTM観察から飽和吸着表面は2Siダイマーあたり1C2H2分子が付着した状態(0.5 ML)であることが報告された。さらに、吸着の極めて初期段階においてもC2H2分子はその最近接サイトを互いに避けるように吸着する様子が観測されている。

 従来の理論計算の報告では、この最近接サイトに吸着分子が存在しない特徴を最近接吸着分子間の反発相互作用による効果であるとしている。その第一原理計算の結果から見積もられた反発相互作用の大きさは190meVで、これは吸着による弾性歪みおよびSi-C結合で生じた電気双極子モーメント間の相互作用に起因し、特に前者が主要因であると報告されている。しかし、この理論計算は吸着分子のみに着目しており、Si(001)表面に存在するSiダイマーバックリングの取りうる二状態の自由度を無視している。そこで我々は、吸着分子数(表面被覆率)を変化させ、かつ二状態の自由度を考慮した第一原理計算を行い、その安定構造と全エネルギーを求めた。その結果、C2H2分子の吸着の有無を表す変数とSiダイマーのバックリングの二状態を表す変数から構成される二成分イジングモデルに、この計算結果をマッピングすることで全エネルギーを各相互作用部分に分解できることを見出した。

 一方、熱力学的に安定な構造を決定するために、この系のグランドポテンシャルのC2H2分子の化学ポテンシャル依存性を調べたところ(図1参照)、安定構造は1ダイマーあたり1分子が吸着した構造であることが分かった。すなわち、十分な分子の表面への暴露と十分な時間を経過すればC2H2分子は全てのSiダイマー上に吸着することを表している。この結果は、低温におけるキネティックアップテイク法の実験結果と矛盾しない。また、この図からSi(001)表面に対するC2H2分子の吸着が非常に局在した現象であることが読み取れる。

図1:絶対零度におけるグランドポテンシャルの化学ポテンシャル依存性。被覆率0.5MLの場合には三種類の秩序構造に関するプロットを描いた。

 室温STM観察によれば、最近接サイトに吸着分子は存在しない。ところが、第一原理計算による被覆率0.5MLにおける最も安定な吸着構造はp(4×1)構造である。この構造では吸着分子がSiダイマー列に沿って全て吸着した列および表面Siダイマーが列に沿って交互にバックリングした列の両者が交互に存在している。計算結果からマッピングされた吸着分子間の最近接相互作用の値は24.8meVの弱い反発相互作用である。しかし、残った表面Siダイマーがその向きを列に沿って交互に整列する場合のエネルギーの得分が上回るためにp(4×1)構造が安定となる。このことは最近接サイトに吸着分子が存在しない理由が吸着現象の動的過程によるものであることを示唆している。また、従来の報告とは異なり、吸着分子間の最近接相互作用は吸着によって生じる電気双極子モーメント間の相互作用が主な要因であり、弾性歪みの寄与は比較的少ないことが分かった。

 この系は、BTよりも十分大きな吸着エネルギーを持つために通常の観測時間では熱平衡状態に達しないものと考えられる。しかしながら、被覆率0.5MLにおける各配列構造のエネルギー(図2参照)から、熱平衡状態を仮定した場合の有限温度での振舞いは興味深いものと考えられる。そこで、吸着エネルギー項を除いた仮想的なモデルハミルトニアンを用いて有限温度でのSiダイマーの取りうる二状態によるエントロピー効果を調べた。

図2:被覆率0.5MLにおける各配列構造のエネルギーダイアグラム(数値の単位はmeV)。Siダイマーの向きで隔てられたエネルギー障壁はダイマーが水平の場合のエネルギーである。

 吸着位置を固定した配列構造に対する自由エネルギーは熱力学的極限での厳密解から450Kでp(2×2)構造がp(4×1)構造よりも小さくなることが分かった。さらに、拘束のない配列構造および表面欠陥の導入された構造に対してメトロポリス法によるモンテカルロシミュレーションを用いて調べた。その結果、最近接間の相関関数が450K付近で減少すること、表面欠陥の増加によってこの現象が強調されることが分かった(図3参照)。これは、Siダイマーの二状態によるエントロピー項への寄与が比較的低温から最近接サイト間の相関関数に影響を及ぼすことを表している。また、表面欠陥による強調効果は、Siダイマー間相互作用の異方性、すなわち最近接間相互作用が第二近接以降よりもかなり大きなことの反映と考えられる。

図3:被覆率0.5MLにおける吸着位置固定での各配列構造に対する自由エネルギーの厳密解の温度変化(左下図)とモンテカルロシミュレーションによる相関関数の温度依存性(右図)。図中の1、2A、3はそれぞれ左上図(Mは吸着サイト)の位置に対応する。(a)表面欠陥のない場合、(b)表面欠陥を5%含む場合、(c)表面欠陥を20%含む場合。
審査要旨

 走査トンネル顕微鏡による原子スケールでの表面マニピュレーション、あるいは自己組織化を用いた表面改質法の発展により、これまでの半導体テクノロジーは新たな展開を迎えようとしている。中でも表面への分子吸着を利用した分子エレクトロニクスは、現在の半導体とは質的に異なる新しい素子を生み出すことが期待される。

 本研究は、有機分子の中では比較的簡単なアセチレン分子のSi(001)表面への吸着構造と電子状態を、第一原理電子状態計算をもちいて理論的に明らかにしたものである。この系はSiC合成プロセスにも現れる系であり、第一原理計算を用いた研究は過去にも複数の例があるが、本研究ではこれまでになく大きなモデル構造の大規模計算を行うことにより、過去の計算での矛盾点の理由を明らかにして、現時点で最良の結論を得た。また計算結果からモデルハミルトニアンを構成して理論解析を行った点に特徴がある。

 本論文は6章から構成される。第1章はイントロダクションであり、研究の背景となる実験事実を整理している。第2章は本論文で用いた第一原理電子状態計算手法である密度汎関数法の説明、ならびに計算精度のチェックのために行ったテスト計算のまとめである。分子吸着に関する電子状態計算および構造最適化の結果は第3章にまとめられている。第4章では、第3章の計算結果にもとづき、この表面吸着系のさまざまなコンフィギュレーションのエネルギーを再現する簡単なモデルハミルトニアンの提案を行い、モデルハミルトニアンのパラメータについての物理的な考察を行っている。第5章はこのモデルで熱平衡条件を仮定した場合に予想される構造相転移についての、モンテカルロ法によるシミュレーション結果である。第6章は本論文のまとめである。

 本論文の主要な結論は、以下のように要約される。

 第3章の第一原理計算では、さまざまな吸着構造、被覆率にたいして、構造最適化後のエネルギーの比較を系統的に行い、この系では吸着分子間の相互作用が非常に小さいという実験と整合する結果を得た。また被覆率が0.5のときには、吸着子間相互作用が小さいことを反映して、分子が1列にならんだp(4x1)構造がもっとも安定になった。これはアセチレン分子間の引力相互作用ではなく、むしろ残されたSiダイマー間の相互作用の結果である。この構造は実験的には観測されていないが、このことは吸着において、エネルギーの安定性だけでなく、吸着のための活性障壁などの違い、すなわちキネティックスが重要である可能性を示唆している。また過去の理論計算のひとつで準安定構造として示唆され、他の計算との矛盾が問題となっていた、Siダイマー内Si-Si結合の切れた構造(dimer cleaved structure)は、隣接するダイマーとの弱い結合により被覆率1のときにのみかろうじて準安定となる、非常に弱い構造であることが明らかになった。

 第4章では、第3章で計算されたさまざまな被覆率と配列構造をもった表面のエネルギーをすべて整合的に表現できる、簡単なモデルハミルトニアンを提案した。このハミルトニアンは、第3近接位置間の相互作用をふくむ一種のイジングモデルである。吸着分子間の相互作用エネルギーパラメータは、距離の3乗に反比例しており、構造のよくにたメチルシラン分子の双極子モーメントからみて大きさも妥当であることから、吸着分子-表面間の電荷移動によって生じる双極子相互作用が主たる寄与をしていると結論された。

 アセチレン吸着系は分子の吸着エネルギーが大きいため、ひとたび吸着した分子が表面を拡散したり熱脱離と吸着をくりかえすなどして、熱平衡が実現される可能性は少ない。しかしながら仮に熱平衡条件を仮定すれば、被覆率0.5では、吸着子のついていないSiダイマーのバックリングのエントロピーにより、温度変化に伴って構造相転移がおきることが予想される。第5章はそのような相転移を、モンテカルロ法によりシミュレーションしたものである。エントロピーの効果によって構造相転移が実際におきること、また表面吸着系ではさけられない欠陥の存在により転移温度や転移点近傍のふるまいが大きくかわることが示された。この構造相転移はアセチレン吸着系での実現は困難であるが、分子吸着表面の構造相転移機構として興味深い提案である。

 以上のように、本論文はアセチレン分子のSi(001)表面への吸着構造、電子状態、吸着メカニズムについて理論研究を行い、多くの成果と興味深い提案を行ったものであり、審査委員全員一致により、博士論文として十分な内容をもつものと判定された。なお本研究は塚田捷教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となって理論を構築したものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断された。したがって審査員全員により、博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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